『愛西ライドFSC 岡崎いるかさん 72.22 現在の順位は1位です』
「さすがだな」
「ま、こんなもんか」
いるかは結果に対して、大きな反応をみせなかった。
代わりに安堵するように大きく息を吐く。
(平静そうにしてるけど、思ったより負荷がかかってそうだな)
肉体的にではなく、精神的に。
五里は努めているかの状態を探る。そこそこ付き合いの長い五里だからこそいるかの微細な変化に対して目ざとく気づく。
「ま、今はとりあえず休め。ミーティングは後で良いだろ」
「分かった」
五里が差出した水を一気に煽ぐといるかは立ち上がる。
五里の肩を小突きながら笑うと、その場を後にした。
彼女の笑顔の裏にあるささやかな強がり。
五里は決して見落としていなかった。
「笑っている、か」
いるかの演技を見た後、唯は恐る恐る自分の口元に触れた。
笑っているかは分からない。
ただ、確かにその口元は歪んでいることが分かった。
「凄い演技を見たから?」
その感覚自体は理解できないものでもなかった。
りんなやいのり、光相手でも同じように自身を奮い立たせた記憶がある。
しかし
「わからないよ」
だからなんだというのか。
強敵に出会ったとき、委縮するか奮起するか個人差はあるだろう。
しかしそんなことは単なる気質の問題であり、それが己のスケートに対する根源だとは思えなかった。
ふとキスクラを後にするいるかを見る。
息を切らしながら真剣な表情で歩いている。
一体何を考えているのか。その表情は演技の余韻によるものなのか。
彼女の演技からその根源を為す『エゴ』は感じられなかった。
「でもそれは私とは違う」
彼女には明確な意思があった。
スケートをやる理由を確かに持っており、その意思が彼女の演技を強固なものにしていた。
いるかだけじゃない、りんなも麒乃も寧々子もダリアもそれぞれに己の理由と『衝動』があり世界の『主人公』のようだった。
「私は一体何なんだ」
もう自分の番が迫っている。
何も考えずに演技をする。
心の赴くままに演技をする。
そう決めたはずなのに、いざ目の前にすると思考が絡み合い胸の内を圧迫する。
「唯さん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。もう行きますから」
司に声をかけられてハッと息をつく。
そうして自分の手が震えていることに気づいた。
「なんだよ、今更」
怯えている。
いつも演技の前には理屈と考えを持って挑んでいた。
今、自分にはそれがない。確証のない理屈も言えない『何か』に頼りきりにする。これほど怖いものだとは思わなかった。
「唯さん」
「司先生、おかしいですよね。別にこの大会に賭けてきたとかじゃない。いわばノービスのボーナスステージみたいなものなのに。今になってビビってるんです」
そんな震える唯の手に司が大きな手が重なる。
「先生?」
「きっと唯さんとって大会の内容はそこまで重要じゃないってことだよ」
「え?」
「君の努力を俺は知ってる。君の苦しみを俺も少しだけ垣間見た。けど君の本質は全くわからなかった」
「私の本質?」
唯は息を呑んだ。
「多分心の底では結果に拘りなんてなかったんじゃないかな」
「でも私は世界一になるために・・・」
「君の『心』に聞くことだ。君はスケーター、全ては氷が教えてくれるよ」
そうして司は唯の背中を押した。
まるで無責任な言葉のようだった。しかし司は答えは必要ないと思ったのだ。
なぜなら、唯の顔にはもう答えが出ていたから。
(いるかさんも、司先生も一体何を言っているのか分からない)
己の本質、あやふやで言葉に出来ないものに縋るなど正気の沙汰ではないと思った。
それと同時に、それを無意識にこなしてきたからあの人たちは大人になったのだとも。
(スケート技術、表現、肉体、全て培ったもので言葉に出来るものだ)
『心』だけが分からない。
自分は何をしたくてスケートをしているのか、惰性ではないはずだ。
ほんのこの間まで自信を持って答えていたその問いに、今は意識が朦朧とするほどの思考を要する。
その上で答えが出ない。
(私は)
音楽が流れると体は勝手に動いた。
それは自分の今までの蓄積であり、『心』というにはあまりに色褪せていた。
メロディーに合わせた明朗な体の動きが演技の世界を表現し、観客に息づかせる。
なくてはならない技術、しかしそれは同時に小手先の演出的な動作だった。
(別にこれだって間違いではないはずだ)
小手先だろうとなんだろうと、点は取れる。
それを崩すということは、その強みを失うということだ。
(そうか、だから私は)
恐れていた理由がなんとなく分かる。
『心』のままに動いたら、何かを失う気がしていたのだ。
それは点数であったり、信念であったり、今までの努力であったりするかもしれない。
同時に自分の『心』の内など誰にも理解されやしない、そんな諦観があった。
(違う、これは恐れるべきじゃない。私はきっと自分の『心』を抑圧してたんだ)
誰かに執着していたのは、価値基準を誰かに合わせるため。
自分以外の道しるべが欲しかった己のひとりよがり。
(でも今自覚したことで、本当の執着が見えてきた)
人は常に誰かと繋がっている。
自分が誰かの演技を見て影響されるように、誰かも自分の演技を見て変わっていく。
誰かに勝ちたい、誰かに負けたくない、あんな演技がしたい。
そのすべてを執着という。
(私は確かに理由なくしてスケートをしていたかもしれない、けどこの『心』に抱いた執着は決して紛い物じゃなかった!)
とっくに失っていたはずのスケートへの『熱』、しかしいつだって自分の『心』は燃えていた。
それは目の前にいるライバルたちに勝ちたいという刹那的な想いに過ぎない。
そんな執着も正しく形にすれば、立派な『熱』になる。
(まるで『主人公』のようなライバルがいた。でもそれは私も同じだ。理由の大小など関係ない。ただ己が正しいと思い込む力が世界を変えるファクターになる)
誰かの物語の中では他の誰かは脇役となる。
そんな自分だけの物語を繋ぐのが執着という『心』だ。
『主人公たち』の物語が交差するのは演技の中で『心』を曝け出しているからだ。
自分が正しいと信じ、世界に変革をもたらす。
自分の『心』を他者に押し付け、自分の物語を押し通す。
(そうか、ようやく理解した)
スケートは磨き上げた技術で争う。
何度も何度も練習して、体をいじめて鍛え上げて。
練磨された技術と肉体を以って、本番へと向かう。
ならばその時点で勝負はついているはずなのだ。
どれだけ培ってきたか、運も含めて己が持つ総合力が結果を決める。
しかし、現実はそうではない。
確かに実力あるはずのものが容易く零れ落ちていく。
きっかけ1つで目にも映らなかったものが勝利をもぎ取っていく。
運というだけでは片付けられない、決定的なファクターがそこには存在する。
唯は天啓を得た。
(スケートとは『心』と『心』の潰し合いだ!)
体にのしかかっていた重圧がスッと消えていく。
同時に自分の内側からはち切れんばかりのエネルギーがあふれ出す。
体を広げながら正面から風を受ける。
肌を掠める氷の温度を感じながら、その空気を混ぜるように体に巻き込む。
自分にのしかかっていた重圧をそのまま観客に押し付けるように、力強く風を切る。
足元から伝わる振動に喜びを覚えながら、その感触を確かめる。
滑っている時はジリジリと、ステップを踏んだ時はストンと。
常人では分からないほど繊細な範囲で、体重移動を操作する。
氷に反射した光を受け、その光に照らされながら彼女は跳んだ。
2回転アクセル 着氷
着氷した瞬間、会場全体が彼女の雰囲気に呑まれる。
唯が着氷の瞬間、スイッチを切り替えるように世界を変えたからだ。
(私の『心』の中の世界、それを今発露させる!)
誰にも理解されないと、無意識の内に抑えていた五感の世界。
彼女一人だけが唯一生きる世界。兄だけがその一端を感じ取った感覚の世界。
雨が降り出すとき、 空気が嗚咽をあげるように淀んでいく。手を広げて大丈夫だよ、と慰めても声はやまない。やがて決壊したかのように涙を流す。皮膚を伝う水の温度が妙に違うのはなぜだろう。雨が搔き乱す空気の層が自分の産毛を揺らすのを自覚しながら、脳にズキズキとした痛みが走る。
雨が止んだ次の日は、風が色んな景色を見せてくれる。風に乗ってきたのは近くの家のスープの匂い、海から渡る潮の匂い、濡れて垂れ下がった葉っぱの匂い、さらに追っていくと排水溝の奥に滞留した古い水が雨で押し出されてきたことがわかる。おえ、とえずくと胃が収縮する感覚が気持ち悪い。それを必死に飲み下すと皮膚に悪寒が走った。
視界の端では雨上がりを喜ぶ猫がご機嫌そうに毛を横凪ぎにくつろいでいた。鳴き声のわずかな波長の変化が猫のご機嫌を教えてくれた。自分も嬉しくなってスキップしながら歩いていくと水たまりを踏む。
服から皮膚に張り付いた水の感触に驚いて、声をあげた。
気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。
その瞬間、全身の感覚が爆ぜた。
水に反射した光が暴力となって脳を蹂躙する。
全く薄まらない黒い煙のにおいが、白い煙の甘いにおが、おいしそうなお菓子のにおいが、振りまかれた香水のにおいが、汗のにおいが、すべて混ざって真っ黒な何かとなって脳髄を貫く。
ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃに。
皮膚を切る風が、脳を押しつぶす空気の層が、鳴りやまない雑音が焼くような痛みとなって額を蝕む。
「表現の暴走だ・・・」
冷気が鋭い刃となって、全身を襲う。よけることは出来ない。むしろそれを迎え入れるように全身で受け止める。
観客の熱気が、汗と香水の混じった匂いが鼻を刺激してむせかえるような気持ち悪さを飲み込みながら唯は歓喜に震えていた。
(脳みそがぐちゃぐちゃ、イメージがまとまらない!)
それはイメージの暴走だった。
彼女が行ったのは単なる『雨』の表現に過ぎなかった。
曲とリンクした『雨』という要素をイメージをもとに演出する。そんな小手先に『心』という要素が宿った。
彼女の細やか感覚が
いつしか心象風景は暴走し、誰にも理解できない歪んだ世界になっている。
そんなおどろどろしい感覚は現在の唯も蝕んでいた。
歪んだ心象が感覚を狂わせ、彼女の『心』の箍を外していく。
(理屈も、合理性も何もない!けどこれでいい!それもひとつの表現になる!強烈な個をそのまま演技にぶつける!自分の可能性にフルベットする新しいやり方!)
普段の洗練された無駄のない滑りとは異なる、しかし情熱と『心』といった別種の理が籠った滑り。
(いのりも、いるかさんも、光も、りんなも、全員私を見ろ!目を離すな!私の演技に入り込め!脳みそで感じろ!そしたら、ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃにして)
彼女は笑った。
(ぶっ壊してあげるから!)
豪快に氷にトレースを刻んでいく。
リンクの上で翼を与えられたかのように自由に滑りまわる。
後ろ向きにそのスピードは衰えない。
それどころか加速していく。
加速して加速して加速して、ターンを入れた直後に足を振り上げる。
トウを突く。
ジャンプを跳ぶ。
その動作の間に体が波打つように反動を付けながら跳ねた。それが観客のイメージからリズムを一瞬ずらす。
細やかな重心移動によってその無駄な動作でもバランスを崩さない。
そしてその動作に意図があったかと言われるとそうではなく、ただ『衝動』のままに動いた結果に過ぎなかった。
形を保ったまま、多彩に装飾された彼女のジャンプは今までにない衝撃を観客に与える。
3回転ルッツ 着氷
「変で、歪で、気持ち悪い。でもどこか痺れる様な快感がある」
観る者の心を侵すように、心象を押し付け蹂躙する。
不快感すら覚えそうなギリギリの感覚。しかし演技を伝える力としては均された凡百のそれとは比較にならない力がある。
(結局私はこの『衝動』の正体に気づいていない!この他者に持つ『執着』の源泉と正体はきっと私の『心』の根幹にある『何か』なんだろう)
『執着』の存在に気づいても、それが一体どういうものなのかは無自覚だった。
(きっとこの『執着』の正体に気づいたとき、私は本当の意味で覚醒するだろう)
それは予感だった。そしていつもなら今すぐにでもその正体を探ろうとするだろう。
(でも、今はこれでいい!今はただ自分の『心』を曝け出すこの快楽に身を委ねろ!答えはきっと、向こうからやってくるからさぁ!)
唯は笑う。
演出も演技も関係ない。
ただ『心』の底から笑っていた。
(はは、スケートは楽しいなぁ!)
振り付け、緩急、演出。思考ではなく『感覚』により設定した新境地。
自分のイメージが自分でも気持ち悪い。
でもこの不快感も自分の『心』の発露だと思えば心地よくすらある。
足を打ち付けると、衝撃が骨まで突き抜ける様な深い感覚。
風を受けるとその空気の層ごとにわずかに様相が異なる。
些細な光が視界の端から存在感を主張して頭から離れてくれない。
集中とはかけ離れた雑念が、周りから雑音を拾い続けて脳にこびりつく。
雑念、煩悩、邪念、妄念、妄想、我欲、私欲。
あらゆる無駄な思考が彼女のオリジナリティに昇華する。
(そうか、私のやるべきことは無駄を削る演技じゃなかった。その無駄すら活用する演技が必要だったんだ!)
ノービス大会の時、唯は演技の完成度を上げるために必要なもの以外の全てを犠牲にする選択をした。それは決して間違った選択ではないが、彼女の本質には合わない。そして今気づく。捨てるよりも活かす方法を考えるべきであったと。
(いのりに勝つ、光を狩る、りんなを潰す、いるかさんを落とす。そんな執念すら演技のために使い尽くせ!)
潔唯という存在に無駄など存在しない。
全身全霊とは全てを尽くすことだ。
切り捨てる部分などない。
思考と、執念と、執着。その全てをぐちゃぐちゃに織り交ぜて、ぶつける。
(跳ぶ、いや飛ぶ!)
背中に風を纏い、それを巻き込んで体を浮かすようにトウを突いた。
威力はない。しかし正確に振動が足先を突き抜けて、内側から爆発するほどの衝撃が走る。
十分に余力を持ったまま、旋回の軌道が生まれる。
正確に軸を捉え、思念が生んだ膨大なエネルギーを一点に集約させる。
抑圧と爆発、そのカタルシスが生む飛翔。
3回転フリップ+3回転トウループ 着氷
『天才』としての覚醒。今はまだその片鱗に過ぎない。
しかし、彼女は会場を飲み込んだ。
もしも真に覚醒したなら。
それは誰にも想像しえなかった。