「まじかよ」
一体、誰が予想しただろうか。
唯は、テレビ画面を見ながら目を見開き、固まっていた。
不自然ではない。しかし、衝撃ではある。
唯も、光も、美玖も、いるかも、司も。あるいは結束いのり本人すらも予想していなかっただろう。
ジュニアGP タイ大会 最終結果
1位 結束いのり
ジュニアから上がったばかりの少女、初の海外試合。
そんな彼女が優勝を手にする姿を。
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初めての海外試合。ジュニアに参入して、間もないいのりには大きなプレッシャーがかかる大会だ。
加えて、全日本ジュニアでいのりは手痛い失敗をした。それは単に、SPで転倒したことだけでなく、自分が本番に至るまでの道筋において、周りの目を見ず、自分にも向きわず、盲目的に正しいと信じた道へ暴走したことだ。
全日本ジュニアを経ても、スケートに対するスタンスは変わっていない。しかし、そのスケートを取り巻く環境への向き合い方は変わるところがあった。
だからこそ、堅実な練習と、地道な基礎。目に見えた強さだけに飛びつかない慎重さを手にすることが出来た。
あれから、選考会や、合宿といった様々なイベントを経たが、進路の分岐点ともいえる大会は無かった。
いわば、この大会はいのりの心情的には復帰戦ともいえる。
その上で、このジュニアGPシリーズというのは、あまりに規模が大きい。
そんなただでさえ、緊張をはらむ環境下で
『ルクス東山FSC 結束いのりさん 滑走順1番』
滑走順1番を引くという天命。
「いのりさん……気を落とさずに……」
フォローに回ろうとした司はその途中で言葉を止めた。
いのりの不安を和らげるために、1番滑走が障害たりえないといのりに伝えるつもりだった。しかし、いのりの表情を見た瞬間、積み上げられたトランプタワー前にしたかのような感覚に襲われた。不安定ながらも、決してこれ以上手を加えるべきではないという直感。
決して不安がないわけじゃない、緊張もある。しかし、そのどれをも敢えて払拭するべきではない。
そんな予感。
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初めての海外試合、海外旅行とは訳が違う。知らない国で、知らない言語と、知らない文化。そんな小さなストレスの積み重ねが積もり積もって、いのり自身得体のしれない不安が形成されているのだろう。
数分の練習を終え、足に氷を馴染ませたいのりは司との作戦会議を経て、本番までのいくばくかの間を持て余していた。
この間は司が1番滑走のいのりを落ち着かせるために敢えて開けたものだ。
司の上着の紐を掴みながら、目を閉じて集中している。
その静かな意気の高まりを見て、決して乱さぬようにと司は身じろぎ1つしなかった。
「いのりさん」
やがて刻限を迎え、司が声をかけることでいのりの意識は戻ってきた。
「うん」
その小さな返事を聞いて、司は戦慄した。小さな体に大きな闘気。いつものことだ。ただ、どこかその返答が引っ掛かった。
いのりはいつも司に敬語を使っている。年上として、先生として、色々常識しらずな彼女もそこらへんは弁えていた。
返事1つ、そんなこともあるかもしれない。
しかし、司にはそれ以上に目の前の少女の様相が、変貌したような気がしてならなかった。
まるで、いのりでない他の誰か。
それこそ、どこか既視感のある少年のような。強い炎を灯した凛々しい瞳。何かを背負うような、何かが重なるような不思議な存在感。
「『
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いのりの演技が始まった。
使用曲は「カンフーナルキッソス」からのメドレー。「カンフーナルキッソス」という映画をなぞるような振り付けと表現が、世界観を構築する。そういう意味ではイメージのしやすい構成になっているといえるだろう。
「カンフーナルキッソス」は、気弱な少年が湖から現れた自分と瓜二つの幽霊とカンフーの特訓を通して強くなっていく物語。
いのりのフレッシュさと、パワフルさを前面に押し出すのに申し分ない題材といえるだろう。
音楽に合わせた快活な演技に、ジャンプの精度の高さと、卓越したスケーティングで差をつける。それがいのりと司がとった基本戦術だった。
そして、いのりはその技術を申し分なく発揮している。
パワフルな振り付け、緩急のある滑り。
カンフー的なメリハリの良さが、存分に浮かび上がってくる。
そして、体全体で表現される心根の強さ。
「あれ?」
「どうかした?唯さん」
いのりの演技をテレビ越しに見ていた唯がその違和感に気づく。思わず声に出た疑問を洸平が拾った。
「いのりに感情演技を仕込んだんですか?てっきり間に合わないと思ったんですけど」
「え?」
その言葉を聞いて、洸平と瞳もいのりの演技の細部に注視した。
確かに、いのりの演技には全身で感情を伝える説得力があった。胸を張って、拳を振り抜き、表情1つとっても、まるで主人公本人のように勇壮な顔つきへ変わっていく。
それだけではない気弱な少年と、強い少年。2つの存在がいることがはっきり分かるほどに、動作、姿勢、表情が使い分けられていた。
映画の主人公を、そのままスケートに連れてきたかのような演技力。
ジュニア上がりたての少女になせる演技ではない。
「まさか、そんな訳ない……」
そんな素晴らしい演技を見ながら、瞳と洸平は冷や汗を流した。
しかし、その疑問はもっともだ。
結束いのりに感情表現を成せる演技力はない。これは誰もが知っていた。
ジュニア、特にSPではPCSが勝敗を分けるポイントだ。
SPでは、基本的にジャンプが同種類のものになるため、出来栄えとPCSが、差別化を図る重要なポイントとなる。
いのりにも、PCSを稼げるポイントはあった。司仕込みのスケーティング技術はその1つと言えるだろう。
逆にPR(Presentation)、音楽の理解表現については苦手とする部分であった。
そもそもいのりは、センスがある方ではない。音楽の教養もなく、無論表現力だけが優れるということはあり得ない。
動作を覚えるのにも苦労するし、理解力が高いわけでもない。
そんないのりが、今まで魔境世代の中で戦ってこられたのは、異常なまでの執念と集中力がなせる業だった。
だからこそ、表現力は長い目を見て、まずは目の前の試合に集中させた。
スケーティング技術で演技構成点を稼ぐというのも、そのためだった。
教えるつもりではあった。だからこそ、いのりの今の振り付けには映画をなぞるような振り付けが組み込まれている。
それが意味を成すのは、いのりに感情演技を教え込み、専用に構成を組み替えたあとのはずだった。
いかに執念があれど、集中力が高くても、教えてもいないことを急に出来るようにはならないはずだ。
「まだ、教えてない。教えてないぞ」
いのりの体が小さく縮こまりながら、それでも技術だけは見せつけながら、滑走する。
そして、跳ね上がるような音楽の盛り上がりと共に、まるで何かが乗り移ったかのように動きが溌剌となる。
少年の体に幽霊が乗り移り、味方したシーンだろうか。
いのりの変化は、姿勢や動作だけでなく、目つきや口元の細やかな部分すら踏襲しているようにみえた。
これはいのりではない。そう錯覚するほどの面相の変貌。
「これは……メソッド演技?」
「え?……あ、確かに」
そんないのりの演技を見ていた唯が溢した。洸平もそれに理解を示す。
「メソッド演技って……確か」
「演劇の技術です。役の内面を自分の過去や体験に重ねて深堀することで、リアリティのある演技を出来る技法……なんですけど」
瞳の疑問に答えながら、唯自身も分からなくなってきた。
「それってスケートで意味あるの?」
メソッド演技はあくまで役者の技法。いかに、映画をテーマにしていようとも、登場人物の内面をなぞることが、そこまで重要になるだろうか。
「いや、でも結果は出てる。作り込まれた演技がディティールの深い動作を再現している……でも、そもそもどうやって?芝居ならともかく、キャラの内面を使って、スケートをするってどうも噛み合わない気がするけど」
考えれば考えるほど、疑問が溢れてきた。
メソッド演技とは、自身の過去を使って役の感情を理解する技術なのだ。感情を理解するから、リアリティのある演技が出来る。しかし、それは芝居だから有用なのだ。
フィギュアスケートにリアリティのある演技などいらない。むしろ、分かりやすく大げさにした方が良い。
メソッド演技で感情を再現できても、それをスケートの動作に落とし込むことは出来ない。
「でも、いのりはやってる。あくまでスケート選手として、主人公を演じている。そんな器用なことが出来るのか?」
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「メソッド演技?……理屈は分からないけど、もしそれが事実なら」
司もまた、唯と同じ推論に辿り着いていた。
疑念はある。しかし、いのりのことを知っていればあり得ないとも言えなかった。
(確かにいのりさんは、表現力に乏しい。それは恐らく注意力の問題だ……動作と感情の因果関係をちゃんと認識できていないからだ。でも、いのりさんは人を見る目に長けている)
それは、幼少期の経験によるものであろうか。他者の顔色を伺い、大人の態度に反応して行動を決める癖がいのりにはあった。
加えて思い込みが激しく、司の言葉よりも司の心を読もうとして、認識がかみ合わないことが多々ある。
しかし、それはいのりが人の心を読み取ることに長けているとも言えた。
それがメソッド演技に活きたとしたら、今のような感情演技を成すだけの能力があることを否定は出来ない。
そして、その事実に表情を青ざめさせる。
(もし、それが本当なら……危険だ)
仮にメソッド演技に近しいものだとするなら、それが及ぼす危険な一面を司は知っていた。
自分の経験を引用して、役の感情を理解するメソッド演技。それは、同時に自身の過去を何度も踏襲するということでもある。
プラスの感情はまだいいかもしれない。しかし、もし役の心情が負の感情だったのなら、それを理解するために自分のトラウマに何度も直面することになる。
加えて、そんな自分を使い尽くした演技は、やがて自己と役との境界が分からなくなってくる。
そうして悲惨な末路を迎えた役者が何人もいるのだ。
極端な例ではあるが、いのりの異様な執着を鑑みると、そんな危険な末路を想像せずにはいられなかった。
(素晴らしい演技だ……でも、これを肯定するのは果たして正しいのか?)
結束いのりが示した新しいスケートの可能性、しかしまたしてもそれは危険と隣り合わせの扱いが難しいものだった。
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3回転ルッツ、2回転アクセルとプログラムを消化するとともに、いのりの演技はより深く洗練されていった。
(『
(来い!湖の底から!もう一人の『
体の主導権を明け渡すとともに、強い意思と勇気が心に灯る。あらゆる障害を取っ払って、自分を導いてくれる強さの象徴。
その瞬間、底を這うように姿勢を落としていたいのりの体がグンと吊り上げられた。そして、全く別の人物が演技を再開する。
洗練されたステップワークはそのままに、より強く、より堂々と。
1つの体にもう1つの心。それが、目に見えて分かりやすく観客に伝わる。
それらの、動作の変化をいのりは全く意識していなかった。
いのりに表現を理解するだけの感受性はまだない。1つ1つ教わり、それを身体に刻むことでようやく習得に至る。それをまだ、司はいのりに施していない。
いのりが今、これほどの演技を実現できているのはひとえに集中力のなせる業ではあるが、単なる集中だけではこうならない。
いのりが、これほどの演技を出来ているのは、今、ベストなメンタルのバランスを保っているからだ。
人によってベストなメンタル状態は異なる。適度に緊張した方が力を発揮できるという人もいれば、完全にリラックスできた方がいいという者もいる。
いのりの場合、集中できる状態に加えて、適度な緊張、僅かな不安、1つまみの余裕、これがおおよそベストと言えるコンディションだった。
海外試合の1番滑走かつ、前回の大会からの復帰戦という状況が、偶然にも完璧な精神状態を完成させた。
その結果、集中力は高まり、自身の演技に向き合い続け、やがてメソッド演技と同等の心情理解を可能とした。
勿論、いのりはメソッド演技など知らない。ただ、より演技の完成度を上げるために、主人公シンに成り切ろうとしているだけだ。
それが、高まった集中力によって深まり続け、やがて自分と
いのりが、感情を表現に落とし込めているのも、何か特別な事をしているわけではない。
スケートモンスターいのりにとっては、スケートは全てだ。どんなにトレースした感情よりも、スケートが一番上に来る。
だからこそ、シンに成り切った状態でも、スケートというレールから外れることは決してない。
シンのあらゆることをスケートに置き換えて出力できるのだ。
センスという領域を、いのりは執念だけで乗り越えた。
(最後は『
1人2役。それに加えて、いのり自身の想いも投影される。シンに最後を託す幽霊と幽霊に縋りつく少年、2つの心情が入り乱れるいのりの内側は
理屈で紡いだ演技ではこうはいかない。
強い演技から、その強さから勇気をもらった少年の演技へと移り変わる。
腕を開き、胸を張り、奮い立つように氷を駆る。一度は下がっていた視線が、意を決したように上を向いていた。
(最後に試されるのは『君
もう入れ替わってくれる幽霊はいない。でも、負けてはいけない戦いがある。
いのりの演技の中から、1人の登場人物が消えていく。少年の心に面影だけ残して。
たとえ、自分だけになっても、彼と紡いだ努力と時間が消えるわけじゃない。
(勝つ!勝つんだ!『
腹の底から、残ったエネルギーを解放していく。
チョクトウ、カウンター、ツイズル。そこにはかつてのような強さの籠った演技は無かった。それでも、確かに彼から受け取った勇気がそこにはある。
ステップとターンを織り成しながら、もういない誰かに背中を押されながら跳び上がる。
空中からの捻りをそのまま地面にぶつけ、遠心力をそのままにもう一度巻き上げる。
3回転フリップ+3回転トウループ 着氷
力を使い果たした後、自分の中にもう彼はいなかった。
寂寥感と、惜別が胸を通り抜ける。それでも、もう振り返ることは無い。少年は自分自身を愛せるようになったから。
演技を終え、集中が霧散するとともに役も抜けていく。
しかし、動き方、表情、目つきの細かな部分が、どこかちぐはぐだ。
リンクサイドに戻るいのりの姿は、どこか少年らしさを消せないままでいた。
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「いのりちゃん……凄い演技でしたね、夜鷹コーチ」
スターフォックスのリンクサイドのテレビでいのりの演技を見ていた美玖がそう溢した。
夜鷹は机に肘を立て、頬杖をつきながら、静かに画面を眺めている。少なくとも、その表情に驚きや焦りといった感情は見えない。
美玖の言葉を受けて、足を組みなおしながら答えた。
「確かに意外ではあったけど、気にすることはないよ」
「ん?どういう意味ですか?あの演技がものになったら脅威だと思うんですが」
「ものになったらね」
美玖の言葉を受けた一言だけ返した。美玖は次の言葉を待っていたが、何も話さない夜鷹を見ると、それだけで答えたつもりになっている様子だった。
美玖はため息を吐きながら、質問を重ねる。
「ものにはならないんですか?」
「再現性が皆無」
「再現性?」
「今回の結果は彼女が実力以上のものを発揮した結果だよ。あれを標準とするには特種すぎるし、何よりリスクが大きい」
そう言いながら、画面上のいのりの姿を注視すると、夜鷹は付け加えた。
「そのリスクを受け入れて、身に着ける訓練をするなら話は別かもね」
正直、自分でも滅茶苦茶なことを書いた気はしてる。
でも、今後こういうとんでも理論が増えると思います。