メダリストはエゴイスト   作:モリブデン42

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悪意

『ルクス東山FSC 潔唯さん 129.61 総合得点 198.73 現在の順位は1位です』

 

 スケートに対する造詣が深いいるかだからこそ、唯のスケートの『異常』を理解してしまった。それが結果的に、他の観客よりも深く彼女の姿を『心』に刻む結果になった。

 『敗北』、その二文字がいるかによぎる。

 

(あり得ないって!あいつがどんなに進化しようと私がジュニアで培ったものが消えるわけじゃない!ビビる必要なんざないのに!)

 

『最近調子いいらしいじゃない。今度友達と食事会があるから、もし全日本優勝したらあなたも来なさいね』

 

 昨晩のメッセージが頭をよぎる。娘を装飾品としか思っていない母からのメール。

 『もし全日本優勝したら』、逆に負ければあの人にとって自分は価値がない存在だというのだろうか。

 

(私のスケートにあの人は関係ないだろ!)

 

 負のスパイラルに陥った思考を、両頬を叩くことで無理やり終わらせる。

 

(いつから、誰かのためにスケートするようになったんだ!少なくともお母さんのためじゃない!私だ!私のためだ!私がスケートのある生活を守るために勝利を手にするんだ!)

 

 強い意志を持ったことで、マイナス思考を終わらせることが出来た。いるかは、そっと息を吐く。

 

「いるか大丈夫か!?」

「コーチ……」

 

 いるかの状態に気づいた五里が駆け寄ってくる。

 

「大丈夫……今、落ち着いたから」

「いや、落ち着いたっつってもなぁ」

 

(どう見てもやせ我慢だ!ていうかなんで俺は気づかなかった!この感じ、演技への気負いじゃねぇ!)

 

 五里は知っている。いるかは強いが、その反面脆さを抱える選手であるということを。彼女がスケートにかける思いが単なる競技への憧憬ではないということを。

 

「ほんとに大丈夫。コーチの顔見たらなんか落ち着いたし」

 

 それは事実だった。五里と話すことでいるかは完全に平静を取り戻す。

 

(そうだ、私にはコーチがいる。泰子さんも、ダリアだって)

 

 自分の価値を認めてくれる存在がたくさんいる。スケートを通じて得たものを思い出すと、心が和らいだ。

 

(実叶ちゃんだって……)

 

 自分の価値をスケートだけが与えてくれた。スケートが自分に幸せと温かさを教えてくれた。これを守るために自分は戦う。

 

 

 

――――――

 

 

 岡崎いるかの両親はお世辞にもいい親とは言えなかった。

 仕事ができる反面、共感性が低く、娘であるいるかを虐げることで彼らは夫婦仲を保っていた。

 お前はクソだとなじられ、ブスだと教え込まれ、死ねと蔑まれた。当然、まともに育つはずがない。いるかは両親のように口が悪くなったし、何より他者を信じることが出来なくなった。

 母が見栄のためにいるかにスケート始めさせた時、彼女の人生は変わった。

 スケートを通じて、大切なつながりが出来た。

 結束実叶はその一人だ。他者と繋がることに怯え、傷つけるか傷つけられるかでしか接することを知らないいるかに、実叶は人の温かさを教えてくれた。

 普通の子のふりをしようとして、それでもなりきれない彼女を実叶は受け入れてくれた。それが、いるかにとってどれだけ救いになっただろうか。

 だから、実叶が怪我をきっかけにスケートを辞めた時、いるかは絶望した。

 裏切られたと思った、置いていかれたと思った。

 いるかにとって実叶は、スケートをする理由の全てだった。同時に彼女が去った時、自身と彼女を繋ぐものはスケートだけだったことを理解する。

 ほどなくして、母が保護者とトラブルを起こし、クラブをやめることになる。

 辛くて、苦しくて、何より実叶とのつながりがなくなると思うと、胸に穴が開いたような虚無感に苛まれた。

 

 そんないるかを救ったのが五里だった。

 罰のように自分自身を傷つけるいるかを見つけて、五里は導いてくれた。五里が新しく作ったクラブに入ることで、いるかは再びスケートをすることが出来るようになる。

 五里が両親といるかの距離を上手く離し、生活と精神のケアをしてくれた。

 ようやく、いるかは傷つかずにスケートが出来る地位を手に入れた。

 

(これを守るためなら私はなんでもする)

 

 演技が始まった中、決意を新たにしたいるかはあえて視野を狭め集中しようとする。

 それでも、脳裏をよぎる。母の言葉。

 『全日本優勝したら』

 

(私の価値はスケートで勝つことしかないんじゃないのか?)

 

 いるかは五里に救われた。そんな自分ができることはスケートをすることだけ。

 五里は母とは違う。たとえどんなことがあってもいるかを見捨てることなどないと彼女だってよくわかってる。

 だが、揺れ動く思考の中、唯の演技がいるかには浮かんでくる。

 

(あれは紛れもなく強者の演技、もしあれに負けたら私は……)

 

 最近少しずつ仲が良くなった母は間違いなく失望するだろう。父もはるかに年下相手に負けたことをなじってくる。

 五里はどうだろう。そんな人じゃないと分かってるけど、やっぱりがっかりするのではないだろうか。

 

(敗北が私からスケートを奪っていく)

 

 今ここで負けることは単なる敗北ではない。他者に蹂躙され、己のスケートに向き合う事すらできない弱者になってしまうのだ。

 

 嫌だ、負けたくない。

 

 暗い思考に支配されながらも、体だけは正確に動き、演技をしていた。

 広い視野で世界を把握し、頭を容赦なく降りながら、手を使って、バランスを保つ。

 

(負けたら私はまた、スケートを知る前の私に戻る!)

 

 自分が傷ついていることを誰かに知って欲しかったかつての自分。スケートという強さを手にしたことで、自分は人間になれた。

 

(クソだった頃の私に!)

 

 自分を奮い立たせるようにジャンプへ入った時、いるかは気づいた。

 

(ああ、そうか私……ビビってんのか)

 

 いるかはスケートで勝つことによって今の強さと環境を手に入れてきた。その盤石は今、新気鋭の選手によって脅かされている。

 だから、自分は勝つためじゃなく、今ある環境を守るために戦っている。

 

(実叶ちゃんが、コーチが、泰子さんが私を『人間』にしてくれた)

 

 あの温かい人たちがいてくれたから、自分は『人間』になれた。傷つかずにスケートをする道を選べた。

 

(でも、私がこんなにも強い選手になれたのは傷ついた過去があるからだ)

 

 温かい環境を望むと同時に、悪意の中でこそ自分が強くなれたとも思う。

 

(傷つかずにいるだけでは、もうこれ以上強くなれない)

 

 今まで何よりも求めていたものを手放す覚悟がいる。

 

(ああ、実叶ちゃん、実叶ちゃん、ミカちゃん……)

 

 回帰する。幼かったころへ。初期衝動すら乗り越えて、さらに何もなかったころへ。

 温かった。幸せだった。もう傷つかなくていいことに、幾度となく安堵した。

 それを今一度、全て捨て去る。

 

(もう一度……最初から……ゼロになれ!)

 

 

――――――

 

 

「いるか……なんでだ」

 

 いるかの演技が変わったことに五里は即座に気づいた。

 当然だ。いるかの演技は何度も見てきた。些細な変化すら、五里は見逃さない。

 

「なんで……なんでそんな苦しそうに」

 

 傍から見ると、演技をしているいるかが苦しそうだとは誰も思わない。いるかの表情は演技のために完全に統制されており、彼女の心情を読み取る物差しにはならなかった。

 しかし、五里には分かる。いるかの心の内など演技を見れば、容易く理解できた。

 普段よりわずかに深く倒されたエッジ。スピンへの入り方。技と技の間を繋ぐ振り付け。その全てが、より難しくなるように改変されている。

 演技の難しさは、確かに構成点の高さに直結する。しかし、その挑戦は失敗のリスクと天秤にかけてでも取るものだとは到底思えなかった。

 何よりも、ギリギリまで切り詰めて演技をするいるかが見ていて痛々しい。

 

 いるかの親交のある僅か数名だけが気づくことが出来るいるかの変化。

 

「頑張れ、頑張れ……」

 

 五里は歯を食いしばり、祈った。いるかが自ら殻を破ろうとしている。例えどんな結果になっても自分はそれを受け入れる。

 決して彼女の勇姿を見逃すまいとリンクに目を向けた。

 

 

――――――

 

 

(守るための戦いをするな!勝って先に進むための演技をしろ!)

 

 技の手数と精度、その両方を維持しながら、世界観全体を崩さないように気を配る。

 ジャンプ一つ、スピン一つに、普段の倍以上の集中力を費やす。

 

(コーチや実叶ちゃんのくれた温かさが私を『自由』にしてくれた)

 

 だが、自分は『悪意』にまみれなきゃ、成長は出来ない。

 

(『不自由』を寄越せ!私は自分を抑圧するストレスの中で、進化してきた!)

 

 リズムに合わせて体の動きをもっと加速させる。光が線になって、まるで自分の行く先であるかのようにぐちゃぐちゃになって定まらない。

 その光の軌跡が走馬灯のようにかつての自分を映しだす。

 

『あなたってどれだけ私の期待を裏切れば気が済むのかしら。情けない成績残したら、私が恥ずかしいじゃない』

『いるかは母さんに似てブスだなぁ。スケートで金は喰うし、勝てないなら死んだ方が良いんじゃないのか?』

『少しは私のために頑張ろうって気とかないわけ?だから、あなたはクズなのよ』

『金出してるんだからな。クソみたいな結果みせんなよクズ』

 

 辛かった記憶を思い出す度、演技に重みが増していく。

 手振り1つで感じる威圧感と重厚感。その全てがいるかの中の悪意によって、作られていた。

 

(演技にぶち込むんだ!私の『悪意』を!)

 

 目の前にゲームのように選択肢が浮かんでくる。

 1つは、傷つくことを恐れ、両親に怯えて、逃げながらスケートをする人生。

 もう1つは、傷を負いながらも、傷だらけのまま前に進んでいく人生。

 

(上等!)

 

 いるかは手を伸ばす。傷だらけで鎖に縛られているその選択肢を、力の限り握りしめる。

 

「行くぞ!」

 

 いるかは加速した。

 暴走ギリギリのスピードを維持しながら、余裕の表れであるかのように、片足を振り回す。

 鍛え上げられた腹筋と体幹が、ズレた重心を容易く戻す芯となる。

 タタンと、音楽にのせて氷を刻むと、その軽い踏切からグンとスピードが伸びていく。

 

(より難易度を上げて、より高度に、より高次元に!)

 

 自分のイメージするジャンプの踏切りの2歩手前。

 明らかに短いジャンプの助走でいるかはトウを突いた。体の勢いとその逆側に回転を導く、至難のジャンプ。

 アウトサイドエッジを無意識化で上手く使い、体勢を維持して、全神経をトウを突く瞬間に集約させる。

 

(体の内側にエネルギーを収束させて、縦に伸びるイメージ!)

 

 短い助走からは考えられないほど、グンといるかの体が浮かび上がる。そして、氷の上に綿が落ちたように音もなく着氷する。

 

 3回転ルッツ 着氷

 

 特に助走を必要とするルッツジャンプを、敢えて短い踏切りで跳んで魅せる。

 入り方から着氷後まで、スピードは減衰しない。それどころか、着氷した瞬間に勢いが伸びる感覚まであった。

 

(もっとだ!もっと不自由に『没頭(ダイヴ)』しろ!今までの自分を壊して更新されていく感覚に全てを賭けろ!)

 

 冴えわたった脳が、蠢きながらいるかに告げる。まだ出来る、もっとやれる。

 自分に『敗北』を与えうる全て要素から、新しいピースを見つける。

 

 りんな、唯、いのり、光、麒乃、寧々子、ダリア。今大会、覚醒した彼女たちから、得られる全てを自分を縛る『不自由』へと変える。

 

(死ぬまで!『心』を曝け出して!限界ギリギリを!全てを喰い尽くして!今までの全てを込めて!『才能』を使い尽くして!『運命』に抗って!)

 

 0から、学んだことを活かして自分を再構築する。

 体を引き絞ると、悲鳴を上げるようにギリギリと鳴る。限界を超えた演技によって、いるかに蓄積された疲労は尋常でなかった。しかし、そんな『不自由』が自分の生き方を肯定してくれる。

 

(もう絶対に逃げない!このジャンプに私の『悪意』の全てを込めて!)

 

 挑戦することよりも、堅実に技術を磨くことを選んでいた。それは決して欠かすことの出来ない大事な事だけど、無意識で傷を避けていたことは否定できない。

 

(跳べ!)

 

 体が成長するほどジャンプは難しくなる。軸は取りづらくなり、体は重くなっていく。

 だからこそ、ジュニアでは体が完成するまで、技術を磨く方向へと行った。その結果がいるかの洗練された美しい演技だった。

 それでも、いるかは必要ならどんな挑戦だってできる人間だ。

 

 いるかが、自分自身を更新するという『挑戦』。

 土壇場の新しいジャンプという『不可能挑戦』。

 それが今、彼女の『最高表現(トップパフォーマンス)』だ。

 

 エッジジャンプ。結束いのりが得意としたサルコウ。映像でしか見てないが、限界ギリギリに挑戦していたいのりのジャンプは、余分や混じり気の無いジャンプの原石をいるかに教えてくれた。

 腕の使い方は、ジュニアで培った小技。

 体幹は死ぬほど鍛えた。

 軸は、麒乃から。

 踏切りは、ダリアから。

 跳び方は、寧々子から。

 

(ぐちゃぐちゃに混ぜて再構成しろ!)

 

 肉体と精神の全てを統率しながら、いるかは静かに跳んだ。

 

 

――――――

 

 

(降りろ、降りろ……)

 

 五里が手を組み、リングに願う。どうか、彼女を祝福する世界であってくれと。

 手に跡が残るほどの強く握りしめた両手がギチギチと悲鳴をあげる。そんな自身の痛みに気づかないほど、五里はいるかを見つめていた。

 どんな結果になっても、五里はいるかを迎え入れる準備をしている。

 しかし、いるかの心がそれでは晴れないことを理解している。

 彼女は自分で勝ち取ることを選んだ。傷つきながらも、前に進もうとする彼女の姿がいかに勇ましいことか。

 

「降りろ……!」

 

 どうか、彼女が救われて欲しいと。

 

 

――――――

 

 

(私はみんなに『人間』にしてもらえたんだ)

 

 実叶や五里に愛されたことで、いるかは『人間』になった。それを一度捨て去ることで0になった。

 

(じゃあ、今度は私が誰かを愛することが出来る存在でありたい)

 

 『悪意』の中で、生きてきたいるかだからこそ。きっと本音で愛することが出来ることができると思うから。

 

(そして、私が人を愛することで『人間』になれたら)

 

 『悪意』の中で『人間』であることを勝ち取る。そんな自分に成れたなら。

 

(母さんや父さんも愛することが出来ると思う)

 

 きっと、愛されることを忘れてしまった人たちだから、こっちから愛さないと何も始まらない。

 

(そしたら、今度こそ、愛されてみたい)

 

 

 氷に吸い付くように、ブレードは静かに着氷した。

 

 4回転サルコウ 着氷

 

 4回転を降りたその足で、大きく孤を描き、最後のスピンに入る。明滅する視界の中で、それでも最後の瞬間まで片時も集中を緩めなかった。

 天に手を掲げる。

 完全に静止した瞬間、会場は呑まれた。

 ライトが氷に反射して、キラキラとリンクを輝かせる。

 世界が祝福するように、彼女を照らしていた。

 




唯「クッソ…超英雄(スーパースター)…」
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