メダリストはエゴイスト   作:モリブデン42

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無我

『岡山ティナFSC所属 黒澤美豹さん 110.12 現在の順位は6位です』

 

 そのアナウンスが聞こえる中、唯はただ一人思考に耽っていた。

 

(どうすれば光に勝てる・・・?)

 

 彼女の実力は分かった。事実圧倒された。敗北の二文字が脳裏をよぎった。

 しかし、諦めるなんて思考は存在しなかった。負けるときのことを考えるくらいなら、勝つために必要なものを探す方がはるかに建設的だ。

 

 息を吐いて落ち着く。

 

(思考を整理しろ・・・あの天才に追いつくためには私はひとつひとつ積み上げるしかない)

 

 そもそも狼嵜光という存在を『天才』などという言葉で片付けていいのか。

 

(ていうか『天才』って何?)

 

 天に与えられた才能をそう言うのなら、もっとたくさんの人が『天才』と呼ばれるべきだろう。

 

(さっきのりんなの演技を見て私は『天才』的だと思った。りんなの演技は理解できなかったから)

 

 りんなの演技は只人には理解できない。それどころかりんな以外その『感覚』を理解できるものはいないだろう。

 

(つまり『天才』とは常人には理解できないぶっ飛んだ何かを持ってる人間ってこと?)

 

 『天才』をそう定義するなら、狼嵜光は果たして『天才』と言えるだろうか。

 

(そうだ・・・いつか理鳳にも言ったことじゃないか・・・狼嵜光は理解不能な存在じゃない!全て理屈の上で行動している人間だということを!)

 

 唯は光の演技の正体を理解していた。凍り付くような雰囲気、圧倒的な存在感、それらのインスピレーションは夜鷹純のそれだ。

 

(世界一の演技を取り入れる。全くもって理路整然とした答えだ)

 

 単に模倣でなく、真にかみ砕いて自分の物にする必要はあるがそのロジックは間違っていない。

 

(なら狼嵜光は『天才』じゃなくて、自身で学んで成長していく・・・いわば『秀才』とも言うべき人間)

 

 『天才』と『秀才』。それは言うなれば生み出す者と学ぶ者。

 今この会場の王座にいる彼女が『秀才』だというのなら、そこにはきっと『秀才』故の強さの秘訣があるはずなのだ。

 

 

 

 

「唯ちゃん調子はどう?」

 

 リンクを呆然と見つめながら、思考を巡らせる唯に話しかけたのは光当人であった。

 

「光・・・何の用?」

 

 正直あまり会いたくなかった。きっと今顔を見せれば光の演技を見て少し臆したことが露呈してしまう。彼女にそれを悟られることは我慢ならない。

 

「ちょっと様子を見たかったんだ」

 

 光は何が楽しいのかニコニコと笑みを浮かべながら話す。

 

「私今日はとっても楽しいんだ。みんな、凄くて・・・本気でぶつかってきてくれる。私の演技を見てむしろパフォーマンスがあがるりんなちゃんなんてもう最高だった。でもやっぱり一番楽しみなのは唯ちゃんといのりちゃんだったから」

 

 唯といのりは決して光に怯むことなく正面から挑んでくれた。そんな存在が光にとっては貴重で、何より嬉しかった。

 

「今日という日を彩ってくれるのはやっぱり2人だと思うから・・・様子を見たかったんだけど」

 

 光は少し不安そうだった。

 唯にはその理由がわかった。光は演技を見たことで唯が臆しているのではと思ったのだ。どこか思い悩んでいたから。

 

「その思考が上から目線なんだって何度も言ってるでしょ?潰してやるって言ってんだから黙って見てなよ」

 

 その態度が本当に腹立たしい。

 

「もういい?私も準備しなきゃ」

「唯ちゃんはさ、私に勝つために・・・今日に至るまで一体何を犠牲にしたの?」

 

 急な光の問いかけ。無視しようとも思ったがその言葉はどうにも唯に引っ掛かった。

 

「犠牲?」

「うん、犠牲」

 

 唯は少しばかり考え込む。光の言葉の裏をくみ取ろうと、その真意を探ろうべく思考を巡らせる。

 

「ごめん、何の話か理解ができない」

「難しい話じゃないよ」

 

 光は唯の瞳を覗き込むように身を乗り出した。

 

「コーチが言ってたんだ・・・勝利に一番必要なものは犠牲だって。運命の女神は生贄を無視できないって」

 

 この世の神秘を明かすかのように、光は雄弁に語る。

 

「私は全部捧げてきた。日常生活も心も、私のすべてはスケートのためにある。それなら犠牲を払いたくないなんて思考をしている人間に私が負ける道理はない。だから聞きたいんだ・・・唯ちゃんは一体何を犠牲に私に勝とうとしているのか」

 

 その話を聞いて唯はしばし固まる。呆然と口半開きにし、目を見開くさまは驚愕を意味する表情だ。

 

「それを夜鷹純が言ったの?」

「え?」

「犠牲を払った人間が勝つって・・・それが夜鷹純の哲学なの?」

「う、うん」

 

 光は唯の反応に不可解そうに応える。

 

「そんな・・・そんな普通の思考が夜鷹純の哲学なの?」

「は?」

 

 唯の口から放たれた言葉に光も思わず呆けた声を溢してしまう。

 

「普通?普通なの?犠牲を払うことが?」

「頑張ったら頑張った分だけ結果が返ってくるって・・・そんなのまるで凡人の言葉だ」

 

 唯は驚きを隠せなった。夜鷹純には常人には理解しがたい理論が存在していて、だから他を寄せ付けない圧倒的な演技ができるのだと思っていた。しかし、今の光の話をそのまま解釈すると犠牲を払った分だけ強くなるような言い方。

 望む結果に対して相応の対価を支払うという単純で理路整然とした誰にでも理解できる思考だった。

 

「夜鷹純はもっとぶっ飛んだ感性の中で生きてると思ってた・・・けど夜鷹純の哲学は『犠牲』という単純なファクターなの?」

 

(まさか、まさかまさかまさか・・・夜鷹純は『秀才』側の人間!?)

 

 別に不思議な話ではない。

 つい先ほど、圧倒的な演技をした光が『秀才』側である可能性に思い至ったばかりではないか。

 

(世界一の人間が『秀才』だと言うなら、『天才』というのは別に特別な存在ではないんじゃない?)

 

 『秀才』も『天才』も単なる分類に過ぎないというのなら、そこに上下関係はない。

 

(本当にそんなことがあり得るのか?『天才』と『秀才』は単に才能の種類の話だってこと?)

 

 才能の種類、その思考に至った時一つのキーワードが思い浮かぶ。

 

(そうだ・・・インプット型とアウトプット型だ。あの分類がこの才能の分類に繋がっているんだ!)

 

 他者と自分を分析し、演技の情報を取り入れ自分の能力をステップアップさせていくインプット型。自分の中にある可能性を革新させ、0から1を生み出し爆発的な成長をするアウトプット型。

 その演技気質の区別がそのまま『秀才』と『天才』に当てはまる。

 

 (世界から演技を取り入れる才能を持つインプット型と自分の演技を表現する才能を持つアウトプット型はそのまま学ぶ『秀才』と生み出す『天才』に当てはまる)

 

 そのなかである要素が、その思考を掠めるようによぎる。

 

(世界・・・自分・・・そうか!)

 

 今まで培ってきた全てが繋がる。

 

 すずの演技を見て、新たに生まれた世界型と自分型という区分。

 

(世界を基準とする世界型エゴ、自分を基準とする自分型エゴ。その精神性の分類こそが『秀才』と『天才』を分けた本質なんだ!)

 

 世界から演技を取り入れ自分を形作っていく世界型は、間違いなく理論に沿った思考をする『秀才』のそれだ。

 対して自分の基準を絶対視する自分型は、その気質こそが0から1を生み出すアイデンティティだとするなら説明がつく。

 

(つまり・・・)

 

 世界型=インプット型=秀才

 

 自分型=アウトプット型=天才

 

 すべてがパズルのように繋がった。

 

(そうか・・・超越視界(メタ・ビジョン)を持つ光や夜鷹純は明らかにインプット型・・・『秀才』側だったってことか!)

 

 答え合わせをするかのように、疑念であった事象が解き明かされていく。

 

(恐らく自分型であるりんなやいのりの才能は・・・逆境に強い精神だったり、常軌を逸した集中力といったアウトプット型の要素!すずも可愛い自分でありたいというすずだけにある自分基準の精神は『天才』のそれだ!)

 

 その解を以って、唯は自身の理論の正当性を確信した。

 

(そして・・・私はぶっ飛んだ思考回路なんて持ち合わせていない。理屈と理論を以ってひとつひとつ積み上げてきたつもりだ・・・なら今こうして分析を繰り返している私はインプット型!私が参考にするべきは夜鷹純の方!)

 

 自分の先にいる世界一の存在。そこから自分の演技を進化させるための新しいピースを求める。

 

(答えはさっき光が教えてくれた・・・夜鷹純のという世界一の『秀才』の理論の最終段階は・・・)

 

 唯が光に勝つための最後のピースは・・・

 

(『犠牲』だ)

 

「光・・・ありがとう」

「え?」

「お前を潰す希望しか見えない」

 

 答えは得た。ならばあとは実践するだけだ。

 

「私にはまだ出来ることがあったみたいだ」

 

 急に思考に耽ったかと思えば、お礼を言ってきた唯に光は困惑する。

 しかし唯はもう光の方を見ずにその場を後にしていた。

 

 

 

 

 

 

「司先生・・・構成を変えたいです」

「そうだね・・・狼嵜選手に勝つには無茶を通す必要がある」

 

 そう言って司はノートを取り出した。

 

「ここに唯さんの跳べるジャンプの中で考え得る構成と基礎点・・・加えてメリットデメリットを全て記した」

 

 簡単そうに司は言う。

 

「私が変えたいって本番でいう事、想定してたんですか?」

 

 この準備の良さは想定してないと出来ないことだ。ノートにびっしりと記されている文字を見て唯は疑念を掲げていた。

 

「いや、俺は・・・俺にできることを全てやろうと思っただけだよ」

 

 あるゆる事態を想定した。どんな状況にも対応できる。その答えがこれだ。

 

「まじ最高です」

 

 シンプルな称賛。唯は即座にノートを読み込む。

 実現可能な範囲で、さらに成功と失敗のギリギリを狙う。その唯の挑戦に司も背を押す。

 

 そうして、準備は整った。

 

 

 

 

 

 

 遂に唯の順番が回ってきた。

 多くの観客が注目する中、唯はリンクへとあがる。

 

(今日はとても素晴らしい日だった)

 

 色んな選手がいた。そしてそこには一つとして同じものなどない演技があった。誰もが勝ちたくて、誰もが金メダルを望む。そんな熱い空間を体感できた。

 

(でも、私が勝つ・・・勝つために)

 

 唯は全てをスケートに捧げる。

 

(いまここで私が捧げられるもの、『犠牲』に出来るものは何か?)

 

 まだあった。それは目には見えないものだが、自分を構築するかけがえのないものだ。

 

 言葉にするなら、心であったり、感情であったり、魂であったりする。

 

(勝利のために、最高の演技のために全てを捧げる。感情を捨てて、演技の完成度を高めることだけに思考を割く)

 

 それが唯が見出した『犠牲』であった。

 

(自分の趣向も、自分の意思も、すべては雑音(ノイズ)に過ぎない)

 

 思考から感情という要素が剥がれ落ちていく。

 自分の憧れやロマン、あるいは執着すらも。

 

(そうだ、今日まで光への執着が私を奮い立たせてくれたんだ)

 

 あの日絶望した瞬間から、その『絶望』こそが己の心の支えだった。光に勝つために努力し、光を殺すことを目的にスケートへの執着を高めていった。でもそれすらも今は手放す。

 

 己の自我を一つずつ捨てていくと、自分の中には『最高の演技』をすることだけが残る。

 

(『感覚』がより研ぎ澄まされていく。私という存在はこの『感覚』を現出するためのただの道具だ)

 

 さあ行こう、最難関ジャンプを完璧に決める。

 

(これが夜鷹純の景色!世界一が描く新境地!)

 

 今自分の中にあるのは『感覚』だけだ。

 高難易度ジャンプを目の前に怯みもしなければ、臆しもしない。

 

 勢いをつける、エッジを強く踏みしめる。

 トウを突く感覚。風が体にまとわりつく。

 ただ経験則を引き出すだけじゃない。その瞬間最も最適なジャンプを繰り出す『超越感覚(メタ・センス)』の向こう側。

 

超越感覚・超(ビヨンド・ザ・メタ・センス)

 

 4回転トウループ+2回転トウループ 着氷

 

 ただでさえ、自身のスペックをフルに発揮する超越感覚(メタ・センス)は彼女の演技の完成度を高めていた。

 しかし、それはあくまで過去の経験から自身の最高の演技を引き出すテクニックに過ぎない。

 当然の話であるが身体の状況や氷の感触などその日によってわずかに変わる不確定要素というものはある。

 

 超越感覚(メタ・センス)は演技に必要な情報を『感覚』として圧縮して、演技中にそれを展開する。多大な情報量を『感覚』として掴むことでことでようやく処理できるのである。不確定要素を勘案する余裕はない。

 しかし、今の彼女は演技以外のすべての思考を排除している。

 逆に演技に必要な事は全て把握し、潔唯の演技という事象を成立させている。

 

(今の私は演技をするマシーン。自我はいらない)

 

 4回転トウループをコンビネーションにしたのだから勿論単独でも跳ぶ。

 

(4回転トウループを完璧に跳ぶためには無駄な力を一切いれてはならない)

 

 意気込みや奮起という感情はその身を湧き立たせる興奮剤となる。しかし、その思考によって体に力みが生じれば完璧な演技は遂行できない。

 

(淡々と、当たり前のように・・・最適化した『感覚』を再現するだけ)

 

 力はいらない。今の自分にとって必要ななのはその身を奮い立たせることでなく、冷静に分析し表現することだけだ。

 

 練習で幾度も積み上げた4回転トウループの『感覚』。

 それを今ここで最適なものへとチューニングする。

 

(今日は氷が良く足を弾いてくる・・・なら)

 

 いつもよりトウを突く『感覚』を軽めにとる。地面が反発し、その身を持ち上げる力を最大限利用することで体に余分な力を入れさせない。

 体が回り、風を切りながら、エッジが氷を切り裂く。

 

 4回転トウループ 着氷

 

(4回転2回・・・だが今は点数の事など気にしなくていい・・・光に勝つという執着すら今の私にはいらない!)

 

 狼嵜光の演技において高難易度の技という要素以上に素晴らしかった点が演技表現だ。狼嵜光には場を支配するほどの表現力があった。

 つまり唯が光に勝つためには技術点においてある程度アドバンテージが必要だ。

 そんな、ライバルを意識する思考すら今の唯にとっては雑音(ノイズ)だ。

 

(3回転ルッツ+3回転ループ・・・)

 

 連続ジャンプという点を鑑みれば、このジャンプは4回転トウループより前に入れるべきだったかもしれない。しかし過去の練習を振り返って、そしてこの超越感覚(メタ・センス)という要素を勘定に入れれば、それなりに経験のあるこのジャンプを後に回すというのは合理的な判断だった。

 

(このジャンプに特別な感傷を抱いている暇はない・・・どんな技だろうが今目の前にあるのは超えるべき壁というだけ)

 

 かつて自分を『絶望』させるきっかけのジャンプだ。いつもこのジャンプを跳ぶ時は闘志を漲らせていた気がする。

 でもそれではだめなのだ。

 このジャンプは特別なものではなく、ただ高得点を取るために構成された一要素に過ぎない。

 

(セカンドループのタイミングを決して逃すな!最適な角度と最適なエッジコントロールを実現しろ!)

 

 左足のアウトサイドエッジ、小指にかかる重圧からしっかりと重心の位置をコントロールする。すべての起点は足だ。

 氷を押して連続ジャンプに足る十分な加速を得る。

 後ろ向き、背面の風が体を捻ると歪んでいく。

 トウを突く。跳び方、角度、勢い。

 着氷の姿勢、次につながる体のコントロール。

 右足をそのまま氷から押し上げる。

 

 3回転ルッツ+3回転ループ 着氷

 

 それが高難易度ジャンプであることなど誰にも感じさせなかった。

 

 演技はさらに進化する。

 

 技術点だけでは完璧な演技とはいえない。演技表現的なアプローチへも思考を巡らす。

 

(最高の演技のための最高の表現!)

 

 唯には光のようなシルエットを浮かび上がらせるような演技表現は出来ない。しかし今ある状況から、最適な演技表現を導き出す。

 ヒントはこの大会中にあった。

 

(音楽・・・だろ!)

 

 すずのように自分で解釈して、表現を創出するような技巧は持ち合わせていない。しかし、曲を聴いてそのメロディーやリズムに最適な表現をする。そのための『感覚』を今ここで創り出す。

 

(この曲はおんなじメロディーが繰り返される構成になっている!振り付けを大幅に変えることは出来ないけど、振り付けの共通項を際立たせるように繰り返せばその動作が脳裏に残るはず!ならそれを演技の起こりにすればその繰り返す動作の前後に着目させて演技表現への解釈を深読みさせることができる)

 

 唯が用いてる曲、『序曲とロンドカプリチオーソ』は輪舞曲と言われる形式の曲だ。これはロンド主題というその曲のテーマを繰り返す構成になっており、その主題と主題の間で様々な旋律が奏でられる。

 唯はこの特性を利用して、テーマでの振り付けの動作を一貫させて演技に解釈の含みを持たせた。加えて、テーマ以外の部分にもその記憶に残る動作や、恣意的な振り付けを混ぜることによって考察要素を増やす。

 そこに何か特別な意味を込めたわけでは無い。

 ただこうすれば、審査員がそのテーマ前後の演技にも何か意味を見出して演技表現だと深読みしてくれるだろうという打算的な考えだ。

 

(プライドも、こだわりも、全て演技の完成度を上げるために費やせ)

 

 最高の演技のためなら、悪魔に魂すらも売り渡す。

 

 スピンやステップシークエンスもよどみなく行っていく。

 

(リズムや回転速度を完璧に合わせる)

 

 目指すべきは最適なスピン。体の波長と氷の滑りを完璧に把握して、『感覚』を捻出する。

 スピンの速さ、軸の取り方。重心の置き方。あらゆる要素を最適なものにバージョンアップさせていく。

 

 足換えコンビネーションスピン レベル4

 

 ステップシークエンスは司に指導を仰いだことで嫌でも身に着いた。

 スケーティングに関して妥協を許さず、常に改善点を見つけてくるその目は唯の認識していないところも余すことなく見つけていた。

 常に最適を更新してきたことで、スケーティングによって演技の起点を作ることすらできる。

 

(自我は出さない。最高の演技をするマシーンになる。でもそれはただ無機質な演技をするという訳ではない)

 

 常に思考することだ。感情でぶれる演技ではなく、理屈に寄り添った説得力のある演技をする。

 

(ただ漫然と難しいステップを踏むだけじゃない)

 

 リンクの上に綺麗な図形を描くことが大事だ、そしてその図形は滑っている自分も含めてのものだ。ならば自分自身は機械的な演技をするのではなく、その図形を際立たせるような動作を見せる。

 

(図形を描くのは私が通った軌跡・・・なら図形い一番近い脚運びに客を注目させる)

 

 ステップシークエンスは必要な要素が事細かに決められている。その中で、自分の意図したとおりに工夫を入れることは至難の業だ。

 

(だから一瞬で良い、客の視線を足元に下げるために・・・足を振り上げて素早く下す!)

 

 ステップの最中、技の間隙に繰り広げられたその動作は観客の視点を無意識に脚へと集中させた。

 そして入り乱れる様な複雑なステップを魅せる。

 表現の能力にアドバンテージが無くとも、持てる技術で他者を演技に引き込むことはできる。

 

 

 

 

 唯は順調にエレメンツを消化していった。

 

 残すはジャンプ2つと最後のスピン。

 

(最後まで集中を切らすな!『感覚』の世界にダイブしろ!)

 

 演技の中で『感覚』はより洗練されていた。

 始まる前から、演技の間もずっといらないものを捨て続けた。

 今はもう、この『感覚』だけが体に残っている。

 

(だから・・・こんなにも体が軽い)

 

 冷たく凍えるような世界で、ただその『感覚』だけが道しるべとなって自分を導く。だから迷わない、ぶれない。

 

 ブレードが滑走して背面に風を受ける感覚。

 足への衝撃。入り乱れる光。氷を走る音。

 

(コンプリート)

 

 『感覚』が教えてくれる。

 

 3回転フリップ 着氷

 

 もう失敗など微塵も思考の中にはない。

 あるのは成功のイメージだけだ。

 

 ジャンプを降りて、一息などつかない。

 演技は全て通して地続きだ。 

 

(最後は・・・3回転アクセル)

 

 

 

 潔唯の演技は確かに自我を排した、計算の演技だ。

 だがその一点に費やした彼女の熱を観客の誰もが感じていた。

 唯は演技に感情や私情を一切出さなかったかもしれない。

 しかし、自身の全てをスケートに捧げたその姿に心を動かさずにはいられない。

 

 3回転アクセル 着氷

 

 最後にスピンを消化し、演技は完遂した。

 

 そこに唯の感情はない。

 しかし、その演技は会場にかつてない激情を生んだ。

 

 

 

 

 

 

『ルクス東山 潔唯さん 129.51 現在の順位は1位です』

 

 女王の陥落はここになった。

 

 ただ忘れてはならない。

 

 玉座が誰の手に渡るかはまだ決まっていないということを。

 

 

「唯ちゃん・・・そんな感じなんだ」

 

 その言葉は唯の演技を見たいのりのものだ。

 

「唯ちゃん気づいてる?」

 

 どれほどの高得点が出ても決して彼女が下を向くことは無かった。

 倒すべき相手を見据えるその目は捕食者のそれだ。

 

「あなたは決定的な間違いを犯した」

 

 氷焔の獣が牙を研いでいる。

 




次回「獣の本能(ザ・ビースト)
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