夜の静寂が大学の廊下を包んでいた。人気の少なくなったキャンパスの中で、俺の足音だけが響く。
研究室の明かりはまだ灯っている。きっと先輩はまだ残っているはずだ。
扉の前で、一度大きく息を吸い込む。鼓動が速まるのを感じながら、俺はゆっくりと扉をノックした。
「...どうぞ」
聞き慣れた、落ち着いた声が返ってくる。
扉を開けると、先輩はデスクの前に座っていた。長い黒髪が柔らかく揺れ、白衣の袖をまくった腕がノートの上を滑っている。
「遅くまで残ってたんですね」
俺の声に、先輩は軽く顔を上げた。そして、俺の姿を見て、ほんの一瞬、瞳を揺らす。
「...どうしたの?」
問いかける声は穏やかだが、どこかで俺の気持ちを察しているようにも思えた。
「告白の続きをやらせていただけないでしょうか」
そう言うと、先輩は静かにノートを閉じた。椅子を回し、俺のほうを向いてくる。
「うん、聞くよ」
先輩の視線を正面から受け止めると、緊張で喉が詰まりそうになる。それでも、父さんの言葉を思い出しながら、ゆっくりと口を開いた。
「俺、ずっと考えてました。義務のこと、先輩のこと...」
「...うん」
先輩は何も言わず、ただ静かに待ってくれている。
「正直、怖かったんです。義務に縛られてるみたいで、自分の気持ちが本当のものなのかもわからなくなって… でも、そんなこと関係なく、俺は——」
一度息を整える。
「先輩が好きです」
言葉にした瞬間、心臓が大きく跳ねた。
先輩の目がわずかに見開かれる。
「......義務がなくても?」
「はい。俺にとって先輩は、ただの義務を果たす相手なんかじゃない。支援のこととか、精子提供のこととか... そんなの全部関係なく、俺は、先輩に惹かれています」
先輩はしばらく何も言わなかった。静寂が研究室を包む。
俺はただ、先輩の言葉を待った。
やがて、先輩はゆっくりと微笑んだ。
「...そうなんだ」
柔らかい声だった。
「正直、いつかこんなふうに言ってくれるんじゃないかって、少しだけ期待してた」
「えっ...?」
「でも、蓮くんは悩んでたよね。義務のこと、母親のこと、自分の気持ちのこと。そんな状態で答えを出すのは難しいと思ってたから、私はただ待つしかなかった」
先輩はふっと笑う。
「でも、こうして自分の答えを持って来てくれた。それが何よりも嬉しいよ」
俺の胸の奥で、温かいものが広がっていく。
「...先輩」
「私もね、蓮くんのことが好き」
先輩は静かに言った。
「希少な男の子だからってだけじゃなく、蓮くん自身が好きなの。真面目で、不器用で、でもすごく優しくて... そんな蓮くんのことを、ずっと想ってた」
その言葉に、俺は目を見開いた。
「...本当に?」
「うん」
先輩は微笑む。そして、おもむろに立ち上がると、俺のそばに近づいてきた。
「だから、これからはもう遠慮しないで」
そっと、俺の手を取る。
「蓮くんが私を好きなように、私も蓮くんを好きでいたい」
その温もりに、俺の胸はいっぱいになる。
「...先輩」
「ん?」
一度、息を整えて。
「...葵先輩」
そう呼ぶと、先輩...いや、葵さんは驚いたように目を瞬かせ、それから、ふわりと微笑んだ。
「うん」
月明かりが研究室の窓から差し込む中、俺たちは静かに手を握り合っていた。
研究室の静かな空気の中、俺の告白を聞いた先輩は、ゆっくりと息を吸い込むと、穏やかな微笑みを浮かべながら俺の顔を見つめた。
「そっかぁ」
先輩は静かに言葉を紡ぎ、ほんの少しだけ距離を詰めてきた。
さっきまで机を挟んでいたのに、今はもう、すぐそばにいる。先輩の黒髪が揺れ、俺の視界をふわりと包み込むようだった。
「蓮くんが、そんなふうに思ってくれてたなんて、嬉しいな」
低く甘やかな声が、耳元で響く。
「...っ」
思わず肩をこわばらせた俺に、先輩はくすりと笑った。
「緊張してる?」
「...そりゃ、まあ...」
正直、心臓がうるさいくらいに鳴っていた。先輩の表情は穏やかなのに、なんだか妙に熱っぽい。気のせいか、息も少し荒いような...。
そんな俺の戸惑いを余所に、先輩はすっと手を伸ばしてきた。
気づけば、俺の手は先輩の両手で包み込まれていた。指先が優しく絡まり、ぎゅっと握られる。
「...え?」
少し驚いて顔を上げると、先輩はどこか満足そうに微笑んでいた。
「んふふ、なんだか可愛いね、蓮くん」
「か、可愛いって...」
なんだこれ、なんか変な空気になってきた。
先輩の指が、俺の手のひらをゆっくりと撫でるように動く。細くてしなやかな指が絡みつくたびに、くすぐったいような、落ち着かない感覚がこみ上げてくる。
「蓮くん、もう一回、言ってくれる?」
「...え?」
「さっきの、告白の言葉」
先輩が、すっと顔を近づけてくる。
「...もう一回、ちゃんと聞きたいな」
その瞳に射抜かれたような気がして、俺は少し息を呑む。
「...っ、俺は、先輩のことが...好きです」
先輩の手が、さらに強く俺の手を握った。
「...うん、私も、蓮くんのこと、好きだよ」
囁くように告げられた言葉が、胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
俺は、ぎゅっと握られた手のぬくもりを確かめるように握り返した。
先輩の頬が、わずかに赤く染まる。
なんだろう...先輩から絡みつくような何かを感じる...
先輩の赤みがかった瞳がさらに色濃くなっているような気がした。
でも...いいか...先輩の笑顔が近くにある以上に幸せなことなんかないと今はそう思う。
互いの思いを確かめるように、先輩の手をやさしく握り返した。
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