ゆらゆらしないで布瑠部ちゃん! 作:柚李白
「ん、ぐ……。げほ、ごほ……っ!」
咳き込みながら目覚めた透の目に飛び込んだのは、赤暗い靄。掠れた目を凝らしてみれば、今の自分が居るのはコンクリートが打ちっ放しの窓の無い部屋だと分かる。喘ぐように息をすると、鉄と生ゴミが混じったかのような強烈な臭いに鼻腔を叩かれて視界が涙で滲んだ。更には、肌に纏わりつくかのような嫌な空気が漂っている。
目が覚めた透は咳き込み、反射で身体を動かす。が、視界がぐらりと傾いて床に倒れ込んでしまった。身体に走った鈍い衝撃と強い痛みに呻きながら、それでも何とか動き出そうと手足に力を込めたところで、彼女は自分がどういう状況に置かれているのかに気付いてしまった。
手足が全く動かせない。辛うじて首を動かして見れば、椅子に縛り付けられている自分の身体が目に入ってしまう。
「―――っっ!」
血の気が引いた。自らが置かれている状況を知って、身体が震え始める。奥歯がカチカチと鳴って、それを止めることが出来ない。幾ら息を吸い込んでも、まだ息がし足りないようにすら感じてしまう。
何でっ!? どうして!? 怖い、怖い怖い痛い怖い苦しい嫌だ―――!!
そんな思いばかりが頭の中を駆け巡って、更に呼吸が荒くなる。今朝遭遇した不可解な霧に、宙に浮かぶ血塗れの人皮や獣皮。気を失って、目覚めたら椅子に縛り付けられている。こんな状況で、パニックにならない市民は居ない。プロヒーローだって、未熟な者ならば焦るだろう。
まだ透は、ヒーロー候補生ですらない。何の訓練も受けていない、ヒーローに憧れるだけの中学生に過ぎない。
ぎいぃ……。と、重苦しい耳障りな音が透を監禁している部屋に響く。かつかつと鳴り響く独特な足音と、ざりざりと何かを引き摺るような音が聞こえた。誰かが、……こうして透を誘拐し監禁したヴィランが、近付いて来る。
「ぎひひっ。起きたかぇ、葉隠透」
「ひっ……!?」
透の目に映ったのは、血に濡れた皺だらけの足と草履。木の根をそのまま使っているかのような杖の先端。そして、半分程が真っ赤に染まっている人の皮。耳に届いたのは、酷く嗄れた……男なのか女なのかも分からない声。
自分をこんな目に遭わせた相手が誰なのか。それを確認する勇気は今の透には無い。こんな時、ヒーローならどうするのだろう? なんて考えることも出来ない。体の芯が冷たくなって、心臓が狂ったように早打ちして、呼吸がずっと苦しいままで。既に気がおかしくなりそうな程の恐怖に身も心も晒されて、ただただ怯えることしか出来ない。
「ひひっ、そう怯えなさんな。あんたはまだ餌さ。十種影法術を扱う子を呼ぶ為の……ね」
「―――っ!?」
十種影法術。その言葉には聞き覚えがある。……なんてものじゃない。透は知っている。それが誰の力を指し示す言葉なのか。そして、恐怖の波に溺れそうになりながらも、目の前の誰かの狙いを知ってしまった。胸中を占めるのは恐怖ばかりで、泣き出したいぐらいだ。けれども、今聞いてしまった言葉は到底無視出来ない。怖くて怖くて堪らないけれど、恐ろしさに心が押し潰されてしまいそうだけれども。
脳裏に一瞬浮かんだ幼馴染みの姿が、ほんの少しだけ透の頭を冷静にさせてくれた。
(この人、布瑠部ちゃんが狙い……!? だから、私を……っ!?)
「儂等みたいな呪詛師は、ヒーローだなんだが出て来てから随分肩身が狭い思いをしたもんだよ。下手な真似をすれば呪術師に伝わって、直ぐ殺される。運良く生き延びても、次は無いようなもんでねぇ」
「……っ、っっ」
「だから考えたのさ。あんたを人質にして、東京中の呪霊を根絶やしにしたあの子と縛りを結ぶ。そうさな、あんたに手を出さない代わりに儂等を手伝い続ける……ってな感じでねぇ!」
「きゃあっ!?」
鈍い音が響く。老爺、或いは老婆が持つ杖の先端が透の脇腹にめり込んだ。急な暴力に晒されて、ただ透明なだけの子供でしかない彼女は悲鳴を上げることしか出来ない。五体が椅子に縛り付けられていなかったとしても、果たして抵抗することが出来たかどうか。
「っ、うぅう……っ!!」
痛みが増していく。自らを呪詛師だと名乗ったこの老人は、人質に押し当てた杖に体重を掛ける。一瞬は冷静になれた透だったが、痛みで恐怖が膨らむ。逃げ出したいぐらい怖いのに、何をすることも出来ない。腕に走る強い痛みが、身も心も支配している。
―――痛い、怖い。痛い痛い怖い、痛い。
もはや透に、それ以外の何かを考えることは出来ない。
「まぁもっとも、此処からは賭けだけどねぇ? 布瑠部由良が此処に来るのが先か、呪術師が駆け付けるのが先か。
ぎひひ。布瑠部由良の方が早ければ、生きて居られるよ。呪術師が先なら、皮を剥ぎ取る。透明人間の皮を被るのも、悪くないねぇ!」
「っ、っっ!? ぅ、ああっ!?」
「ぎひひっ。きひっ、ひひひ!」
何を語られているのか、透は分からない。理解出来ない。考える余裕も無い。脇腹に食い込む杖の先端に捻りが加えられて、更なる痛みに襲われる。呪詛師は気味悪く笑い続け、余計に恐怖を煽る。
「あぁ、剥ぎたいねぇ。この透明な皮、さぞ被り心地が良さそうだ。指先からじっくりと剥がして、丸ごと残してやらないとねぇ……!」
「ひ……っ!?」
「ぎひぃ。きひひひひっ!」
(やだ、やだやだやだ……っ! 誰か、誰か助けて! 誰かっ、布瑠部ちゃん……っ!)
際限なく膨らみ続ける、痛みと恐怖。そして急に思い浮かんでしまった、最悪の結末。それが、透の心を縛り付ける。
もしも。先に来てくれるのが、由良じゃなかったら。由良じゃない呪術師が自分を救けに来てしまったら。
そんな最悪な光景が頭に浮かんで、更に恐怖を増大させていく。
せめて。せめて先に、由良が来てくれれば。そうすれば、そんな最悪な未来は―――。
「ぎひひ。あんたは、どっちが良い? 友達を呪詛師に変えるか、生きたまま皮を剥がれて死ぬか? どっちにしたって、ヒーローにはなれないねぇっ」
「―――っ!!」
「ほら、答えな……! よぅく考えて、言ってみな……!! でないと、もっと痛め付けるよ!!」
「ぅ、ぁあ……っ! ぁ、ぐ……っ!!」
それは、悪趣味な拷問だ。脇腹の痛みは激しさを増すばかりで、逃れられない。この痛みから逃れる為なら、呪詛師の問い掛けに答えるしかない。どちらかを選べば、もしかしたら。救けに来てくれるのが、由良だったら。
そんな逃げ道だけが目に入って。
透は、歯を食い縛った。
―――痛い。怖い。逃げたい、救けて欲しい。死にたくない。家に帰りたい。でも。だけど―――!
「っ……、っ……し……!」
「……あ?」
痛みが、薄れた。呪詛師が、杖を捩じるのを止めたからだ。もう既にその先端は、透の肉を突き破っている。どころか、肋骨の隙間を通り過ぎようとしていたぐらいだ。呼吸をする度、感じたことのない痛みが彼女を苛む。この呪詛師がその気になった時点で、透の命は無いだろう。それでも。
「呪術師って、言ったの……!!」
自分の命と引き換えに、幼馴染みを悪党に渡すような真似はしたくない。もしそれをやってしまえば、ここで由良を選んでしまえば。
ヒーローになんてなれない。そう、思ったから。
「あぁ、そうかい……! つまらない子だねぇ!!」
バキン! と。
聞いたことのない音が、透の脇腹から鳴り響いた。
「ぅあぁあああっ!?」
それは、肋骨が折れた音だった。折れたどころではない。呪詛師は杖の角度を変え、透の脇腹を勢い良く抉った。その際に肋骨に引っ掛かった杖が、骨ごと肉を抉ってしまった。温かく、けれども透明な血が噴き出して、買ったばかりのトレーニングウェアに染み込んでいく。体感したことのない痛みで、もはや透は叫ぶことしか出来ない。
そして、呪詛師は杖を振り翳す。透の脇腹を抉り飛ばしたその先端が、振り降ろされようとした。
その時。
「透っ!!!」
赤暗い靄に包まれた部屋に飛び込んで来たのは、呪術師ではなく二匹の玉犬を従えた由良だった。