『岡山ティナFSC 烏羽ダリアさん 68.32 現在の順位は1位です』
そのアナウンスを聞いたダリアは少し目を見開く。
しかし、それ以上の情動は見受けられなった。
「不満ですか、ダリアさん」
表面上に現れない彼女の心の内を察したかのように梟木が声をかける。
「まさか、私はやるだけのことをやった。勝ち負けは単なる結果に過ぎませんから」
ダリアはかぶりを振って答えた。
「そうですか」
梟木はそれ以上は言わなかった。
しかし、その視線は僅かに歪むダリアの口端を捉えている。
(この点数では岡崎いるか選手に勝てない。そんな思考が見え透いてますよ)
勝敗にこだわりがない、というダリアの表情はとてもそうは見えない。
梟木はそれをどこか嬉しそうに眺めるのだった。
「で、どうだよ」
「何がですか?」
「ここまでジュニアを見てどうだった?」
唯は少し考える。
いるかの解説を聞けたことで、彼女らの強さの秘訣が何となく分かった。
「ジュニア選手は誰も強い『個』を持っています。だから強い、だから凄い。己が信念とこだわりがあって・・・厳しい環境でそれをぶつけ合って力をつけていくんだなって」
彼女たちそれぞれに背景があって、技ひとつとっても同じものなど一つもない。それぞれが自らのストーリーの『主人公』だと信じて闘っている。
「やっぱり良い面になったよ」
「え?」
いるかは唯を微笑ましそうに眺めていた。
「自分の『エゴ』だの『熱』だのって悩んでたみたいだけどさ・・・やっぱ答えは出てると思う」
「どういう事ですか?」
「凄い、強いって言いながら・・・お前ずっと笑ってるぞ」
「あ」
唯はふと自分の口元に手を当てる。
無意識だった。
強いライバル、選手を認識して笑っている。
まるで
「おっともう行かなきゃな」
いるかの番が近づいていたらしい。
肩をポンと叩くと、それ以上深くは何も言わなかった。
「いるか、調子はどうだ」
「けっこー悪くない」
五里の問いに答える。
良い、とは言わないのがいるからしくもある。
「なんかルクスの潔選手と話してたみたいだけど・・・いつの間にあんな仲良くなったんだ」
「ん?仲良くはしてないけど」
「え?あれで?無自覚で?」
「どういう意味さ・・・」
あれだけべったりしておいて、仲良くないと宣ういるかに五里があんぐりと口を開ける。
いるかは人当たりが良いタイプではない、しかし一度心を許すと結構懐に入り込むタイプだったりする。
「ま、いいんだが・・・」
「それより今は演技に没頭することだよ」
「それもそうだ」
麒乃や寧々子、ダリアの演技を見てやはり彼女らはジュニアでもトップクラスの選手だと改めて認めていた。
ノービスからの刺客も油断ならない。
りんなは思いのほか表現を身に着けてきた。
唯は何かが燻りながら爆発する予感がするし、いのりは最高を更新し続けている実績がある。
光はそもそも実力が高い。
「負けてやるつもりはない」
いるかは上着を脱ぎ棄て、地面に放る。
「さあ、行こうか」
今までの流れから汲み取り、岡崎いるかという選手を評価するとどうなるか。
その評価の確認に、いるかのようなジュニア界隈の識者は必要なかった。
ジュニア女王
今最もジュニアで優秀であるという肩書。
それは能力を分析するまでもなく、ただ冷静に結果のみが示していることだ。
前年の全日本ジュニア優勝、加えて今年ではジュニアGPファイナル出場が決まっている。
誰にも言い訳の余地を与えることなく彼女が一番だ。
実績という極めて現実に即した答えがそこにはある。
故に期待も大きければ、ファンも多い。
いるかがリンクに現れた瞬間、待っていましたと言わんばかりに歓声が湧き上った。
なんでもないようにいるかはその中を突き進む。
いるかが中央にたどり着くと次第に声は遠のいていき、ただ突き刺す視線と静寂だけが会場に残った。
その静寂が彼女の演技の始まりへの期待を表す。
演技の始まりは音楽が鳴ると同時になる。そんな共通認識があるからこそ、観客の意識は耳へと集中する。視界よりも聴覚へと意識が遷移する。
彼女の演技を見逃さぬようにという意識が皮肉にもいるかの姿を朧げにし、その瞬間を見逃す結果となる。
それは音楽の鳴動の一瞬手前だった。
観客が静まり、音楽が流れるかというその狭間。
放送音声独特の静寂の中のノイズを聞き取って、いるかは動き出した。
曲が始まる前である。
「え!?」
観客のぼんやりとしていた意識がその奇襲によって一瞬でリンクの上へと引きずり込まれる。
これは、暴走ではない。
自然体からは考えられないほど大きく踏み出した一歩。
そして音楽が流れるとともにもう一歩を踏みしめて、大きく加速。
それは、あるはずのない一拍目が生み出した虚空の裏拍だった。
単なる直線的な動きに過ぎないのに、静けさの中で踏み出した一歩を起点として強制的に裏拍を観客に刷り込んだ。
曲では一拍目であるはずなのに、視界の中では彼女はその裏を捉える動きをしている。
そんな奇妙な感覚は不思議と不快ではなく、むしろ目が冴える様な脳への刺激となってジンジンとした熱さをこめかみに覚えさせた。
同時にいるかから目を離せない。
僅かな動作でいるかは会場の空気を掌握した。
「たった一歩!会場の空気を変えた・・・!」
唯は驚きに目を見開いた。
既に会場はいるかに支配されている。
いるかの技術力は言うまでもないことだ。しかし、会場を飲み込む雰囲気。それを掌握する技法。視線の送り方や、タイミングの取り方。
僅かな動作ですら彼女の積み重ねた経験が滲み出る。
「何を積み重ねたんだ・・・」
そんな唯の驚愕は序章に過ぎなかった。
いるかの真価はそんな小手先に宿るものではない。
演技が続くとともに彼女の動きは激しさを増していた。
手足を絡ませ、頭を振るう。
ボーリングほどの重さを持つ人体で一番重い部位。
それを振り回すということは重心がそれだけぶれることを意味する。
しかし、いるかは依然として安定している。それどころか、体の躍動はその揺れに合わせて激しさを増していく。
音楽と調和しながらその上体は大きく揺れ動く。
トップから急降下させ足元から覗くように体を持ち上げる。
その最中にステップを取り入れながら、不安定な体勢を維持しつつ、次の瞬間にはピタリと軸が揃っている。
その動きは大きな動作でありながらも、決して無駄を感じさせない。
動きと動きが噛みあい、意味を持つ単一の動作同士を的確に繫ぎ合理性のある動きだった。
いるかの動きは合理的な装飾だ。
観客を引き込む。そこにはパフォーマーとしての理が宿っている。
優雅で力強い。
それを可能とする肉体、才能を存分に用いた表現、そして過不足のない理合いの籠った演技だ。
「腕の使い方だ」
唯はいるかを見ながらその答えにたどり着いた。
ずっと考えていたのはいるかの演技を可能とする技術の秘訣。
その演技とはあそこまで大胆に頭を振る演技を指す。
「どれだけ体を振ってもぶれない。転ばない。それを可能とするのが振り付けのように見せているあの手の動き。敢えて腕を激しく動かすことで、バランスを取りながらも不用意に演技の世界を壊さない調和を取っている。あのハンドワークこそが演技の秘訣・・・!」
だが、気づいたのはそれだけではない。
大会中いるかと過ごす中でどっかあった違和感。
その正体に気づいたのだ。
いるかの違和感。
「いるかさんはあまりに詳しすぎた」
ジュニアの事情に関して知っていることに違和感はない。選手をする中で彼女が直に感じたことなのだろう。
「高井原選手や紅熊選手、烏羽選手のパーソナルな面にも詳しいのは明らかに異常だ」
分析したと言ってしまえばそれまでだろう。
麒乃の肉体改革や寧々子の才能の使い方、ダリアの哲学。
彼女は全てを言語化し唯に語ってみせた。
ならばなぜそれらを熟知するほど分析するに至ったか。その答えは彼女の演技に現れていた。
「高井原選手の芯のある肉体、紅熊選手の才能をフル活用する表現、烏羽選手の合理性に則った演技。全部持ってるじゃん・・・」
そこから導き出される答えは1つだろう。
いるかは同世代の選手の能力を分析し、自分なりに取り入れた。
同世代のジュニア選手として戦う中で、学習し、『成長』してきた。
そこで初めて、いるかの言う『成長』の真意に触れた気がした。
「同世代の相手と戦うなかで『成長』してきた・・・相手を視て、分析して、改良して、取り入れてきた。『才能』の一言では片付けられない、理論に基づいた『秀才』の戦い方!」
麒乃を見て、己の能力を活かすための肉体づくりをした。
寧々子を見て、己の才能を見つめ直し、表現に磨きをかけた。
ダリアを見て、己の演技に合理性を宿した。
「強くて、上手くて、巧い・・・岡崎いるかの本質はいったいどこにあるんだ?」
いるかにとってスケートは何か、そう問われると言葉に詰まってしまう。
彼女は何かスケートに輝きを見出して始めた訳ではなかったからだ。
(ただ、スケートは単なるクソでしかなかった私を人間にしてくれた)
母親の虚栄心をきっかけに始めたスケート。
しかしそのスケートを通じて、かけがえのないものを手に入れた。
実叶と過ごした未だ色褪せない思い出。
自身を強くした絶望と希望。
五里夫妻の温かな光。
それらはスケートをする中で間違いなく手に入れてきたものだった。
父がクソだと蔑んだ。
母が出来損ないとなじった。
死ねと頭を掴まれた。
ブスだと顔をぶたれた。
だからそうなのだと思った。
傷つくことは仕方ない。何も出来ないのは致し方ない。
だって自分は出来損ないだから。だって自分はクソだから。
自分を否定すれば安心できた。
己を傷つける刃を見るとどこか安心感を覚えた。
自分で傷をつけていれば、誰かに傷つけられずににすんだから。
同時に誰かにその傷を知ってほしかった、そんな願望もあったかもしれない。
(スケートが私に翼をくれた。この世界で生きていくための贈り物)
スケートをやる意味。
スケートをしていれば自分は傷つかない。
それ以上にスケートによって与えられたものがある。
氷上という海の中で彼女は悠々自適に泳ぐ。
幾度陸に浮かび上がろうとも、彼女の生きる世界はそこにある。
そこで生きるためなら何でもする。
(2回転アクセル・・・!)
気づけば第一ジャンプが迫っていた。
内側の筋肉を引き絞ると、膨張しているのを感じる。
合理に則り、間を埋めるステップを組みながらピンと当てはまるイメージを探す。
曲と調和したイメージが爆発するジャンプのその瞬間。
いるかは跳んだ。
正確に軸を捉え、体がそれを安定させ、先行したイメージが通りの軌跡を描く。
2回転アクセル 着氷
その迫力に反してあまりに静かな着氷だった。
それは力をほとんお逃がすことなく、正確に氷を捉えたことを意味する。
中盤へと差し掛かっても彼女の演技は衰えることを知らない。
その動作、その表現、その再現のためにどんな才能が必要でどんな肉体が必要なのか正確に理解している。
その上で彼女の演技の根幹をなす要素はもう1つあった。
(研ぎ澄ませ!動きを頭の中で俯瞰する。その上で必要な情報だけを選別してイメージをつくる)
その技術はありていに言えば『
動作と視界をイメージで結び付けて、俯瞰する像を脳内で作り出す。
その上でいるかにはもう一段階ある。
(線だけでいい。明確な像ではなく、その像が描く軌跡がわかれば十分だ)
頭を大きく揺らすいるかの演技では、いかに間接視野を活用しようとも視界に映る全てを認識することなどできない。
むしろ像は光の線となって、背景の形すら捉えるのは難しい。
ただでさえ、数多の情報を処理する必要がある中でそれらを想像で補完してイメージを作り直すというのはあまりに非効率で、不正確だ。
だから彼女は正確なイメージを放棄した。
いるかが映す『超越視界』には明確な像は存在しない。
光が渦を巻きながら、手足と胴体のパーツを線で捉え、その軌跡だけは正確に再現している。
雑多な情報の中から必要最低限だけを抽出した視界は確かに解像度は低い。
しかし、逆に己の動きを把握する上で余計な思考を省く合理性がそこにはある。
(視界の中を入り乱れる光の線。それが私を導く標になる)
突き詰めた結果、要素を削るというのはどこかダリアの価値観に酷似していた。
演技は壮大でも、その要素自体はシンプルな技術の積み重ねだ。
(ジュニアで学んだ価値観!技術!哲学!能力!全てぐちゃまぜにして取り込む!それが私の『やり方』だ!)
いるかがジュニアで生き抜くために磨いた能力。
麒乃も、寧々子も、ダリアも、それぞれが持つ強みや拘りを特化させることで誰にも負けない武器を手にしたことは確かだ。
だが同時にその過程で失ったものがある。
いるかは本来なら相反する要素すら調和を以って同時に現出させている。
麒乃のように安定した芯と、寧々子のようにあえて体制を崩す自由な演技。
寧々子のようにインスピレーション溢れる演技と、その要素同士をつなぐダリアの合理性。
ダリアのように無駄がなく、麒乃のようにエネルギーに満ち溢れている。
そのバランスを見極め、融合する技術がいるかにはある。
それはジャンプを見れば良く分かった。
(ギュッと体を引き付ける感覚、すると体が軸に寄せられて、効率的に回転を伝えられる)
イメージの中で螺旋が生まれる。
氷がいるかの体を矢のように打ち出し、そのリズムを彼女は正確に捉えていた。
正確にエネルギーを伝えられる左足から相対的に割り出したトウの突く位置。
エネルギーに満ち溢れえた彼女の体が躍動し、高く、速く、その旋回を描く。
いるかは飛翔した。
3回転ルッツ 着氷
歓声が湧く。
ギラギラとしているかの瞳が観客たちの心に突き刺さる。
いるかが体を振り回す。
振るう、振るう、振るう。
腕がしなり、風を切る音が心地よく響く。
混雑する視界の中、その情報をもっとぐちゃぐちゃにすることで演技の世界が乱雑に拡張される。
次の瞬間には、その入り乱れ拡がった世界をいるかがタクトを振るように統制していた。
振り回し、正し、惹きつける。
まるで掌で転がすように観る者の情緒を揺さぶる。
もう十分に観客は引き込まれていた。
いるかが作った氷の世界。
彼女のわずかな動作すら無意識に干渉し、情動と熱を生み出す。
加速しながらターンを取り入れ体が反転するのその瞬間に最大速度に達する。
その速度を維持しながら後ろ向きに滑る。
体が風を感じる。
その風を繰りながら背中を押す感覚。
それを単なる感覚ではなく、はっきりとした意識のもとで統括する。
イメージが浮かび上がる。
頭の中にある煩雑とした殴り書きのような己の姿は確かに美しい軌跡をたどっていた。
(それで十分!)
体の内側から溢れんばりの活力をそのまま推進力に変える。
エネルギーの暴力というにはあまりに繊細だった。
才能任せというにはあまりに理路整然としていた。
合理性だけというにはあまりに情熱的だった。
躍動の瞬間を誰一人として見逃さなかった。
彼女の体が宙を舞い、風を巻き起こしながら沈み、また舞い上がる。
高い、速い、繊細で、滑らかで、理的で、豊かで、大迫力。
ぶれもなく、真っ直ぐ吸い付くように彼女のブレードが氷に着いた。
3回転フリップ+3回転トウループ 着氷
音楽に合わせて、拳を振り上げ、全身を広げる。
誰も彼女を形容する言葉を持たない。
あまりに多彩で、どれか1つを汲み取るのが惜しいからだ。
だから分かりやすい肩書を口にする。
ジュニアで一番という意を込めて。
ジュニア女王 岡崎いるか