黒曜石のような床を進む足音が、静寂の空間に淡く響いていた。全回復の泉で一息ついたレンたちは、回復したとはいえ、慎重に第六階層の奥へと足を運んでいた。
その時だった。
先頭を歩いていたレンが、ふと立ち止まる。結晶の光が交錯する道の先に、白い影が佇んでいた。
「……誰かいる」
レンの言葉に、アルリアが眉を寄せる。
「こんなところに? 探索者……じゃないわよね」
白い影は、まるで現実感がなかった。ひとつの光景のように、ただそこにいる。だが、次の瞬間――影が、動いた。
ふわりと揺れる白いローブ。次いで、空気を裂くように振り下ろされた杖が、目にも止まらぬ速さでレンへと迫る。
「くっ!」
とっさに身を引いてかわす。重い風を引いて振り下ろされた杖が、黒曜石の床にぶつかり、粉塵を巻き上げた。衝撃だけで、地面にひびが走る。
「な、なんだあれ……!」
「“聖女の幻影”よ!」
アルリアが叫ぶ。記録でしか知らない名。運が悪ければ第三階層でも出会ってしまう、ダンジョン内でも異質な存在。見た目は聖女――癒しの象徴。そのはずが、現れた幻影は、まさに殺意の塊だった。
振るわれる杖は鋭く、鋼のように重く、そして容赦がない。癒しの衣を纏いながら、ただひたすらに、目の前の“動くもの”を殴り倒そうとしてくる。
「リリィを下がらせろ! 今の俺たちじゃ正面からは持たない!」
レンが指示を飛ばし、ガロがリリィの前に飛び出す。
「ついてこい、リリィ! ここは――」
だが、その言葉が終わる前に、幻影の動きが止まった。
杖を振り上げたまま、まるで空気が凍ったかのように動きを止め、ただ、じっとリリィを見ている様に感じた。
誰もが息を飲んだ。
幻影の気配が、変わった。
それまでの怒りと殺意に満ちた空気が、まるで水面に落ちた一滴の雫のように波紋を広げ、静まり返る。
そして――幻影は、杖をリリィの前に差し出した。
「……え?」
レンが思わず声を漏らす。
リリィは、無言のまま、一歩踏み出した。彼女の指先がそっと杖に触れると、幻影はそのまま、ゆっくりと身を翻した。
足音もなく、白い影は闇の向こうへと消えていく。
誰も言葉を出せなかった。ただ、その背を見送るしかなかった。
「……何だったんだ、今の……」
レンが呟いた。息を詰めていたアルリアが、そっと答える。
「明らかに……リリィを見て、動きを変えた。彼女に反応していた」
ガロがリリィの足元で尻尾を振る。だがその顔は、真剣そのものだった。
「まるで……あいつはリリィを知ってたみたいだったな」
リリィは、与えられた杖を見つめていた。木製とも金属製ともつかない、不思議な質感のそれには、淡い紋章が刻まれている。かすかに魔力が揺れ、鼓動のように脈動していた。
「それにしても……聖女の幻影が、攻撃してこなかったなんて」
「本来なら、何度倒しても時間が経てば復活する魔物よ。それが……自ら杖を渡して去っていったなんて、聞いたことがない」
レンがリリィに問いかける。
「リリィ。……何か、思い出したか?」
だがリリィは、ただ首を横に振った。だが、その瞳の奥にわずかな揺らぎがあったのを、レンは見逃さなかった。
リリィの素材――それが、まさに今、目の前から去っていった“幻影”だったのかもしれない。
癒しの姿でありながら、魔物としてさまよう存在。
――今、リリィという存在がここにいること自体が、かつての歴史の残滓であり、継承なのかもしれない。
「……行こう。ここで立ち止まっていても仕方ない。だが、あの杖――大事にしておこう。あれは……“あの人”がリリィに渡したものだ」
レンの言葉に、誰も反対しなかった。
そしてリリィは、与えられた杖をしっかりと胸元に抱えた。
幻影は消えたが、何かが確かに、受け継がれた。
静寂の第六階層に、再び足音が戻っていく。