華やかなイメージとは違う、少しマイナス方向に焦点を当ててみました。
「死」というものに、初めて触れた。
それは果てしなく深い沼のよう。
落ちても落ちてもそこに辿り着くことはなく、文字通り永遠に落ち続ける虚無。
上に上がることは出来ない。ひたすらに手足を動かしても、泥のように彼女の全身を絡めとる。
瞳が開かれることはない。死者に光は必要ないとばかりに。
自身が何者であるか、何故ここにいるのか。思い出そうとしても思い出せない。
一つだけ、瞼の裏に残っているものがある。
それは細い、線のような十字の光。一本は紫色。あらゆるものを拒絶する炎の色。そしてもう一つは―――
パチリ、パチリ
火花がはじける音に導かれ、女は意識を浮上させた。
ゆっくりと瞼を開く。何十年と眠っていたかのように、上下の瞼は強固にくっついていた。
優しい火の光。だか彼女には少し眩しすぎたようで、慌てて目を細めた。
「気が付いたか」
火を挟んで向かい側に人の気配。どうやらここは森の中のようで、それ以外に人の気配は見当たらない。
いたのは編み笠を被った旅の僧らしき男。ぱきり、と枝を折っては炎にくべている。
僧とは言っても顔つきは精悍で、どちらかと言えば武士に近いものを感じる。
誰か、と問いかけようとして、言葉が出でこない。戸惑う彼女を見て、僧は竹筒を渡してくる。
「飲め。かなりの期間眠っていたと見える」
言われて初めて喉が渇いていることに気が付く。
ありがたくいただく。水に飢えた砂漠のように、忽ち竹筒を空にする。
ようやく言葉が出てくる。ここは何処で、貴方は誰なのか。
「愚僧は旅の僧、名乗るほどのものでもあるまいよ。山で修行しておったのだが、そこの洞窟で貴殿を見つけてな。何やら魘されておったので、介抱しただけのこと」
そこまで言われて、ハッとする。
今の自分には額を覆うものは何もない。慌てて手で角を隠す。
そんな彼女を見て僧は口を開く。
「案ずるな。貴殿をどうこうする気も、手段も無い」
確かに僧からは特別な力は感じられない。持ち物からもだ。
そうなると疑問が浮かび上がる。何故自分を助けたのか?
「人も化生も違いあるまい。御仏は等しく皆に手を差し伸べて下さる。愚僧はそれに従っただけのこと。それに―――」
僧は言い淀む。
女は促すが、僧は結果として首を横に振るだけに終わった。
「―――いやいい。とにかくその角を隠す必要はあるまい。それでも気になるというなら・・・ほら」
僧は横に置いてあった、予備の編み笠を渡してきた。
促されて、女は傘を被る。女には少しだけ大きかった。
「これで少しは隠れるだろう・・・では、愚僧はこれで」
言い終えると、立ち上がる。どこへ行くのかと女は訊ねた。
「目的などない、ただ歩くだけよ。そして人の死に立ち会えば経を読む。それが愚僧にできる唯一のこと」
言い終えると、僧は立ち去った。
女は気が付けば、その後を追っていた。
応仁元年(西暦1468年)、応仁の乱勃発。
8代将軍足利義政の跡目をめぐる争いは、斯波氏、畠山氏らの跡継ぎ争いにも飛び火し、細川勝元と山名宗全の全面戦争をも引き起こした。
十年間、途切れることのなかった戦の炎。それは京の都を焼き尽くし、日本全土に伝播した。
朝廷にも、そして幕府にもこれを止める力はない。血は血でしか洗い落とすことは出来ず、炎は炎でしか消すことは出来ない。
もはや狂気は誰にも止められない。既に室町時代であって、室町時代ではない。
百年以上に渡るこの時代を、後世は戦国時代と呼んだ。
永禄五年(西暦1562年)
僧は女の同行を拒まなかった。
服を渡し、草履を渡し、食事を渡し。最後に一つ呟いた。
「これも御仏の導きか」
この言葉の真意は分からなかった。
僧の言葉に偽りはなかった。
一日中歩き、昼と夜だけ立ち止まる。
立ち止まるときはもう一つ、人の死に立ち会ったときだ。
「弔われねば成仏も出来まい。貴殿が望むなら経を読もう」
「へえ、ありがとうごぜえます。ですが私には銭は・・・」
「案ずるな、銭は取らん。代わりと言っては何だが、一食だけ恵んではくれまいか?」
「よ、よろしいので!?ぜひ、おねげえします!」
僧は変わり者であった。
どうやら弔うには銭が大量に必要らしい。
しかし僧はそれを拒む。貰うのは相手からどうしてもと言われた時だけ。
「ありがとうごぜえます。これで爺さんも安心して眠れます。こちら、ささやかですが料理を準備させていただきやした。お弟子さんの分も、どうぞ」
いつの間にか、僧の弟子扱いされていた。
でも、何故か悪い気はしなかった。
「馳走、感謝する」
料理に口を付ける僧。どんなに質素な料理でも僧は文句ひとつ言わなかった。
しかし例外はある。頑なに肉を口にしなかったのだ。
米と、野菜と、少しの魚。過食をすることはない。
いつの間にか、女も肉を口にすることは無くなっていた。
弊害はあった。
鬼としての本能が人肉を求めたのだ。
それだけではない。周囲に立ち上る血の香りが、全てを奪わんとする弱肉強食の空気が鬼の本能を悉く刺激した。
「奪え」「殺せ」「喰らえ」「隣にいる肉を」「油断しているぞ」「仕留めるのは容易い」
脳に言葉が反響する。
しかし実害を及ぼすことはなかった。
理性を失いかける時、決まって胸の傷が焼けるように痛む。
「熱い」「熱い」「熱い」「熱い」「熱い」「熱い」
彼女の意識ごと、鬼の本能を焼き尽くす。
目が覚めたとき、悪逆なる本能はしんと静まり返っていた。
僧は弔う人間を区別しなかった。
農民、武士、町民、貴人。挙句の果ては罪人まで。
「罪人の弔いも、愚僧の務めであろう」
何故か、と聞いた。
罪人は何でも主君を裏切ったそうだ。そんな罪人にまで安眠を願うのか、と。
「そうだな、あれは罪人だ。しかしな、死者でもあるのだ。農民も、町民も、武士も、貴人も、罪人も、死んでしまえばただの肉の塊よ。それに御仏はそのようなもので区別はせん。であるのならば、愚僧も区別なく念仏を唱える。ただそれだけのことよ」
晒し首の前で念仏を唱えたこともある。
町人の中には彼のことを好奇の目で見る者も居た。しかし、彼女にはそんな目で僧を見ることは出来なかった。
旅を続けてしばらくして、女は自分にも念仏を教えてくれと頼んだ。
それほど大層な理由はない。ただ、僧が念仏を唱える間手持ち無沙汰だったから。
僧は、自分の使っていた経本を女に渡した。
「愚僧は全て暗記している。これを読んで精進せい」
立ち止まる理由に、念仏の勉強が加わった。
元亀元年(西暦1570年)
気が付けば、本当に僧の弟子になった。
而して特段に生活が変わるわけではない。
歩き、学び、念仏を唱え、また歩く。その繰り返しであった。
六月ごろ、今浜で大きな戦いがあった。
丁度通りかかった彼らは、人々に混ざって作業を進めた。
死体を焼き、骨を埋め、念仏を唱える。違ったのは数だけ。
久しぶりの長期滞在。いい機会だと女は僧に訊ねた。
何故僧になったのか、と。
「・・・」
僧は炎に焼かれる死体を見つめる。
女は答えを急かさなかった。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「愚僧はあの死体と同じなのだ」と。
「愚僧は武家に生まれた。家格は低くなかった。食うものに困りはせなんだし、家人も何人もいた。兄弟姉妹は何人もいた」
女は黙って聞いていた。
「やがて初陣を飾った。小さくはあったが勝った。小隊を任されたな。勝って、負けて、そして勝った。法螺の音がして漸く気が付いた。辺りに散らばる死体に」
「城を取った。敵を何人も殺した。城を取られた。味方が何人も殺された。合戦では双方の兵が大量に命を落とした。絶望したな。まるで現世が地獄そのものではないかとな」
だから僧になったのか?女は訊ねた。
僧は否定しなかった。
「あと何人殺せばこの地獄は終わる?百?千?愚僧は答えを持たなかった。そして考えた。ここが地獄だとするなら、死した人々は何処へ行く?極楽浄土か?それとも・・・気が付けば頭を丸めていたわ」
じゃらじゃらと僧は数珠を鳴らす。
いるのは僧ではない。一人の、この世に絶望した男だ。
沈黙の後、女は静かに口を開いた。
「
僧の答えは早く、また迷いも無かった。
「行ける、行けるとも。何故なら愚僧が願う故。我が弟子の安寧をな」
天正八年(西暦1580年)
僧が死んだ。老衰であった。
女は一つたりとも老いてはいない。自らが化生だと思い知らされた。
亡骸は摂津国のある寺に葬った。
名前は最後まで言わなかった。
白紙の墓の前で、初めて一人で念仏を唱えた。
新鮮で、違和感で、とても悲しかった。
気が付けば、目に水が溜まっていた。
雨かと思い、水を拭って空を見上げた。
見事なほどに快晴だった。
寺を後にする。これからどうするか。
憎むべき源氏はいない。執着すべき同類もいない。返すべき恩も無い。
しばらく悩んだのち、女は歩き始めた。
こんな生活も悪くはない。物を奪い、血に酔い、肉を喰らうだけの人生ではなく、ただ死した人々の安寧を願うだけの生活も。
どうせ時間は無限にある。あと百年は、このままでも。
ボロボロになった経本を懐に大事にしまい、形見の数珠を持つ。
胸の傷は、もう痛まなかった。
生まれつき不老長寿の鬼娘
神仏は信じていないが、祈るぐらいはできる。
人間は憎い。しかし憎くないわけではない。
山崎、賤ヶ岳、九州、奥州、関ヶ原、大坂と転々とした後、最後に島原藩で目撃されて以降、消息不明。
鬼と共に全国を渡り歩いた僧
実は鬼娘の因縁の相手の末裔。彼女に関しては言い伝えとして耳にしていた。
名乗らなかったのはその為。彼女はもう、遥か昔の復讐に囚われる必要は無いから。