ゆらゆらしないで布瑠部ちゃん!   作:柚李白

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霧中の恐怖。

 

 

 

 

 

 布瑠部由良が跳ね起き、乙骨颯太と衝突する数時間前のこと。今朝はいつもよりずっと早起きした葉隠透は、昨日買ったオレンジ色のスポーツウェアに身を包んで家を出た。春の早朝はまだ少し空気が冷たいが、これからランニングするには「ちょうど良いかも」と彼女は思った。何より。

 雄英高校ヒーロー科を目指すなら、学力だけではなく体力も鍛えておきたい。だから、今の内から受験が終わるまでは運動を続けたいと考えるのは当然の事。幾ら体力が有り余る年頃だとしても、勉強と運動の両方を頑張るとなると大変だ。それでも、せめて受験が終わるまではしっかりと努力していくと透は決めたのだ。

 

 その決断には、本気を出せば凄い幼馴染みに負けたくないと言う気持ちも少しは有るのかもしれない。

 

 だから走る。夢を現実にする為に、走り通す。この一年は凄まじく忙しい事になるだろうけども、今が頑張り時なのだと分かっているから。

 

 今朝は、珍しく霧が掛かっていた。昨夜の天気予報では早朝から晴れる筈なのに、実際は十数メートル先も見通せなさそうな霧である。こんな日も有ると考えつつ、透は家の前で準備運動。しっかりと柔軟を済ませ、それから走り出す。今日の透が設定した目標は、取り敢えず4Km走ること。颯太のように毎朝フルマラソンをすることは今は絶対に無理なので、その十分の一でも頑張りたいと思ったからだ。

 

 空気の冷たさを感じながら、霧の中を駆ける透明少女。周囲が見え難いせいか、どうにも今朝の住宅街は静かな気がしてならない。

 

「ふ……、ふ……」

 

 なるべく一定のペースで、なるべく一定のリズムで、彼女は足を動かし続ける。まだまだ動きは軽やかなもので、もう暫くはこのまま走り続けていそうだ。

 

(そう言えば、布瑠部ちゃんは持久走とか出来たっけ? 去年のマラソン大会とか、運動会って殆どサボってたような……)

 

 走りつつも、自堕落な幼馴染みを思い出す。今はまだ走り始めなので、余計な事を考える余裕が有るようだ。何となく去年の事を思い返しながら、透は走る。目標の4Kmはまだまだ遠い。今朝のトレーニングは始まったばっかりで、苦しくなってくるのはこれからだ。もっとも今のところ、まだ透の足取りは余裕そのものだけれど。

 

 霧が、徐々に確かに濃くなっていく。

 

(それにしても、霧が濃い……? まぁ天気予報だって外れるよね。予報だし!)

 

 透が軽快に走り続けて、まだ十分も経たない。この霧もいずれは晴れるだろうと思いつつ、まだまだランニングを続けて行く。

 

 だからまだ、気付かない。気付けない。先程から、少しずつ背後に迫る人影を。

 

(……ん? ……何か、変……?)

 

 嫌に静かな霧の中を走り続けている透は、この状況が何か妙な気がして足を止めた。周囲を見渡すと、霧が随分と濃くなっているような気がする。ついさっきまでは少し離れた場所まで視界が通っていたのに、今では数メートル先も見えない。どころか。

 

「……あれ? 何処を走ってるんだっけ……?」

 

 自分がどのようなルートで走って来たのかも、分からなくなってしまったようだ。来た道を振り返って確認しようにも、霧が濃すぎて何も見えない。さっきまでは見えていた筈の建物や、自分が走って行く筈だった道路も、今となっては透の目には映らない。

 

「この霧、もしかして変……? と言うか、何かおかしいよね……!?」

 

 ようやくと言うべきか。今更と言うべきか。どちらにせよ、透は自分を囲うこの霧が普通ではないと気付く。

 まず、彼女の頭に思い浮かんだのは誰かが個性事故を起こしている可能性。個性と言う力が当たり前に存在しているこの時代、個性を発現したばかりの子供が事故を起こしてしまったりする。それは何ら珍しい話ではない。場合によっては、大人だって個性事故を起こしてしまう時が有るのだ。

 

 この霧は、個性事故に依るもの。それが透の頭に、真っ先に浮かんだことだ。そして次に思い浮かべてしまったのは、ヴィランだ。つい最近、静岡の方で中学生がヴィランに襲われるという事件が起きていたことを彼女は思い出す。結局はオールマイトが解決した事件なのだが、その直前に別の中学生が現場に飛び出したとか何とか。

 

(もしかしてヴィラン!? ……なーんて、そんな訳ないか。多分きっと、個性事故か自然現象だよね!)

 

 足を止めたままの透は、思い浮かんだ可能性を頭からどうにか追い出そうとする。ヴィランが起こす事件は、まだ透には画面の向こう側でしか起きない出来事だ。ヒーローを目指しているとは言っても、まだ彼女はヒーロー候補生ですらない。いずれ他人事では無くなるのだろうけど、今はまだ……自分が巻き込まれるとは思って居なかった。

 

 だからこそ。彼女は目に映るものを、疑いもせずに信じ込んでしまった。

 

 霧に困惑していた透が見たのは、遠くから真っ直ぐ近付いてくる人影だ。それから、その人影に寄り添うような大きめの影も二つ見える。周囲は何も見えない程の霧なのに、何故かその影だけはハッキリと見えた。よくよく観察してみると、何処か見覚えが有るような、無いような。

 

「……んん……? 布瑠部ちゃん、……じゃないよね。この時間は寝てる筈……」

 

 一瞬幼馴染みが朝の散歩でもしているのかと思ったが、その説も直ぐに否定する透だった。実際、布瑠部由良が朝早くから散歩するなんてことは無いだろう。あの自堕落で無気力な由良が、早起きする可能性は限り無く低い。どちらかと言うと彼女は、どこまでも寝て居たいと思っているのだから。それを知っている透だが、それでも彼女は霧の中の人影に向かって小走りで駆け寄っていく。出来る限り両腕を振って、自分の存在を人影に向かってアピールしながら。

 

「すみませーん、大丈夫ですかーーっ?」

 

 こんな霧だ。もしかしたら、ただ早朝の散歩をしている人かも知れない。だとしたら困っているかも知れないし、透としても何らかの個性事故? 或いは異常気象の中を一人で居るのは心細い。だからひとまず、透明な彼女は人影に向かっていく。近付くにつれて、人影が二匹の犬を連れているのが分かった。黒い大型犬と、白い大型犬。時折由良が呼び出す玉犬を思い出してか、少し気が緩む。だが。

 

「ぇ……っ?」

 

 次の瞬間には。背筋が粟立つ。近付くことでハッキリと目にしたものは、人でも犬でも無かった。いや、正確には辛うじて人と犬の形を保っている。何故なら透が見てしまったものは。

 

 宙に浮かぶ血塗れの人の皮と、犬の毛皮だったから。まるで、生きた人や犬から皮膚の全てを丁寧に剥がしたかのような―――。

 

「ひ……っ」

 

 息が詰まる。悲鳴が喉から飛び出なかったのは、目の前に有るものが異常過ぎて身体が硬直してしまったから。頭が、身体が、心が。今直ぐこの場から逃げろと警鐘を鳴らす。なのに彼女は、透は一歩も動くことが出来ない。今更になって理解してしまった。理解せざるを得なかった。この霧は個性事故でも自然現象でもなくって、悪意ある誰かによって引き起こされたものなのだと。

 

 

「ぎひっ、ししし」

 

 

 直ぐ真後ろから、笑い声と言うには悍ましい声が聞こえた。急に背後に現れた人の気配と、目の前にある人の皮。恐怖心が際限なく膨らんで、ようやく喉から悲鳴が出かかったその時。

 

 透は赤黒く痛んだ縄で首を絞められ、悲鳴を上げる間もなく気を失った。

 

 

 

 

 

 

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