メダリストはエゴイスト   作:モリブデン42

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めっちゃ遅くなってすいません!


突っ走ってそのまま死ね

『ルクス東山FSC 潔唯さん 69.12 現在の順位は2位です』

 

 一歩及ばず、唯は2位という順位に落ち着いた。

 

「ま、上出来かな」

「あれ?意外と悔しそうじゃない?」

 

 唯の態度は意外とあっさりしていた。普段の向上心ならもっと悔しさを滲ませると思っていた司は少し意外そうに呟く。

 

「あんだけ好き勝手やりましたからね。加点が多くても減点もあったでしょうし」

 

 気づいていて直さなかった。今回は自分の『心』に従うと、そう決めていた。

 

「きっかけは得ました。後はこいつを飼いならすだけです」

 

 再燃した彼女の『熱』。そこから生まれた新しい境地がある。

 それは希望と同時に破滅の可能性をもはらむ。

 制御しなければならない。

 強みを殺さず、弱みを目立たせず。

 もしそれが出来たのなら

 

「神にだってなれるな」

 

 

 

 

 

 

 唯の演技は選手たちに衝撃を与えた。

 それは演技の内容もあるが、それ以上に彼女の成長性を見せつけられたことが大きい。

 あの演技は未だ未完成、発展途上。

 しかしあれほどのパフォーマンスが生まれた。

 潔唯はまだまだ伸びしろがある。そしてそれはそう遠い未来ではない。

 背筋が凍るような寒気を覚えるのも無理はない。

 

 その中でただ一人。

 

 結束いのりは努めて冷静に心を落ち着かせていた。

 

「ふう、大丈夫だ」

 

 唯の演技を見て心が躍った。これこそが自分が求めていた魂のぶつかり合い、生命のぶつけ合いだ。

 同時に頭を冷やす。

 雑念は無用。

 この『エゴ』だけを残して、自我を駆り立てる。

 体に張り巡らされた神経が泡立つようにヒリヒリと全身を焼く。

 本番を目の前にして、逸る心を自覚する。

 

「行くよ」

 

 いのりは独りでに立ち上がった。

 これから自分に魂が吹き込まれる。生命を得る。

 その生存圏を取り合う闘いが始まる。

 

 自分の体がわずかに震えていることに気づかない。

 それは武者震いか、はたまた臆病風に吹かれたか。

 

 

 

 

 

 司とはあまり多くの言葉を交わさなかった。

 集中力を途切らせまいとしているいのりに気を遣っての事だろう。あるいは鬼気迫る様子のいのりに言葉が見つからなかったか。

 どちらにせよ、今のいのりにはその扱いがありがたかった。

 

(今の私には演技への集中以外なにもいらない)

 

 高揚感を覚えながらも、いのりの表情は凛と澄んでいてその心情はうかがい知れない。

 ただその集中の高まりとともに雑多な情報が頭の中からすり抜けていく感覚を心地よく受け入れていた。

 

「私は勝つ・・・勝って勝って勝ち続ける。金メダル以外の結果何ていらない」

 

 言葉と共にさらに自分を追い込んでいく。

 いつもならある思考のブレーキは容易く外されていた。

 それを自覚しながらそれでいいと言い聞かせる。

 

(考えるのは終わった後で良い)

 

 気づけばリンクの中央、観客の視線を一点に集め佇んでいた。

 

 演技が始まる。

 

 立ち上がりは静かだった。

 音楽に合わせたスタートは淀みなく彼女の体を加速させた。

 静かに、冷静に、いのりは急加速していく。

 

「速っや」

 

 一歩、ただそれは自分の限界ギリギリを攻めた一歩だ。

 ほんの些細なきっかけ一つで破綻する限界の速度。

 それを維持しながら頭の中では冷静に演技を組む。

 

 司直伝のスケーティング技術を遺憾なく発揮しながら、氷の上に軌跡を刻んでいく。

 

(勝つ・・・勝つ・・・勝つ!)

 

 勝利への闘争心がいのりの心を掻き立て、演技を昇華していく。

 その意気の高まりは容易く彼女のパフォーマンスを限界ギリギリへと引き上げた。

 

 心意気一つ、それだけで能力が高まる結束いのりという魔物。

 

 その表情は追い込まれているようで、とても強者の余裕などみられなかった。

 

 

 

 

 

 

 司は祈るようにリンクを見ていた。

 もう初冬だというのに冷や汗でインナーがぐっしょりと濡れて気持ち悪い。

 

(演技前だというのに多く語りすぎたかもしれない)

 

 司が何も言わなかった、というのは単なるいのりの妄想だった。

 司はいのりの体と心を案じ、余裕を持てるように彼女を鼓舞していた。

 

 君は凄い、君はもう強者だ、君を信じている。

 

 何ともまあ、薄っぺらい言葉ではないか。

 

 事実彼女は何の反応も示さず、外界から情報を遮断するように呆然とリンクを見つめていた。

 自分の言葉は彼女に届いていない。

 その事実が司の無力さを強め、今やただ祈るだけのお飾りコーチになってしまった。

 

(いのりさんは強い、上手になった、ジュニア選手にだってひけをとらない。でもなんでだろうか、悪い予感が治まらない)

 

 落ち着かない体を誤魔化すように指を組み替える。

 ただじっと外から見つめることしか出来ない自分。

 もっと、何かしてあげられたのではないか。

 そもそも今のいのりの状態を正しく認識できない時点でそんな思考は無駄なものでしかない。

 

(今俺に出来ることはいのりさんを信じることだけ)

 

 ああ、コーチとはなんて歯がゆいものだろうか。

 初めて、今の自分の立ち位置に不満が零れた。

 

 

 

 

 

 

 いのりの演技は過激さを増していた。

 リスクとは躍動、躍動とは過多な表現。

 足せば足すほどその世界は色鮮やかに彩られていく。

 表現力の一点においては些か他の選手に劣るいのりにとってできることはその要素を増やすことだけだった。

 

(今の私なら出来る、出来る出来る出来る!)

 

 統制された思考と『感覚』が無理やりいのりの体を動かしなら、ガリガリとその身を削っていく。

 苛烈な演技は間違いなく観客を引き込むに足るもので会場のボルテージを上げていた。

 その熱に合わせていのりもパフォーマンスを上げていく。

 

(体が止まらない!イメージが収まらない!)

 

 溢れ出す『感覚』がどこか苦しい。

 しかしその苦しみの先にこそ己が求めていた世界があるのだ。

 

(見たい!見たいなぁ!)

 

 脳が沸騰しているのではと錯覚するほど熱を感じる。

 とても心地良い。

 もっと欲しい。

 空を掴みながら、世界を歪ませるように肉体を躍動させる。

 

 いのりは止まることを知らない。

 限界ギリギリを求め続けて、いつか間違いなく破綻するであろうその演技を続けていた。

 

 筋肉を引き絞るように腕を引く、その力みを解放させることで自然な脱力が可能となる。それらを音楽とステップに乗せながら組み込む。

 

(体が爆発しそう!)

 

 『熱』がマグマのように胸の内で激しく迸流し、その身を焦がす感覚。

 荒ぶる息と開いた瞳孔が彼女の熱狂を表していた。

 

(出来る、私は出来る!このまま行く!)

 

 それは彼女が決して平静ではないことを示す。

 

 ギリギリまで加速し、体を引き絞り、矢のように体を空中に放とうとしたその瞬間だった。

 

「え、あれ」

 

 なんてことはない。いつもこなしている2回転アクセル。失敗など考慮していなかった。

 なんの迷いもなく、空中に身を放り出した。

 右足は正確に氷を捉え、踏み切っていたはずだ。

 

(あ、これ)

 

 思考が追いつかない。体も反応出来ない。

 なぜならその瞬間には着氷後の予備動作を作っていたからだ。

 こけることなど考慮していない。転倒して勝てないなら死んでもいいという覚悟の表れ。

 それが結果的に失敗の確率を下げる。

 しかしそれは失敗しないという意味ではない。

 そしてその転倒が意味するのは。

 致命的ということだ。

 

2回転アクセル 転倒

 

 ドッと鈍い音がなった。

 本来なら誰もがとっさに手を突く。

 しかし成功前提で動きを作っていたいのりにその対応は出来ない。

 受け身を取ることも出来ず、背中から落ちた。

 なんとか首を持ち上げ頭を守ったのは彼女の本能だろうか。

 

「ヒュウッ!」

 

 肺から強制的に空気を吐き出されるようにいのりの喉がなる。

 その瞬間、閃光が眼球を潰したかのように目の前がチカチカと点滅する。

 

「カハッ」

 

 体が空気を求めて過呼吸気味に肺を動かす。その反応に振り回されて、思考がおぼつかない。

 頸椎を引っ張るような鈍い痛みが背中に駆け巡り、鈍い痛み内側を啄むように浸透していく。

 

(え、あれ?なんで?何が起きた?)

 

 転倒、その事実を理解するまでに三度の瞬きの間があった。

 理由は彼女にも分からない。複合的な要因が噛みあって、ほんの些細なずれをもたらした結果だからだ。

 しかし敢えて言うなら、演技の直前に唯の演技を見たことが大きいだろう。

 関係ないと集中したつもりだった。

 自分の演技と他人の演技を切り離し、己の内との対話に没頭する。

 しかしそれには唯の演技は些か鮮烈すぎたのだ。

 いのりが何気なく見ていた唯の演技は爆発したかのように輝いていた。

 『熱』を感じた。高揚した。興奮した。

 そんな感情の高まりが知らず知らずのうちに演技に偏りを見せた。

 唯から受けたインスピレーションを理解しないままに体現しようとしてしまった。

 ほとんど無意識に行われたことだ。避けようと思って避けられたものでもない。

 

(あ、速く戻らなきゃ)

 

 いのりは自分が転倒しても変わらず音楽が流れていることを理解する。

 点数の事を気にするよりまずは立ち上がって演技に戻らなければならない。

 

 立ち上がろうとすると背中に鈍い痛みが走った。

 それを無視して立ち上がる。

 

(背中が熱い)

 

 これはただ痛みだけによるものではない。

 肉体と精神の両方の観点からいのりを追い詰める針だ。

 

(気持ち悪い)

 

 たったは良いものの足元がおぼつかない様子だ。

 不快感と倦怠感が彼女の体を蝕んでいる。

 

(でも、関係ない!)

 

 されど結束いのりは止まらない。

 音楽のタイミングに合わせて再び急加速。

 自身の体の状態など慮らずに負荷ギリギリの演技を続ける。

 

 しかし当然の帰結というべきか、まともな演技など出来るはずがない。

 転倒がもたらした影響は大きい。

 ジンジンと痛む背中。酸欠がもたらした体力の浪費。それに伴って頭は回らず、集中力の欠如も見られる。

 何より大きいのが精神的なショックだ。

 致命的な転倒。演技の中断。

 正直いのりのFSへの進出はほぼ絶望的と言ってもいいだろう。

 それだけでなく、自身の転倒という事実そのものにもショックがある。

 かつてなく好調で、闘気に満ちていた状態から一転。魂には陰が見え、小さく乏しい炎となってしまった。

 その落差が大きいだけにすぐに切り替えることなどできない。

 

 それでも

 

(次・・・まずは次、次の3回転ルッツ!絶対決める!)

 

 焦りもある。絶望もある。しかし、いのりは立っている。

 ふらつく体をさらに加速させることで安定させる。

 未だにおぼつかない意識の中で、本当に乏しい感覚だけを頼りに体を動かす。

 

 演技を変えない。

 貫き通す。

 ここで曲げたら自分じゃなくなる。

 失敗して保身に走るな。

 突っ走ってそのまま死ね。

 

 いのりの目がわずかに灯る。

 3回転ルッツを成功させて、もう一度踏み出すのだ。

 結束いのりという存在証明。

 生きるために勝利という切符にわずかでも近づくことだけが、己に課せられた生きる意義。

 

 神経の端々までいのりの闘気がめぐる。

 意識が浮上していく。

 体の動きを意識しながら、限界ギリギリの演技に挑む。

 

 矢を引き絞るように溜めを作り、それを解放してエネルギーを発散させる。

 迷いなく定点を決めたなら、そこに正確にトウを突く。

 もう一度、ここでやり直す。

 結束いのりの演技を。

 

 

 いくら気合をいれようと、力の漲りを錯覚しようと。

 

 

 現実はそう甘くない。

 

 

 

3回転ルッツ 転倒

 

 安定しない回転に加えて、氷に足を着けた瞬間詰まったかのようにバランスを崩す。

 

「あっ」

 

 そんな声が漏れたのは観客席のどこだろうか。

 少なくともいのりはそんな反応をする間すらない。

 ギリギリと歯ぎしりをしながら、なんとか表情を和らげる。

 

 転倒したのはごく自然の流れだった。

 一度目の転倒でコンディションはガタガタ。そんな状態で余裕も持たせず切り詰めてジャンプをすれば当然失敗する。

 そんな単純な理屈に演技の中では簡単に気づけない。

 そして気づいたとして、自分の演技を曲げることは果たして正しい選択なのか。

 きっと正解などないのだろう。

 ただ気づいて選ぶか、気づかずに愚直に縋るか。その二つには大きな差がある。

 いのりはまだ気づいていない。

 そしていのりが気づいたとき、どちらを選ぶのか。

 

 

 

 

 

 

 司はリンクサイドでその身を震わせながら拳を握りしめていた。

 

(最悪の予感が、最悪の形で的中した)

 

 いのりの転倒。これは他選手の転倒とは大きく意味が異なる。

 いのりの成功前提のジャンプは転倒した後の事など微塵も考えていない。だからこそ、無駄を徹底的に排し綺麗で安定している。着氷よりも前に次の動きを構成して予備動作に入っているから恐ろしくスムーズに次の技に繋がる。

 それは同時に無防備な状態での転倒を意味する。

 嫌な倒れ方ではあったがまだ、重症でないだけましな方だ。

 それでもいのりは大きくコンディションを崩している。

 

(そんな状態でも演技を変えない。上手くいくわけがない・・・もし次の転倒で頭でも打ったら、骨折なんてしたら)

 

 選手生命に関わる。

 

(いのりさん、今がすべてじゃない。逃げてもいいんだ。君は十分闘っている。それなのに・・・)

 

「何が君をそこまで追いつめているんだ・・・」

 

 司は叫びそうだった。

 どんなに悪者になろうともいのりを思うなら、無理やりにでも演技を止めさせるべきではないか。

 この大会、いのりが勝ったとしても次のステージには進めない。

 ノービスからの推薦で参加しているいのりは勝ったとしても、全日本に出場できるわけでは無いのだ。

 それに既に二回の転倒を経て、いのりのFS進出は絶望的だろう。

 演技に最後まで真摯に向き合う、と簡単に言うのとは訳が違う。ここで退くことは極めて合理的で正しい判断だ。

 

 ここで、怪我をするくらいなら。

 

「もう、い・・・」

「駄目だよ、司先生」

 

 司の呟きを止めたのは唯だった。

 剣呑な表情でリンクを見つめている。

 

「確かに司先生は間違っていないです。ここでリスクを冒す意味はない。かと言って自分を曲げるのも違う。どっちも正しくて、どっちも間違ってる」

 

 唯はじっといのりの演技を見つめていた。

 

「今ここで何かをしてあげることはできませんよ。祈るんじゃない。願うんじゃない、ただ一緒に受け入れる。いのりの選択を。彼女の決意を」

 

 唯も少し迷いをはらむ口ぶりだった。

 

「多分、ここで逃げたら一生いのりは今の演技をできなくなると思います。でもそれが間違いかって言われるとそうでもなくて、だからこそ開ける道もあるかもしれないですし」

 

 唯は何かを反芻するように言葉を詰まらせた。

 

「ここは分水嶺なんです。結束いのりという選手が今後どうなるか。どう戦うか。司先生はちゃんと見届けなきゃ」

 

 司は静かに拳を開いた。

 祈らない。願わない。

 決して見逃すまいといのりに視線を送る。

 

 いのりの選択を、見届けるために。

 

 

 

 

 

 いのりは混乱の最中、自身の体からスッと『熱』が引いていくのを感じていた。

 

(すり抜けていく。掴みかけていた『何か』も)

 

 暗い道に一人取り残されたかのような絶望。

 ふと我に返るとその状況は自分が一人で突き進んできたからだと気づく。

 

(待って、行かないで。私の中から『熱』が失せていく)

 

 寒い、苦しい。

 

 それを表すかのようにいのりの演技から精彩さが消えていく。

 ただ動きを模り、トレースするだけのハリボテの演技。

 かつて憧れた司の演技すら今は思い出せない。

 

(ああ、私馬鹿だ)

 

 自分一人でできたことなど今まで何一つなかったのに。

 自分一人で頑張らなくちゃと勇み足でいた。

 結局のところ、一人じゃ何も『出来ない』愚図な自分は変わっていない。

 

(本当はわかっていた。司先生が私を心配してくれたこと。お母さんやお姉ちゃんが応援してくれていること。分かっていて、私は自分の中にある『感覚』に夢中になってそこから目をそらしていた。私の歩みを止める者だと、突き放した)

 

 乾いた笑みがこぼれる。

 

 自業自得だ。お似合いの結末。

 せめて心配に応えて、無事に帰ることだけが自分に出来ることだろう。

 いのりの演技から『熱』が失せていく。

 力が抜け、小さく卑屈な演技。

 恥ずかしそうに、演技が早く終われと願う。

 

(自分が間違っていた、ごめんなさい。そう謝ればきっと許してくれる。そもそも怒ってすらいないんだろうな)

 

 本当に心優しい人たちばかり。その事実を思い知れば知るほど苦しくなる。

 だからそんな事実から目をそらすように別の思考に移る。

 

 思い出したのはライバルの言葉だ。

 

『まるで飼い主に叱られた子犬のような顔をしている』

 

 きっと彼女は分かっていた。自分に酔って勇み足に振り回されている現状を。

 

(唯ちゃんの演技、凄かったなぁ)

 

 何より凄いのがまだ伸びしろを感じさせるところだ。

 あれが完成したらどうなるのか、不思議とわくわくさせられる。

 

(私はどうなる?)

 

 ふと自分のこの先を想像した。

 今の自分が間違っているとして、このやり方を捨てたとして、どうやっていけばいいのだろう。

 

(きっと道はある。司先生が示してくれる)

 

 愚かな自分はそれに従ってさえいれば上手くいく。

 小手先と演出で上手く見せる賢いやり方を、一つ一つ覚えて。客観的に魅せることを習得していく。

 

 

 そんな想像をした瞬間、今までの不快感が一掃されるほど体中を血が駆け巡った。

 ジリジリとした感覚が脳の裏側を灼く。

 

 会場がざわざわと騒がしい。

 

 いのりが急遽演技中に停止し棒立ちになっているからだ。

 気付けば、時が止まったかのように呆然といのりは立ち尽していた。

 その瞳には失望と義憤が宿っている。

 

「ありえない」

 

 いのりが呟いた。

 次の瞬間、ギュルンと風がうねる音がする。

 いのりが急加速してリンクを突っ切る音だ。

 

(ありえないありえないありえない!)

 

 いのりはただただそんな思考に陥った自分が気持ち悪かった。

 

(自分を捨てる?司先生が全て導いてくれる?ふざけるな)

 

 言ったはずだ、決意したはずだ。

 オリンピックの金メダリストになる。自分の生きる世界を勝ち取る。勝つ、勝つのだ。

 そのために編み出した成功前提の演技。

 失敗したあとのことなど知らない。

 負けるぐらいなら死ねと。

 そう心に決めたはずだ。

 

(一度失敗して死んだはずの私がどうして落ち込んでいられる)

 

 確かにもう優勝はない。

 2回の転倒は致命的で、FSに進出することすら叶わないだろう。

 

(それがどうした!演技を曲げる理由になるもんか!)

 

 負けるくらいなら死んでもいい。そんな決意は幻想だったかもしれない。一度の転倒でこんなにも心が揺れてしまった。

 

(でも)

 

 もっと原点に大事なものがある。

 

(私が勝ちたいのはスケートをしていたいから。勝ってスケートをする理由を手にしたい)

 

 スケートをする瞬間だけ自分は輝ける。初めて生きていられる。

 そのリンクの上ですら劣等感に苛まれて死んだなら、本当に無価値な存在になる。

 

(せめてリンクの上では生き足掻け!)

 

 氷の上で命が躍動する。

 

(私は!)

 

 風前の灯火だったその魂がけたたましく輝きだす。

 

(私は!)

 

 例え勝利が見えなくても、闘う理由はそこにある。誰より純粋に、誰より真面目に。

 

(私が誇れる私でありたい!)

 

 勝利はなく、この演技の先に何か栄誉があるという訳ではない。

 そんな真っ新な状態だからこそ、いのりは久方ぶりに純粋にスケートと向き合うことができた。

 ただスケートが好きだったという原点。

 スケートへの執着といういのりの根幹をなす感情。

 

 それを思い出した上でいのりは貫き通した。

 制御を失う寸前まで加速し、風を受けながら、軌道を微調整する。

 体のコンディションが良いわけでは無い。しかし体を引き絞りながら限界を正確に定める。その境界線ギリギリの躍動をここに体現する。

 体と心と環境。

 全ては出揃った。

 

(もう一度、このジャンプから始めよう)

 

 まだ何者でもなかった自分が新しく生まれ変わるあの感覚をもう一度。

 もし失敗したら今度こそ致命傷を負うかもしれない。

 しかし、今逃げるという選択肢はない。

 死ね。死んでしまえ。成功しても失敗しても弱い自分はここで殺す。今までの愚直に成功体験を盲信するのとは違う。現実を理解した上で今ここでもう一度決意を新たにする。

 

(間違いだったかどうか、それは今後の私が決める!)

 

 今はただ心のままにスケートを楽しみたい。

 

 全てを抱えていのりは跳んだ。

 3回転フリップじゃない。ルッツでもない。最後の最後で今までになかった新境地にたどり着く。

 

 3回転アクセル+3回転トウループ 着氷

 

 やりたいことをやり通した。

 転倒しても、心が折れても貫いたからこそ見えた景色がある。

 それが正しかったのか、それは誰にも分からない。

 しかし、いのりは逃げなかった。

 その事実だけで十分だろう。

 

 結束いのり、SP敗退。

 

 しかしそこにいるのは間違いなく強者の姿だった。

 

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