鍛冶屋の街を後にして、しばらく歩いた。
地を叩く足音の感触が変わる。乾いた岩肌の世界は終わり、代わって柔らかな苔と湿った土の感触が足元に広がっていた。
森の階層。
生命と危険が同居する、深淵の中の緑。
高く聳える樹々が陽の光を遮り、地上に届くのは斑に砕けた淡い明かりのみ。
虫の羽音が耳をくすぐり、遠くで魔物の咆哮が響く。
レンは一度、深く息を吸い、森の香りを確かめた。
「この辺りから……敵のレベルが違ってくるな」
緊張をほぐすように呟く。
ここには、《回復の泉》と呼ばれる特別な水源がいくつか存在するという。
飲めば即座に傷が癒え、空腹すら和らぐという。
持ち帰っても効果が薄れず、冒険者たちにとっては命を繋ぐ聖水のような存在だった。
「ただし、嵩張るのが難点か……」
レンは荷物の隙間を確認しながら、森を慎重に進んでいた。
道なき道を行く。枝が顔に触れ、根が足を絡め、森は簡単には通してくれない。
だがそのときだった。
「……ッ!!」
鋼と鋼がぶつかる音。怒号。獣の唸り。
戦闘の音が、森の静寂を突き破って届いてきた。
レンは足を止め、耳を澄ませる。
距離はそう遠くない。けれど、音の激しさからして、相当数の魔物が群がっているようだった。
人が応戦しているのだろう。だが、押されている。
助けに行くべきか。
それとも、無関係な戦いに首を突っ込まず、自身の目的へと集中すべきか。
目的は明確だった。
妹の病を癒すため、《願いの泉》の最奥へと辿り着く。
そのためには、生きて深部に到達しなければならない。
無駄なリスクは、極力避けるべきだ。理性はそう告げる。
——けれど。
「そんなことをして……本当に、妹に会えるのか……?」
妹は“魔物になる病”に侵されている。
人としての意識を失い、理性を蝕まれ、やがてはただの魔獣となる。
忌まわしく、恐れられ、処分される運命を背負った病。
その妹を、レンは救いたいと願っている。
だが、目の前の命を見捨て、自分だけが助かることを選んだとき——
本当に彼は、自分のままでいられるのか?
「違う……それは、違う」
レンは剣の柄を握り直す。
心に巣食う迷いや恐れを、静かに押し潰す。
あの病が恐ろしいのは、魂まで変えてしまうからだ。
だとすれば、自分はその“魂”だけは守らねばならない。
「妹を助けたい。そのためには、人として間違ってはいけない。
俺は……俺であることを守って、この旅を終えなければならないんだ」
その一歩は、森の奥へと向かっていた。
刃が交わる音が近づいてくる。木々の向こうに火花が散る。
悲鳴が混じる。魔物の唸りが響く。時間がない。
「待ってろ、今行く」
命の泉がこの階層にあるなら、希望はまだこの森にある。
そしてその希望は、誰にとっても等しく与えられるべきだ。
それが、彼の信じたい“正しさ”だった。
レンの足取りに迷いはない。
剣士の影が、音のする方角へと駆ける。
斜面を蹴り、蔦を飛び越え、木の根を踏み越えて。
その瞳には、妹の姿と、守るべき“人の在り方”が強く刻まれていた。
闇に包まれた森の奥。
剣が叫ぶ。
レンは、己の信じる未来のために、その戦場へと駆けていった。