階段を下りきった瞬間、誰もが息を飲んだ。
「……暗い」
レンの呟きは、吸い込まれるようにその場で消えた。音すら届かぬような、深く、深い闇が彼らを包み込む。
そこは夜ではなかった。星も、月も、空すらない。ただ“闇”という現象が、この空間を支配していた。レンが手にした松明は、かろうじて炎を揺らめかせていたが、光は震えながら一メートルも届かない。
「……光が、届かない……?」
アルリアが、か細い声で松明を見つめる。その銀白の髪でさえ、闇に沈んで輪郭がぼやけていた。
「これは……ただの闇じゃない。魔力の層が光そのものを押し返してる。こんなのは初めてだ」
ガロの声が妙に冷静だったが、前足がふっと宙に浮き、淡く青白い光球を浮かび上がらせた。魔法の光――それだけが、ほんのわずかに周囲を照らすことを許されている。
だがその視界は狭い。十メートル先すらおぼつかず、視界の外に何が潜んでいるか分からない。
「……城の中みたいだ」
レンがふと呟いた言葉に、誰もが同意した。
周囲を見れば、それは確かに「建築物」だった。石で組まれた巨大な柱、荘厳な天井。壁には崩れかけた壁画があり、錆びた装飾の痕跡が残っている。まるで太古の神殿、あるいは失われた王宮。かつて誰かがここに住んでいたかのような痕跡だけが、静かに息をひそめていた。
「ここが……第七層、“暗黒宮殿”か」
ガロが名を呟く。どこか呪文のように響いた。
「魔力の流れが複雑だ。空間が……捻じれてる。進むたびに道が変わるかもしれない。気をつけろ」
リリィがガロの隣に寄り添っていた。その小さな手から放たれる淡い光は、彼女の内にある強い意志の象徴だった。口数は少ないが、その瞳には常に何かを見据える強さが宿っている。
「……何か、聞こえない?」
アルリアが足を止めた。
耳を澄ませる。沈黙。だが、その奥に確かに何かがいた。
ざら……ざら……と、床を這う音。水でも、獣でもない。異質で、名状しがたい、何か。
「――来るぞッ!」
ガロの警告と同時に、闇の奥から“それ”が現れた。
無数の白い手。人間のそれよりも細く長く、皮膚のようなものがない。筋肉も、骨格もない、ただ「手」として存在する何か。それが壁から、床から、天井から、湧き出すように伸びてくる。
「くっ、光よ! 我が刃となりて!」
アルリアの詠唱と共に、細く鋭い光剣が空間を裂いた。光の刃が白い手を斬り裂き、焼き払う。そこだけが一瞬、闇から解放される。
「リリィ、サポート頼む!」
レンの声に、リリィは頷くと、無言で両手を組み合わせた。魔法陣が足元に広がり、結界が展開される。光が結晶のように周囲に広がり、白い腕がそれに触れた瞬間、音もなく崩れ落ちていく。
「この階層……魔物の姿が見えないのが逆に怖いな」
レンが低く吐き捨てた。
確かに、彼らは今、実体を持たぬ“何か”と戦っている。ただの手だけ。あるいは足だけ。いや、影だけの存在もいた。名前も性質も分からない、敵と呼ぶのさえためらうようなものたち。
「……ここは、精神を削る層だ」
ガロが低く言った。
「攻撃の意味も、敵の意志も曖昧だ。存在そのものが、こちらの“心”を削り取ってくる。記憶、感情、自我。そういったものが、少しずつ蝕まれる」
冷や汗が、レンの背中をつたう。
確かに、ここに来てからというもの、思考が霞む瞬間がある。あれ、何をしていた? どこから来た? なぜ、こんな場所に?
「気を張れ。名前を呼べ、自分の名前を。意識を定めろ。自分が誰かを、忘れるな」
ガロの指示に従い、レンは息を吸い込む。
「……レン。オレは、レンだ。アルリア、ガロ、リリィ。おまえたちと、ここにいる」
名を呼ぶごとに、闇がほんのわずかに後退する気がした。
この階層の本質は「存在の否定」だ。
光を拒み、音を飲み込み、姿を奪う。存在証明すら霞んでいくこの空間では、意志こそが唯一の武器だった。
「……ここ、夢みたい」
アルリアがぽつりと呟いた。
「悪夢、だけど、どこか懐かしい気がする。遠い昔、こんな場所にいたような……そんな、変な感じ」
彼女の言葉が危うく響いた。誰もが、自分も同じ錯覚に陥ることを恐れた。
「足を止めるな。止まれば飲まれるぞ」
ガロが低く言う。
そうして、一行は再び歩き出した。ひとつの手を斬り払い、一歩を進め、また記憶を確かめる。
なぜ、ここまで来たのか。
妹を救うため。
仲間を守るため。
失ったものに意味を与えるため。
暗黒の空間を歩き続ける。
音も、光も、姿も失われるこの空間で、希望だけが胸に残る。
――その先に、願いの泉の核心があるのなら。
たとえ、自我を削られようと、意識を喰われようと、進むしかなかった。
彼らの歩みだけが、暗黒の中に確かに響いていた。