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私生活が落ち着いたためやっとの投稿です。
なんかフワンの素性とかの都合上良秀視点描写が多くなっちゃう。
というか9章にだいぶ絡むかもしれません。
まあ…彼の立場は、今回で少しわかるはずです。
では、どうぞ。
あのフロアを抜けた後、私たちは比較的順調に歩みを進めた。
『いいか?そ・時は【自主規制】を【自主規制】し、本質というものをあ・まに【自主規制】だ』
『す…すげえ…』『はあ〜、そんなやり方があったんか…』『残酷という言葉はあねさんのためにある…』
少し悶着はあったけど、次の階は良秀の弁舌のおかげで必要以上の争いは避けられた。そして、目的である最上階に辿り着いて…
「…なんだ?あれ」「ぜ、全身義体、ですね…」「………」
上から順にグレゴール、シンクレア、そしてフワンが頭を縦に並べ、少しだけ開いている紙の貼られた引き戸 イサンと良秀によると、障子というらしい の隙間から、賭けが行われているテーブル上の様子を窺っていた。そこには白地に黒の模様が入ったスカーフの男、箱のようなフォルムの全身義体、テンガロンハットを被った陽気な女…そしてロージャがついている。元々は私がテーブルにつく予定だったが…願望シールは使ってしまったし、私は表情が読まれないとはいえ賭け事に関しては素人。だからこういうゲームの場数を踏んでいるらしいロージャに代役を務めてもらうことにした。……どうやらスカーフの男、ソーニャとは旧知の仲だったらしいし。
テーブルについた四者のやり取りを、私を加えた三人で観察する。他の面々は背後で待機。しかしたまに様子を聴きに来た。
〈だとすると、あの箱みたいなのが鉄工會のボスで…あの女性が、マリアッチってやつのボスなのかな?〉
「たぶんそうだろ。…そういや、坊ちゃんはマリアッチに詳しいんだっけ?何か知らないか?」
私の疑問にグレゴールが繋ぎ、フワンに会話をパス。フワンは目を細め、テンガロンハットの女の顔をじっと見て…
「…………アイド。ははあなるほど、ここに流れ着いたんだ…」
「え、名前もご存知なんですか?」
「ええ。
「…U社?」
フワンはぼそりと呟いたイシュメールに振り向こうとして、しかしそれを躊躇ったみたいだ。そして、そのまま隙間をのぞくことを選んだらしい。そんな彼に、背後からイシュメールが問いかける。
「フワンさんの故郷はU社なんですね?」
「いいえ。故郷はべつれす。入社前はU社の内陸のほうの裏路地で暮らしてたってだけれす」
「……内陸でしたか」
その言葉を放ってから、イシュメールは少しだけ沈黙した。しかし、何か重たい蓋をずらし、持ち上げるような…そんな重たい仕草で口を開き、言う。
「その路地裏は
「……………………教えられやせん」
「は?」
彼女にとっても予想外の冷たい言葉だったのだろうか。一瞬だけ唖然としたイシュメールは、一転して眉間に皺を寄せ始める。
「隠したいなら“どこの保護区でもない”と言い返すこともできたはずですよ。そういう場所も少なくないですから。…どこの保護区だったんですか、やはり指のどこかですか?」
「……………事情があるんれす。やむにやまれぬ、ね。…
「…知ったような口をきかないでくださいよ。少し訊いただけじゃないですか」
「察しが悪いなあ………だいたい、U社のマリアッチのいる保護区って情報で答え出ないんれす?」
「ここに来るまでは船の上でしたし、内陸に少し疎くなるぐらいします」
「ちえっ、そこで開き直りやす?いやだなぁこういうヒト…」
ため息と共に吐き出されたその言葉に、イシュメールは鬱陶しい前髪を手のひらで左に流し
「私はただ…今後のための情報共有をしたいだけです。業務に必要な情報が欲しいだけ」
「ええ。今回はぼくの態度が悪かったれす。…でも、譲れないんれす。ごめんなさい」
二人の間だけのことだったのが、その険悪な雰囲気は膨れ上がっていく。ゆっくりと、しかし確実に。…ここで管理人として止めるべきだったと今でも後悔している。
「ちょ、ちょっとちょっと。二人とも、隠れてるんだからそれ以上は「ぐれっぐさん、ごめんなさい。今はしー、ですよ」……俺は…子供じゃないんだけど…?」
「ハッ…業務よりケンカを優先するんですか?年相応ですね」
「………むぅ…」
何やら気恥ずかしそうなグレゴールを他所に、彼はほろ酔いの赤ら顔を少しだけ顰める。なんだか嫌な予感がしてきて…やっぱり、ここで止めるべきだったんだろう。
「あんたこそ!歳の割に子供ですよ」
「…はい?」「ちょ、ちょっとフワンさん、そのぐらいで…!」
「嫌がっているのにそうしつこく聞くもんじゃねぇれす…そんなだと、
「………………は?」
明らかにイシュメールの雰囲気が変わったのに気づいた。だが、止められなかった。シンクレアも言葉だけでは静止していたが、それでは足りなかったらしい。
「あんたは社会性があって、しっかりしてる人です。同僚の中ではイチバンまともかもしれやせん。ここにくる前、お船の上でも…きっといっぱいお友達がいたのでしょう?」
指を立てて言い聞かせる様子は、まさに下の子を叱る年長者のようであった。それが…イシュメールにとっては、嫌味にしか見えていなかったんだ。
「……………何が言いたいんですか」
「ヒト同士には距離感というものがあるれしょ?それを見誤ると、相手を不機嫌にさせちゃいます。おともだちとの間でもおんなじれすよ」
がとん!
イシュメールが一歩踏み出した。あまり親しみのないやり方で、しかし見るからに堅く結ばれたヒモで固定された無骨なブーツの踵が、木張りの床を強かに打ち付ける。
「答えろ。…
「……え?あ、あの…」
がとん!がとん!
「最後のお願いです。答えて………ください」
ぎちり。メイスの持ち手に巻かれた滑り止めが圧迫される音。漸くフワンも状況が見えてきたのか、眉を下げて両掌をイシュメールに向けてわたわた、迫るイシュメールに後退り。
「え、あ?あっ、ごめんなさい、たぶんぼくも要らないこと言っちゃったかもしれやせ…」
「ちょ、フワンさんそれ以上下がれませんよ僕が押されてますって!」
『た、確かに見た!こいつぁイカサマを使っちょった!!』
〈ちょ、ちょっと二人とも、今あっちも佳境だから落ち着いて…!!〉
「なあ、向こうで何やってんだ?ちょっと俺にも見せろ」
「うおっ!?待ってくれそんなに押したら…!!!」
一触即発のイシュメールとフワン。後退りしようとするフワンに潰されていくシンクレア。障子の向こうの修羅場。強引に割り入って中を見ようとしたヒースクリフに、バランスを崩した私とグレゴール………まあ、どうなるかは火を見るより明らかだったろう。
〈う、ウワーッ!!!!!?!??!〉
障子が決壊する。木の枠がひしゃげ、扉の枠から外れて倒れ込む。何やらテーブルの方からも大きな音が聴こえて、私たちが立てた物音と混ざった。倒れ込み、続けて背中に衝撃を受けて…床に完成したるは、中年と青年と少年と時計のダンゴだった。
「………あなたたち、何やってんですか」
あまりの間抜けな光景にすっかり怒気が抜けたのだろう。今や冷気を帯びているようにすら感じるイシュメールの声が、肉骨に染みて痛みさえ感じた。そして…テーブルの方もなかなかに混沌とした様相を呈している。
「う、わあっ!?やる前にハザードランプぐらいつけろっての!」
服に飛び立ったものを払いながら飛び退くマリアッチのボス。そしてその近くには、箱のような全身義体を施した鉄工會のボス……だったもの。それがあたり一面にオイルと組織液と脳漿まみれで転がっている。もともとそいつが座って…置かれて…?いた場所の上から勢いよく降ってきたプレッサーは、その場所で床面と蜜月を交わしていた。
「ロージャ。きみがユロージヴィにいた時に話したこと、覚えてるよね」
その光景を見て、どこか懐かしげに切り出したスカーフの男…ソーニャ。
「僕らみたいな無産階級、みんなが団結して支配階級を打倒し、新たな社会を築くべきだって。そのあと君はこう言ったね?…“お金持ちなんて、みんなあのプレッサーに入れてぺしゃんこにしちゃえ”って」
「……正確には“ぶっ潰して弾け飛ばす”だったけど」
過去の思い出。おそらく、ロージャと彼が仲間だった頃、ユロージヴィとやらにいた時の思い出…それを懐かしげに語るソーニャの表情とは打って変わって、ロージャの顔色は悪いままだ。
「そうだっけ………おや?」
たった今気がついたのだろう。ソーニャが私たちの方を一瞥し、笑みを崩さずロージャに向き直った。ロージャもつられてこちらに首を向けて、すぐさま顔を引き攣らせる。
「ずいぶん…愉快な友達ができたみたいだね」
「…………なにやってんのダンテ…?」
〈訊かないで。〉「あ、うん、おっけ…」
私たちのやり取りに、ソーニャは愉快そうにくすりと笑った。手札をぱさりと落として、卓上に両手をついて立ち上がった。
「ゲームはお終い、君の勝ちでね。異議申し立てはナシで頼むよ?」
「…………」
ロージャの肩に手を置き、笑いかけてからひらひらと手を離す。神妙な面持ちで手を置かれていた場所を眺めている彼女を気にかけることもなく、ソーニャは背を向け、奥にあった扉へと消えていった。
プレイルーム内は先程までとは違った緊張に包まれ始める。この場に残っているのはLCの一行、哀れなる鉄屑……そしてマリアッチのボス、アイド。
「ふ、ははあ………いやぁ、楽しんだよ?ゲームは。でも…私はアイツみたいにクールにはなれないかな」
飛び散る油から流れたまま立ち見していた彼女は、服についた機械油と肉の脂を それで落ちるはずもないのに はらい落とす仕草をした。こりこりと後頭部を掻き…そのままその手を挙げ、ちょいちょいと指を動かした。したがって、裏からゾロゾロとマリアッチが現れる。
「愉快なおしくらまんじゅうメイトを紹介してくれたからね…ほら、これが私のソウル・メイトたち!」
「おたくの組織では、ギャンブルは楽しむためにやるもんじゃないのか?」
「そうだけど…こういう方が面白そうなときはその限りでもないね」
未だ団子になったままのグレゴールの指摘を笑ってかわしたアイドが、近寄ってきた構成員からマラカスを受け取る。見てわかる、ただのマラカスではなさそうだ。重く、硬い。愉快に敵を殴打するためのふざけたメイス。
「ああ言えばこう言うな…」
「グレッグ。結局、誰が勝とうと力で奪い取るつもりだったんだよ。でしょ?」
「よおく考えてみな?私には力も部下もある。たった1セットのゲームで黄金の枝を譲れるわけ。…さぁさ、はじめよっか?」
軽快な音楽が流れ始めた。歌声と楽器の音が重なる。後方の構成員が奏でる演奏に揺られ、アイドの身体が動き始めた。
「ダンテ、いつまで団子になってるわけ?早く立って!」
〈わかってるから…!〉
ようやく囚人たちが退いてくれたので、服の埃を払ってPDAを取り出す。人格牌を懐から選び取り、メンバーを選出する。
〈ロージャと…さっき私の上にのしかかったみんなにお願いするね〉
「イテテ、やっちまったぜ…オイ、いつまで寝っ転がってんだよ坊主」
「ゔっ…はいはい、起きますよお…」
ヒースクリフにつま先で軽く小突かれ、うめいたフワンが面倒臭そうに立ち上がる。徐にスキットルからひとくち飲んで、深くため息をつき…アイドの方をばっちり見据えた。
「ふふ!さあみんな、
パニャータパー…………ティ………」
アイドの言葉がなぜだか尻すぼみになっていく。リズムに乗せてスカチャカ振られていたマラカスもだんだんと速度を落としていき…反比例して、アイドの額にどんどん汗が滲み出しているのがはっきりわかった。
「あー…おっとっと?へ、えへ!えへーへ、へへ…」
「どうした?やるんじゃねえのかよ!」
未だかかってこないことへの苛立ちに任せてバットを素振りするヒースクリフ。困惑する囚人たち…そして、それはあちらの構成員たちも同様だった。
『ど、どうされたんすかボス?』
「…………えーと、その、ね…わかるだろお前、一緒に出てきたんだから…」
『えー?…………あ、お…うそーん…』
側近らしき構成員も何かに気づいたのか、ギターをかき鳴らす指に震えが生じ始めている。リードギターのテンポが減速し始めた。音楽がだんだんスローになっていき、陽気さが陰気さに変じ…ついには、無音。前衛音楽の意図された無音…では、なさそうだが…?
「………解散。」
『『『『え?』』』』
「解散って言ったんだ!!二度も言わせんな!ほら逃げろや逃げろ!!!」
なんと、マリアッチのボスが真っ先に踵を返して逃げていく。マラカスを握ったまま腕を振って逃げるので間抜けなリズムがあたりに響いた。すぐさま続いたのは側近らしき構成員。困惑しながらも他の下っ端たちも逃げ出して……後には沈黙と、戦闘体制のままの囚人たちが残った。
「へへっ、びびって逃げたんだなチキンども…しっかし、俺らが相当強く見えたか?」
「それにしては…特定の人を見て逃げてったような気もするけど…」
〈…誰を見たんだっけ?〉
気分の良さそうなヒースクリフにロージャが反論。彼女の言う通りだと思う。一人を除いて、皆がゆっくりとアイドが見ていたらしき場所に視線を合わせると…
「………?」
未だスキットルの口を咥えているフワン…………と、
「…ッ、?チッ、オイル切れか…?」
イライラした様子でライターのフリントを回し続ける良秀がいた。
「………良秀さんが怖かったんでしょうか…」
「たぶん…そうだな。あねさんのヤニ切れの時の顔怖いもんな…」
「えっと、失礼かもしれないけどすっごい顔してるよ良秀〜?」
シンクレア、グレゴール、ロージャは結論を出した。あいつらは良秀にびびったのだ。
〈…すごい、弁舌だけじゃなくて顔でも圧倒できるんだね〉
「ケンカじゃ見栄も立派な武器だしな。なんだ?やるじゃあねーの、あんた」
「な・け?なんかあったのか」
どうやら話も聞いていなかったようで、漸く鋭い目をこちらに向けた。煙草のフィルターにかかる歯と唇の圧力が強くなっていく。
「何やってんだ間抜けども…ですか」
〈ひどい言われようだね…でも助かったよ良秀〉
「ん?……………おーう」
どうでも良さそうに生返事した良秀が再びフリントを回し始めたのを見て、囚人一同は戦闘体制を解いた。編成人員も肩を回したり伸びをしたりと思い思いの仕草をしていた。
〈…それじゃあ、黄金の枝を追いかけようか〉
ダンテの一声に反応したロージャが手を上げた。
「たぶんだけど…ソーニャはアレに乗ってったのかも」
ロージャの指差した方には…まるで自分たちを待っているかのようにドアを開いている、大きなエレベーターがあった。
ーーーーー
「チッ…こりゃダメか」
何度目かのトライもあえなく失敗。息切れを起こしたライターを胸ポッケに仕舞う。行きどころを無くした煙草は口の動きに従ってくねりくねりと上下に動く。仕方ねえ、虫野郎にでも火を借りよう…
「あの、りょーしゅーさん」
「…なんだ」
徐に肩を叩かれる。話しかけてきたのは、なまぐさのウイスキー坊主だった。意外だな、俺のことは嫌っていそうなもんだが。
「火、お貸ししましょうか?」
「………あるのか」
「ええ」
意外な申し出に片眉が上がった。坊主は懐から
「…!」
「えーっと…ほいっ!」
肩に力が入る。それにも気づかず、坊主は筒の側面に指をかけた。慣れた所作と間抜けな掛け声で筒のダイヤルを回し…しゅぼ!と火が灯る。
「ふふ、どぉぞ!」
「…………………」
真鍮の円筒…………ライターの先が咥えていた煙草の先に近づけられた。ゆっくりと息を吸って…………紫煙が口の間から漏れていく。
「どおれす?これ便利なんれすよねぇ、外で火が必要なとき…」
自慢するかのように得意げな坊主。…よく見れば、その筒には緻密な文様が刻まれているし、見知ったものよりも小さかった。それに…用途があまりにも平和だった。同じようなチェーンこそ付いてはいるが、滅多切りにされた脳裏によぎった
ライターを掌の上で握って開いて、坊主は嬉しげにそれを見つめていた。与えられたおもちゃを喜ぶ子供のような、懐古に浸る大人のような。そんな矛盾した様子が、ぴったりと坊主に重なっている。そこにもつれはなく、両者とも完璧に同一のものなのだろう。
またひとくち、深く息を吸った。予想外の場所から海馬に飛んできた刺激。…無性に腹が立った。しかし、この坊主に原因はあったが、悪気はなさそうだし…自分の何が相手を怒らせたのかもわからないだろう。何せ、こちらがそれを明かしていないのだから。
だが…それはそれ、これはこれだろう?
「ふんっ」
ごつん!!
「に゛ゃ゛ん゛!!!!!!!!」
シンプルなげん・こつ。他所の悪ガキに与える折檻にゃあ、これぐらいやるのが良い。
〈おーいふたりとも、エレベーターに乗るよー!〉
「分かってる。…ほらボウズ、来い」
「い゛、んうぇ〜〜〜〜!!!!!」
頬をしっかりつねって引き連れて時計頭の元へ。何やら向かう先の時計がポッポとうるさいが、気にせずそのまま連れてくる。
〈ちょっと良秀!ファウストに言われた注意事項もう忘れたの!?〉
「ガキはちゃんと叱らにゃならん」
〈それでもだよ…取り返しつかなくなるかも、って話だよ?〉
エレベーターの壁にもたれ、時計の小言を受け止める。…自分も、手が出てからそれに気がついた。だが…その危惧は杞憂だと、おりゃあ思う。
「げん・こつぐらいは問題ないよ」
〈なにそれ…〉
「信用しろ。おりゃあ人を見る目はあるんだ」
わざと笑んでみせれば、カチカチぶつくさ言いながら時計が元いた場所へ戻っていく。俺は、なんだか分かった気になっていたんだ。
「……………」
うすらと涙を浮かべて、腫れた頬をさするこのボウズは…
エレベーターが動き出す。…その方向は、下のようだ。
やはり、ボウズがまた取り乱すことは、この後もなかった。
ーーーーー
風を感じている。裏路地の淀んだ風、真夜中であるのに湿り気を帯びた生温い風。それが肩にぶつかっては鳴いている。口腔に渇きを感じ、しかしそれを振り払いたくてカバンの肩紐を握りしめた。最低限の荷物を入れたそれを持って、走る、走る。
「ハァ…ハァ…ハァ…!」
激情に駆られて故郷を飛び出したときも、こうなることは覚悟の上だった。気の知れた仲間たちを作って、組織をどんどん強くしていけば…
だが、私は逃げ出した。気の知れた仲間たちも、育てた組織もかなぐり捨てて、一人きりで逃げていた。一緒に出てきた友人すら見捨てて。情けない話だが……怖かった。やっぱり、怖かったんだ。
あそこを出てからだいぶ経っていた。あそこの
あの少年が来た。
格好は昔と違った。雰囲気も違った。昔はあんなふうに酒香を漂わせていなかった。だが………立ち振る舞いと、足運びだけは変わっていなかった。それだけで…
走る最中に思い出す。美しく恐ろしい、かつて垣間見たあの景色。屍山血河の中央に舞う、一抹の汚れもない青、白、そして黒の花弁。処刑者、あるいは守護者、あるいは騎士………あるいは……………
鋭い痛みが走る。耳に残る乾いた破裂音の残滓と、下からじわりと広がっていく熱。遁走の勢いを殺すこともできず、衝撃に任せて地面を転がった。何メートルか先で止まり、なんとか土埃に塗れた身体を起こす。腿を見れば、穿たれたちいさな穴から鮮烈な赤が溢れ出している。
「………は、ふはっ」
乾いた笑いが溢れた。
視線の先。街灯の少ない路地の暗闇から、ぬう、と銃口が突き出てきた。それを握る手、手首、腕……そして、白い
「脱走者アイド。
銃口をこちらに向けたまま、小さな手帳に目を滑らせてそいつは言った。…間違いない。姿を見て、確信に至った。
「ックソ…マジ?ワタシみたいな小物も小物に…よりによって警部もご登場?」
「間違いないか、と訊いている」
ぼやきに何の反応も示さず、ただこちらに問うてくる男…警部は、再び握った拳銃の激鉄を起こした。
「はは、ハイハイ。間違いないですよ…これで満足かい?」
「そうか」
短い相槌。その後、破裂音が3回。少しして…右手の先に激痛が走った。
「ッ………ア゛…!!」
「“脱走者アイドの右手母指、中指、小指を失わせなさい”…履行。では、連行しよう」
小さな黒い手帳にペンで横線を走らせ、警部はそれをマントの内にしまった。腰元のホルスターに拳銃を納め、足下で悶える私を見下ろし…屈み、そのまま担ぎ上げた。
「殺すんじゃ、ないのかよ…?」
「指令に反する。生きて連れ戻さなければならない…そのはずだ」
警部は私を担いだまんまで、仕舞ったはずの手帳をわざわざ片手で取り出して、ちらりと中身を確認した。横目で見れば、確かに“脱走者アイドを生きたまま連れ戻しなさい”と走り書きのメモがしてあった。それを見て…笑えてきた。思わず口から空気が漏れ出てしまったのだ。
「ぷ、はは…ま〜だ、
「そのような安い挑発には乗らない」
「いや…笑うしかないって。なんにも変わってないんだもん、なーんにも…」
「不変だということは、完成されているということだ。都市に…あそこほど安全な場所はない」
俵のように担がれて、揺れるたびに撃たれた傷がじくじくと血を漏らしている。胸中に満ちるのは…諦念と、絶望のみだった。私は今、二度と戻るまいとまで決めていた場所に連れ戻されようとしているのだから。逆らいようのない、圧倒的な
必死に泥水を啜り、血と汗と涙で築き上げてきたものが…途端に馬鹿馬鹿しいものになってしまった。笑いが堪えきれない。笑うしか、ない。
「あは…あはははは!は、もうほんとに…私みたいなモンに、何でそうまでしてこだわるんだよ!動くのはもっと下っ端でもいいだろ!?」
「俺への下知だ。だから俺が熟さねばならない」
「へーえ、でも
口角が吊り上がる。腹の底から、狂ったように空気を吐き出し笑いに乗せる。喉をぎしぎしと鳴らし、濁点の混じった汚い声をぎゃはぎゃはあげて笑う。口腔が渇き、血の味が混ざっても笑った。まだ動く方の脚をばたばたと振り、もがき、笑って…………
「上司、だと?直接確保人員に割かれたのは俺以外にはいない」
「………………はァ?」
私にはわかった。本当に心当たりがない、そんな声色をしていた。
「とぼけるなよ…カジノにいただろ?いつものヒラヒラ脱ぎ捨てて、制服まで着ちゃって変装してさ…わざわざご苦労なこった!」
責めるように声を上げる。喉をがらがら枯らして、血の混じった音で。悲鳴のように。だが、警部はまだとぼける。
「…錯乱したか。俺の上司、という言葉が誰を指すのかは存じているだろうに」
「正気だよ、たぶん!!お前さんらがヘコヘコ付き従ってたあのガキの顔は忘れようとしたって忘れられないね!」
「…何?」
呆れたように警部がこぼした言葉。それにがなりたてれば、謎の充足感が身体を包む。私は、このささやかな反抗に満足していた。もうどうなったっていい…そんな気持ちだけが私を突き動かしていた。
「なぁにが福音だ?なぁにが
ぬうっと伸びた手が喉笛に喰らいつく。あらゆる管が狭まって、視界が一瞬にして端から黒くなっていく。だが…まだ意識は落ちない。手加減されているんだ。
「……どこで見た」
「ッ…………ゥ………?」
「あいつを。どこで見たと。訊いている」
どす黒く、落っこちてしまいそうなぐらいにぽっかりと開いた黒い穴が二つ、わたしを見つめている。さっきまで自棄になっていたのに…急にまた怖くなって、急いでカジノタワーの方を指差した。警部はそちらに首を向け…私を地面に転がした。曇った夜空に影がかかる。黒と白と金の影が。
「そうか。ご協力に感謝する」
無感情に言い放たれた言葉と同時に、ゆっくりと掲げられた銃床が…私の顔に振ってきた。
暗転。
ーーーーー
J社某所。目立たない横道に、バンが一台止まっている。白一色の車体に赤い模様の入ったバンだ。その後ろから、白装束の男が近づいてくる。
「…」
男はバンの荷台に担いでいた女を下ろした。積まれていた強化ロープで四肢を縛って、適当に転がしておく。男は逸る気持ちで荷台の扉を閉め、助手席側の扉に向かった。
「やあ警部殿。ずいぶん早かったじゃないか。さすがだな」
運転席に座っていた小太りの男が、頬の汗をぬぐいぬぐい、男…警部をにこやかに労った。彼は白のマントに包まれた丸っこい身体を揺らして笑う。
「馬鹿だねえこいつも…逃げたって追いかけ回されるだけなのに。じゃ、早く帰ろう。途中で夜食でもつまめるところが…」
「いや、すまない。もう一つやらなければならないことができた」
「…困るよ警部殿。今日はこいつで最後だろう!?」
警部が助手席にも座らず言い放った言葉に、男は不満をあらわにした。顔を顰め、ハンカチを握る手を振り動かして抗議する。
「奥歯が痛むってのに…翼を跨いであちこち駆け回らされて、歯医者にすら行けてないんだ!何週間かぶりにやっと帰れるんだぞ?いい加減我が家のベッドが恋しいよ」
「重ねてすまないが、貴方も来て欲しい。協力が必要だ…それでも長くかかるだろうが」
「チッ…その用事ってのはなんなんだ!?」
奥歯の軋みと苛立ちを隠さない男は、乱暴に警部を問い詰めた。警部はカジノタワーを一瞥し…自らの腰に差した剣に目を落とし、言った。
「
その言葉を機に、車内に少しばかりの静寂が訪れた。エンジンの振動がいやに感じられるひととき。そして、それは男が問うたことで打ち切られる。
「…それは本当のことかね?」
「確証はない。だが、荷台の女が言った。確認しにいく価値は十分に…」
警部がホルスターから拳銃を抜き、シリンダーを振り出して排莢しながらつぶやく。懐からムーンクリップに嵌った銃弾を取り出し、弾倉に差し込もうとした。しかし…男が伸ばしてきた手がシリンダーに傘をつくり、それを止めた。男は神妙な面持ちで警部に呼びかける。
「
「…何故だ。あいつは外をふらふら遊び歩いていていい人間ではない」
眉間に皺を作り、警部は語気を強めて男の手を振り払おうとした。しかし、拳銃ごと己の手を強く握り込まれたことでその動きを止める。警部が顔を上げると、目に映ったのは呆れ顔の男だった。
「だいいち…あの方が追わずともいいと仰っているんだからいいだろう」
「…なんだと?出鱈目を言うな。あいつの不在を人一倍嘆いていらっしゃるはずだ!」
「し、知らなかったのか?本当にそう仰ったんだよ…だからダメだ」
警部は握り込まれている手に汗が滲むのを感じた。それは自分の汗でもあり…この男の汗でもあった。片方は焦燥により、もう片方は…恐怖によって染み出したものだった。
「
「ば、馬鹿…!あの方にも何か考えがあってのことなんだ、それを尊重しないでどうする!?それに、あの方の言うことにはなるだけ背きたくはない!……後が怖いぞ。だろう?」
「………………………」
「だからここは黙って帰ろう、な?私の顔を立ててくれよ…!」
震える声に、警部の中の熱がだんだんと冷めていく。握り込まれた拳銃のシリンダーがかちかちとなる音がいやに大きく聞こえた。…警部は呼吸を緩やかなものにしていく。そしてひとつ、大きな溜息をついた。
「………帰るぞ」
「フウ、わかってくれたか!」
警部が助手席に乗り込んだのを見て安堵の息をついた男は、首筋の汗をハンカチで拭う。ハンドルに手をかけ、シフトレバーを操作しアクセルを踏めば、白いバンは勢いよく進み出した。
舗装の足りない道をタイヤが確かに掴んでいく。欲望でギラギラと輝くJ社の景色が流れゆく中…警部は窓越しにカジノタワーを見つめていた。
「……逃げきることはできないぞ」
激鉄に親指をかけ、ゆっくりと元に戻して…シリンダーを親指でくりと回し、ホルスターに突っ込んだ。
そこからはただ、沈黙があるだけだった。
【To Be Continued…】
【オイルライター::S-S】
『これ、気になるか?……ならやるよ。もう俺は吸わないしな』
『いいんだよ。元々もらいもんだしな。あいつらが作らせろってうるさいから、テキトーに“タバコに火つけるライターでもよこせ”って言ったんだよ』
『で、受け取って…試してみようとしたら…前髪が一瞬で地獄にサヨナラだ!いつかのホセがこさえた、黒焦げのホスチアみてえにな…チッ、余計な機能つけやがって』
『だもんで、危ないからな。出力は落としてある。……あ、そうだ』
『いちおうセーフティの外し方も教えといてやる。教えた型には合わんが、武器が無くなった時には確かに役立つだろうよ』
『まあ…なんだ。
ーーーーー
よろしければ感想・評価よろしくお願いします。
気軽に感想いただければうれしいです。逆にないと作者がしょんもりします。
では、また次回。