話は公式練習の時まで遡る。
公式練習とは試合が始まる数時間前にその日の調子や氷の感覚を掴むために練習する時間だ。場所によって氷の感覚は結構変わるもので、この公式練習の結果の如何によっては構成を変えることもある。
同時に他の選手の動向をチェックし、作戦を練る場でもある。それほどまでに重要な時間なのだ。
そして本番前に曲をかけて練習する最後の機会というとても貴重な時間であるということも忘れてはならない。
つまり一部例外はあれど、公式練習で一切跳ばなかったジャンプは跳ばないと見てもいい。
そんな公式練習の最中だ。
「おい、あの子何をやってるんだ」
「確か今あの子のブロックの順番じゃないのか」
他の選手の動きを確認するため、コーチたちが偵察に来ていた。
注目選手は既にピックアップしてある。狼嵜光、潔唯、鹿本すず、亜昼美玖、結束いのり、八木夕凪、申川りんな。
他にもいるがどれも推薦選手やブロック大会で好成績を残した者たち。加えて、その大会まであまり注目していないかったダークホースが多く含まれることも留意しなければならない。
そのコーチが探していたのはダークホース筆頭の申川りんなだ。
「一体何をやってるんだ・・・」
「まさか・・・いや、いかれとる・・・完全にいかれとるやろ」
その異変に気付いたコーチたちがりんなに注目を集める。
リンクの大きさの問題から各グループごとに分かれて練習は行われる。今はその申川りんなが練習生として含まれる時間帯のはずだ。
だというのに、りんなはまるで関係ないかのようにリンクの縁に腰を掛けて足を宙にバタバタとしていた。
「りんな、行儀が悪いから降りなさい。というか何をやってるんだ?今りんなの練習時間だぞ。もうすぐ曲もかかる」
「雉多コーチ、私一番滑走じゃないの初めてだと思うんです」
まるで雉多の話を聞いていないかのようにりんなは自分の話を始めた。
「ああ、そうかもな」
それは恐らく事実だ。雉多の知る限りりんなが一番滑走でなかったこてとは今までなかった。
「だから初めてなんです。緊張が長く続くのも、誰かを追いかける立場って言うのも」
普段は追いかけられる側、必死に椅子にしがみつく立場だった。
しかし今日は違う、ほどほど真ん中。早くはないし、遅くもない。
「私の『未知』の世界なんです。誰かの後に滑るって言うのは」
「それが今のりんなの行動にどう関係するんだ?」
雉多は端的に結論を聞いた。これ以上時間をかければ本当に練習する時間が無くなる。
「『未知』って人にとって一番の
りんなの言葉はどこか遠回りだった。しかし付き合いの長い雉多が少しずつりんなの答えを察する。
「とっても刺激的ですよね。だから『未知』を追求しようと思って」
「・・・何を言っているんだ?」
「今日私は本番で滑るその瞬間まで氷の上に立ちません」
雉多はその行動原理を理解していた。それでもなお、正気でないその行動に耳を疑う。
「『未知』という新しい
りんなは慈しむように微笑んだ。
「とても楽しいそうじゃないですか」
ここ数年でりんなが一番変わった。だが雉多にとってこの逆境に敢えて向かうメンタルはいつになって慣れない。
「いかれてる・・・いかれてるが、お前はそれでいい」
ため息を吐きながら、それでも雉多はその暴挙を許容した。それがりんなにとって必要なのだと分かったから。
「私は何があっても構成を変えません」
そもそもその構成自体、リスクを重ねまくった高難易度構成だった。それどころか本番での覚醒に期待した超希望的観測を含んだ構成なのだが、練習で様子を見て考えようという気はまるでなかった。
「ああ、それがいいだろう。ならもう好きにやろう。お前の気が済むまで」
会場にりんな用の曲が流れ始める。曲かけのなか、それに合わせる者がいないという前代未聞の事態。
そうしてりんなは公式練習はおろか、曲かけも6分間練習も直前練習も氷の上に立つことは無かった。
光の演技が終わると、すぐにりんなの演技に入る。
本来なら、点数が発表されるまでの間、次の選手は練習できる。だがそこでもりんなは氷には乗らない。
呑気に氷上を眺めながら、光の点数を聞いていた。
「光ちゃん」
キスクラから離れ、控室へ向かう通路でりんなは光に話しかける。
光は立ち止まり、じっとりんなの言葉を待った。
「絶望をありがとう」
「え?」
りんなは感謝を口にした。
勿論光は予想外の言葉に戸惑う。嫌味か、挑発か、そんな可能性もよぎる。でも違う。りんなは本音から感謝を口にしていた。
「私至上最高の舞台だよ」
光の後は誰もがその演技を崩す。故に光は常に誰かの絶望だった。
唯やいのり、他の選手も今求められているのはその絶望との向き合い方だ。目をそらして逃避してしまえばそこで終わる。絶望を認識して、戦うことが必要だ。
だが、りんなは違う。
本当に心の底から絶望など微塵も感じていなかった。
不安はある、緊張はある、恐怖もある。
だがりんなの表情は嬉々とした笑みに満ちたものだった。
「だから、ありがとう」
そう言ってりんなはそっとリンクに向かって行った。
申川りんなは常に逆境へ立たされる宿命の元生まれた。
スケートの抽選は自覚するための代表的な物事に過ぎなかった。幼いころから、小さな逆境を少しずつ積み上げていた。
くじ引きで指揮者をやらされた音楽発表会、休みによって急遽繰り上げられたリレーのアンカー、なぜか推薦された委員長。
それぞれは何気ない日常の中の仕方なくやらざるを得なかったこと。それが人より膨大に積み重なったのが申川りんなだ。
大人になれば大したことなくても、今はまだ中学1年生の子供。
内気な性格も起因して、何度も緊張と
そしてそのたびに自分という人間を更新してきた。
そして今、新たに殻を破ろうとしている。
りんなは今日初めて氷の上にたった。
(氷が足に馴染まない)
練習の時ですら本格的に始める前に慣らしをする。それすらなく、氷の上に乗ってすぐ滑らなければならない状況など本来ならばありえない。
(足の感覚がない。地に足が着かない)
普段なら氷に乗ってすぐでもそこまでのことはない。しかし、本番という環境、光の演技の後、『未知』の領域、色んな要素が絡み合ってりんなに浮遊感を与えていた。
りんなは決して緊張しないとか、恐怖を感じないタイプという訳ではない。むしろ内気で些細な事を気にして勝手に追い詰められるタイプだ。
しかし、むしろそれがいい。
その緊張や恐怖がりんなを追い詰めるほど彼女は真価を発揮していく。
リンクの中央に立つと、すぐに演技が始まる。音楽がその合図だ。
(まだ慣れないな)
圧倒的な演技の後、会場の雰囲気は一変してしまう。選手へのプレッシャー、観客の目線。それらが選手の調律を乱し、次第に箍が外れてしまうのだ。
りんなもその例に漏れない。
光の演技の後という最悪な状況。加えて氷に慣れない状態かつ、自身の調子もいまいち掴み切れていない。
(ああ、ぐちゃぐちゃだ。体の中がぐちゃぐちゃになってる)
知らない。『未知』という状態は想像以上に人に対して
りんなは知らない。
一番滑走でない本番の演技、誰かを追いかけるという感覚、光の後という緊張、今日の調子、氷の特徴。
知らない、全部知らない。
そんな事実が真綿で締めるようにりんなを追い込んでいく。体の状態をぐちゃぐちゃに追い込んでいく。
(光ちゃんがこの会場をぐちゃぐちゃの
今日初めてのジャンプ。まだ氷に慣れない状態のジャンプ。光の演技の直後のジャンプ。
(私は私のやりたいようにさせてもらう・・・!)
風がまとわりつく、脚が不安定に振動する。、観客の注目が集まる。
それら全てが煩わしい不快感だ。
その不快感を背負ったまま、りんなは跳ぶ。
3回転アクセル 着氷
誰もそのジャンプを予想していなかった。
3回転アクセルはノービスにおいて値千金の代物。中部ブロックで跳んでないことからも最近身に着けたものだと思われる。その中で事前に練習せずに3回転アクセルを入れるなど正気の沙汰ではない。
「相変わらずのギャンブル構成・・・」
氷に慣れてない状態での初っ端3回転アクセル。その異様さに多くの者が戦慄している。
(私の可能性が底知れない!)
りんなは自分の底知れなさを自覚していた。
練習でも成功率がそこまで高いとは言えなかった3回転アクセルを敢えて構成した。転べば終わるというこの場面で。最初からフルスロットルでリスクを冒していく。リスクはそのままに実力をベースアップさせた結果だ。
しかしそれはまだ構成上という常識の範囲内の話。りんなの気質は誰も予想できない方向に進化していた。
(私は自分が単にリスクを冒して、それを乗り越えるという工程が好きなのだと思っていた)
それは間違っていない。りんなのギャンブル構成は危険なリスクを背負って、点数を上げることに喜びを見出した結果だ。
しかし、それにはまだもう一段階先があった。
(ギャンブル構成・・・それだけならまだ合理性のとれた説明のできる挑戦。でも私は無意識の内に目には見えないリスクをいれてきた)
それは不必要な最後のジャンプ構成だったり、安定しない連続ジャンプ構成という点数には直結しない要素だ。
構成上のリスクはまだ採算がとれる。リスクを冒した分、点数が返ってくるから。
だが今回は違う。
(氷の上に乗らない。直前の練習をしないという本当に点数には関係ないリスクを冒した)
それだけじゃない。今りんなを追い詰めているのは1番滑走でない『未知』だったり、狼嵜光が生み出した
(気づいたんだ、私のスケートはあくまで自分との闘いだということ)
自分の心と向き合った末の挑戦。観客には関係ない。
(抑圧だ・・・この挑戦という自分を抑圧する枷が欲しかった)
その枷を解き放つ先にいるのは、さらにもう一段進化した自分。
(私は今まで点数という見返りを求めていた・・・でも今の私は自分の心に問えれば目に見えた採算なんて何もいらない)
他者から見れば今のりんなは理解不能だ。ただリスクを冒して、それは点数に繋がらない。でもりんなからすればリターンは確かにある。
(この極度の
幼少から少しずつ殻を破ってきて、今それを自覚した。
りんなが求めていたのは追い詰められた自分がそれを乗り越えた際に得られる快感と、進化した新しい自分だ。
ジャンプモーションに入る直前、体を横に倒しながら片手を地面に着く。足を振り上げてそのまま一回転。
「片手側転!めっちゃアクロバティック!これって加点なの?」
「いやいや、技術点にそんなのないし・・・演技構成点的にも加点があるかは割と微妙・・・」
「え?じゃあ、ただ疲れただけなんじゃない?」
「それどころか万が一失敗して転んだら減点だよ」
「え!?じゃありんな選手はなんのためにこんなこと・・・」
実利などない。ただ危ない橋を渡る度に更新されていく自分を感じていたいだけだ。
片手側転によって自分の中のリズムが崩れた。疲労もたまる。体の箍が外れていく。
「はは」
(ぐっちゃぐちゃ、頭がぐるぐるで眩暈がしそう!)
しかしりんなのボルテージは上がり続けていた。
体のリズムが崩れた状態のまま、ジャンプへと向かう。
知らない風の感触、知らない足の疲労感。
ひとつひとつがりんなのジャンプを乱していく。しかし踏み切った瞬間、それがぴたりと重なり合う。
3回転サルコウ 着氷
一度は狼嵜光に喰われた会場。選手を呪うように歪んだ空間。りんなの演技はそれを正すでもなく、引き寄せるでもなく、さらなる歪みをもたらしていた。
(スピン、スピンだ。スピンはリズムが大事!でもさっきのジャンプでリズムが揃っちゃったなぁ)
なら、足りない。普通にやっても意味がない。
体の重心を傾けて、脚の重さで体を斜めに振るう
ジャンプではない。振り付けの一環として、体を空中で半回転させた。
「今のは!?」
「加点はないよ・・・なんなら縦回転になってれば減点される」
片足で着地、その足でもう一跳びしてフライングキャメルスピンに入る。
(これでいい!この崩れた状態でスピンに挑む!これを打ち破ってこそ私の演技は完成していく!)
崩れたリズムを調律するように、スピンに入る瞬間にピタリとスイッチを入れる。
フライングキャメルスピン レベル4
(もっと、もっと私を縛り付けろ!雁字搦めに!抑え込むように!不快感を!不自由を私に寄越せ!)
それを打ち破ってこそ、自分に価値が生まれる。
りんなの進化は単なる成長ではない。自ら課した枷、追い込まれた状況。多大に積み重ねられた抑圧を開放しようとする力がりんなの中にある進化の根源だ。
(抑圧からの解放!乗り越えた先にあるカタルシス!それが私の!私だけの
りんなの意図しない内にそんな情動が観客にも共感される。
(ジャンプを跳ぶ前にごちゃごちゃにステップを入れてやる!)
トウステップ、チョクトー、ツイズル。
演技の繫ぎ目なんて関係ない。
どこを向いてるのかも分からないほど交差する視点。
加えて、わざわざステップでインサイドエッジに重心を乗せた。
ジャンプの直前にそれを無理やりアウトサイドへ換える。
一瞬体がぐらつく、しかし自分はもうジャンプモーションに入っている。
そこから足を振り下ろしてトウを突くまでの刹那の間にバランスを立て直す。
3回転ルッツ 着氷
その無駄なムーブは難しいジャンプへの導入として加点されていた。
しかし、りんなにそんな意図はない。
ただりんなの自分勝手が点数を上げ、観客を魅了していた。
演技は既に後半に差し掛かっていた。勿論コンビネーションジャンプ2回を最後に取っている。
スピンを終えたら、残すはその2つだけという状況。
もう説明不要の不必要なリスク。
コーチたちがその最中にりんなのジャンプを考察する。
予選で跳んだ3回転ルッツ+3回転トウループ、これが一番可能性が高い。だがもしかしたら、それを超えてセカンドループを入れてくる可能性を否定はできなかった。現にそれを成功させている選手がもう増え始めてる。
しかし、その選手たちは全て前半に跳んでいる。この後半に連続ジャンプを2つ。いかにりんなといえど、高すぎる壁だ。
そんな思考が交錯する中、りんなはただ自分の事だけを考えてジャンプに挑む。
重心を意識しながら、脚を振り下ろす位置を工夫してできるだけ跳びやすく跳んだ。
3回転フリップ+3回転トウループ
一瞬コーチたちが違和感を覚える。
高難易度ジャンプだ。それは間違いない。だが、予選では3回転ルッツでコンビネーションを跳んでいたのに今回はジャンプ難易度を下げた。今までのりんなの行動との齟齬が生まれる。
だがまだ3回転フリップを入れていなかったことを思い出し、構成上仕方のないことだと同時に納得する。
連続ジャンプに入れたジャンプは同回転で2回跳べるというメリットがあるのにそれを捨てるところは案外今まで通りのりんなの気質が鑑みれると考えれば不自然な事でもない。
「まあ、そうだな・・・同種同回転のジャンプを2回・・・」
その可能性に行き着いた者だけが彼女に戦慄していた。
ジャンプの得意不得意は人によって変わるが、フリップというのは難易度と点数のバランスが良い位置にある。だからせっかく連続ジャンプを跳ぶというのならどこかで単独で跳んでおきたいところだ。
なら彼女はもう一度跳ぶ気なのではないだろうか。
だが次の連続ジャンプを跳ぶとすればもっとも難しい3回転ルッツを跳ぶはずだ。自分なら生徒にそんな無謀はさせないが、申川りんなならしてもおかしくない。
3回転ルッツ+オイラー+3回転フリップ、このいかれた状況にてさらなる高みに挑戦しようとしている可能性に思い至る。
「まじか・・・」
しかし、その予想すらまだ足りない。
コーチも選手たちも忘れていた。というより、あり得ないと思考から除外していた。
既に連続ジャンプを後半に入れるという作戦を見ているにも関わらず、無意識に自身のセオリーに当てはめていた。
ジャンプを降りてしばらく、その負担も冷めやらぬ間にりんなは次のジャンプへと挑む。
ジャンプの姿勢に入る。
「まさか、あり得ない・・・」
それが示すのはアクセルジャンプだ。
確かにりんなは演技の頭で3回転アクセルを成功させた。
それだけでも、十分驚異的な事なのに。この少女は3回転アクセルを2回跳ぼうとしているのか。
「さすがに2回転、2回転だろ・・・」
りんなの今までの行動を考えれば2回転アクセルを跳ぶくらいなら、3回転ルッツを跳ぶ。それは誰もが理解しているはずなのに。
(さあ、不可能上等!私の最大の挑戦!)
りんなのコンディションは最悪にして最高だった。
疲労と緊張と異様な会場の空気、全てが作用して彼女の心を圧迫する。
(この先の私は一体どうなってしまうんだろう。その高揚感が私の胸を高鳴らせる)
全身に風を受けながら、活性化した脳が不可能を実現させる。
不快感がりんなに新しい『感覚』を目覚めさせる。
3回転アクセルはアウトサイドエッジで跳び、オイラーはアウトサイドエッジで踏み切ってインサイドエッジで着氷する。フリップはインサイドエッジで滑りながらトウを突く。
繋ぎはかみ合っているが、何度も組み変わるエッジはジャンプの感覚を狂わせる。
しかしその程度のリスク、りんなは高揚させる油に過ぎない。
3回転アクセル+オイラー+3回転フリップ 着氷
狼嵜光ですら跳ばなかったジャンプが今ここに実現した。
(この『感覚』!今私は確実に殻を破った!自分を進化させた!)
成功して気にするのはあくまで自分。りんなの精神性は求道者のそれへと達していた。
しかしそれが観客を無理やりリンクの世界へと巻き込んでいた。
りんなの熱にあてられ、観客が熱狂する。
りんなは光によって狂った会場をさらに狂わせた。
誰もが口をそろえて言った。
申川りんなはいかれていたが、一番熱かったと。
りんなちゃんの過去っぽいところは捏造です。
このssを書こう思って真っ先に思いついたのがりんなちゃんでしたね