草を踏む足音は、風に紛れて消えていく……はずだった。
しかし、そのときだった。
乾いた土を蹴る――重く、湿ったような足音が、明確にレンの耳に届いた。
「……来たな」
レンは歩みを止め、背に負った剣へと手を伸ばす。静かに、だが鋭く周囲を見渡した。風の流れと逆らうように、草をかき分ける音が前方から迫ってくる。
そして次の瞬間、音の正体が姿を現す。
草を突き破って現れたのは、黒鉄色の毛皮に包まれた、巨大なイノシシ型の魔物だった。
その体高は人の胸ほどもあり、突き出た二本の牙は岩をも砕きかねない。目は血のように赤く、体中に張り詰めた筋肉が波打っている。
魔物の視線がレンを捉えた瞬間、地を蹴った。
「突っ込んでくるか……!」
構える間もない。獣の得意とする、一直線の突進。
――ズドン!
地面が唸りを上げた。雷のような重低音が大地を駆け抜ける。レンは反射的に体をひねり、横へ跳んだ。寸前で進路を逸れ、魔物はそのまま突き進む。
後方にあった岩に、巨体が激突。
「クソッ、速い……!」
振り返れば、土煙の中にひび割れた岩が見える。その一撃に当たっていたら、ただでは済まなかっただろう。
「救いは、仲間を呼ばないってとこか……」
レンは呼吸を整えながら距離を詰める。次は自分の番だ。
跳ねるように駆け、草を蹴り上げながら魔物の脇腹に剣を叩き込む。
しかし――手応えは、浅い。
「硬い……!」
黒鉄の毛皮は伊達ではなかった。刃は食い込みはしたものの、致命傷には程遠い。
吠えた魔物が横に首を振り、突き飛ばすような勢いで反撃してくる。レンはすんでのところでバックステップ。草の間を滑るように距離を取る。
「攻め方を変えるか……!」
狙うは、顔――特に目だ。だが正面から挑めば、また突進の餌食になる。真正面から突っ込むのは、あまりに無謀。
レンは周囲を見渡した。風は西から吹いている。風下に回れば、自分の臭いを錯覚させることができるかもしれない。
――今だ。
レンは一気に駆け出す。魔物の右側を大きく回り込み、風下へと移動。魔物が首を振り、獲物の所在を見失った隙を見逃さなかった。
「これで終わりだ!」
跳躍。風に乗るようにレンは宙を舞い、魔物の背に飛び乗る。勢いのままに首筋へ剣を突き立てた。
「――ッ!」
硬い。だが――貫いた。鋼の皮膚の隙間に、剣の切っ先が滑り込む。
レンは剣を握る両手に力を込め、さらに深く、確実に刃を押し込んだ。
魔物が断末魔の咆哮を上げる。だが、それもすぐに止む。
その巨体が、崩れ落ちた。
「……ふぅ」
レンは息を吐き、剣を引き抜いた。返り血が刀身を濡らしている。だが、自身に傷はない。なんとか無事に終えた。
「この階層、舐めちゃいけないな……」
第一層とはいえ、この有様だ。ここから先、どれほどの危険が待ち受けているのか。
レンはあらためて気を引き締めた。草原は、再び静寂を取り戻している。イノシシの亡骸の傍らに、青白く光る魔核が浮かんでいた。
それを拾い上げると、レンは再び歩き出す。
「妹よ……必ず助けてみせる」
風が吹く。草が揺れる。どこまでも続く草原の先、その奥に冒険者の街がある。
そこへたどり着くまで、足を止めるわけにはいかない。
レンは剣を背に戻すと、迷宮の奥へと歩を進めた。