朝の静けさの中、俺は一人、電車に揺られていた。
窓の外に流れる風景をぼんやりと眺めながら、胸の奥がじわじわと緊張で締め付けられていくのを感じる。
父に会うのは、どれくらいぶりだろう。
(どんな顔して会えばいいのか...)
胸の内で呟きながら、手のひらを強く握る。
朝早い時間帯だったこともあり、電車の中はまだ人が少なかった。座席に腰掛けながら、ふと隣の席に視線をやる。そこには誰もいない。ただの空席。それなのに、昨日まで先輩が隣に座っていたような気がして、少しだけ唇を噛んだ。
「...行ってきます」
誰に言うでもなく、小さく呟いて目を閉じる。
◆
病院の最寄り駅に着いた頃には、太陽はすっかり空高く昇っていた。真冬の冷たい風が頬を撫でる。駅前の通りを歩きながら、俺はポケットに手を突っ込んだ。
スマホの画面を見ると、祖母から送られてきた病院の住所が表示されている。地図アプリを頼りに歩いていくと、やがて目の前に白く大きな建物が姿を現した。
(ここだ...)
病院の入口に立ち、息を吐き出す。大きく息を吸い込み、静かに足を踏み入れた。
中に入ると、消毒液の匂いと、少し乾いた空気が鼻をつく。受付のカウンターには看護師が数人立っていて、来院者に対応していた。俺は祖母から聞いていた病室の番号を伝え、案内された方向へと歩き出す。
白い壁、淡いクリーム色の床。廊下を歩くたびに、靴の音が静かに響く。静かな病院の空気が、胸の奥を締めつけるようだった。
(ここに、父さんがいるんだ...会ってまず何を言えばいいのか...)
そんなことを考えながらも、足は止まらない。
目的の病室の前に着いた。ドアの横には、小さなプレートが貼られている。
『藤宮 直人』
その文字を目にした瞬間、指先が冷たくなるのを感じた。
(父さん...)
心の中でその言葉を繰り返す。久しぶりに呼ぶ名前。何年も口にしていなかったはずなのに、たった三文字が重く喉に引っかかる。
深く息を吸い込み、拳を軽く握りしめた。
ドアノブに手をかける。その瞬間、無意識に動悸が早まるのがわかった。鼓動が耳の奥で反響し、妙に大きく聞こえる。
(今さら、何を怖がってるんだ)
自分に言い聞かせながら、静かに扉を押し開いた。
病室の中は、静かだった。
窓から差し込む陽の光が、穏やかに白いシーツを照らしている。消毒液の匂いが微かに漂い、機械の微かな電子音が空気を震わせていた。
そして──ベッドの上には、少しやつれた男が横たわっていた。
髪は以前よりも薄くなり、頬はこけ、皺も刻まれている。昔の記憶の中のおぼろげな父と比べても目の前の父は違う姿だった。それでも、閉じられた瞼の下の面影は、間違いなく俺の知る父のものだった。
俺は静かに歩み寄り、ベッドの横に立った。
「父さん...」
小さく声をかける。
瞼がわずかに震えた。そして、ゆっくりと目が開く。
濁った瞳が、ぼんやりと天井を見つめる。次いで、俺の方へと視線が移った。
しばしの沈黙。
それは数秒だったのか、それとももっと長かったのか──俺には分からなかった。
やがて、父の唇がわずかに開いた。
「......蓮、か?」
かすれた声が、俺の名前を呼ぶ。
確かめるようなその言葉に、俺は静かに頷いた。
「うん、久しぶり、父さん」
一瞬、沈黙が落ちた。病室の窓から差し込む光が、ただ静かに俺たちの間を照らしている。
父は少しの間、俺をじっと見つめていた。その視線には、懐かしさや驚き、あるいは何か言いたげな感情が入り混じっているように見えた。
「ありがとうな...こんなところまで、わざわざ来てくれて」
「うん」
短く答えながらも、自分がどういう気持ちでここに来たのか、まだ整理しきれていなかった。ただ、顔を見ておきたかった。それだけは確かだった。
父はゆっくりと目を細め、わずかに笑ったようにも見えた。
「随分と大人びた顔になったな...」
「そうかな」
「ああ。俺の知っている子どもの頃のお前とは、だいぶ違う、
はは、やっぱり父さん似かな蓮は」
どこか寂しくも嬉しそうなその言葉に、俺はどう返せばいいのか分からなかった。ただ、その変化は父も同じだった。
「...父さんも、変わったよ」
ふと口をついて出たその言葉に、父は目を瞬かせたあと、静かに目を伏せた。
「...そうかもしれないな、久しぶりに会えたのに情けない姿でごめんな」
病室の静けさの中、俺たちはぽつぽつと言葉を落としながら向き合っていた。
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