しばらくの間、祖母は静かに目を伏せていた。やがて、ゆっくりと口を開く。
「あの子はね...あれからしばらく政府の支援を受けながら一人で暮らしていたんだよ。最初のうちは、お母さんを探していたみたいだけど...」
そこで言葉が途切れる。続きが聞きたくて、俺は息を詰めて待った。
「もともと身体があまり強くなかったからね。心労もあったんだろう。何度か体を壊してね、今は地方の総合病院に入院しているよ」
「...入院?」
思いもしなかった言葉に、思わず声が裏返る。
「ああ、そんなに重いものじゃないとは思うけどね。ただ、無理はできない状態なのは確かだよ」
「どこの病院にいるの?」
俺の問いに、祖母はゆっくりと病院の名前を告げる。聞いたことのない場所だったが、そう遠くはなさそうだ。
「行くなら、今度のお休みに行くといい。今日はもう疲れたろう? ゆっくり休むといいよ」
優しい声が、張り詰めた気持ちを少しだけ和らげる。少し早いが今日はもう休もう。
隣に座っていた先輩が、そっと俺の肩に触れた。
「先輩、すみません今日はお先に失礼します。」
これ以上、何かを考える余裕はなかった。
先輩の顔をまともに見られずに立ち上がると、俺はそのまま自室の布団にもぐり込んだ。
◇
「おや、どうしたんだい?」
彼が眠りについた後、おばあさまは静かに尋ねた。
「...いえ、ただ、少し...考え込んでしまって...」
湯飲みを手に取り、ぎゅっと指を強く握る。
「...私、藤宮くんのお母さんのことを考えてしまいました」
「ほう?」
「彼女も、最初はただ夫を愛していただけだったのに...いつの間にか、それが苦しみに変わってしまった。彼女が感じた絶望や喪失感を、私は完全には理解できないけど...でも、私も同じ立場になったら、いずれ彼女のようになってしまうんじゃないかって...そんな気がしてしまったんです」
声がかすかに震えていた。
「藤宮くんが大切です。彼の力になりたい。でも...もし、いつか私の気持ちが重荷になって、彼を苦しめてしまったら——」
祖母は目を細めて、しばらく何も言わなかった。それから、静かに言葉を紡ぐ。
「人間はね、過去から学ぶものなんだよ。」
「同じような状況になったとき、まったく同じ選択をするかどうかは、その人次第だ。お前さんは今、蓮の母親に自分を重ねている。でも、彼女とお前さんは違う。ましてや、蓮もあの時の子どものままじゃない。」
先輩の手が小さく震えた。
「それでも、怖いです。」
「なら、それでも、蓮といたいと思うかい?」
静かな問いかけに、喉が詰まる。
おばあさまの問いに、一度ぎゅっと拳を握りしめる。ゆっくりと顔を上げた。
「はい。そこは変わりません、蓮くんと一緒にいたいです」
「だったらこちらも回答は変わらないよ、大丈夫さ。」
おばあさまは満足そうに微笑み、そっと湯呑を手に取った。
「...さて、こんな時間まで引き留めちまって悪かったねぇ。先輩さんも今日はしっかり休んでもらわないと」
まだ微かに処理できていない感情はあるものの、おばあさまの言葉に小さく頷いた。
「...はい」
「先輩さん」
「はい?」
おばあさまは少し意地悪そうに目を細める。
「なに、先輩さんなら隙を見てあの子を襲っても大丈夫さ、ガっと行っちまいな」
「えっ...!?」
頬が一気に赤く染まってしまう。
「そ、そそそんなこと、するわけないじゃないですか!」
「ほほほ、冗談さ。けどねぇ、あの子はちょっと鈍いからねぇ。言葉だけじゃ伝わらないこともあるかもしれないよ」
「...っ」
ますます顔を赤くしながら、ぎゅっと拳を握った。
「...そんなの、もう覚悟してます」
その言葉を聞いた祖母は、満足そうに目を細める。
「そりゃあ頼もしいこった。ほれ、もう夜も遅い。今日はゆっくりおやすみ」
「はい、おやすみなさい」
深く頭を下げると、そそくさと用意していただいた部屋へと戻ることにした。
◇
祖母はその背中を見送ると、静かに微笑みながら独り言のように呟いた。
「...まったく、可愛らしい子だねぇ」
「蓮のほうも先輩さんに気はあるんだろうし、まぁ時間の問題かね。」
「おっと、忘れる前に病院に連絡しておこうか...あの子の声も聞きたい所だ」
メモ帳に書かれた電話番号を打ち込み、静かに受話器を取り上げた。
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