DD世界だと思ったらリリなの世界でした。いや両方の世界が混ざり合った世界でした!!   作:バター犬

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興奮するな!

「温泉……?」

 

放課後、靴箱の前で僕を待っていたすずかが、ほわっと微笑みながら、いきなりそう言った。

 

「え、温泉って……あの温泉?」

 

「うんっ。ねぇ太郎くん──

 今度の休み、ふたりで行かない?」

 

すずかは、まっすぐ僕を見上げて、にっこり笑った。

 

ドクンッ!!

 

(ちょ、ちょっと待って!? い、今、“ふたり”って言ったよな!?)

(えっ……もしかしてこれ……デートのお誘い──!?)

 

顔が一気に熱くなる。鼓動が耳まで響くくらいに跳ね上がった。

 

「いや、でも/// 僕たちまだ中学生だし、その……ふたりだけって、それは……その、///」

 

あたふたと視線を泳がせる僕を見て、すずかはキョトンと首を傾げたあと、あっさり言った。

 

「あ、違うよ? お姉ちゃん達も来るから!」

 

「ですよね~~~!!!!」

 

学校の帰り道、すずかに呼び止められ、温泉に誘われた。

 

最近いろいろありすぎたし、たまには湯にでも浸かってのんびりしたい。

そんなわけで、僕は二つ返事で了承した。

 

──そういえば、イクスがアザゼルに実験材料としてグリゴリに連れて来られてから、

別にこれといって用もなかったし、結局一度も会いに行ってなかったなぁ。

 

まぁ……なんかめんどくさかったし、あいつも鍛えられて忙しそうだったし。

 

「じゃ、今度の休みに私の家に集合で!」

 

「りょーかい!」

 

 

──そして、当日。

 

 待ち合わせ場所のすずか邸に到着すると、

 その前には、どっしりとした黒塗りのワゴン車が停まっていた。

 

(おぉ……デカい……なんか任務感ある)

 

 見上げるような車体に、僕はついゴクリと喉を鳴らした。

 でも、そんな圧よりも今は――

 

(……いよいよかぁ……)

 

 温泉。

 風呂。

 浴衣。

 ごはん。

 そして──

 

(すずかと、のぶたすと、一緒に旅行!!!)

 

 もうこの時点で、脳内の太鼓がドンドコドンドコ祭りモードに入っていた。

 

 片や、優しくて癒し系のすずか。

 片や、クールで毒舌で、でもたまに優しいのぶたす(月村忍)。

 タイプの違う美女ふたりと温泉旅行なんて、少年誌だったら3巻分くらいのイベントである。

 

(マジでこれ、思春期男子の夢詰め合わせパックじゃね!?)

 

 お風呂イベント、浴衣イベント、ワンチャン混浴イベント(幻)……

 そんな妄想を膨らませつつ、僕は心の中でガッツポーズを決めた。

 

「……わー、本当に行くんだこれ」

 

 ぼそっとつぶやきながら、玄関の門をくぐる。

 すずかが手を振って、僕を待っていた。

 

「太郎くん、こっちこっち!」

 

「ういー……」

 

 気の抜けた返事をしつつ、手を軽く振って近づく。

 するとすずかが「あっ」と何かを思い出したように、ぽんと手を打った。

 

「あ、そうだ。なのはちゃんたちに太郎くんも来るって言うの忘れてた!」

 

「……は?」

 

 言葉を失った。

 

「いやいや、それけっこう大事な情報じゃない? あの人たち、僕のこと嫌いじゃなかったっけ?」

 

「だいじょーぶだいじょーぶ♪ みんな仲良しだし!」

 

 超軽い。

 というか、そんなテンションで押し通していい案件じゃないだろそれ。

 でも反論する前に、僕はワゴン車の後部座席に押し込まれていた。

 

 中にいたのは、見事なまでのフルメンバー。

 

 高町なのは、フェイト・テスタロッサ、八神はやて、アリサ・バニングス。

 運転席には高町恭也。副座席にすずか。

 

 そして、乗り込んできた僕。

 

 ……全員、僕を見た瞬間、気まずそうに目を逸らした。

 

「あっ……」って顔が、全員に同時発生した気がする。

 

(まぁ、知ってたけどね)

 

 僕は無言で一番後ろの席に腰を下ろす。

 隣は――よりによってアリサ。

 

 目が合った瞬間、アリサがわざとらしく眉をひそめた。

 

「……なによ」

 

「朝からテンション低い顔してるなーって」

 

「はあああ!? なんであんたにそんなこと言われなきゃなんないのよ!!」

 

「いや、元からだし」

 

「っはあぁぁ!? いま“元からブス”みたいな言い方しなかった!? してたよね!?」

 

「……捉え方が被害妄想すぎない?」

 

「うっっっさいわね!!」

 

 アリサの声がワゴン車内に響く。

 前方から、なのはが「はは……」と乾いた笑いを漏らす。

 

 フェイトは窓の外を見ていて、はやては「まぁまぁ」と手を振ってなだめていた。

 

「別に喋りたいわけじゃないし。黙って座ってるだけだし」

 

「だったら最初から黙ってなさいよ!! 口動かす暇あったら脳を回転させなさいよバーカ!!」

 

「……朝からフルスロットルだな、君」

 

 僕がぼそっと言うと、アリサの顔が真っ赤になりながら「ムキーーーーッ!!」と悲鳴のような声を上げた。

 

僕は窓に頬杖をついて、本気でめんどくさそうに眉間を押さえた。

(……これ、まだ出発して10分も経ってないよね……帰りたい)

 

 車はすでに町を抜けて、緑の多い山道へと差し掛かっていた。

 

 だけど、静かじゃない。

 うるさい。めっちゃうるさい。

 

「それでね~、アリサったら昨日お母さんとケンカして~」

 

「うそ!? 珍しくない? アリサが反抗期モードなんて!」

 

「ち、ちょっとやめなさいよ! あれは正当な主張よ正当な!」

 

「アリサ、顔真っ赤~。かわいい~♪」

 

「ちょ、フェイトまで乗らないでよ! もう!」

 

 なのは、フェイト、すずか、はやて、そしてアリサ。

 五人のテンションがやたら高い。

 女子トークが全開すぎて、車内の酸素が華やか成分で埋め尽くされていく。

 

 ……にもかかわらず。

 

 僕には、一言も、振られない。

 

(……おかしいな。確か、僕もここに座ってるはずなんだけど)

 

 誰かが僕の存在に触れるでもなく、会話に混ぜるでもなく、

 まるで空気清浄機かなんかと同じ扱いを受けていた。

 

「太郎くん、昨日なんかしてた?」とか、

「そういえば一緒に来るってすずかちゃんが言っててさ~」とか、

そういう無難なパスすら、誰も出さない。

 

 そのくせ、テンションはどんどん上がっていく。

 

「でさー! 温泉入るならやっぱりリンゴ牛乳でしょ!」

 

「わかるー! あとコーヒー牛乳とプリンは必須!」

 

「アリサは一番風呂狙う派だよね~」

 

「えっなにその偏見!? まぁそうだけど!」

 

 全員笑ってる。

 楽しそう。

 僕以外。

 

 僕はひとつため息を吐いて、再び窓の外に視線を投げた。

 風景はどんどん自然に染まっていくのに、

 僕の心はどんどん灰色になっていく。

やがて車は、山あいの温泉街へと入っていく。

道沿いの紅葉が鮮やかで、建物はこぢんまりとしてるけど、味のある木造旅館だった。

 

旅館の玄関をくぐった瞬間、ふわっと畳の匂いと、

ロビーの片隅に置かれたポットから立ちのぼる湯気が出迎えてくる。

 

(……あ、これ、思ってたよりちゃんと“旅行”してる感じだわ)

 

 ただし。

 

(……部屋が完全に“罰ゲーム”なんですけど)

 

僕の視線の先、六畳の和室の片隅に――ひとりの男が、すでに無言で荷物を下ろして座っていた。

 

黒髪。無表情。筋肉質。無口オーラが服を着て歩いてるタイプ。

 全体的に“喋りかけたら即アウト”みたいな雰囲気をまとっている。

 

 名前は、高町恭也。たしか、高町なのはの兄で……えーと、のぶたすの彼氏

 

(……いや、誰かの彼氏とか以前に、普通に怖いんだけどこの人)

 

 その顔、職質受けてる時の目だよ。

 

 駅のホームで無言で立ってたら誰も近づかないタイプだよ。

 

 とりあえず、空気を少しでも和らげようと、僕は最低限の挨拶を投げてみた。

 

「……どーもぉ、鈴木太郎でーす」

 

 できるだけ笑顔で、角を取った言い方を心がけたけど――

 

 彼は、ちらっとこちらに目を向けただけで、何も言わなかった。

 表情も変わらず、まるで僕の言葉が空気音か何かだったかのような反応。

 

(え、返事もないの!?)

 

 怖っ。

 

 思ってたよりヤバいぞこの人。こっちが喋ったら負け、って空気がすでにできてる。というかこの部屋、酸素薄くない? 気のせい?

 

 僕はそっと、誰にも聞こえないぐらいの深いため息を吐いた。

 

 

 

 

(うわ、テンションの差ェ……)

 

僕は布団の端に腰を下ろして、とりあえず深く息をついた。

空気は静か。いや、静かすぎた。

 

 障子越しに聞こえるのは、旅館のスタッフの足音や、遠くの川のせせらぎだけ。

 部屋の中では――誰も、何も、言わない。

 

 恭也は相変わらず、無言で正座して窓の外を見ている。

 僕は、ただそれを横目で見ながら、布団の上で変な姿勢をとって時間を潰していた。

 

(……テレビ、ないの?)

 

 ない。

 

(スマホの電波……ギリ圏外?)

 

 圏外。

 

(……なにこの部屋、外界から遮断されてるの? 試されてるの?)

 

 話しかける?

 いや、無理だ。1秒後には返事じゃなくて沈黙が返ってくるってもう知ってる。

 

(くそぉ……これが精神修行ってやつか)

 

 何か言葉を出すたびに、空気が粘土みたいにねっとり重くなるのが分かる。

 ここ、無言の重力場が形成されてる。

 

 時間の感覚がどんどんおかしくなっていく。

 時計を見たくない。怖いから。

 

 それでも、チラッと確認してしまった。

 

(……うそ、もう夕方!?)

 

 気づけば、外は茜色の空になっていた。

 チェックインしてから、3時間以上、一言も会話なし。

 

 ──その時だった。

 

「……風呂、行くか」

 

 恭也が、突然。

 感情ゼロの声で。

 

 あまりにも唐突すぎて、思わず変な声が出た。

 

「は、え、あ、うん!? いきなり!?」

 

 声のボリュームとテンションだけが、空気と噛み合ってなかった。

 

(てか、その前になんかこう……“仲良くなろう”って前フリとかないの!?)

 

「え、それって……“一緒に”って意味で合ってます……?」

 

「……ああ」

 

 即答、そして無表情。

 

(速いな!? 選択肢AもBも出てないんだけど!?)

 

「は、え、あ、うん? いきなり!?」

 

 反射で意味のわからん返事をしつつ、思考はぐるぐる回転。

 ……いや、もうちょい段階踏まない!? まず名前とか聞くとこじゃないの!?

 

 思考がフリーズしそうになる中で、恭也は黙って浴衣の帯を締め直し、スタスタと部屋を出ていく。

 

(……沈黙の3時間からの風呂って……もはや拷問だろ……)

 

 僕はゆっくりと立ち上がり、脱衣所でのさらなる沈黙に備えて、心の準備を始めた。

 

その背中に、何か言うべきかと悩んだ末に、とりあえず声をかけた。

 

「えっとー……あの、恭也さんって、無口系男子だったりします?」

 

 振り返らずに返ってきた答えは、たった一言。

 

「……話す必要があれば話す」

 

「こえぇぇぇぇ……!」

 

 思わず口から出た本音に、彼はやっぱり振り返らなかった。

 

(なのはちゃん、よくこんな兄と普通に会話してんな……)

 

 そんなことを思いながら、僕はちょっとだけ脱衣所での沈黙タイムを覚悟したのだった。

 

 「…………」

 

 浴場内に響くのは、ぽこぽこと湯の音だけ。

 しゃべらないし、しゃべる空気でもない。

 

 裸の付き合い? 知るか。

 こっちはただただ気まずいだけだ。

 

(……まさか温泉に来てまで、無言の圧力と風呂入ることになるとは)

 

 隣には、無表情・無口・圧迫感・空気密度120%の高町恭也。

 言葉を交わしても、すべて即オチ2コマで会話が終わる仕様だ。

 

 ちらっと横を見ると、彼は変わらず黙ったまま、微動だにしない。

 ……なんかずっと僕のこと見てる気がするけど、気のせい?

 

(え、なに? 僕の裸、そんなに面白い?)

 

 正面から見るのは気まずいので、とりあえず湯船にちゃぽんと入って、体勢を整える。

 

「……いい湯ですね!」

 

 沈黙が苦しすぎて、つい反射で出た軽口。

 バラエティ番組のロケみたいなテンションだが――

 

「……そうだな」

 

 機械音声みたいな返事が返ってきた。

 うん、リアクションは一応ある。でも人間味ゼロ。

 

 しばらく、静かな湯の音と、湯気がただただ体を包む時間が流れる。

 その間も恭也はずっと、こっちを見ていた。

 

(……いや、まじでなに? なんでそんなにガン見してくるの?)

 

 視線がじわじわと、プレッシャーになってくる。

 何かを探ってるような、観察されてるような、そんな気配。

 

 すると突然、恭也が口を開いた。

 

「……太郎」

 

「は、はい」

 

 呼ばれると同時に、空気が一段冷えた気がした。

 

「変なことを言うようだが……お前から、“匂い”がする」

 

 声のトーンが低い。

 それだけじゃなく、言葉の端に“探るような鋭さ”が混じっていた。

 

「匂い……って、え? 臭いってことですか? 僕、ちゃんと洗ってますけど!? 男の子だし!?」

 

「……血の、匂いだ」

 

 ずしりとした沈黙。

 風呂の湯気すら、一瞬だけ重く感じる。

 

(……え、なにその急に不穏な言い方)

 

 温泉の湯がぬるく感じるくらい、背筋がぞわっと冷えた。

 

「……戦い慣れた者、あるいは……死の近くにいた者。そういう類の匂いだ」

 

「…………ほう?」

 

 一瞬、何言ってんのかマジでわからなかった。

 

「最初は気のせいかと思った。だが、今日、改めてお前を見て──確信した。

 その筋肉の質……実戦に慣れてる身体だ。普通じゃない」

 

「え、あの、ええと……」

 

 僕は戸惑いながら、自分の腕を見た。

 ちょっと細い。白い。別にマッチョじゃない。

 

(どこが戦い慣れてんのかな……)

 

 おそるおそる、自分の二の腕をくんくんと嗅いでみる。

 

「血の匂い……って、これ……僕、お風呂入る前に生き血でも浴びましたっけ?」

 

 もちろん冗談。でも、恭也は一ミリも笑ってない。

 

「ふざけるな。お前自身は気づいていないかもしれないが……“裏の空気”を纏っている。

 この世界にいる者とは違う、何かがある」

 

(うわ、でた。中二系分析)

 

 脳内で思わずツッコミが出る。けど、目の前の恭也は本気だ。

 その目は、刀を抜く直前みたいに、静かに鋭く研ぎ澄まされていた。

 

「もう一度訊く。お前は……何者だ?」

 

「………」

 

《どないすればいいと思うよ!?》

 

 ぱっつぁんに思わず心で話しかける。

 

ーーーいちいち俺に聞くな! 適当に話し合わせとけ!

 

(ツンデレかよ!)

 

 ……まぁ、でもたしかに。適当に合わせとけばなんとかなるか。

 

(でもさ、これ、軽く地雷原踏んでないか?)

 

 僕は、何かを悟ったような顔で、肩をすくめた。

 

 「僕のことはそうですね──のぶえもんに聞いてくだせぇ~!」

 

 そう、全力の丸投げ。責任回避のプロ技。

 僕は涼しい顔で言い切ったが、内心では警報が鳴り響いていた。

 

(ここで変にごまかすと、マジでこの人、斬りかねん……)

 

 ほんの一瞬、恭也の眉がピクリと動いた。

 無表情の中に、わずかな変化。けれど、それが逆に怖い。

 

「君の口からは、言えないことなのか?」

 

 低く静かな問いかけ。

 まるで、刃物の背でじわじわと首筋をなぞるような圧がある。

 

 ……やばい、この人、マジで斬る気だ。

 

「僕の口からはなかなか……守秘義務というか暗黙のルールというか!」

 

 笑顔全開。声だけは軽快。でも、汗が背中を一筋伝った。

 恭也の眼が、静かに、だけど確実に僕を見据えている。

 

 その目は、「判断を誤れば、次の瞬間には刃を抜く」――そんな空気すらあった。

 

(ちょっと待って……! これ温泉ですよね!? 裸で対峙する緊張感じゃないですよね!?)

 

 僕はそっと湯に沈み直し、ぽふっと泡を立てた。

 

「……はは、温泉って、体を洗い流す場所ですよねぇ。

 殺気とかそういうの、持ち込まない方向でお願いしますね?」

 

 それでも恭也は、視線を逸らさない。

 その視線が何かを測るように、沈黙の中で研ぎ澄まされていく。

 

(な、なんで!? 風呂なのに全然リラックスできない!)

 

 温泉の効能:心身の疲れを癒す。

 今の僕:精神的に追い詰められて死にそう。

 

 結局、恭也は何も言わずに立ち上がった。

 そのまま、バスタオルを手に取り、浴場を出ていく。

 

 最後に振り返ることもなく、ただ足音だけが静かに遠ざかっていった。

 

(……こっわ)

 

 僕は肩まで湯に沈みながら、小さくため息をついた。

 

「……あれ絶対、“報告案件”になったやつだよね……」

 

 ぽつりと呟いた声だけが、静かな湯けむりに吸い込まれていった。

 

ーーーおい、月村忍がペラペラ喋ったらどうすんだ?

 

だいじょうV! 後でちゃんとメールする!

 

ーーー信用できねぇ……

 

もし喋ったら、その時は──あの男の記憶を消せばいいだけだし!

 

 恭也が無言で出ていき、浴場には僕ひとりだけになった。

 湯けむりがふわふわと漂い、静かな時間が流れる。……と思いきや、僕の目は自然とある方向を見つめていた。

 

 男湯と女湯を隔てる、あの壁。

 

(……まぁ、乗り越えようと思えば乗り越えられるよね。うん)

 

 つい、そんなことを思ってしまうのが中学生男子の悲しい性。

 向こうには、あの黄金メンバーがいる。

 高町なのは、フェイト・テスタロッサ、アリサ・バニングス、月村すずか、そしてのぶえもん。

 

(──でもさぁ)

 

 僕は肩まで湯に浸かりながら、真顔で思った。

 

(みんな、発育よすぎなんだよね……)

 

 そう、全員ボリューム満点。

 水面に浮かんだだけで波紋を生むレベルの、凶器的スタイル。中学生にしてはみんな発育やばい。

 

 一般的な男の気持ちを代弁するとするとありがたいことには違いない。

 ……ただ。

 

(僕、貧乳派なんだよなぁ……)

 

 何かを抱えて生きてきたわけじゃない。

 でも、僕の性癖はこの瞬間、誰に語られるでもなく、明確になっていた。

 

(あの壁の向こうに、Aカップが一人でもいたら……考えたかもしれないけど……)

 

 現実は違った。

 そこに待っているのは、豊穣、暴力、ボリューム。

 

 僕は、湯からそっと立ち上がると、壁に向かってひとつだけ深く頭を下げた。

 

「……ごちそうじゃないので、失礼します」

 

 理性でも羞恥でもない。

 それは、**ただの“こだわり”**だった。

 

 静かに浴場を後にする僕の背中に、湯けむりがどこか寂しげに揺れていた。

 

 

 

■ ■ ■

 

 

 

 風呂から戻って、廊下を歩いて自分の部屋へ。

 ポカポカした体に夜風が気持ちいい。浴衣の裾をひらりとなびかせながら、僕はのんきに鼻歌なんか口ずさんでいた。──が。

 

 部屋の前に着いた瞬間、聞こえてきたのは、思いがけない“声”だった。

 

「恭也……その……やっぱり、今日はゴムは……らいわ」

 

「……忍。お前がそう言うなら、俺は……覚悟を決める」

 

 え?

 

「でも……こんな旅館で、ほんとにいいの?」

 

「構わない。むしろ……静かで、神聖だ」

 

 えええええ!?!?!?

 

 なんか……なんか今、“儀式”始まりそうなんだけどぉぉぉおお!!??

 ちょっと待って、なんで僕の部屋で!? ねえ!? ここ僕の部屋だよね!?

 

(いやいやいやいや! もっと気ぃ使って!?

 なんで! 旅館! 和室! 修学旅行感満載の部屋で!

 “神聖”とか言ってるの!? どこが聖域!? ここ湯けむり地獄じゃん!?)

 

 僕は扉の前で完全停止。息を荒くして耳を澄ませる。

 

「……それじゃあ、横になって。私が先に……」

 

「う、うん…しのぶ……?」

 

(オワッタァァァァァ!!)

 

 思考が崩壊しそうだった。

 ツッコミたくても中に入れない! でもこのままじゃ僕の布団は孕ませ空間にされてしまう!!

 

(いやマジで、ちょっと待って!? それ、僕の枕使ってない!? やめて!?事後の枕使うのやだよー)

 

 僕は扉の前でそっと、そっと壁に寄りかかり、心から願った。

 

 どうすればいいのか分からず、僕は部屋の前でうずくまっていた。

 頭を抱え、現実逃避をしながら心の中で何度も叫ぶ。

 

(ちょっと待ってよ……なんで僕と高町兄の部屋で……夜の儀式……!? のぶたすなにしてんの!?)

 

 すると、廊下の角から誰かがひょこっと顔を出した。

 

「あっ、太郎くん! どうしたの、部屋の前で頭抱えて?」

 

 すずかだった。

 部屋着姿で、濡れ髪をタオルで拭きながら、首をかしげて僕を見ている。

 

「あ、すずか。今、すごいんだよ。僕の部屋で、のぶたすが……高町兄と、子作りの真っ最中なんだよ。

 ──夜の一族だけに!!」

 

 ウィンク付きで軽く決めたつもりだった。

 が、すずかは一瞬でその意味を察して、まるで時を止められたかのように固まった。

 

「……えっ……えぇぇ太郎の布団で!? お姉ちゃんが!?  な、なんで……!」

 

 顔は真っ赤。

 目は見開かれ、そして震える唇が絞り出したのは。

 

「……もうすぐ……おばさんかな……」

 

 遠い目をして呟いたすずかを見た瞬間、僕の腹筋は限界を迎えた。

 

「ぷ、ぷぷぷっ……! この年でババァ宣言って、おま、まだ中学生じゃん。・・・・て、ごめん、なんで消火器持ってんの!? やめて!!」

 

 すずかの手には、どこからか召喚された赤い消火器ががっちりと握られていた。

 僕は慌てて距離を取りながら、必死で笑いをこらえる。

 

「だってだって、リアルに“未来を察した”顔してたじゃん! その冷静な“もうすぐ叔母”感が耐えられなかった!」

 

「太郎くんのばかぁぁぁ!!」

 

 その叫びとともに、すずかが廊下の隅にあった業務用の消火器を片手で振り上げた。

 

(……片手!?)

 

 あまりにも自然すぎて、一瞬、ただの小道具かと思った。

 でも違う。

 それは本物だった。鉄製の、成人男性でも両手でやっと扱える代物。

 

 それを――

 すずかは片手で、何の躊躇もなく、僕の脇腹へスイングした。

 

 ドガァッ!!

 

「ぶえっ!!?」

 

 クリーンヒット。

 僕の体は軽く宙を舞い、廊下をスライディングして5メートル。

 途中で床にバウンドし、きれいな回転を描きながら止まった。

 

「ちょっ、ま、待って……話せば、わかっ――」

 

 ゴン!!

 

「わからせるタイプで行きます!!」

 

 そこから始まったのは、片手による超高精度な連撃。

 

 「ボガッ」

 「ベキッ」

 「メゴッ」

 音がもはや打楽器。

 

 すずかは、力んでいない。

 表情すら変わらない。

 淡々と、まるで掃除でもするかのような動きで、殴る。

 

 殴る。

 また殴る。

 更に殴る。

 合計12発。(太郎調べ)

 

 そして、最後の一撃。

 “ゴジュッ”という不穏すぎる音を最後に、鉄の塊はとうとう――

 

 「ぺしゃんこ」になった。

 

 消火器というより、

 もはや“赤い金属のタペストリー”。

 

 そのとき。

 

 すずかは、ようやく動きを止めた。

 

 そのまま腕を下ろし、へしゃげた消火器を持ったまま立ち尽くす。

 

 数秒、静寂。

 

 そして、ふぅ……と一つ、深いため息をついた。

 

 さっきまで片腕で消火器振り回してたとは思えない、涼しい顔で、優しい声で、僕に言った。

 

「……しょうがないな。太郎くん、うちの部屋来る?」

 

「えっ、マジで? いや、ありがたいけど……さっきボコられたばっかで、普通に怖いんだけど」

 

 軽口のつもりだったけど、すずかの口元がぴくっと動いた気がして、僕は慌てて言い直した。

 

「うそうそ! 行く行く! いやほんと助かる〜。じゃ、すずかの布団借りるね?あ、もちろん全裸でダイブするから! 体温と僕の残り香、た〜っぷり染み込ませておくね♡朝には“太郎のにおい〜♡”って抱きしめたくなるかもよ?」

 

 冗談で言ったつもりだった。軽く流されると思ってた。

 

 ……が。

 

「……は?」

 

 すずかが、ゆっくりと振り返る。

 その目が、一瞬ピクリと揺れた。

 

 そしてその視線が――

 手に持ったへしゃげた消火器に向けられる。

 

 ギュッ……

 

 わずかに、グリップに握力がこもる音がした気がした。

 鉄がミシ……と軋む幻聴すら聞こえた。

 

(……あっ、やりすぎた)

 

「うん、うん違うの。違うから!今のはその、ブラックジョーク?っていうか、ボケとツッコミの文化的継承? だよね?ね?」

 

 僕が必死に取り繕う中、すずかはそっと吐息をつく。

 

 

 僕は満面の笑みで両手をあげて降参ポーズ。

 

 すずかは、しばし無言でこちらを睨んでいたが――

 

 ふぅ、と息を吐き、やがてあきれたように笑って、くるっと背を向けた。

 

 でもその手は、まだ消火器を離していなかった。

 

 

 その笑顔に、なんとなく……背筋がぞわっとしたのは気のせいにしたい。

 

(いや……こわ……ついさっきまで“消火器で断罪”してた子が、なんでこんな普通に誘ってくるの……?)

 

 でもその背中は、どこか楽しそうでもあって。

 

 こうして僕は、

すずかたちの部屋へと──保護観察付きで、文字通り「連行」されることになった。

 

 歩きながら、すずかの手にはまだアレが握られていた。

 ぺしゃんこになった赤い消火器。

 ……いわば、僕に対する「実行猶予中」の証だ。

 

(いやホントに、この子こわいわ……)

 

 そして、目的地。女子部屋の前。

 

「じゃ、太郎くん、ここ。入っていいから」

 

 すずかが淡々とふすまを指差す。

 言い方は穏やかだけど、逆らったら命はない雰囲気だけがやたら濃かった。

 

 僕は一歩、ふすまの前へ進み──

 そっと、それを開けた。

 

「……なんか、僕、入っていいのかなここ……」

 

 こっそりと開けたその先には──

 

 見渡す限り、女子の園。

 

 そこには、浴衣姿の高町なのは、フェイト、はやて、アリサ、すずか。

 枕を並べて、談笑しながらお菓子をつまみ、膝にぬいぐるみを抱えていたり、

 髪をとかしてもらっていたり。

 

 それはまさに――

 男子禁制・無言の結界が張られた空間。

 

全員の顔が、ぴたっとこちらを向く。

 

 そして、しばしの沈黙。

 

 部屋の空気が、すっと冷えた気がした。体感で、マイナス3度。

 

 はやてはフェイトに絡みついて転がっており、フェイトは半泣きでなのはにしがみつき、なのはは苦笑しながらも懸命にフォロー。

 

アリサは、その巻き添えを食らいながらも、目に見えて僕との距離を取りにかかっていた。

 

(……え、てか何この状況? 人間関係が“物理”でクラッシュしてんだけど……)

 

(てか僕の入る余地……どこ?)

 

 視界に広がるのは、混沌とした布団の山と崩壊しかけた関係性。

 女子の空間とは思えないほど、静かな戦場の空気が流れていた。

 

 これはもう、入らない方がいいやつだ。

 

 そう思って、僕はそっと後ろへ一歩――

 逃げるように足を引いた、その瞬間。

 

「えいっ♪」

 

背後から、すずかのにこやかな“手”が、そっと僕の背中に触れた。

 

 ぱっと見は本当に軽く。まるで「どうぞ♪」って促す程度の優しさ。

 

 ……なんだけど。

 

「うぉっ……わ、わああああっ!?」

 

 背筋にずしりと乗る重圧。

 ほんの一押し――のはずが、腰から膝までが勝手に屈伸して突っ込んでた。

 

 完全に制御不能。足が勝手に動いた。

 

 どーーーん!!

 

「ふぎゃっ!」

 

 ──僕は華麗に、はやてにダイブした。

 

「ちょ、ちょい待ちっ!? な、なんやいきなり!?」

 

「ごめっ……ちょ、物理的に押された! 僕、悪くない! すずかが! すずかがぁ!」

 

 混乱の中で弁解する僕を、はやてはぱちぱちと瞬きをしながら見下ろした。

 

 だがこの状況──

 すべての責任は、僕を突き飛ばしたすずかにあると言っていい。

 

(……ってことは、これ……触っても、怒られるのはすずか……?)

 

 僕はふと、とんでもないことを思いついてしまった。

 

(合法セクハラ、成立するんじゃね!?)

 

 そして、倒れ込んだ先の――はやての胸元から、ふわりと香ってきた。

 

(……ッ、なにこれ……やば……)

 

 甘い香り。

 だけど市販の香水みたいな作られた匂いじゃない。

 柔らかい布の匂いと、髪から漂うフローラル系シャンプー、そして……女の子そのものの体温を帯びた“リアル”な香り。

 

(これが……これが女子の部屋の空気……!)

 

 思わず、スゥゥゥゥ……と深く吸い込む。

 鼻孔から脳まで、思考を麻痺させる快感が突き抜けた。

 

 ――が、止まらない。

 

 スーハーッ……スーーーーーハーッ……

 

(あぁっ、これ洗いたてのシーツの匂いじゃん……いや違う……それだけじゃない……これは……!)

 

(女の子の生活臭が混ざってるッ……! 日常と非日常の狭間にある、究極の香り……!!)

 

 自分でも意味がわからないことを脳内で語りながら、

 気づけば僕は――

 顔を完全にうずめていた。

 

 布団とパジャマの間、鎖骨のくぼみに鼻を押し付けて、

 さらに腕をすり寄せるように伸ばし、なぜか脚まで無意識に絡め――

 

 そして、

 

「………………」

 

 はやてが無言でフリーズしていた。

 

 顔の引きつり方が、尋常じゃない。

 眉もピクリとも動かない、怒りを通り越した“無”の表情。

 

「なあ……太郎くん」

 

 はやての顔がピキピキと引きつっていくのがわかる。

 

「……うち、まだ異性にも触られたことないんよ、人生初の押し倒されがコレてどないやねん!!」

 

「うん、言いたいことはわかるよ。でもほら、すずかが押したから。

 全部すずかのせいだよ」

 

「それで許されると思っとるんかあああ!!」

 

「え、思ってた……」

 

「スーハーしてる場合かぁ!!」

 

「いやだって! 匂いがすごい……その、いい匂いすぎて……!」

 

「──そろそろどいてくれるか太郎くん!!」

 

「……あっ、うん……どきたいけど……ハァハァ……」

 

 はやてが眉をぴくりとつり上げた。

 

「なぁ太郎くん、もしかして……うちのこと、好きなん?」

 

「いや全然。胸の小さい人がタイプだもん」

 

「素で返すなやあああああ!!」

 

「いや、関西人もどきに言われたかねーわ」

 

「心は関西生まれなんじゃ!! はよどけやぁ!!」

 

「はいはいっと」

 

 僕はのそりと体を起こし、はやての上からどこうとした――その時だった。

 

 

  ドクン……ドクン……!

 

 心臓が、背中の奥が、熱を帯びるように脈打っていた。

 さっきまでの冗談交じりのやりとりが、まるで遠い記憶みたいに霞んでいく。

 体が、ぐらりと傾いた。

 

「あっ……」

 

 支えが利かず、膝が崩れる。

 次の瞬間、僕の顔は――

 

 はやての胸元へ、ストンと落ちた。

 

「きゃっ!?」

 

 浴衣の合わせが甘かったのか、彼女の胸元は思いのほか開いていて、

 顔は、その柔らかく膨らんだ二つのお山の間にぴたりと沈んだ。

 

 あたたかくて、やわらかくて、ちょっと汗ばんでて。

 そして、ふわっと鼻をくすぐる甘い匂い。

 

 石鹸と、湯上がりの肌の香り。

 それは、思わず深く吸い込んでしまいたくなるほど、心地よくて。

 

 すぅ……と、反射的に鼻から吸った瞬間――

 

「……っ、は……」

 

 ほんの一瞬、安堵した。

 だけどすぐに、全身を襲う奇妙な苦しさに変わった。

 

 息が詰まる。

 肺が苦しいんじゃない。

 内臓の奥、何か“得体の知れないもの”に掴まれているような、そんな感覚。

 

「う……っ、く、るし……!」

 

 顔を上げようとしても、首に力が入らない。

 背中の奥がビリビリと痺れて、動けない。

 

「太郎くんっ!?」

 

 すずかの声が遠くで響いた。

 はやても驚いたように僕を支えようとするけど――

 

 僕は、ふっと体を離して立ち上がった。

 

「どうしたの? なんか顔色、悪いよ?」

 

「だいじょーぶだよ~! ちょっとトイレ行ってくる~!」

 

 なんとか笑顔を作り、僕はそっと部屋を抜け出した。

 

(ぱっつぁんヘルプゥ!! 心臓が……クルチィ~~~~~ッ!!)

 

ーーー今それどころじゃねーんだよ!! ナハトが暴れ始めやがった!

 今、俺も全力で抑え込んでんだよ!余裕ねぇっての!!

 

(えっ!? なにそれ!? 僕の中でなにが起きてるの!?)

 

 思わず精神世界にダイブする。

 

 意識が沈み込んだその先では――

 

 巨大な紫のオーラをまとった黒い大蛇が自身の鱗から湧き出す無数の黒蛇とともに、暴れ回っていた。

 その巨体を、ぱっつぁん自身のタコ足で必死に押さえ込んでいる。

 

「おっせぇぞ太郎!! これ以上こっち来たら、俺らまとめて崩壊だぞコラァ!!」

 

(なにそれ!? ナハト、どうなってんの!?)

 

  混乱のまま、僕は現実世界へと意識を引き戻した。

 

 ──ナハトが暴れ出した。

 ぱっつぁんが一人で抑え込めないレベルで。

 

 ……もう、これ以上僕の手には負えない。

 

(……あー……これはもう……)

 

 これはアザゼル案件だ。

 

 ――結局、温泉旅行を途中で抜けることになった。

 僕はそのまま、グリゴリの施設へ向かうハメになったのだった。

 

 

 魔法陣を介して、無事グリゴリの施設に転移した僕は、

 胸の奥に残る重苦しさを必死にやり過ごしながら、

 とにかくアザゼルのもとへ向かおうとしていた。

 

 (……ヤバい……まだ、ドクドクしてる……)

 

 そんなときだった。

 通路の先から、見覚えのある影がこちらに突っ込んできた。

 

「オッス! おっひさ──ぶへぁッ!!」

 

 飛び膝蹴り、炸裂。

 

 ちょうど肺の上に命中して、胸の痛みが倍プッシュ。

 

「ぐ、はっ……ちょっ……! 息でき、ないっ……!」

 

 顔を押さえてうずくまる僕を、

 当然のようにイクスは踏みつけながら怒鳴りつけてくる。

 

「何なのよ! あれから私のこと放置して! 普通に『おっひさー』とか言ってんじゃねぇよコラァ!!」

 

「ひ、ひどい! ひどいわ! お母さん……もう知らない……グハッ」

 

 冗談混じりに返しながらも、呼吸が整わない。

 体の内側が焼けるように熱い。

 でもそれを悟られたくなくて、なんとか笑う。

 

「わ、わすれてたわけじゃないよ……

 いや、ほら、タイミングが……あと、すずかのせいだから……ッ」

 

「すずかのせいにすんなぁぁあああッ!!」

 

 ズリリィッ!

 

 尾てい骨に追加ダメージ。

 

「うぼあああああ!? 違うのっ、いやほんとに……!あとちょっとでなんか変な目覚め来るからやめてェ!!いつもの口調に戻ってぇ!!」

 

 しばらく踏みつけていたイクスは、ふぅとため息を吐いて足を離した。

 

「ま、いいわ。また後でちゃんと話すから、逃げるなよ?」

 

 そう言って軽やかに去っていった。

 

  僕はうつ伏せのまま、じんわりと痛む胸元をそっと押さえる。

 

(……でも、今は大丈夫。気合でなんとかなる……たぶん)

 

 そう思い込んで、何事もなかったように手を振りながら歩き出す。

 

「ま、いっか。とりあえず、アザゼルのとこ行こう」

 

 そうして僕は、グリゴリの研究棟の奥へと足を進めた。

 

◆ ◆ ◆

 

 研究室に着くと、アザゼルは無駄にカッコつけた姿勢で椅子に座っていた。

 険しい表情をしながら、僕の顔を一瞥するなり言う。

 

「顔色が死んでるぞ、太郎」

 

「元からだよ。最近の中学生は闇が深いんだよ。心の平均気温が常時マイナス2度なんだよ」

 

「くだらん。で、本題は?」

 

 茶化しは即カットされた。

 僕は観念して、胸が苦しいことや、ナハトが暴れてるらしいことを話した。

 

「なるほどな……。──ちょっと横になれ」

 

 言われるまま、診察ベッドのような冷たいシートに仰向けになる。

 僕の胸はまだ、鈍く、奥からジンジンと熱を放っていた。

 

 アザゼルは黙って僕の横に立つと、片手を静かに胸元へとかざした。

 

 その瞬間――

 黒い魔力が指先から広がり、

 さらに銀色の光が蜘蛛の糸のように絡み合っていく。

 

 彼独自の魔術式――肉体と精神の“内奥”を探る、深層解析魔術。

 

 まるでレーザーのように僕の内側を這い、

 細胞の一つ一つ、魂の断層にまで食い込んでくるような感覚。

 

 何かが胸の奥から引きずり出されるような、くすぐったくて、でも苦しくて、

 目を閉じていても、視界の裏で何かが蠢いているのがわかった。

 

 僕の胸に触れていたアザゼルの手が、ビクッとわずかに動く。

 

 何かを捉えた――そう、わかった。

 

「…………」

 

 黙り込んだまま、アザゼルの手がピタリと止まる。

 

 その瞬間、空気が変わった。

 

「お、? なにか、ヤバいとか……?」

 

 僕の問いに、アザゼルは視線だけを動かして静かに答えた。

 

 

 

「さっぱりわからん! テヘ(≧∇≦)」

 

「……」

 

 その瞬間、室内の空気がカチンと凍った気がした。

 

(もしこれがアザゼルじゃなかったら、僕……たぶん単独でラグナロク起こしてた)

 

「なんなのさっきの空気!? 僕、ここで泣くよ!? 脱ぐよ!?」

 

「なんの嫌がらせだ……。……ほら、これやるから」

 

  そう言ってアザゼルが差し出してきたのは、分厚いファイル。

 中を開くと──見知らぬ誰かの顔写真と、それに添えられた膨大な情報。

 

 案の定、“処理対象”だった。

 

「いやいやいや! 僕、今めっちゃ絶不調なんだけど!?

 魔力核の封印ガバガバなんだけど!? 心臓の奥がずっとドクドク言ってんだけど!?」

 

「安心しろ。そのうち落ち着く」

 

「お前の“そのうち”は信用できねぇんだよ!!」

 

「ナハトのことは──まぁ、ぶっちゃけよくわからん」

 

「えぇぇぇぇえええええ!?!?!?!?!?!?」

 

「……だが、暴れてたのはナハトじゃない。ヴリトラの魂の残留意識だ。ナハトの器になってたやつな。ナハトの再生力が刺激になって、自我が目覚めかけてたんだろう。とりあえず、今は封じ直しておいた。たぶん大丈夫だ」

 

「“たぶん”って何だよぉぉぉぉ!? この期に及んで“たぶん”!?!?」

 

 胃がキリキリしてきた。

 胸の奥もまだズキズキしてる。

 なにより、説明が軽い。軽すぎる。

 

「それ、重大インシデントじゃねーの!? 僕、今、身内に裏切られてた感じなんだけど!? 内ゲバ!?」

 

「お前の中身だから、まあ身内ではあるな」

 こっちは死にそうだったのに、この人はさも雑務を片付けるように言いやがる。

 この軽さがアザゼル……いや、むしろ怖ぇんだよアザゼル。

 

「あと、イクスのこと。お前の“妹”ってことにしておいたからな」

 

「……は?」

 

 いま、時空が歪んだ気がした。

 

「ま、戸籍とかはグリゴリのほうで適当にやっといた。

 世間的には、鈴木太郎に“妹”ができたことになってる」

 

「えっ……嘘だろ……!? 永遠の幼女が……合法的に……!? 義妹……だと……!?」

 

 これは──ひんにゅう教の夢、具現化案件。

 

「さっきは悪態ついてすみませんでしたアザゼル様!!

 いや違うな、アザゼル総督! 大魔王! 神!!」

 

「……おい、なんで泣いてんだお前」

 

「べ、別に!? そんなんじゃねーし!! ありがたくなんかないし!!」

 

「はいはい。じゃ、用が済んだらとっとと仕事行け」

 

 そう言って書類をぐいっと胸に押しつけられ、僕はしぶしぶ部屋を出ようとする。

 

 ……けど、ふと足を止めて、扉の前で振り返った。

 

「そういえばさ、イクスって、ここで何やってんの?」

 

 問いかけに、アザゼルはぼんやりと答える。

 

「あいつなら──俺が作った人工神器《閃光と暗黒の龍絶刀・プロトタイプ》の調整も兼ねて、

 今はバラキエルに鍛えてもらってる」

 

「……またすごい名前のやつ出たな……」

 

 僕は思わずつぶやいた。

 

 バラキエルさん――数回しか会ったことないけど、

 グリゴリの中で唯一『なぜ堕天したのかわからない』レベルの人格者。

 笑顔も爽やかだし、対応も穏やか。

 ……でもそんな人のもとでイクスが修行してるって、逆に怖くね?

 

(というか、《閃光と暗黒の龍絶刀プロトタイプ》って……名前だけで既に完結してるんだけど!?)

 

 そんなモヤモヤを胸に抱えたまま、僕は夜の街へと駆け出した。

 

「……あっ」

 

 空を見上げて、はっとする。

 

「温泉……完全に忘れてた……」

 

 肩を落としながら走るその背中には、

 グリゴリの書類と、新たな“妹”と、そして“未処理の温泉フラグ”が、

 ずっしりとのしかかっていた。

 

 

 

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