冒険者の街《レスト・ポイント》を後にして、数時間が経過していた。
レンの足は、切り立った岩壁の狭間を進んでいる。
ここは《願いの泉》ダンジョン第2階層――《岩肌の谷》。
陽光は高く、頭上には抜けるような青空が広がっていた。
だがその明るさに反して、空気には不思議な重たさがあった。
両脇にそびえる灰色の岩壁が、まるで生き物のように、歩む者を無言で見下ろしてくる。
その圧迫感に、レンは思わず口を開いた。
「まるで……渓谷を歩いてるみたいだな」
地面も壁も、すべてが岩と砂と土で構成されている。湿気は少なく、風が吹くと細かい砂塵が巻き上がった。
足場は不安定で、わずかな油断が致命的な転倒に繋がる。
そして――この層の最大の脅威は、それだけではなかった。
「……魔物が、紛れている」
岩と同じ色、同じ質感、同じ形状。まるで自然の一部であるかのように、魔物たちは岩に擬態している。
気づかぬまま接近すれば、待っているのは突然の襲撃。命を落とす冒険者も少なくない。
レンは剣の柄に手をかけ、刃を少しだけ鞘から浮かせた状態で歩いていた。
いつでも抜刀できるように。いつでも戦えるように。
「硬い魔物が多いってのは、ほんとらしいな……」
すでに数度、戦闘は経験していた。
岩に化けたトカゲのような魔物。腕だけが動くような半自立型のゴーレム。
いずれも肉体は岩石のように硬く、斬撃を弾く。
単純な力押しでは通じない。剣を無駄に損耗させるだけだ。
新調した黒鉄の片手剣――せっかく手に入れたのだ。砕いてしまうわけにはいかない。
「……だったら、どう戦うか」
岩肌の継ぎ目を探して正確に斬る。
あるいは魔法の補助で隙を作る。
ここでは、技と判断力が試される。
そのときだった。
「……来たか」
岩陰で、何かが僅かに動いた。地鳴りのような低い音と、足元に走る震え。
レンは立ち止まり、目を凝らす。
灰色の岩の表面が、わずかに蠢いていた。
そこから現れたのは――四足で這う、岩の鱗に覆われた獣。
「……ストーン・ファングか」
大型犬ほどのサイズ。牙や爪は鋭くないが、身体全体が厚い岩の鎧に包まれている。
無理に斬れば剣が負ける。そういう相手だ。
レンはすっと息を吸い、腰のポーチに手を伸ばす。取り出したのは、街で購入した火属性の魔晶石。
「これで……まずは牽制だ」
結晶を地面に叩きつける。
バチッという音と共に、小さな火花が爆ぜ、炎が弾けた。
爆音に驚いたストーン・ファングが姿を現す。
擬態を解き、身を翻す――その一瞬。
「っ……!」
レンの踏み込み。鋭い斬撃が、岩の鱗の継ぎ目を正確に捉えた。
黒鉄の剣がわずかに沈み、滑るように抜ける。
呻き声と共に、魔物はその場に崩れ落ちた。
「……よし」
レンは剣を布で拭い、息を整える。
ダメージは少ない。狙いどころさえ見極めれば、この層でも戦える。
「まだまだ気を抜くなよ……ここは第2層。先は長いんだ」
見渡せば、岩肌の谷は果てしなく続いている。
同じような地形、同じような罠、そして見えざる敵。
だが、レンの足取りは迷いなかった。
一歩ずつ、確かに進んでいる。
《願いの泉》――その深奥にあるものを目指して。
彼は今日も、確かな歩みでダンジョンを進んでいく。