魔人の村での数日間は、あまりにも穏やかだった。
焦りと戦いに塗れた日々が、まるで幻だったかのように、時間はゆるやかに流れた。朝はゆっくりと目覚め、温かい食事と、誰かの笑い声と、柔らかな陽光に包まれて過ごす。夜は静かで、空に浮かぶ魔力の灯が、星空の代わりに煌めいていた。
それは、レンたちにとって夢のような日々だった。
だが、夢はいつか覚める。彼らの旅は、ここで終わるものではない。目的があり、守るべき人がいる。そして、果たすべき約束がある。
体力も、魔力も、装備も、ようやく整った。休息の中で癒えたのは、身体だけではなかった。心の奥に絡みついていた焦燥や痛みも、この村の静けさが、少しずつ解いてくれた。
「……そろそろ、行こうか」
レンの一言に、アルリアとガロ、そして小さなリリィが、静かにうなずいた。
魔人の村――あの不思議な安息の地で、彼らはただ休んでいただけではなかった。住人たちはあまり外の世界を知らない。だから、彼らは語ったのだ。どんな旅をしてきたのか、どんな戦いがあったのか。失ったものも、得たものも。
そして、なによりも笑った。命がけの戦いの中にも、思い返せば滑稽な出来事があった。ガロが魔法陣に足を突っ込んで空を飛んだ話。アルリアが眠り薬を間違えて飲んで一日中ぐっすりだった話。レンが洞窟で足を滑らせ、水たまりに落ちて、その拍子に敵を巻き込んで倒した話――
「ほんとに落ちたんだってば……!」
レンが照れくさそうに頭を掻くと、村の子どもたちがまた大声で笑った。
その声が、夕方の空に吸い込まれていく。今日が最後の夕日になる。
「……すっかり、馴染んじまったな」
ガロがぽつりと呟く。人間だったころの記憶を持つ、しゃべる芝犬の姿が、今では村でも珍しくもなくなっていた。
「うん。でも、それでいいと思う。忘れられるより、思い出してもらえた方が、きっと……」
アルリアの銀白の髪が風にそよぎ、淡く光る。彼女の瞳の奥には、どこか遠くを見つめるような想いが宿っていた。
別れの日。下層へ続く洞窟の入口には、信じられないほどの村人が集まっていた。老いた者も、若い者も、魔獣のような姿をした者も、人の形に近い者も、そのすべてが手を振り、声を上げて見送ってくれる。
「気をつけていけよー!」
「妹さんによろしくなー!」
「また来いよ、絶対だぞ!」
角の生えた男が、頬をくしゃりと歪めて笑い、少女たちが花で編んだ冠を空に投げる。それが、ふわりと宙を舞い、リリィの頭にちょうどよく落ちた。
「……ありがとう、リリィも気をつけてね、って言ってくれてるよ」
レンの言葉に、リリィは黙ってうなずき、小さな手を彼に差し出した。ぎゅっと、その手を握り返す。別れの言葉は、少ないほど重たかった。
アルリアが最後に村の方を振り返り、ぽつりと呟いた。
「……いいところだったね」
それは、感謝と名残惜しさ、そして前を向こうとする決意の混じった、複雑な言葉だった。
レンも、ガロも、何も言わずにその言葉を噛みしめた。ここが、誰かにとっての逃げ場であり、居場所であり、そして希望だったことを、彼らは知っていた。そして、その記憶がある限り、自分たちもまた、前に進めると信じていた。
深い闇が口を開ける、下層への入り口。
その奥に何があるかは分からない。だが、もう迷いはなかった。
「じゃあ、行こう。第七層へ」
レンが静かに告げ、洞窟の中へ一歩踏み出す。
魔人の村の灯りは、背中の向こうに遠ざかっていった。それでも、彼らの胸の奥には確かに残っていた。笑顔も、言葉も、温もりも――すべてが、生きる力になる。
静寂が支配する洞窟の中、足音だけが響く。
アルリアが先を歩くレンの背中を見つめながら、ぽつりと囁いた。
「ねぇ、レン……」
「ん?」
「わたし、こわいよ。だけど……こわいままで、進んでみる」
レンは振り返らなかった。ただ、歩きながら答えた。
「それでいいよ。おれも同じだ」
その後ろを、ガロとリリィが静かに続く。
不安と希望を両手に抱えて、一行は深層へと足を踏み入れていく。
その先に何が待ち受けていようとも、もう止まらない。
――第七層が、彼らを待っている。