森は、驚くほど静かだった。
あれだけの戦いの直後だというのに、まるで何事もなかったかのように、虫の羽音さえ止んでいる。
レンは剣を背中の鞘に収め、大きく息を吐いた。
肩で呼吸を繰り返しながら、ふと隣に目をやる。
そこには、地面に座り込んだアルリアの姿があった。
白い髪は泥にまみれ、服は破れ、肌には痛々しい傷がいくつも走っている。
それでも彼女は、笑っていた。
まるでその傷が勲章であるかのように、澄んだ目でレンを見ていた。
「……お互いに、ボロボロだな」
レンの呟きに、アルリアが小さく肩をすくめて答える。
「それはもう。虫なんて大嫌いになりそう」
その言葉に、レンはつい吹き出した。
確かにあれほどの巨大なカマキリの群れに襲われれば、誰でも嫌いになって当然だ。
「幸い、この階層には《回復の泉》があるらしい。飲めば傷が癒えて、空腹も和らぐって話だ。まずはそこを目指そう」
「泉か……いい響きね。冷たくて、静かで、傷が癒える……最高じゃん」
アルリアはゆっくりと体を起こし、地面を支えにして立ち上がる。
足元はまだふらついていたが、その姿には不思議な気迫があった。
この白髪のエルフは、ただの美しい異邦人ではない。
自分の意思で剣を取り、命を懸けて戦う戦士だ。
それをレンは、今の戦いで改めて知った。
「これからは、二人旅だな」
そう言うと、アルリアは目を細め、片目で軽くウインクしてみせた。
「裏切ったら、子供みたいに泣き喚くからね」
「俺の方こそ泣くさ。顔ぐしゃぐしゃにしてな」
二人は思わず笑った。
冗談混じりの言葉で互いの存在を確かめ合いながら、本当に、心の底から笑った。
張りつめていたものが、ふっとほどけたような、そんな笑いだった。
人は一人では、強くなれない。
どれだけ強い意志を持っていても、背中を預けられる誰かがいるだけで、その歩みは何倍にも軽くなる。
苦しみも痛みも、共有できれば、希望に変わる。
「行こう。泉を見つけて、まずは体を癒そう。……それから、また先へ進めばいい」
レンがそう言って歩き出すと、アルリアも一歩を踏み出した。
二人の影が、森の中をゆっくりと進んでいく。
木漏れ日が、斑模様となって二人を照らす。
傷だらけの体に、柔らかな光が降り注ぐ。
それはまるで、今この瞬間を労うかのようだった。
この森には《回復の泉》がある。
それはただの水ではなく、冒険者たちの命を繋ぐ奇跡の恵み。
もしそれが本当に存在するなら、今の二人には、まさに天の助けだ。
そして、その先にあるのは《願いの泉》。
妹を救うための、レンの旅の終着点。
けれど、その道のりはまだ遠く、険しい。
今はまず、目の前の一歩を確かに踏みしめるしかない。
「……レン」
背後から、アルリアの声が届く。
振り向くと、彼女は少しだけ口元を緩めて、言った。
「……ありがとね。助けてくれて」
レンは一瞬だけ目を見開き、そして微笑んだ。
「礼を言うのは俺の方さ。……本当に、来てよかった」
二人はもう一度、笑い合った。
それは、孤独を抜けた者だけが知る、温かな時間だった。
再び、森に二つの影が並ぶ。
疲弊し、傷つき、それでも確かに前を向いていた。
回復の泉は、そう遠くない。
心と体を整え、再び歩き出すその時のために——
二人の旅が、静かに続いていく。