酒の泉――「森の恵み」。
一口飲んだだけで、身体の芯がぽっと温かくなる。張りつめていた疲労がすっとほどけ、肩の力が抜けていく。
これは、ただの酒じゃない。泉の水に宿る癒やしの力――まるで神話に語られる回復の泉そのものだった。
「……確かに美味いな。自信を持って勧めるだけのことはあるな」
レンは、思わず感嘆の声を漏らした。
隣ではアルリアも静かに杯を傾けている。警戒心の強い彼女ですら、この酒の前では、心からくつろいだ表情を見せていた。安心感が泉の香りとともに、空気に溶け込んでいるようだった。
そのときだった。泉の向かい側でのんびりしていたモアリアナが、目をぱちくりとさせながらぽつりと言った。
「……あー、思い出してきたぁ〜。あれはねぇ、人魔戦争の直後だったからぁ〜……何年前だっけぇ〜?」
レンとアルリアが、同時に顔を見合わせた。
――人魔戦争。
かつて人間と魔族が世界の覇権をかけて争ったとされる、伝説の大戦争。だが、現代の学者たちはその存在にすら疑問を抱いている。記録はほとんど残っておらず、「あったとしても数百年以上前」と推測される程度だ。
その戦争の「直後」だと? まるで昨晩の出来事みたいな口ぶりで。
けれど、目の前にいるのは千歳を越える長命の森の長老、モアリアナ。その存在を疑うことは、今この世界の常識を疑うことと同義だった。
「洞窟の民はねぇ〜、王族に率いられて来たんだよぉ〜。逃げてきたんだっけぇ〜? ううん? 封印だっけぇ〜? う〜〜ん……」
「……王族?」
レンが思わず身を乗り出す。
「う〜ん、そうそう。なんか、ほらぁ……あのときの……誰だったっけぇ……? うぅ〜ん……あとねぇ〜、守るって……ええっと……うぅ〜……」
モアリアナの言葉は、次第にふわふわと霧の中に吸い込まれていくようだった。思い出しかけた記憶の糸が、手の届くところにありながら、滑るように遠ざかっていく。
「……モアリアナ様?」
アルリアが前のめりになって問いかけるが、その言葉が届く前に――
「すぅ……くかぁ〜……」
突然、モアリアナの体がぐらりと揺れ、そのまま石畳に大の字で倒れ込んだ。口元にはうっすらと笑みを浮かべながら、気持ちよさそうな寝息を立てている。
「……寝たな」
「うん……がっつり」
困惑する二人のもとに、一人の森エルフが静かに歩み寄ってきた。長身で落ち着いた雰囲気のそのエルフは、深く頭を下げると穏やかに言った。
「申し訳ありません。モアリアナ様は“深酒睡眠”に入られました。これに入ると、早くて数日、遅ければ年単位で目を覚まさないこともございます」
「……冗談だろ?」
「いいえ、伝説の“森の恵み”には……副作用がございます。そういうことにしておいていただければと」
森の空気が、どこか切ない笑いに包まれる。
せっかく開きかけた記憶の扉は、再び重く閉じられてしまった。得られた情報は、わずかに残された言葉の断片だけ。
「せめて……誰かに伝える前に寝てほしかったな……」
レンがぼやくと、アルリアも同じく深いため息をついた。
「でも……“洞窟の民に王族がいた”って話、初めて聞いた。やっぱり、私の過去には、何か大きな意味があるのかもしれない」
「そうかもな。でも、今は……寝ちまったしな」
「うん。続きは、モアリアナ様が目覚めてから」
モアリアナは他のエルフたちの手で、ふわふわの毛布に包まれ、まるで祭壇に運ばれる女神のように、丁寧に運ばれていった。眠る長老を見送るその姿は、どこか神事めいていて神聖だった。
残された二人は、森の夜風に背を押されるように歩き出す。
「……さて、俺たちも宿を探すか」
「うん。寝る場所くらい、確保しとこう」
小さな手がかり――“王族”の存在を胸に、二人は静かに村の奥へと消えていった。
次にモアリアナが目を覚ますとき、さらに深い真実が語られることを願いながら。