『名港ウィンドFSC 申川りんなさん 121.21 現在の順位は2位です』
「あー負けちゃった」
そんな言葉とは裏腹にりんなに悔しさはあまり見られなかった。
「上出来だな」
雉多もりんなの滑りを見た後に冷めた感想を述べていた。
「え?私が負けると思ってたってことですか?」
同じクラブだとしても光はライバル。いかにりんなにとってのスケートが自分との闘いだとしても勝ちたいものは勝ちたい。
「当然だ。あんな身勝手に滑っといて・・・技術点でこんだけ迫れてるだけましだろ」
「好きにしろって言ったのは雉多コーチじゃないですか」
「そうだな・・・だからお前は面倒くさいんだよ」
恐らくこれが現段階でできるりんなの最大だ。殻を破るにはりんなはいくつか問題があった。
りんなはスケートを魅せることは微塵も考えていない。自分がしたいように滑る。
時に、その身勝手が加点をもたらすこともあったがそれでは光に勝てない。りんなのこれ以上の得点を望むなら、演技構成点をさらに上げるしかない。しかし、そのために表現に寄った演技をさせてもりんなは本領を発揮できず、技術点すらままならないかもしれない。
りんなの『エゴ』を抑え込むことなく、かつ型にはまった表現を身に着けさせる。
申川りんなの面倒くさい気質がそんなジレンマを生み出す。
雉多のコーチとしての力量が試されるときが今後来るだろう。
その点数発表に多くのものが戦慄した。
1位とは7点ほどの差がある。しかし誰もこれ以上120点台が出るなどとは微塵も考えていなかった。
これが示すことは、狼嵜光は届きうる存在だという事。
事実、その小さな希望に闘志を燃やすものはいた。
同時に、より混沌とした会場に悲鳴を上げる者もいる。
「ひぇ~!ウチ、これの後に滑らんといかんの!?」
岡山ティナFSC所属 黒澤美豹は嘆く側だった。
「美豹さん6分間練習始まりますよ」
ヘッドコーチである梟木豊は冷静だった。
「いやいやコーチ!ウチこのあと滑れんじゃろ!?」
「そうですかね?」
「そうですよ!?」
梟木は美豹の肩に手を置くと、くるりと反転させリンクに視線を向けさせた。
「あなたの目の前にあるものはそんなにも恐ろしいものですか?」
「え?」
「私には綺麗なリンクしか見えませんけどね」
そう言われても美豹は納得できなかった。
自分の実力では勝てない。そう思ってしまったのだ。そんな自分に氷の上で戦う資格はあるのか。
後ろ向きな思考ばかりが、彼女の後ろ髪を引く。
「大丈夫ですよ美豹さん。このリンクはあなたを輝かせるためだけに存在する」
美豹はリンクを見下ろすと、息をのんだ。
そうだ、自分はようやくこの舞台に立ったのだ。
輝かしいこの舞台に。
「ただのやられ役で終わってええ訳ないんじゃ」
そこにようやく立った言うのに、化け物どもに蹂躙されて帰りますでは勿体ない。
「ありがとうコーチ。そうやウチはここに立ちたかったんじゃ」
精一杯の努力と、万感の喜び。今はそれを噛み締めて、氷に立てばいい。
「行ってきます」
「豊さん」
「やあ慎一郎君、君の所は凄いね」
「いえ、選手が凄いだけです。私は何もしてません」
梟木の褒め言葉にも慎一郎は謙虚な返答だった。
「豊さんのとこの生徒ですね」
慎一郎のクラブの選手は既に演技を終えている。後は他選手の結果を待つだけだある。
「ええ、さっきは恐れることはないなんて言ってリンクに送り出しましたけど・・・」
梟木はそっと息を吐く。
「私は今でも氷という物質が怖いですよ・・・教え子には言いませんが」
梟木が恐れれば選手にもそれが伝わるだろう。コーチと選手はそういう関係なのだ。
「彼女は確か広島のクラブにいた・・・」
「ええ、うちに移動したんです。とても素質のある子ですよ」
彼らの眼下で美豹の演技が始まった。
「そうですね・・・彼女の武器はいくつかありますが・・・まずは柔軟性とバランスが良いことですね」
どちらもスケート選手には必要不可欠なものだった。彼女にはフィギュアスケートの才能があることの証拠だ。
美豹がスパイラルを行う。足をしっかりと伸ばして、軸は揺れない。綺麗なスパイラルだ。
綺麗でバランスが良く、安定している。しかし、彼女のスパイラルを見た時最初に抱く感想はそれではない。
「速い!」
「そうなんです」
梟木は慎一郎の反応を見て誇らしそうに笑う。
「美豹さんの一番の特徴はスピードスケートの経験です」
「スピードスケート・・・そうか確か前にいたスター広島FSCは・・・」
「ええ、美豹さんはスピードスケートからフィギュアスケートに転向したんです。およそ3年前」
「3年・・・」
氷の経験があれど、才能があれど、それだけで来れるほど全日本ノービスは甘くない。凄まじい努力をしたことが窺える。
「私たちは選手経験があるから分かります。フィギュアスケートにおいてスピードを出すことがどれだけ怖いか」
「しかしある程度スピードを出さなければ滑りは安定しない」
「ええ、スピードを出すのは怖い。しかしスピードを出せば出すほど滑りは安定する」
今のスパイラルがまさしくそのいい例だ。
スパイラルは一定時間以上キープしないと成立しない。
スピードが遅いとバランスを上手く保つ必要が出てくる。その分ぶれも生まれる。しかしスピードが出せれば勢いに乗せて滑りを安定させることができる。ぶれもなく加点も多い。
「スパイラルだけではありません」
美豹がジャンプの姿勢に入る。スピードは落ちない。
「まさかこのままジャンプに・・・」
「ええ、美豹さんにはそれができる」
3回転ルッツ 着氷
カツっという氷を突く音、そこから着氷までの刹那の時間に3回転をやりおおせた。
スピードを落とさず、勢いに乗せてジャンプをしたためとても安定した回転をかけることができた。
しかしそれは口で言うほど簡単な事ではない。
「これほどの速度を出したまま・・・例えスピードスケートをしていたとしても・・・」
「まあ、そうですね。美豹さんのスピードスケートの経験は身体技術的にはほとんど恩恵はありませんでした」
そもそもフィギュアスケートとスピードスケートではその滑り方からして違う。
体重移動を最大限に使うフィギュアスケートに対して、スピードスケートは体を前傾に足で氷を押す。
靴の違いもある上で、基礎の様相が違うとなればその技術がフィギュアにおいて有効かと言えば疑問符をあげざるを得ない。
では、一体何が美豹に唯一無二の特性を与えたのか。
「美豹さんは恐怖に、スピードを出すことに慣れているんです」
「それがスピードスケートの経験による恩恵というわけですか」
「はい、フィギュアスケートにおいてトップスピードを出すことなどほとんどない。全力で滑ろうものなら制御を失うからです。そしてそこを攻めたとしても得られる恩恵があまりに少ない。しかしスピードスケートは正真正銘スピードを競う。つまりその制御を失うギリギリに挑む経験を積んでいる訳です」
スピードを出せば滑りも技も安定する。しかしそれ以上にリスクが大きかった。
「美豹さんは恐怖を知らないわけじゃない。慣れているんです。そのリスクも怖さも知ったうえでそれを乗り越えている。本当に強い子ですよ・・・きっとスピードスケートでも大成したことでしょう」
美豹の自己肯定感はあまり高くない。それは常に幼馴染に負けた経験によるものか。しかし、確かに彼女には素質があった。
「でもやっぱり彼女はフィギュアスケートでこそ輝くと思います。新しい風を吹き込む革命家として」
未だ類を見ない新しい選手としての形。
黒澤美豹が混沌と化した会場を切り裂く。
(別にこんなにスピードを出すんはスピードスケートに未練があったとかじゃない)
スピードスケートを始めたきっかけなど今はもう思い出せないほど何気ないことだった気がする。
ただ自分はリンクの端でやっているフィギュアスケートに魅了された。
自分が立つべき場所はそっちだと思った。それだけは覚えている。
(だからと言ってスピードスケートが嫌いやったとかでもないんじゃ)
あのギリギリを攻める戦い、体を引き裂くような風の痛み。どれも好きだった。
(だからかなぁ、たまに思ってまう)
自分はフィギュアスケートをしているのに、綺麗に図形を描いて魅せることを競う場に憧れていたというのに。いざ始めるとそれはそれで血が騒ぐ。
(速さが足りん)
些細な不満だった。そしてそれを飲み込むことを美豹はできた。
スピードスケートで学んだことはむしろ悪癖が多くて、最初はそれをフィギュアスケート向きに直すことから始めた。
自分が選んだ道はそういう道だ。決して後悔はない。
しかし、そんな彼女の背を梟木は押した。
『スピード出してもいいですよ』
『えっでも・・・』
『けど完全にスピードを乗りこなしなさい。恐怖を飲み込んで、速さを支配して、そうすれば誰もあなたにはついてこれない』
色んな事を学びなおした。身に着けたいくつものことを捨てた。
(でも・・・この身に宿る・・・速さを競った中で生まれたこの滾りだけは何があっても捨てん!)
まだ、加速する。
スピンに入りながら、足を惑星のように自身を中心に振り回す。
勢いに乗ったスピンの中で体重移動によってさらに加速。そのまま足のブレードを掴み、ビールマンの姿勢に移行する。
本来ならアップライトスピンの分類であるビールマンだが、レイバックスピンからそのまま姿勢を移行すればレイバックスピンとして認められる。
多くの選手が行うその組み合わせ、しかし美豹のその元来の柔軟性と高速度の回転がスピンをより高次元のものへと昇華していた。
レイバックスピン レベル4
「美豹さんのスピードスケートの経験はただ速さに慣れてるってだけじゃありません」
美豹の応援に来ていた小熊梨月が獅子堂星羅に語る。
「うん?どういう意味じゃ?ウチかてスピードスケートからフィギュアに入ったけど速さの慣れ以外は特に感じんかったで」
能天気な星羅の返答に梨月が青筋を立てる。
「あなたはフィギュア云々を語る次元にないんですよ!すぐにスピードスケート戻ったから!」
「すまん、すまん・・・で、どういう意味じゃ」
梨月はため息を吐いてつづけた。
「簡単な話、思考速度も上がってるってことです」
「それがスケートにどう生きるん?」
なんとなくはつかめるが具体的にと考えると星羅には思い浮かばなかった。
「まあ、これは感覚的な話なので分からないのも無理はありません。特に星羅さんみたいな脳筋タイプには実感しにくいと思うますし。要はどれだけ意識のポイントを作れるかってことです」
スケートにおいて、ジャンプ、スピンはただ成功させれば良いというものではないことは皆織り込み済みだ。加点のポイント、減点のポイントがありそれを意識した動作を練習の中で繰り返すことでその動きを体に沁み込ませる。しかしやはり次第にずれていくものだ。そこで重要なポイントだけでも意識することが肝要になる。
しかし、いざ本番の演技の中で一瞬のジャンプやスピンの最中、どれだけ思考を挟めるかという話だ。
「私は一度、練習中にジャンプを跳んだあと何を意識していたか聞いたことがありました。返ってきたのは、その一瞬に挟み込めるはずのないほどの情報の羅列です」
「いくら美豹でも、それは無いんじゃろ?一瞬で考えられることは一瞬の分だけじゃ」
「ええ、だからそれで何となく分かったんです。美豹さんは単に思考しているんじゃないんです。美豹さんは・・・」
(思考してたら遅い!反射しろ!)
只人である自分には強烈なインスピレーションなど持ち合わせていない。抜群のセンスもなければ変態的な精神性もない。
考える、考えることだけが自分を生かす最低条件だ。
高速化する世界の中で、思考を並走させることがこの凶暴なスピードを乗りこなすための必須事項だ。
(でも、そんなん物理的に無理じゃ!)
だから美豹は思考しない。
考えることは必要だが、思考をしていてはこの速い世界にはついてこれない。ならば思考を高速化するのではなく、思考事案を圧縮して、反射的に思考結果を出力する。
(高速世界のなかでウチが導き出した方程式!)
思考の反射、結果的にそれは感覚によるものだと言われるかもしれない。しかし、後で紐解けばそこには確かな理屈と思考の跡が存在する。
思考という過程を飛ばし、結果を先に導く技術。美豹の武器は予想外の進化を遂げていた。
それがもたらす恩恵は大きい。
スピードを緩めず、さらに加速しながらステップを取り入れていく。
体の動作に合わせて意識するポイントを認識したその瞬間には体にフィードバックされている。
ジャンプに入る。
ジャンプは特にポイントが多い。
ジャンプ前の体勢、エッジの角度、重心の取り方、腕の高さ、踏み切る威力。
(これは勘じゃない!反射によって今ここで導き出した最適なジャンプを体現するんじゃ!)
腕を引き付ける予備動作、氷を踏みしめる感覚、スピードに乗って保たれたバランス、膝への負荷。すべてが答えとして返ってくる。
2回転アクセル+オイラー+3回転サルコウ 着氷
「連続ジャンプはっや!」
「繫ぎ目速すぎて何跳んだかわからんかった!」
美豹の滑る世界は他の選手の1次元違う世界にいる。
思考の反射が本来なら成しえない超高速下による演技を可能にしていた。
(速度域が!生きてる次元が違うんじゃ!鈍間共!)
フィギュアスケートにおいて本来は武器たりえない速さというファクターが結果的に彼女のパラメーターを底上げしていた。
ジャンプもスピンもそのスピードによって安定をもたらされている。
しかし、その速さを個性たらしめるのは派手さのないステップの革命にある。
(ステップシークエンス!さすがにレベル4なんてとれんけど!)
彼女だけができるステップシークエンスがそこにはある。
「何ですかあれ!」
「なんかよくわからんけどすげー!」
動作の速さは単純に手数の多さにつながる。普通なら3つしか技をいれられないその間に彼女は5つのステップを組む。
ただでさえ入り組んだステップ構成がより複雑になる。一歩間違えば足もつれる。体がついていかない。そうなれば一気に点数が落ちてしまう。しかし美豹はそんな恐れを全てのみ込んで見せる。
そして彼女は正確に動作を処理しながら、滑っていく。
(ジャンプはあと2つ!うちひとつは連続ジャンプじゃ!)
さらに勢いをつける。
「まだ速くなるんですか!」
(そうや、今ここに!うちの華麗さと、迫力あるスピードが!世界に轟く!)
この連続ジャンプはそのスピードを活かせるようにトウジャンプのみで構成した。
勢いを殺さず、その速度のまま跳びきる。高速連続ジャンプへの挑戦。
スピードを維持したまま、インサイドエッジに左脚を乗せる。
そして最適なタイミング、最適な威力、最適な位置にトウを突く。
勢いに乗ったまま回転する。
着氷の数瞬後、間髪入れずにトウを突く。初速の勢いを殺さずそのまま跳ぶ。
再び着氷。そのまま残った勢いを全て出し切るようにトウを突く。
3回転フリップ+3回転トウループ+2回転トウループ 着氷
この間、約1.5秒である。
残すジャンプも油断はしない。
最後だからこそ最高のスピードと完璧なジャンプを見せる。
観客には分からないほどの一瞬の前傾と踏切、自然な演技の中で型にはまったスピードスケートの踏み出し。十分な加速を得る。
後ろ向きに滑りながら右足のアウトサイドエッジに神経を尖らせる。
反射で導き出した最適なエッジジャンプ。
3回転ループ 着氷
最後は十分な速度を持ったスピンで演技を締める。
(ウチは出し切った!後悔はないっ!ウチのスピードが観客の脳に刻まれたはずじゃ!)
いつかきっと彼女は革命児と呼ばれるだろう。
光やりんなの演技の後、誰もが同情的な目線を送る会場の雰囲気の中、美豹はその空気を切り裂くように華麗さとスピードで会場を駆け抜けた。
広島弁がムズイ・・・
全日本ノービスも終盤です