翌朝。
森の宿屋に差し込む木漏れ日のやわらかな光の中で、レンは静かに目を覚ました。
昨夜のことが、まるで夢だったかのように現実味を欠いて感じられる。けれど、間違いなく現実だった。
千年を生きた森の長老・モアリアナとの出会い、そして突如訪れた“深酒睡眠”。あの瞬間に語られた断片的な記憶の中に、「王族」「洞窟の民」「人魔戦争」といった重要な手がかりが含まれていた。
アルリアが目を覚まし、二人は身支度を整えると、宿を出て森の広場へ向かった。朝の空気は冷たく清らかで、鳥のさえずりと木々のさざめきが耳に心地よい。
広場にはすでに森の民たちが集まっており、穏やかで平和な時間が流れていた。その一角――ふかふかのクッションと毛布に包まれて眠る、あの人物の姿も。
「……まだ寝てるな」
「うん、案の定」
モアリアナは昨日と同じ姿勢のまま、変わらぬ寝息を立てていた。まるで“寝ること”それ自体が彼女の存在理由であるかのように、周囲の森エルフたちは静かにその眠りを見守っている。
「……あれ、昨日起きてたのって奇跡だったんじゃない?」
アルリアがぽつりと呟く。
「だな。もしかしたら、もう二度と話せないくらい貴重な瞬間だったのかもな」
レンの声には苦笑が混じっていた。
確かに、あの数分間だけで得られた情報は、言葉に尽くせぬほど大きい。
“洞窟の民に王族がいた”という言葉。それは、アルリアの出自に関わる何かを示唆していた。
「……人魔戦争を“直後”って言うなんて、普通じゃないよ。あんな話、誰に聞いても信じてもらえない」
「けど、モアリアナが言ったんだ。あの人なら……千年前だって“ちょっと前”くらいに感じてそうだな」
アルリアはふっと息をつき、眠る長老の姿に目を向けた。まるで神聖な石像のように微動だにしない彼女。そのまぶたの奥に眠っているであろう記憶が、今は閉ざされている。
「次に目を覚ますのは……いつになるんだろう」
「今日かもしれないし、来年かもしれない。……百年後でも不思議じゃない」
少しの沈黙が流れた。風が森を揺らし、木々の葉がそよいで光を散らす。
その光を見上げながら、レンが言った。
「今できるのは、前に進むことだけだ」
アルリアも、小さく頷いた。
モアリアナの言葉は不完全で、物語はまだ始まりにすぎない。けれど、それでも進まなければならない。洞窟の民の真実に辿り着くために。
彼女の記憶の奥底にある“何か”を探るために。
「行こうか、アルリア。酒の村を越えて、もっと深い階層へ」
「うん。私のルーツは、きっとまだ下にある。……この先に」
二人は最後にもう一度だけモアリアナを振り返った。
ふかふかの毛布に包まれ、子供のように安らかな寝顔。何の憂いもなく眠り続けるその姿に、一瞬だけ名残惜しさが胸をかすめる。
けれど彼女が語る続きを待つには、あまりにも時間が読めない。
いま、彼らにできるのは――自分の足で、道を切り開くことだけだ。
「……じゃあな、長老さん。また今度、起きてくれよ」
小さく呟いて、レンは背を向ける。
その隣で、アルリアが静かに歩き出す。
森の緑に包まれた村を後にして、二人はダンジョンの奥へと向かった。
眠れる伝説を背に――新たな真実を求めて。