病室の静寂の中、父はゆっくりと息を吐いた。吐く息はわずかに湿り気を帯び、無機質な病室の空気に溶けていく。窓の外から差し込む光が、淡く白いシーツの上に影を落としていた。
「...体の具合はどう?」
俺は少し迷った後、静かに尋ねた。自然と最初に出たのはこの言葉だった。
父は微かに微笑みながら、ゆっくりと首を横に振る。
「大したことはないよ。もともとあまり丈夫な方じゃなかったからな。今回も、ちょっと無理をしすぎただけだ」
「無理って…仕事?」
「まぁそれもあるかな...」
父は天井を見つめながら、ぼそりと呟くように言った。その目は遠くを見つめるようで、どこか虚ろにも見えた。
「気がついたら、体が動かなくなっていてな…倒れて、そのままここに運ばれたよ」
「...そんなに酷かったの?」
「しばらく休めば大丈夫だと医者は言ってた。けど、まあ…お前にまで心配かけてしまったな」
申し訳なさそうな父の顔を見て、俺は少し唇を噛んだ。父の頬はやつれ、目の下には濃い影が落ちている。元々線の細い人だったが、それにしても今の姿はあまりに弱々しく見えた。
「別に…でも、もっと自分を大事にしろよ」
「そうだな」
短く返した父の声には、少し疲れがにじんでいた。俺は少し息を整え、次の言葉を選ぶ。
「…母さんのこと、探してた?」
父の表情がわずかに曇る。わずかに指先が動き、ベッドの上のシーツを掴んだ。
「...結局、見つけられなかったよ」
そう言って、目を伏せた。病室の静けさが重くのしかかる。
「けどな、数年前に一度だけ、手紙が届いたことがある」
「手紙…?」
「ああ。差出人の名前はなかったけど、間違いなくあいつの字だった」
俺は無意識に息をのむ。
「そこには、こう書いてあった。
──もう、会わない。
あれ以来音沙汰もないからな、最後の手紙だったよ」
父の声は淡々としていたが、その目の奥には、言葉にはできない寂しさが滲んでいた。
俺はその場で何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。胸の奥がざわつき、指先が冷たくなる。
「...お前は、母さんに会いたかったか?」
父の問いに、俺は答えを探す。言葉にするのが怖かった。
母との楽しい記憶はほとんどない。ただ、幼いころの、あの夜の出来事だけは、鮮明に焼きついていた。
「父さん」
俺は、ずっと心の中にしまっていたことを、ようやく言葉にする。
「あの夜のこと、ずっと引っかかってた」
父の顔が少し歪んだ。手の甲に走る皺が、より深くなった気がした。
「...ああ」
「俺、子供だったけど…あの時、何かすごく恐ろしくて、何が起きたのかちゃんと理解できなかった。でも、父さんと母さんが普通じゃない状況だったのはわかってた」
父は目を閉じ、しばらく何も言わなかった。
そして、静かに息を吐くと、少し掠れた声で言った。
「...あの時、お前に見せるべきじゃなかった。いや、あのあとも…俺は、お前を置いていかずにちゃんと向き合うべきだった」
父の手が、かすかに震えているのがわかる。
「すまなかった、蓮」
静かに紡がれたその言葉は、どこか脆く、そして切実だった。
「...俺も、正直どうしていいかわからなかったよ」
そう呟くと、父は苦笑した。その笑みはどこか寂しげで、どこか安心したようにも見えた。
「...それでも、こうしてまたお前に会えて、俺は嬉しいよ」
その言葉に、俺の胸が少しだけ温かくなる。
父は、俺の目をまっすぐ見つめていた。濁った瞳の奥に、微かな光が宿っているのを感じた。
俺も、その視線を受け止めるように、静かに父を見返した。
「俺も、会えてよかったよ」
そう言うと、父はゆっくりと微笑んだ。その微笑みは、昔のわずかな記憶と変わらない、どこか優しいものだった。
病室の静寂を破るように、父はふっと息を吐いた。その表情には、昔見た穏やかさがだんだんと戻ってきているように感じる。
「母さんのことは、もう気にしなくていい」
ゆっくりとした口調で、けれどはっきりとそう言った。
「でも...」
思わず反論しかけたが、父は軽く首を横に振る。
「今さら俺たちがどうこうしたところで、あいつの意思は変わらないだろう。ずっと探し続けて、それでも届いたのは“もう会わない”という手紙だけだった。それがすべてだ」
父の目は遠くを見つめていた。寂しさがないわけではないのだろう。それでも、どこか吹っ切れたようにも見える。
「それより...蓮、お前はどうなんだ?」
「俺?」
「お前の生活だよ。大学はどうだ?元気でやってるのか?」
「...まあ、なんとか」
言葉を濁しながら、俺は曖昧に答えた。
「なんとか、か」
父は口元に薄く笑みを浮かべながら、じっと俺の目を見つめる。
「何か、悩んでいるんじゃないか?」
その視線に、俺は思わず息を詰まらせる。
「...」
「はは、小さいときもそうやって言いたいことがありそうに悩んでたな」
穏やかな声だったが、逃げ道を塞がれたような感覚がした。幼いころも父には笑顔でよく見抜かれ、諭されていた気がする。
「...少し、困ってることがある」
観念したように、俺は口を開いた。
「義務のことか?」
まっすぐに核心を突かれ、俺は小さく頷く。
「...ああ。支援を受けてる以上、逃げられないものなんだってわかってる。でも...」
「怖いか?」
父の声は優しかった。
「うん、どうしても踏み切れないんだ」
「その“どうしても”の理由は?」
俺は少し躊躇った後、言葉を紡ぐ。
「たぶん母さんへのトラウマかな...でもそれだけじゃなくて...」
「大学の先輩で...その、黒髪で、すごく綺麗な先輩がいて...」
「ふむ」
父は静かに聞いている。
「俺に優しくしてくれるし、嫌な人じゃない...むしろ、すごくいい人なんだ。だからこそ、俺なんかが本当に相手になっていいのかわからなくなったんだ、だってこのタイミングで恋人になってくれだなんて、義務のために利用しようとしているみたいだし...」
そう口に出してみると、父はしばらく何か考えるように沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。
「蓮、お前はその人のことをどう思っている?」
「好きだよ。だからこの気持ちが精子提供義務から生まれたものじゃない理屈が欲しいって...」
「それなら、焦る必要はないさ」
父は微笑んだ。
「義務のことも、確かに大事だ。でも、幸か不幸か男性に対して強制執行があるわけじゃない。だから、まずはお前がどうしたいのかを考えろ」
「どうしたい、か...」
「そうだ。相手のことを思い浮かべて、ただの義務として捉えているのか、それとも...大切な人として向き合いたいのか、難しく考えすぎる必要はない自分のしたいことを見つめてみるといい」
父の言葉に、俺は目を伏せる。確かに...悩みの解決に目が行き過ぎて、自分がどうしたいかという部分が漏れていたのか...
「俺も、母さんとそうだった」
父の言葉に、思わず顔を上げる。
「母さんとは...どうだったんだ?」
「俺も最初は戸惑ったよ。ただ同たじ研究室に所属しているから手助けしたってだけだったが、交流を深めるうちに好きになっていたんだ」
父は目を細め、どこか懐かしそうな表情を浮かべる。
「だからこそ、母さんへの後悔もある。けれど、それ以上に、あの時間があったからこそ、蓮が今ここにいる、俺にとっては、蓮がこうやって会いに来てくれて、会話ができていることがその後悔より大事ってことさ。」
その言葉が、静かに胸に落ちていく。
「...俺も、考えてみる」
「ああ、それでいい」
父は満足げに頷き、俺の頭を撫でた。
「焦るな、蓮。人生なんて常に悩みだらけだ、悩んで悩んで自分の出した答えに沿ってまっすぐ歩けるなら失敗だってお前の糧になるんだ、お前の思いをその先輩にぶつけてこい」
俺は静かに、父の言葉を噛みしめる。
「うん、わかった...いってくる。」
「そうだ...父さん、退院したら、その...飯でも食いに行こうよ、ばあちゃんのとこにも顔出さないといけないだろ?」
「っ!...ああ!そうだな!ははは!、だったらこんなとこで寝ている暇はないなぁ!
いやさっきも言ったが、体のほうは大したことはないんだ、ほら見てみろもうこんなに動けどわぁ!」
「父さん!?」
急にベッドから立ち上がり転倒する父に驚き、ナースコールを押し込む、
すぐさま駆け付けたナースたちに叱られながら、「でも息子との食事が...!」と嘆きつつ安静にしておけとベッドに叩き込まれる父を横目に俺は病院をあとにするのだった。
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