水晶の洞窟を進む中、レンはふと立ち止まった。
空間はあまりに静かで、呼吸の音すら霞んで聞こえた。煌めく水晶が壁も床も天井も覆い、淡く輝く光が四方八方から反射している。空気は魔力で満ち、肌の奥がじんじんと焼けるような熱を帯びていた。ここは、魔法使いにとって天国のような場所。魔力の泉が至る所に湧いており、まるで魔法が無限に使えるかのようだ。
けれど、その完璧すぎる静寂が、今は不気味だった。
「……アルリア?」
隣にいたはずの彼女の気配が、不意にかき消えていた。
レンは即座に足を止め、辺りを見回した。光る結晶と濃い魔力の霧ばかりが視界に入り、仲間の姿は見当たらない。数歩進んだ先で、地に落ちたマントの一部を見つけた。白銀の髪に似合っていた、柔らかく薄い布地。
「嘘、だろ……?」
しゃがみ込んで布を拾った瞬間、背後に何かが通り抜けた気配がした。反射的に振り向くが、そこに人影はない。ただ、空間に微かな揺れと魔力の余波が漂っていた。
「アルリア……っ!」
叫ぶ声は、水晶に反響して虚しく返るだけだった。
気配に敏感なアルリアが、不意打ちを受けるなど信じ難い。だが、これは確かに、何者かに連れ去られた痕跡。しかも——
「……隠密魔法、それも魔道具による強制発動か」
レンは地に残る魔力の残滓に指を触れ、その複雑な魔力の流れを読み取った。自然な魔法ではない。これは、人工的に精密に設計されたものだ。高等な魔道具による遮断、誘導。そして拘束。アルリアほどの使い手を一瞬で攫える存在——
そのときだった。
前方に、白衣の人物が立っていた。
フードを目深にかぶり、顔は見えない。だが、その手には細身の金属製の杖、そして腰に吊された複数の魔道具。それが、すべてを物語っていた。
「おい、待てっ!」
レンが叫ぶと同時に、駆け出した。
しかし次の瞬間、視界が閃光に包まれる。青白い電撃の壁が、行く手を遮った。
「魔力の防壁……!」
足を踏み込もうとした瞬間、雷撃が地を焦がし、レンを跳ね返した。
「くそっ……!」
防壁の向こうで、白衣の人物は何かを抱えていた。
その形は明らかに人間。白い髪が、淡い光の中でふわりと揺れていた。
「アルリア……!」
叫びは届かず、防壁に吸い込まれて消えた。
白衣の人物は一瞥すらせず、音もなく身を翻し、洞窟の奥へと姿を消した。
「待て……ッ!」
防壁が薄れていく。だが、それでも追いかけるには時間が足りない。歯を食いしばり、レンは拳を握りしめた。
そのとき、背後から鈍く重い音が響いた。
「……!」
振り返った先には、光の洪水のような存在。
巨大な熊のような魔物——全身を水晶で覆い、透明な毛並みが輝く、あの「水晶の熊」がいた。
この階層最強とされる魔物。魔法にも物理にも並外れた耐性を持ち、真正面から挑んでも勝ち目は薄い。しかも、今はレン一人しかいない。
「……今は、戦ってる場合じゃない……っ!」
剣を抜きかけたが、そのまま切っ先を伏せる。
そして、レンは踵を返して走り出した。地形を把握しているルートを思い出し、回り道で奥へと向かう。
背後では水晶の熊が、重い足音と共に追ってくる。地面が震え、洞窟の壁が軋む音が響く。光が乱反射し、空間の輪郭すら歪んで見えた。
——なぜ、あんな魔法を使えるやつがアルリアを攫った?
——どこへ連れていこうとしている……?
胸の奥がざわめき、焦燥が焼けるように広がる。だが、諦めるという選択肢だけは浮かばなかった。
「必ず見つける。どんな地の果てでも、連れ戻す」
その言葉を、自分自身へと叩きつけるようにして、レンは走り続けた。
少女の白い髪が、光の中で揺れていた幻影が、今も視界の隅に焼き付いていた。