「ちくしょう……!」
乾いた音が洞窟に響く。レンは岩壁に拳を叩きつけた。皮膚が裂け、血が伝って落ちるのを感じながらも、痛みはなかった。ただ、胸の奥に空いた穴が焼けるように熱く、空虚な風がそこを吹き抜けていく。
アルリアが攫われた。あの白い髪、白銀に輝く洞窟エルフ。希少な種族であることも、記憶を封じられていることも、彼女の存在が誰かにとって“価値”を持つことも、知っていた。理解していた。
——なのに。
「こんな形で奪われるなんて……っ」
悔しさが胸を締めつけ、視界が滲む。怒りか、悲しみか、自分でもわからない。ただ叫ぶことしかできなかった。
「くそっ……!」
洞窟の奥深く、魔力に満ちた空間に、レンの怒声が虚しく反響する。壁に残る魔力の痕跡を辿ろうとしても、それはすでにかき消されていた。高濃度の魔力に満たされたこの場所では、痕跡はすぐに霧散する。それに加え、幻惑の術式まで重ねられていた。
——初めから跡を残す気などなかった。高度に計画された誘拐だ。
膝をつき、歯を食いしばる。こんなにも、自分が無力だと思い知らされたのは久しぶりだった。剣も、魔法も、今は何の役にも立たない。
「……どうすればいいんだ」
そのとき、背後で何かが落ちるような、ぽすっとした音がした。
レンは反射的に振り返り、剣の柄に手をかける。だがそこにいたのは——
「……犬?」
茶色い毛並み、くるんと巻いた尻尾。小型の柴犬のような見た目の生き物が、そこにちょこんと座っていた。魔物の巣窟にはまるで似つかわしくない存在だった。
そしてその犬が、口を開いた。
「困ってる様だな」
レンは目を見開いた。言葉が脳内に直接響いたような錯覚を覚える。
「……しゃべった?」
「喋ったよ。まぁ、毎回驚かれるのは慣れっこだ」
その声は落ち着いていて、妙に理知的だった。まるで年老いた学者が語るような響きがあった。
「魔物か?」
レンが剣に手をかけたまま問うと、犬は尻尾を振って応じる。
「違うな。俺はガロ。見た目は犬、だが中身は“人造賢者”だ」
「……は?」
「人造勇者研究所って組織があってな。勇者を人工的に作ろうとしてる、倫理もへったくれもない連中さ。俺はそこの実験体。賢者型として作られたけど……まぁ、失敗作だった。で、捨てられる前に逃げてきた」
冗談のような話だった。だが、ガロの目に嘘はなかった。
「人造、って……人間なのか?」
「人ではない。けれど、人の“記憶”を持ってる。材料になった人間の記憶が、俺の中に残ってるんだ。だから……人の痛みも、怒りも、少しはわかるつもりだ」
レンは静かに剣から手を離し、立ち上がる。
「それで……何が目的だ?」
「助けてほしい。破棄されそうな被験者がいる。君と同じように、大切な奪われた存在だ。俺は、そいつを逃がしたい。でも、俺一人じゃ限界がある。だから、君に協力してほしい」
ガロの声には、芝犬とは思えないほどの重みがあった。
レンは黙っていた。感情が揺れる中で、思考を巡らせる。ガロは真実を語っている。あの白衣の者たち——アルリアを連れ去った連中——彼らもまた、その“研究所”の関係者に違いない。
「……あんた、俺に何が見えてる?」
「絶望と、怒り。そして……まだ諦めていない心。違うか?」
レンは目を細め、深く息を吐く。
「……わかった。協力してやる。その代わり、まずはアルリアの居場所を突き止める。それが条件だ」
「もちろんだ。俺もそれを探してる。君の敵は、俺の敵でもある」
「なら案内しろ。そいつらの巣、“研究所”ってやつの裏側をな」
「任せとけ。無謀な人間ってのは嫌いじゃない」
そう言って、ガロは軽やかに洞窟の中を駆けていく。
レンはその後を追う。胸にまだ燃え残る熱を抱きしめながら。
——まだ終わりじゃない。ここからが、始まりだ。
アルリアを。失われたすべてを——取り戻すために。