「おまたせしましたナタリア殿下」
「よろしくお願いします、ネビリム」
約束通り、仕事を一旦区切りナタリアに
本来、部外者であるネビリムが決して入ることの出来ない場所である。やはりナタリアに目をつけたことは間違いではない、と自分の審美眼に感謝した。
「さて、第七音素について師事する前に、殿下とはお話したいことがあります」
「お話、ですか。なんでしょうか?」
「本来であれば憚れることですが、交換条件つまりは取引がしたいのです。私は殿下に望むことを教えましょう。その代わり殿下には私をセシル少将に引き合わせてほしいのです」
「……快諾出来かねます。セシル少将と会って何をするつもりですか」
警戒心を隠さず率直に尋ねるナタリアに、ネビリムも隠すことはなかった。
「私は医者として患者を救う義務があります。しかしキムラスカやダアトからの物資援助は絶望的でしょう。なので私はセシル少将に、マルクト軍の補給線破壊の作戦を進言したいのです」
「その作戦内容をセシル少将に考えてほしいということでしょうか?」
「いいえ。私に30名程度、兵士を貸してほしいのです。もちろんセシル少将の信頼できる部下が望ましいのです。作戦立案から作戦行動も私が指揮を取ります」
ネビリムの発言にナタリアも目を丸くする。
「な、なにをおっしゃいますの!? いくらアナタでも兵を貸して其の上で作戦まで立てるだなんて…! キムラスカ軍は国の財産です。残念ですがそのようなことは許されません」
ナタリアの猛烈な反対意思の前であってもネビリムは微笑みを絶やさや無かった。
「いいですね、妥当な判断です」
そしてネビリムは真紅の瞳を細め、二番目の目的を達成するたのカードを切る。
「ではナタリア殿下直々に、私に責任のある立場……キムラスカ市民として認めていただき、取り立てて頂きたいのです。具体的に言うと私、記憶喪失で自分のことを思い出せない上に戸籍がないのでキムラスカ国民として戸籍を作らせてもらってキムラスカ軍に籍を入れたいんですよ」
「…………っ」
どこの馬の骨ともしれない人が大手を振って歩ける時代はいつの世でもありはしない。
自分を保証する身分や戸籍は絶対にほしいのだ。
しかしこれもとても強引な方法で、断られたりするだろうと、考えている。実は最初に無茶な条件を突きつけ後から条件を下げて自分の要求を通しやすくするための行為である。
ナタリアが本国に戻った暁には、ネビリムの言った『補給線破壊作戦』について国に進言してもらい、国からセシル少将にマルクトの補給線を潰させるように圧をかけやすくさせるのが目的である。
その作戦にネビリムが参加し、作戦成功とともに報奨として市民権の獲得が出来ればいいのだ。ついでに、理由がわからないが見てて苛つくマルクト軍を叩けるのだからお得でしかない。
さて、そろそろ条件を下げた内容で譲歩したように見せかけようとしたら、ナタリアの手がネビリムの手をぎゅっと強く包みこんだ。
「記憶がない、というのは本当ですか?」
「え、えぇ。……ただ知識かしら、常識的な事は覚えてるの。でも自分のことや誰か大切な人とか、そう言う記憶が全く無くて」
ナタリアの勢いに驚いて、ネビリムは敬語が抜けてしまったが二人はそんなことを気にする余裕がなかった。
「……ネビリムの交換条件を全部飲むことは出来ません。私にできるのは、セシル少将と引き合わせるだけです。……ですが市民権でしたら私の願いでなんとか出来ます。市民権を約束しますから、私の質問に答えていただけませんか?」
「質問の内容を先に聞いてもいいかしら?」
「わかりました。……過去の自分の記憶がない、というのはどういった心境でしょうか? 私の幼馴染も、記憶がないのです。ネビリムと違い知識すらありません。まるで生まれたばかりの赤子のような状態で戻ってきたのです。そんな彼に『昔のことを思い出してほしい』と思って、彼自身にもそう言っていますが」
ナタリアは言葉を切ると、少し寂しそうに目を細めた。
「ですが、彼はすごく嫌そうな、辛そうな顔をするんです。……私は、もしかしたら彼を追い詰めているのでしょうか?」
短い懺悔のような問いにネビリムは返せる返事がない。ただ、彼女の最初の問いにしか答えられない。
「その幼馴染について全く知らないから、追い詰めてるかどうかはわからないけど。私はそうね、最初目覚めてから自分に記憶がないことを自覚したときに『過去のことなんて探すのをやめよう』って思ったの」
「どうしてですか?」
「思い出し方もわからないし、なにより直感なんだけどね『きっと記憶が戻っても、記憶が戻った自分と過去の自分は別人だからだ』って思ったの」
「別人というのは、どういうことですか?」
こんなふうに自分の内面を言語化することは初めてであるネビリムは、一つ一つ言葉を探しながらゆっくりと語る。
「もうすでに私は新しい人生を歩いてるから。記憶のないネビリムと昔のネビリムは同じではないのよ。昔のネビリムだったらきっと、こうしてケセドニア北部に来て、キムラスカに市民権を求めることなんてしてない。私はね、今の一瞬を全力で自分らしく生きてるの。昔の自分は、もうどこにも居ないの。だってきっと私は、昔の私を知る人に出会ったらなんて言うと思う? きっと私は『はじめまして』って言うのよ。……ほら、もうどこにも過去のネビリムが居ないでしょう?」
その言葉を聞いて、ナタリアが息を呑む声がした。まるで気づきを得たかのように、目を見開いて、理解したくないことをそれでも理解しなければと強い精神力で思っているのが伝わる。
繋いだ手に力が籠もり、まるで石を飲み込むかのようにネビリムの言葉を解釈していく。
「確かに、そうですわね。記憶をなくしてから、初めて会った日のことを思い出しましたわ。私のことなんて何も知らない、まっさらな顔でしたの……。でも私、それでもルークに私と、そして約束を思い出してほしいんです。一緒に将来を誓った約束が、あるんです……。約束が嫌いなルークが私としてくれた約束が………っ」
辛そうに涙をためて嗚咽をこぼすナタリアが、膝から力が抜けてずるずると床に座り込む。
きっと普通の人なら、泣いている人を見て同情や哀れみを感じるかもしれない。しかしネビリムには、そんな感情が湧いてこなかった。ただ眼の前のことを冷静に分析するだけだった。
「アナタは、今の彼が嫌い?」
「いいえ! 違います。確かに昔とは全然違いますが、それでも私の大事な幼馴染です。嫌いになんてなれません!」
「ならどうして、今の彼を受け入れて新しく関係を作ろうとしないの? 昔の約束だけが大事で彼自身のことはどうでもいいの?」
「それは! …それは」
まるで突き放すかのような言葉に、ナタリアは言葉が詰まった。
とっさに違うと反論しようとしたが、何も知らないネビリムが話だけを聞いて率直に感じた疑問は、まさにきっとルークが感じていることに最も近い感覚だと頭の隅で理解できたからだ。
自分の行動と言葉がただ「約束をしたルーク」を求めているだけで、記憶をなくし帰ってきたルークを全く見ていないことに気付かされた。
ふと、ナタリアは思い返す。
今のルークは何が好きなのだろう? どんな色が好きで、どんな花が好きで、どんなことをしていると楽しいのか全くわからなかった。その事に目眩と絶望感を覚える。
「わたくし、……あぁ、なんてことをしてきたのでしょう……。私、ルークの好きなことが何もわからないのです。今のルークが何一つ、わからなくて……!」
「申し訳ない気持ちでいっぱい?」
「はい……、私は記憶を思い出してもらおうと思うばかりで、彼の成長を喜ぶことや、人となりを知ることを今までして来なかった。それがとても申し訳ないのです」
「それじゃ聞くけど、アナタが幼馴染の立場だったらどう思う? いつまでも思い出せない記憶を思い出せって言って、自分を見てこない人を幼馴染って思える? そんな環境で追い詰められないって思える?」
一つ一つを詳らかにしていくように、丁寧に過程を積み上げていく。
疑問がほどけるたびに、ナタリアには後悔が押し寄せた。
「きっと……追い詰められるでしょうね。思い出そうとして思い出せなくて、申し訳無さや、きっと苛立ちと絶望感があると思います」
「……そこまで文章化できるなら後はアナタ次第ね。その幼馴染のルークに会ってどうしたいのかを考えておくといいんじゃないかしら? アナタは彼との関係をどうしたい?」
「そうですね。新しく一人の人として接したいと思います。国で決めた婚約なので簡単に破棄出来ませんが、彼が望むなら私は婚約者の関係から開放しようかと思います」
「アナタ、真面目すぎない? それは良くないわ。真面目過ぎて0か1で考えてるでしょ。ただ素直に『今までごめん。これから新しくよろしく』じゃダメなの? まずルークの意思を最初に確認しましょう」
「あっ……。そうですわね。私、また自分一人の感情で動こうとしてましたわ」
戒めるようにナタリアは、きつく目を閉じる。
深呼吸して、気持ちを切り替えて目を開くとこれから自分がやることを反芻した。
「バチカルに帰ったら、ルークに会って今までのことを謝ります。そして改めて今後の関係を二人で決めれたらと思います
「それならいいんじゃないかしら? さて、ナタリア殿下のお悩み相談と人生相談は終わりでしょうか?」
改まったネビリムの口調にナタリアは、こそばゆさを感じる。
「ふふ、そうですわね。一番悩んでいた事を相談できて良かったです。また相談に乗ってください。あとさっきまでの気さくな方が何だか身近な感じがして嬉しいのですが、駄目ですか?」
「二人きりの時じゃないと、不敬罪で牢屋送りになるから。他の人が居ないときだけでいいなら砕けた口調にさせてもらうわ」
「わかりました。では二人きりのときはさっきみたいにお願いいたしますわ。あと、市民権はバチカルに帰った手続きしますのでフルネームを教えて下さいまし」
約束の市民権の付与のためネビリムの本名を聞くと、本人はまぶたをパチパチとまばたきする。何だか予想外の質問を受けたかのようであった。
「フルネーム。ごめんなさい、全く知らないわ。ひとまず自分の名前がネビリムってだけで」
「えぇっと……。今フルネーム決めますか?」
「それじゃ………」
頭の中にある知識で「姓」になりそうなものを探し回る。
とっさに選んだのは……。
「サザンクロス。……ネビリム・サザンクロスにするわ」
「創世記の高名な学者のお名前ですわね」
「そうらしいわね。最初に第七音素を見つけた人だって記憶されてるみたい」
何気ないネビリムの言い回しにナタリアは、この人は本当に知識しか記憶がないのだと実感した。
それに他者の良心や心の傷を気にせず、ずけずけとした物言いの多さから他者への共感性が低いような感じもする。
それがナタリアにとっては、いい気付きになったが他の人との接触には一抹の不安がよぎった。
これからネビリムが
「……ねぇ、ネビリムもしよろしければですけど。キムラスカで暮らすのでしたら私の教育担当になりませんか? 今の状態で普通の生活が出来るとは思えなくて」
「それはありがたい申し出だけど、周りの貴族から顰蹙を買いそうなのよね。うーん、第七音素の扱いを教える専属ってことでどう? それなら面倒事は減らせそうだわ」
「えぇ、それで構いませんわ。では、これからよろしくおねがいしますね、ネビリム
「…………」
ナタリアの言葉にネビリムが止まる。
ぼうっとして赤い瞳が遠くの光景を見ているかのように、眼の前に居るナタリアに焦点があっていない。
「ネビリム?」
「あ、えっと、ごめんなさい。すこし、その呼ばれ方が不思議な感じがして」
ざわつくような、それでいて心地よさを感じる「せんせい」の響き。
どこか自分の心がそう呼ばれることを渇望しているのに、ナタリアの言葉では足りない。
もっと「せんせい」と呼んでほしいのに、本当に呼んでほしい人がいるかのような焦燥感に駆られてしまう。ざわつく心情を抑えるように、爪が食い込むくらい手を握り込んだ。
「医学の知識もあるようですし、どこかで教師をしていたのかもしれませんわね。不思議とそういうイメージが湧きます」
「あら、ありがとう。でも、今の私にとって初めての教え子はナタリアね」
このざわめきが収まることを願いながら、ネビリムはぎこちなく微笑んだ。
これが人生始めての「作り笑い」になった。
人情や他人の感情への共感が乏しいのに、ネビリムは無意識にナタリアがせっかく呼んでくれた敬称を台無しにすることを躊躇ったのだ。
自分が他人への思いやりで「作り笑い」をこの時したのだと理解するのは、どのくらい先か、まだ誰も知らない。