静かな空気の中、風がざわりと草を揺らした。
レンは黙って立っていた。背後には朽ちかけた巨大な石のアーチ。それをくぐった瞬間、彼の足は日常から断ち切られ、この迷宮《願いの泉》の第一層へと踏み込んだ。
目の前に広がっていたのは、どこまでも続く草原だった。淡い緑が波打ち、ところどころに白い花が咲いている。空が広く、雲さえ流れているように見えた。
けれど、その空に太陽はなかった。代わりに、上空を覆うのは淡く光る魔力の層。空に見えるのは幻想で、この場所がダンジョンの内部であることを、否応なく思い出させる。
「……ここが、迷宮の入口か」
呟く声は小さく、風にかき消された。
踏みしめた地面は柔らかく、微かに湿った感触が足裏に伝わる。草の香りに混じって、土と魔力の匂いが鼻を突いた。
この《願いの泉》は、階層型のダンジョン。外見はのどかでも、油断すれば命を落とす。しかもこのダンジョンは定期的に内部構造を変化させる。地形、気候、魔物の配置、すべてが気まぐれに入れ替わる不安定な世界だ。
唯一、構造が固定されているのは“階層の隙間”――冒険者たちの拠点となる「冒険者の街」。
「まずは、そこを目指す」
レンは背に背負った剣の重みを確かめながら、視線を遠くへと向けた。草原の中には背丈の高い草が点在しており、視界を遮っている。中に何が潜んでいてもおかしくない。
そして、ここには魔物が巣食っている。情報によれば、小型のウサギ、中型のイノシシ、大型では蛇のようなものが現れるという。
「一匹なら問題ない……」
レンは口元を引き締めた。彼はそれなりの経験を積んだ冒険者だ。だが、問題はこの階層特有の“音”の習性。
ここに棲む魔物たちは、鳴き声で仲間を呼ぶ。
つまり、一体と交戦すれば、周囲の魔物が一斉に集まってくる可能性がある。無闇に剣を抜くわけにはいかない。
「慎重にいこう」
腰を落とし、足音を殺しながら草をかき分けて進む。風が吹き抜け、草がさわさわと揺れた。だが、耳を澄ませば――風とは違う、何かが地面を這う音が聞こえた。
“カサリ”。
レンの動きが止まる。反射的に剣に手をかけた。蛇か。大型個体なら、いまの装備では分が悪い。
――今は戦う時じゃない。
彼の目的は階層の突破だ。冒険者の街へたどり着き、《願いの泉》の聖薬を手に入れること。その薬こそが、妹の病を治す唯一の希望だった。
「……待ってろ。必ず薬を手に入れる」
呟きは自分への誓い。
レンの妹は、魔力増加症という難病にかかっている。街の医師たちもお手上げで、助かるにはこの迷宮の深部にあるという“泉の薬”を手に入れるしかなかった。
足を一歩、また一歩と踏み出す。草をかき分けるたび、視界が開けていく。遠くに、いくつかの巨石が並んでいるのが見えた。冒険者の間で目印とされているランドマークだ。あそこを越えれば、次の安全地帯にたどり着けるはず。
風がまた吹いた。草が波のように揺れ、まるで道を示すかのようだった。
レンは深く息を吐くと、その波に逆らうように歩き出す。
――迷宮は、まだその牙を剥いていなかった。
だが、それも束の間の静けさにすぎない。
レンは知らない。すでに彼の動きを見つめる影が、草原の奥でひっそりと息を潜めていることを――。