岡崎いるかの朝は早い。
スケーターあるあるともいうべきか、リンクを使える時間が限られているため必然的に活動時間は朝になることが多い。きっと日本人の半分以上はまだ眠っているだろう。
「クッソたれ・・・」
目覚めた瞬間から布団の中で毒づきながら、体を起こす。
朝は一杯のコーヒーから始まる。
早朝とはいえ、時間がない。自然に目が冴えるのを待ってはいられない。
「まっず」
ブラックコーヒーをおいしいと思ったことはない。それでも飲むのはブラックの方が脳の覚醒が速い気がするからだ。
香りはいいのは分かる、しかし舌に触れると口いっぱいに独特な酸味が広がる。
顔をしかめながら飲む。その間に頭の中では今日の予定を確認している。
(今日は確か、名港のリンクだったかな?)
高校にもリンクがあるため使えるが、全日本ジュニアまで少しでもコーチに見てもらえるように外のリンクを使うと相談していた。
適当にパンを掴み口にねじ込む。
寮暮らしで両親と離れて生活しているいるかに朝食をつくってくれるような人物は存在しない。
一人だと朝食もだんだんと粗雑になっていた。
「さて」
身だしなみを整えて、家を出る。
今日も一日が始まる。
「は?」
「ん?」
「どうも!」
「おはようございます」
リンクに入るといるかは不機嫌そうに声をあげた。
中には、潔唯、結束いのり、狼嵜光がいたからだ。
よく見ると見覚えのない選手がちらほらといる。
「なんでいるんだよ」
「あれ?言ってなかったか?」
疑問をそのままなげかけるいるかに五里が反応する。
「今日、ルクス東山や名城クラウンが使ってるリンク場が設備点検で使えなくてな・・・せっかくだからみんなで集まってここのリンクを貸切るって」
「あ・・・」
言われてみればそんな会話もしていた気がする。
機嫌が悪くて聞き落していたのだろうか。
「今日一日は一緒だからな・・・仲良くしろよ」
「まじで・・・」
いるかは嫌そうな顔を隠しもしなかった。
唯と光の邂逅は思いのほか穏やかだった。
「久しぶり・・・唯ちゃん」
「うん・・・」
唯は大会後の光と夜鷹のやり取りを聞いている。
そのため光の中に並々ならぬ激情があるのを理解していたため、あっけらかんとした光の態度に肩透かしを食らった気分になる。
「安心してよ」
「え?」
「別に負けたからやる気がなくなったとか、戦意がそがれたとかそういう訳じゃない。私が今やるべきことはそういう自分の感情任せの行動じゃないってこと」
「そうか・・・」
唯はなんとなくその言葉の意味を理解していた。
「私が今やるべきことは・・・」
口を縫うように閉ざすと、唯やいのりに冷徹な目線を向ける。まるで獲物を狙う肉食獣のように。
練習が始まると、各々のメニューに映る。合同練習のため、コーチ同士で違った視点での指摘を交わすが選手同士で何かが変わるということはなさそうだった。
いるかも途中からは気にしていなかったように思う。
しかし、唯、いのり、光の行動が目に入れば少し意識を寄せざるを得ない。
いのりがジャンプを跳んでいた。
そのジャンプは全日本ノービスで映像越しに見た。自らの身を厭わない危険なジャンプだ。着地と同時に方向を転換するようにターンを入れ、ステップを取り入れる。それくらいは加点の工夫として考えられるものだが、いのりの場合は躊躇が無さすぎる。失敗しないという前提で着地後の動きを組み立てて、空中の時点で予備動作に入っているのだ。
(まさかとは思ったが練習でもその感じなのか・・・)
いのりの行動にいるかは戦慄した。
確かにその滑り、ジャンプは技術点以上の凄さが伝わってきた。
(だが・・・そんなのいつまでも続けられるわけがない!そして勝てなくなった時、結束いのりは破綻する)
あまりに危うい。それは肉体的な意味だけでなく、精神性の脆さに対する懸念だった。
そのいのりを見た直後、光も跳んだ。
「は?」
いるかは目を疑った。
光のジャンプは今先ほど見たいのりの無謀なジャンプと同じものだったのだ。
「光・・・何やってんの」
「うん?」
あまりの衝撃に唯が光に声をかけていた。
「分かるでしょ・・・さっきのジャンプ・・・いのりのやってる成功前提のジャンプ」
「うん・・・」
ぶっきらぼう、それどころか話を聞いているかも定かではない。しかし確かに肯定した。
ちらりと慎一郎の方を向くと、顔をしかめながらそれでも懸命に祈るように光を見つめていた。
ただの考えなしではない、それは分かった。
光は見ると、自分の手のひらを見つめながら薄く笑っていた。
「あれは見様見真似で出来るものじゃないでしょ。むしろあれは技術そのものより精神性の強さの表れだと私は解釈してる。真似したってリスクが上がるだけだ」
唯は自分でもなぜこんなことを言っているのか分からなかった。自分では出来ないと感じたいのりの演技を真似する光を見て、なぜか黙っていられなかった。
「うるさいよ天才、今いいとこなんだ」
光は唯の言葉を切り捨てた。
「別にいのりちゃんの真似をしようってんじゃない。私はただいのりちゃんのインスピレーションが欲しかった」
「どういう意味だ?」
「何となくカラクリが分かってきたよ。つまるところは思考のトリアージなんだ。必要な思考以外を排除することで演技に没頭できる。この防衛本能を不必要と判断するかは個人差があるだろうね」
「光・・・まさか・・・」
光はひとつひとついのりの演技を解釈していた。
そのまま真似するわけでなく、自分に合うようにカスタマイズするためにいのりの演技の正体を紐解いていく。
光は楽しそうに笑っていた。
「私はもうやるべきことを分かっている・・・そして必要なところで身を切ることを決して躊躇いはしない。唯ちゃんはなんか迷走中みたいだけどそんな暇あるの?」
全日本ノービスからどんな変化があったのか、光は確実に変化していた。
それを進化と呼べるかは結果が出るまで誰にも分からない。
しかし、確実に歩んでいることを唯は思い知らされる。
「私は・・・」
焦ってはいけない。しかし悠長にもしていられない。
ライバルの成長を目にすると後者に意識が傾くのも仕方ないことだった。
(なんだこいつら・・・)
いるかは戸惑っていた。
自分が負けるという後ろ向きの思考はない。
しかし今目の前で進化し続けている者たちを見ると、自分も何か動かなければという気にさせられる。
(ちっ、まじでなんなんだ?)
彼女らのことが気になって仕方がない。しかし理性的な部分で自分のやるべきことは彼女らを見ることではないと認識している。
(積み上げた基礎と、経験からくる表現力。あいつらの持つぶっ飛んだ能力で覆せない地力の差があるはずだ)
少し解けた髪をかき上げ、ピンを止め直す。
(問題ない。能力差でぶっちぎる。見るべきは自分の演技だけだろ)
整氷時間になっているため、体が動かせない分思考ばかりが回る。しかし、自分の中でひと段落付けた時だった。
「いるかさん」
「あ?んだよ」
唯に呼ばれた。
少し不機嫌そうにいるかは返す。
唯は顔をしかめながら、しかし振り絞るように口を開いた。
「いるかさんはどうしてスケートを始めたんだ?」
「あ?」
唐突な質問、不躾ではあるが怒るほどのことではない。しかし、不機嫌ないるかにとってその質問は地雷だった。
「なんでお前にそんなこと教えなきゃなんないんだ?」
「教える理由はないですね。ただ私が知りたいだけです」
「張り倒すぞ」
唯は案外、強引な所がある。自分が聞きたいことを躊躇せず聞いていくる。そんな態度が眩しくて、苦手だった。
いるかには質問に答える義理などない。
義理などないが・・・
(ちくしょう、ちょっと可愛いな)
余裕のない表情で見上げてくる唯。普段の姿とは違う小動物のような姿、そのギャップがいるかの庇護欲を刺激する。
「なんで聞きたいんだ?」
「え?」
「人に身の上話をさせようってんだ、お前も話さなきゃフェアじゃないだろ」
唯は話す。
自分の演技のスタイル、才能は自分の可能性を爆発させなければならないことだったこと。
そしてそれを為すために振り返った時に見つけた自分の原点。 しかし自分の世界一になるための理由はとっくに解消されていたこと。自分の中にある『何か』を見つけるために、見つめ続け未だ答えがでないこと。
「はーん」
「私もなぜいるかさんにこんなこと聞いてるのか・・・でも少しでもヒントが欲しくて・・・」
整氷機がリンクの上を回っているのを呆然と眺めながら、唯は蹲る。
そんな彼女を見ているかはため息を吐いた。
「私はさ、お母さんのつじつま合わせで始めたんだよ」
「え」
いるかはぽつぽつと話す。
「お母さんは虚栄心が強くてさ・・・自分の娘がスケートをしてるなんて嘘を吐いた。その嘘のアリバイ作りのために私はスケートを始めさせられたんだよ」
いるかは自分の意思でスケートを始めた訳ではない。
「私の両親はいつも私を傷つける。私をブスとなじった。出来損ないと揶揄した。でもスケートを通して私は色んな人に出会った。実叶ちゃんに出会って、一緒にスケートしてそれが楽しかった」
いるかの中にある褪せない思い出。例えどんな終わり方だったとしてもそれはかけがえのないもののはずだ。
「お母さんがトラブル起こして、スクールやめさせられて、実叶ちゃんはスケートやめて・・・それでも私はスケートにしがみついた」
最初は実叶と自分を繋ぐ手段に過ぎなかったスケート、気づけばそれが自分のかけがえのないものになっていた。
「気づけば私はスケートに執着していたんだ。それはもしかしたら私がスケートをすることで実叶ちゃんと繋がっていられるとかそういう感傷だったかもしれない。でも今私はスケートをやっている。スケートをやることで私は『傷つかなくなった』から・・・スケートをやる理由なんてそれで十分なんだ」
いるかは想いや熱といった事象に冷めていた。
どんな志を持とうが勝利も敗北も平等に訪れる。
それがジュニアに入って『現実』と向き合ったいるかの答えだった。
「お前が何でそんな深く考えてるのかは分からないけどさ、私は考えなくていいと思う」
「でも私には自分を突き動かす『熱』が必要なんです・・・それが無ければ私は道を見失う」
いるかは唯の言葉を興味深さそうに聞く。
「『熱』・・・『熱』かぁ・・・考えたことなかったな」
「え?」
「その『熱』ってのは頭で考えて分かるもんなのか?」
いるかの言葉に唯の瞳が揺れた。
「お前が悩んでいるのはそういう事じゃないのか?名誉とか地位とか考えてわかる表面的なものを違うって思ったから悩んでんだろ?ならお前は考えるべきじゃない」
いるかは唯の顔を掴んで瞳を合わせる。
「考えるな感じろ。お前は間違っていない。頭空っぽにして体だけ動かして、そんでもってそれでも脳みそによぎる染み付いたもんがお前の『熱』ってことだろ」
「考えないことで見つかる・・・そうか・・・確かにそうかも」
唯の瞳に何かが宿ったのをいるかは見ていた。
「ありがとうございます・・・話聞いてくれて・・・でも良かったんですか?」
「あん?何がだ?」
「敵に塩を送っていいですかって聞いたんですよ」
唯が笑って言うと、いるかは鼻で笑う。
「調子取り戻すとすぐ生意気になりやがって」
いるかは唯の頭を掴むとグシャグシャと髪をかき混ぜた。
「調子乗んなクソガキ、100年はえーよ」
「全日本ジュニア・・・私がかっさらってやりますよ」
その言葉を聞いているかの表情は少し笑っていた。
練習が終わり家に帰る。
ご飯を食べて、シャワーを浴びる。髪を櫛で溶かしているその時にはもう10時に差し迫っていた。明日も朝早く練習が始まる。早く寝なければならない。
床に就く。練習の疲れもあってすぐに意識はぼんやりとしていく。
もう微睡みへはまるかというその瞬間、電話の着信音が静けさを切り裂いた。
いるかに連絡してくる人間のほとんどはスケート関係者だ。いるかの朝が早いことを理解している。滅多なことがないとこんな時間に電話をかけてこない。
逆に言えば緊急の連絡であれば、かかってくることもある。
いるかは急いでスマホを覗いた。
「・・・」
送信元は母親だった。
いるかは拒否するでもなく、受ける訳でもなく、ただスマホを手のひらにおいて見つめていた。
別に電話をするのは吝かではない。しかしここで電話に出てもし長くなれば明日に差し障る。勝手に切ると怒るのだ、あの人は。
いるかは画面を伏せて机に置いた。
電話には出ない。
いるかは布団に潜り込むと、 耳を塞いで電話をやり過ごした。
次回から全日本ジュニアに入ります