この時間になると自然と目が覚める。
そんな事実に美玖は苦笑しながら、体を起こした。
全日本ノービスから数日たっても、この体はスケートの無い生活に慣れてくれない。
二度寝するのもなんだかだらしのない気がして、顔を洗いながら一日の始まりを決める。
スケートを引退してなお、常にスケートのことは頭によぎってしまう。習慣みたいなもので、仕方ない。それでも、大会で自分を出し切れたから、後悔などなく、きっとこんなスケートのない日常に慣れていくだろう。
(都会の子は朝練の時間がもっと早いんだろうなぁ)
リンクが廃れていたからこそ、放課後でも容易く貸し切りが出来る美玖は朝練にそれほどの時間を費やさない。
朝早く目覚めたと言っても、外を見ると健康的な老人がランニングでもしているだろう。
だからと言って。
「あれインターホン?」
人が訪れるには不適格な時間であることは違いない。
こんな時間に、訪れるような人間に心当たりが無かった。
「はい、今出ます」
父が今ので起きなければよいが、と疲れている父を内心気遣いながら玄関へ向かう。
ガチャッとドアを開けると、ドアの前に立つ長身の男に一瞬慄く。すらりとした長い手足を持つ巨体は、まだ中学生になろうかという美玖にとっては威圧感を覚えるものだ。
恐る恐る下から顔を覗き、その長身の主を確かめると、今度は別の意味で戦慄する。
「夜鷹純……!」
早朝、アポなし。そんな傍若無人を許されるだけの説得力と、経歴を美玖は知っている。
それはそれとして、美玖の中の夜鷹の評価が下がったのは言うまでもないことであった。
――――――
夜鷹を家に上げ、コーヒーを出し、父が起きる時間までもてなした。
非常識人のために父を起こす気にもなれず、夜鷹もそれを了承したため、父の寝起きを見られないように、居間の戸を閉めてダイニングのテーブルに座らせる。
やがて、階段のきしむ音が父の起床を知らせてくれた。
美玖は一礼して、父の元へ事情を説明しに行く。
訝し気な父がやってきたのはそれから15分後のことだった。
「えっと、それで……一体どんなご用向きでしょうか」
父が降りてきても、無言で佇む夜鷹に恐る恐る声をかける。
夜鷹は顔を上げ、美玖と父に目線を行き来させながら、やがて父に視線を定めた。言葉を探すように、そっと口を開いた。
「その子、亜昼美玖……さんに僕の指導を受けないか、提案しに来た」
恐らく説明をいくつかすっ飛ばした答えであっただろう。しかし、その言葉のままに意味を受け取ると、亜昼親子はあんぐりと口を開けるほかなかった。
父はそのまま何かを聞こうとして、美玖を一度見つめると、ポンと肩を叩いた。
恐らく、彼女と話した方が分かりやすいと思ったからだ。
「えっと、一から説明してほしくて……どういう経緯でその話を持ってきたのでしょうか」
夜鷹は、美玖の目を見つめると、簡潔に答えた。
「全日本ノービスで君の演技を見ると同時に、君がスケートを辞めるって話を聞いた。だからかな、君に指導してみたいと思った」
接続詞がまるで意味を成していなかった。それでも、なんとなく夜鷹の意図はくみ取れたつもりだった。
美玖は、答えを出すのに迷いはなかった。きっと誰が来ようとも、答えは変わらない。
そっと息を吐きながら、言葉を選ぶ。
「えっと……せっかくの申し出ありがたいのですが、私はもうスケートを続けるつもりはありません」
誰かが悪者にならないように、気を付けながら。
「夜鷹さんもご存じでしょうが、スケートは私の意思だけで出来るものじゃないんです。私がスケートをしようとすると、みんなにたくさんの負担をかけてしまう。私には、そこまでして夢を追う決断は出来ません……だから、ごめんなさい。あなたの提案を受けることは出来ません」
リンクが無くなった。それでも美玖にはスケートを続ける道は確かにあった。
その道で、一体どれほどの犠牲を他者に強いるのか、それを想像して心が折れた。自分が頑張るだけなら、いくらでもできる。
きっと、続ける道を選んでも、みんな頑張ってくれただろう。それでも、誰かが無理をしなきゃならないのは、スケートを辞めること以上に辛かった、それだけのことだ。
「君が続けられない理由は何?」
黙って聞いていた夜鷹は美玖の主張が終わったと理解すると同時に口を開いた。
「え?」
「問題が全て片付けば、君はスケートを続けられるんでしょ?君は一体何を想像してスケートを辞めたの?」
「えっと……」
美玖は言い淀んだ。答えが無いわけでは無く、それを言った結果傷つく誰かを知っているからだ。
「お金?」
「何を言うんですか!」
だからこそ、無遠慮に答えを告げた夜鷹に怒りを露わにした。
父の前でこの男は何を言わせるのだ。自分がスケートを辞めるのは決して、他者の責任ではない。それは自分のものだ。
しかし、同時にそれを否定する言葉を美玖は持たなかった。
「君がスケートを続けようとすると、リンクがある場所に引っ越すことになる。勿論、仕事がある以上そう簡単にはいかないだろうから、君は寮制がある学校を選ぶだろうね」
夜鷹は事実だけを淡々と告げる。
「きっと、君は自分の身を切ることなら犠牲を厭わない。君はスケートを続けるためならその程度の覚悟はできる人間だ。コーチを僕がやるとすれば、他者に依存する問題はお金だよ。あとは、お金があれば君はスケートを続けられる」
「なら……これ以上言わせないでください。私はスケートを続けません」
美玖の言葉は震えていた。父の顔を見ることが出来ず、代わりに夜鷹を睨みつける。
「レッスン料に、遠征費用、学費に加えて寮費、あとはスケートのための諸々。その全てを考えれば、君の判断も無理はないのかもしれない。指導者の問題もあるしね」
「もういいですから……」
「その全てを、僕が担おう」
「は?」
今度こそ、美玖は夜鷹の発言が理解できなかった。
「スケートに関わる全てに僕が出資する」
「そんなこと……!」
美玖は言葉を震わせながら、揺れ動く感情を必死に抑えていた。同時に、目の前の男はそんなことで解決しようとしていることに落胆する。きっとこの人は色んな人の感情を踏み壊しながら生きてきたと悟り、ため息を吐く。
「あなたにしてもらう義理がないですよ」
その言葉はどこか弱弱しかった。しかし、美玖はこれでいいと思っている。自分の尊厳を守り抜いた確信があったから。
「出資が嫌なら、融資にしようか」
しかし、夜鷹は相変わらず気遣う様子も見せずに次の提案をしてくる。
「でも、そうだね……条件を付ける。君がお金を返したいなら、僕はスケートで稼いだものだけを受け取る」
「どういう意味ですか?」
「君はきっと、一方的にお金を受け取ることはできないだろうから。返したいなら受け取るよ。でも、それは君がスケートに関わって稼いだ分だけだ。将来、コーチになってもいいし、パフォーマーになってもいい」
それは確かに魅力的な提案だった。
出資と違い、融資というならあくまで負担は自己の責任になる。その事実が美玖の琴線に触れる。しかし、それで提案を受けるまではいかない。
結局のところ、確かに夜鷹に負担があり、自身が利益を享受している事実に変わりはないのだ。
父に負担はかけられないのに、夜鷹に負担をかける。これは矛盾している。
そこで、美玖は自分がするべき質問をしていないことに気づく。
「なぜ、私なんですか?」
美玖は恐る恐る口にした。
「私は一度、スケートを諦めた人間です。そんな私をどうしてそこまで」
「……君がスケートを諦めた人間だからだよ。スケートよりも大事な何かを持っている人間。そんな君だからこそ、教える価値があると思った」
夜鷹の色々省略した言葉は、やはり美玖には理解できない。
だけど、美玖はその言葉の奥に何か自分の求める答えがある気がした。
「どういう意味ですか?なぜ、スケートを諦めた人間を求めるのか。あなたは……」
そうだ、自分が聞きたいことは。
「あなたは、何のためにこんな暴挙に出たんですか?」
見ず知らずの子供に大金を融資する。普通なら、考えられない行動の裏には、きっと普通ではない理由があるはずだ。
「……」
「どうか、答えてください。それが聞けたなら、私はきっと答えが出せると思うから」
夜鷹は黙ったまま、美玖を見つめる。美玖はそれが、拒絶ではなく、言葉を探しているのだと気づいた。
「払った犠牲の数だけ、勝利に近づく。それが僕の哲学だ」
想像とは異なる語りに、美玖はそっと次の言葉を待った。
「運命の女神は、生贄を無視することができない。それを戦う中で実感した。だから、僕は全てをスケートに捧げた。スケート以外の全てを犠牲にした。だから僕は金メダリストになれた」
そう語りながらも、夜鷹の目は揺れている気がした。
「慎一郎くんは……」
(慎一郎…………鴗鳥慎一郎選手の事かな?)
「スケートと同じくらい、あるいはスケートよりも大事なものがあった。だから、スケートを犠牲にして、家族を取ったと思った。君のようにね」
何か聞いてはいけない裏話を聞いたのような気がするも、美玖は黙って耳を傾ける。
「そんな彼は、僕に約束した。スケートも、父親であることも、捨てずに、全て抱えて金メダルを目指すと。それを親友として見てほしいと」
美玖は素直に立派だと思った。そんな美しい生き方が出来たなら、どんなに素晴らしいだろう。
「そうして、彼は。尋常じゃない努力と苦労を重ねて、オリンピックという大舞台で銀メダルを取った」
言葉を呑む。
「彼ですら、金メダルを取れなかった」
夜鷹は敢えて言い直した。
「その時、僕は自分の哲学の正しさを確信した。慎一郎くんが、スケートに全てを捧げていたなら、金メダルに手が届いたことをきっと誰も否定できない」
何となく、話の全容が見えた気がした。
「僕は光にスケートを指導する中で、その哲学を余すことなく教えた。結果として、光の実力は隔絶したものになっている」
夜鷹純が、狼嵜光にスケートを指導しているという衝撃の事実をさらりと流しながら、美玖は前のめりに話を聞く。
「でも、彼女が全日本ノービスで負けた時、また疑念が生まれた。光に勝ったあの二人、潔唯と結束いのりは確かにスケートに全てを捧げた様な人間たちだ。それでも、光の捧げた犠牲が彼女たちより少ないとは到底思えない。事実、技術という点では光が勝っていた。それは光が時間と努力を惜しみなく費やして獲得した強さだ」
思い返すように、夜鷹は首を捻る。
「光は僕から解放されることで完成した。でも、それは僕すらも犠牲に、光が強くなったというだけだ」
夜鷹は続ける。
「僕は自分の考えが間違っているとは思わない。でも、疑念は生まれた。その疑念が新しい可能性になる」
表情を変えずに、ただ事実を並べるように。
「僕は、あの約束の続きが見てみたい。僕を否定しなかった慎一郎くんを今度は僕が肯定したい」
夜鷹はじっと、美玖を見つめていた。
「君は僕と同種の才能を持っている、それでいて慎一郎くんのようにスケートよりも大事なものを抱えている。スケートを諦めることのできる君を、僕が君の『不自由』となって、スケートに縛り付ける。そして、そんな君が光や潔唯、結束いのりに勝てたなら、金メダリストになったなら、答えがきっと出る」
淡々とした夜鷹の語りだが、確かに熱がこもっていた。
「僕にも……慎一郎くんですらできなかったことだ。もし君が勝てば、慎一郎くんを肯定できる。光が勝てば、改めて僕の哲学を肯定する」
美玖は魔力にあてられる。
「それが、僕の理由だよ」
圧倒的な自我だった。すべての理由が自分基準、これが金メダリストの貪欲さだろうか。あるいは、ここまでエゴイストであったからこそ、彼が金メダルを取れたのか。
美玖がその言葉をかみ砕いてる間に、爆発したのは父だった。
「ふざけるな、美玖の……娘の人生をなんだと思っている」
父の怒りは正当なものだ。
夜鷹は、美玖を使って自分の哲学の再検証をしようとしている。それを隠すでもなく、赤裸々にぶちまけた。
「美玖、こんな話受けなくていい。美玖がスケートを続けたいなら、私がどうにかする。洸平君や珠那君だってきっと協力してくれる」
父の言葉を美玖は正しく認識している。きっと、自分がスケートを続けたいと言えば、みんな協力してくれる。父はお金を出してくれるし、洸平や珠那は一緒にクラブを移動してくれるかもしれない。
でも、それではダメなのだ。そんな負担を強いて、美玖はスケートを続けることが出来ない。
「私は……」
夜鷹は声を荒立てた父を気にすることなく、美玖を見つめ続けている。彼には分かっているのだ。真に美玖の望みをかなえることが出来るのは、自分しかいないと。
「もし……もし、私が途中で挫折したら、スケートが嫌になってスケートから離れて、お金も返せなくなったら……どうするんですか?」
夜鷹は考える素振りも見せずに、即答した。
「スケートを離れた人間に興味はない。好きに生きればいいと思うよ」
美玖を気遣うことなど、微塵もない。
「あ……」
本気で己の私欲のためだけに、美玖にスケートを続けさせようとする人間。教え子に何かを投影しようとする、指導者として最低の行為。
それでも、そんなエゴイストの提案だから美玖は手を取ることが出来る。
なぜなら、彼は本気で彼自身のためにこの提案をしているから。そこに、美玖への配慮など一切なかったから。
「私は……スケートを」
「これは悪魔の契約だよ。君はきっと想像にない苦難に見舞われるかもしれない。それでも、君はスケートを続けることが出来る」
他の誰がこの提案をしても、美玖は受け入れられなかった。例え、洸平でも、珠那でも、同条件だったとしてもその背景には美玖への愛と気遣いがある。
それは間違いなく、負担だ。
たとえ、相手が父でも美玖はその負担を許容できない。
どんなに利口でも、美玖はまだ子供だ。その負担を背負うことが親にとって喜びであるという無償の愛を未だ理解できない。だから、どんなに美辞麗句を謡っても、スケートを続けると誰かが苦しむという現実から目を逸らせない。
でも、この男の前では、それが本当に負担にならない。
「スケートを……」
この手を取ることは、チームあひるへの裏切りに他ならないだろう。ここまで、美玖のスケートを磨いてくれた恩師と仲間の元を離れて、スケートを続けようとすることが如何に厚顔無恥な行いか。
自分を気遣う手を払って、赤の他人の手を取ることが、もしかしたら彼らを傷つけるかもしれない。
それでも、避けようのない現実は夜鷹の手を輝かしく映す。
「……もう1つ、続けられない理由がある?」
「え?」
「答えが出るまで、待つよ。誰にでも相談してくるといい」
最後は自分で背中を押せということだろうか。夜鷹の言う続けられない最後の理由は、彼女一人では出せない答えだ。
「……失礼、します」
動揺に視線を揺らしながら、美玖は家を出た。
――――――
美玖の足は自然とリンクへ向かっていた。
恐らく、みんなそこにいる。そんな予感と確信から、確かめもせずに走り出した。
そして、実際そこにいた。洸平と珠那が、リンクの管理人と笑顔で話してる。思い出話に華を咲かせているのだろうか。
「こうくん……珠那……」
2人の顔を見たら、急に足が止まってしまった。
自分は今2人に何を言おうとしているのか。それを想像して、それを聞いた2人の心の内を考えると、足が震えた。
(分からない……)
自分は、一体何がしたのだろうか。
「美玖!どうしたの!?」
明らかに様子のおかしい美玖を見て、洸平と珠那が心配そうに駆け寄ってくる。
そんな2人の優しさを見つけるたびに、心が締め付けられる。
「今、私……私ね。私……」
言葉が上手くまとまらなかった。自分の思考が分からないのもそうだが、それ以上にそれを言葉にする恐怖が口元を震わせる。
そんな、美玖の肩を2人がそっと撫でた。
「大丈夫……落ち着いて話してほしい」
「なんでも話せ!チームだからな」
洸平はいつだって優しい。珠那は自分がスケートを辞めてなお、チームでいてくれている。
少しだけ、勇気が出た。
「私ね……」
美玖は今あったことをありのままに話した。
――――――
「それで、夜鷹純は私に教えを受けないかって。スケートが続けられない理由を全部自分が請け負うって。自分が指導して、お金は融資するって」
なぜ流れているかも分からない涙を、止めもせず、美玖は続けた。
「その提案は決して私を気遣うものじゃなくて、あの人本人の100%の私欲で、でも、だからこそ。私は……私は」
そこで、美玖は言葉を止めた。
「私はスケートを続けたいのか。続けたいとして、今ここであの手を取ることは2人を裏切ることになるんじゃないかって。2人はそんなこと言わないのに。結局……私は結局自分が綺麗に生きたいだけの卑怯者で……優しいみんなを言い訳にして、罪悪感を払拭しようとしてるんじゃないかって」
まとまらない言葉を、それでも縋るようにして垂れ流す。
「ほんとは分かってるの……!私はスケートを続けたいって思ってる。みんなに頼れないくせして、みんなを裏切ってでもスケートをしたいって思ってる。そんな……そんな自分が許せない!」
言葉にしたことで、美玖は自分の本心を自覚した。
そして、卑怯者の自分を軽蔑する。
他者を犠牲にしない、そんな綺麗な生き方では無かった。ただ、他者を頼る覚悟がないだけ。その証拠に、頼らずにスケートが出来ると言われたらこんなにも心が揺らいでいる。卑しくもその手を取ろうとしている。
今もそうだ。勝手に想像して、怖くなって2人の顔が見れない。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
なんて醜い人間だろうか。
「謝らなくていい!」
「謝るな!」
同時に言い放った2人は互いに目配せした。
そして、崩れ落ちる美玖の前で膝を立てながら、肩を掴んで顔を上げさせる。
「悪くない、美玖は悪くない!悪いはずがない!」
「そうだ、美玖が良い子だってことを僕たちは知ってる。誰かを気遣えて、そのために自分を傷つけてしまうことも」
涙でグシャグシャになった彼女の顔をハンカチで拭いながら、洸平は言い放つ。
「スケートを続けたいって思いが悪いはずあるものか。頑張り屋さんで、ずっと我慢してきた美玖の……可愛いワガママじゃないか」
洸平は無理矢理にでも、笑顔を作りながら、美玖を励ます。
「どんな形でもいいさ、関係ない。もし美玖がスケートを続けてくれるっていうならそれ以上に嬉しいことはないさ」
「そうだ、美玖がどこで誰の元でスケートをしてようと僕たちはチームあひるだ!一生仲間だ」
2人の姿が眩かった。
「だから、もし美玖がスケートを続けたいのなら。俺たちの事なんて気にしなくていい」
そんな訳がない。ずっと一緒にやってきたのだ。簡単に割り切れる様なものではない。
洸平にとっても、珠那にとっても、美玖を導くのは自分でありたいし、その行く先を見届けるのは自分でありたい。
それでも、優しい美玖は自分たちに犠牲を強いることを許容できない。どんなに、2人がそれを望んでも、美玖が望まない。
ただ、それが美玖の足を退かせる理由になっていいはずもない。
今ここで、彼女を送り出すことが、最善であると信じている。どれだけ苦労しても、スケートを続けている限り、いつか彼女は報われる。それだけの素質を秘めていることを2人は誰よりも知っている。
「その思いは裏切りなんかじゃない。誰にもそうは言わせない。美玖自身にも!」
珠那が洸平の言葉を拾いながら、決して彼女が自分を責めないように、寄り添う。
「2人とも……ありがとう」
ハンカチをさらに涙で濡らしながら、美玖は精一杯の笑顔を作った。答えは決まった。最後の悩みを2人が晴らしてくれた。
きっと、残酷なことをさせてしまったと自己嫌悪の陥りそうになる。でも、そんな思考を2人の姿を見て打ち切った。
出会いがあれば、別れがある。それは当たり前のことだけど、簡単に割り切っていいものじゃない。
それでも、洸平に、珠那に、背中を押してもらえたから美玖は前に進める。それは、間違いなく3人の絆を証明していた。
――――――
「別に、ついてきて欲しいならそう言えば良かったんじゃない?」
「は?」
話を受けるという旨を伝えた時、夜鷹はそんなことを言い出した。
美玖は、まじかこいつ、という表情を隠せなかった。
「出来るわけないじゃないですか。そんな恥知らずなこと」
「恥知らず?」
「今まで、散々世話になってきて、コーチ変えるけど寂しいからアシスタントとしてついてきてなんて……どんなに面の皮が厚くてもできませんよ」
夜鷹はベランダで煙草をふかしながら、へえ、と呟いた。
「正直、君が強くなる最適解は、他者を犠牲にしながら進む道だと思うよ」
「どういう意味ですか?」
「君はきっと、『不自由』を愛せる人間だ。誰かを犠牲にした分、その人の想いや責任を背負う。そんなストレスが君を強くする」
特に夜鷹が美玖に見出したのはこの点だった。光に反して、自分という『不自由』なファクターを強さに出来る人間。
「安心しなよ。僕がそれに代わる『不自由』を君に与えるから」
(何を安心すればいいんだろう……)
正直、この男の指導を受けることに不安は尽きない。
しれっとしてるが、自分が出た後に父と何も無かったはずがないのだ。
それでも、この男について行くことを決めた。それが誰も犠牲にしたくないという自分の『エゴ』を貫ける唯一の道だから。
「はい、コーチ」
美玖は、決意と共に呼び方を改めた。