風が止んだ。
草がざわめきをやめ、世界が息を潜める。大地の音さえ、今は遠い。
レンは即座に異変を察した。これは、野生の静寂――捕食者が近づくとき、森が一斉に息を殺す、あの特有の圧。
「……敵か」
しゃがみ込み、地面に耳を当てる。すぐに微かな震動を感じた。それは小刻みに、だが確実に――まるで大地を這うようなうねりだった。
「……大蛇だな」
レンは立ち上がり、剣に手をかける。鞘を滑る金属の音がやけに遠く感じられる。視界の奥で、背の高い草が不自然に揺れた。風ではない。獣が滑るように進んでくる。
――ザシュッ!
音とともに、草が裂けた。
現れたのは、黒々とした鱗に覆われた大蛇。胴体の太さは大人の男が両腕で抱えても足りないほど。蛇の目が冷たく輝き、口からは湿った呼吸音が漏れていた。
「でかいな……」
毒こそないとされる魔物だが、その真の脅威は“巻きつき”にある。一度捕まれば、身体はおろか、魔力の流れさえも圧殺される。剣も魔法も使えぬまま、骨ごと砕かれる。
敗北=即死。そんな敵だ。
レンは一歩、また一歩とじりじり後退し、間合いを測る。
「冷静になれ……いつも通りだ……」
蛇は動かない。ただレンをじっと見ている。獣とは思えぬほどの冷静さと知性を感じさせる視線だった。
「……なら、こっちから動く!」
レンは一気に踏み込み、蛇の頭部めがけて剣を振り下ろす。しかし――
その動きよりも速く、蛇は頭を引き、胴体を鞭のように振り回してきた。
「くっ!」
地面に伏せて回避。すぐ横を尾が薙ぎ払い、土と草が吹き飛ぶ。レンは転がりながら距離を取った。
「このスピードで、あのパワー……しかも、知性まであるってか」
蛇は再び間合いを詰めるように螺旋状に動き出す。その動きに、レンの背筋が凍る。
――巻きつきの予備動作!
「させるかよ!」
レンは腰のナイフを抜き、地面に突き刺す。すかさず後方へ跳躍、短く詠唱。
「《ライト・ブラスト》!」
突き刺したナイフから、閃光が弾けた。真昼のような強烈な光が蛇の視界を灼く。
蛇が暴れた。のたうち回る巨体が地を揺らす。
「今だ!」
レンは跳びかかり、蛇の目元を狙って斬撃を叩き込む。だが――硬い。鱗が刃を弾く。それでも諦めず、何度も剣を振るう。
一度、二度、三度――そのたびに剣が重く跳ね返され、蛇が狂ったように身をよじる。
「くそっ、あと少し……!」
そのとき、蛇の首が不自然に膨らんだ。レンは咄嗟に斜め下へ跳んだ。
直後――
地面を叩き潰すように、蛇の首が落ちた。
地鳴りのような音と共に、地面が震える。その動きで、鱗の隙間から首元が一瞬だけむき出しになる。
「……もらった!」
跳躍。全身の力を剣に込めて、首筋へ斬撃を振り下ろす。
ゴンッ。
重い音。剣が肉と骨を断ち割り、深く食い込んだ。
蛇の体が大きく跳ね、そして――静かに、動きを止めた。
「……倒した、のか……?」
レンはゆっくりと蛇の巨体から降りた。肩で息をしながら、なお警戒を解かない。
数秒の沈黙。そして、巨体が崩れ落ちる音。舞い上がる土煙の向こうに、魔核の青白い光が浮かび上がった。
それを見つめたレンは、ようやく力を抜いた。
「……これで、第一層クリアだな」
剣を収め、空を見上げる。
まだ旅は始まったばかりだ。だが、確かに――一歩を踏み出したのだ。