灼熱の火山地帯を越えた先、レンたちが辿り着いたのは、信じがたいほど静かで穏やかな空間だった。
「……ここが、第六階層の境界か」
レンがそう呟いた時、目の前に広がる光景に、一行は思わず言葉を失った。
暗く沈んだ鍾乳洞の裂け目を抜けた先に現れたのは、まるで別世界のような村だった。
岩と岩の間に器用に作られた木造の家々、軒先に吊るされた乾燥した果実や布。細く澄んだ川が流れ、小さな風車が静かに回る。畑には淡い紫の実が実っており、微かに甘い香りが風に乗って流れてきた。
だが、それ以上に彼らの目を引いたのは――そこに住まう者たちの姿だった。
角を持った少年。獣耳をつけた老婆。鱗のような肌をした若者。
一見すれば魔物のように見えるその者たちは、しかし確かに人間の意志を宿した目で、静かに彼らを見つめ返していた。
「……魔獣か?」
剣の柄に手をかけかけたレンの動きを、ガロが前足で押し留めた。
「違う。彼らは“元”人間だ。おそらく……魔力増加症の末期を迎えた者たち。魔獣化しかけて、なお理性を保ったまま逃げてきたんだ」
その言葉に、レンの胸を苦い記憶が締めつけた。妹――リナ。
あの病に冒され、いずれは魔獣になると宣告された少女。絶望を背負った妹の姿が浮かぶ。
魔力増加症。それは、体内の魔力が制御限界を超えたとき、肉体を変質させ、やがて理性を奪って魔獣へと変える病。
帝国では、それは「討伐すべき災厄」として扱われていた。魔獣化した者は例外なく殺される。それが“掟”だった。
だが――この村では違った。
魔獣化しかけた者たちが、暮らしている。言葉を交わし、生活し、穏やかに笑っている。
警戒する村人たちに、レンは一歩前へ出た。
「……妹が、魔力増加症なんだ。俺は、治せる手がかりを探してここまで来た。彼女を……死なせたくない」
その一言が、村の空気を変えた。最初に近づいてきたのは、尻尾を揺らした小さな少女だった。
「お兄ちゃんも、誰かを守りに来たの?」
その問いに、レンは静かに頷いた。
やがて村の長が現れ、彼らを迎え入れた。
「魔力増加症の死亡率が高いのは、魔獣化したからではない。討伐されるからだ。だが、ここでは違う。魔力に体を侵されても、時間をかけて適応し、制御を学べば……こうして人として生きることもできるのだ」
「ここは、“魔人の村”と呼ばれている。忌み名だと思う者もいるが……我々は誇りをもってその名を受け入れている。ここに来る者を拒むことはない。君たちも、妹をここに連れてきたくなったなら、いつでも来るといい」
レンは拳を強く握りしめた。妹に、ここを見せたい。だが、今はまだ旅の途中だ。
「ありがとう……でも、今はまだやることがある。妹をここに連れてくるのは、それを終えてからだ」
「うむ。それでいい。だが覚えておきなさい。この村は、君たちを拒まない」
その言葉は、まるで祝福のようだった。
* * *
村での生活は、どこか懐かしく、温かかった。
「ここまで駆け足で来すぎたな……少し、休もう」
レンの言葉に誰も異を唱えず、皆が束の間の安息を受け入れた。
魔人の村では、貨幣の概念が通用しなかった。代わりに物々交換が生活の基盤となっていた。
傷ついた剣を見た角付きの鍛冶師が、静かに言った。
「この剣、歪んでるな。直す代わりに、この石をくれ」
それは魔獣の体内から採取された希少鉱石だった。レンがそれを手渡すと、男は黙って頷き、炉の前へ向かう。
道具、薬草、布、食糧……必要なものを手に入れるには、自分たちの持つ価値と引き換えるしかない。だが、奇妙なことに――損をしたと感じる者は誰もいなかった。
「強欲という概念が、この村にはないのかもしれない」
そう呟いたのは、アルリアだった。彼女は今、村の女性たちと並び、傷ついた指先でぎこちなく編み物をしている。
リリィは、村の中心にある「満腹の泉」の前に座っていた。
それは記憶の中にある食べ物を再現する、奇跡のような泉だった。レンが手を差し出すと、水面から湯気立つ皿が浮かび上がる。
「……これ、妹と一緒に食べたクリームシチューだ」
その香りは、確かに過去の記憶そのままだった。
リリィの前には、小さなアップルパイが浮かんでいた。
「これは……食べてみたいって、夢で思ってたお菓子。たぶん、それが記憶に残ってたんだと思う」
彼女は微笑んだ。その笑顔はほんのわずかに寂しさを含んでいた。
人造聖女リリィ。
かつて聖女と賢者が残した“最後の希望”は、今、ここで人としての感情に触れている。
ガロは泉の傍で目を閉じていた。過去の記憶が胸を巡る。人間だった頃、何を思っていたのか。何を守ろうとしていたのか。
その傍で、レンは修復された剣を手にしながら立ち上がる。
「……そろそろ、行こう。俺たちはまだ、終わってない」
希望は確かにあった。滅びを超えて、理不尽を越えて、それでも生きる選択をした者たちが、ここにいた。
魔人の村――それはただの避難所ではない。未来へ向かうための、“止まり木”だった。
彼らは再び旅立つ。第七層へ。
妹を救うため、幻影の奥に隠された真実へと向かって――。