『イノリ・ユイツカ Score 71.11』
「お疲れ、いのりさん」
「うん!いや、はい。あれ?えっと……」
「落ち着いて、いのりさん」
(シンが抜けていない……無意識のメソッド演技だから、制御もできないんだ)
司は自身の悪い予感を確信へと変えた。いのりはメソッド演技への感応が高く、だからこそ、相性が悪い。
焦点の定まらない視線のまま、意識を混濁させているいのりの状態はどう見ても平静とは言い難かった。
「ゆっくりと、1つ1つ確かめて。自分の名前、今いる場所、今何をしているのか」
深呼吸をするように、胸を上下させると、次第にいのりも落ち着いてくる。それでもまだ役は抜け切れていないようで、表情の凛々しさは残ったままだった。
「司先生、私の演技、どうでしたか。私、なんだか、シンに成りきれたみたいで」
興奮を隠しきれない様子で、司に語り掛ける。それを受け止めている司は苦々しい表情を隠し切れないでいた。
「何か、マズかったんでしょうか?」
それをくみ取ったであろういのりの言葉に、司もハッとする。明らかな自分の表情の悪さを自覚したからだ。
「悪いわけがない!最高の演技だったよ!最高の演技だったけど……」
「けど?」
言えるのだろうか。言って良いのだろうか。あの演技は危険だやめた方がいいと。
「いのりさんはきっと無意識にメソッド演技のようなものをやったんだと思う。自分の経験を使って、役の感情を理解する演技技法」
「確かに!私はシンに成り切ってました!だから、あんなに自然な演技が!じゃああれをもう一度やれば、掴めるかも……」
「でも!メソッド演技はリスクが大きい……いのりさんも自覚あるよね?今あなたは自分と役との境界が曖昧になっている。とても負担の大きい演技なんだ」
演技については詳しくない司だが、それでも彼なりにメソッド演技の危うさを伝えた。
それを聞きながら、いのりは分かっているようで、分かっていない強い眼を向け続ける。
「一度リセットしよう。気分転換をして今の感覚を忘れ去ろう。でなきゃ君が危ない」
「でも、今この感覚を忘れたら……多分、次はもうできない……」
司は言葉に迷った。強く否定するべきだ。そんな方法に頼るな、そんなものがなくても君は最高の選手になれる。反射的に言えないのは、メソッド演技がいのりの並々ならぬ覚悟の表れだからだろうか。それを否定することは、いのりの可能性を否定することに等しい。
「私はこの演技を捨てるべきでしょうか」
いのりの目には迷いが生じていた。迷える生徒に道を示すそれがコーチの役割のはずだ。
しかし、一瞬言葉に詰まる。いのりのこの先を決めるのに、あまり性急な判断をするべきではない。そんな理性もまた、同時に働いた。
「ほんのわずかでも迷いがあるのなら、するべきではない」
その言葉を発したのは、司ではない。
司といのりは声の主を同時に確かめた。
「あなたは……確かロビン選手の……」
アメリカ代表派遣選手、ロビン・チェンのコーチであった。
「もし、その演技の危険性に気づいていなければと思ったが……杞憂のようだったな」
(日本語うま!)
少し硬くはあるものの、容易く聞き取れる日本語に司が目を見開いた。
「ああ、どこぞの元教え子が日本好きでな」
そんな反応を読み取ったロビンのコーチが苦笑しながら、返す。
「それより、やるべきでない……と言うのは」
「ああ、まあ管轄外、それも他国の選手にするべき話ではないと思うが……それでもあえて言わせてもらおう。迷っている程度なら手を出すべきではない、メソッド演技にはな」
「なんで……」
いのりが強く目を見開きながら、思わず溢す。
「なぜ、か。スケートを滑る子供の未来を守ろうとするのは当然だろう。私は元々バレエやっていたからこそ、演技については多少経験も、見識もある。そして、メソッド演技で身を滅ぼした役者もまた、その目で見てきた」
ライバルへの牽制でもなく、エゴの押し付けでもなく、本当に純粋にいのりを心配しての言葉なのだろう。
強い口調ではあるが、真っ直ぐな瞳は混じり気の無い善意からの忠告であることがわかった。
「どんな道を選ぶかは君たちの自由だ。しかし、その先もしっかりと考えた上で選ぶことだな」
「その先を」
「最も、感情のリセットは必須だろうがな」
「どういう意味ですか?」
ロビンのコーチは、じっといのりを見つめると、身を翻して背を向けた。
「メソッド演技で幽霊は消えた。その幽霊を呼び戻したいのなら、一度リセットしなければならない。それだけの話さ」
——————
「コーチ」
「すまない、少し野暮用でな」
ロビンのコーチは、ロビンの呼びかけに言語を英語に切り替えながら答えた。
そして、何かを重ねるようにじっとロビンを見つめる。
「ロビン」
「はい」
「エゴを捨てろ」
急な発言にロビンは瞬きをする。その言葉をかみ砕き、反芻すると、コクリと頷いた。
「エゴとは迷いだ。迷いを捨てなくては最高の演技など出来ない」
氷のような瞳をロビンに向けながら、コーチは語り聞かせた。
「エゴなどなくても、リスクなど侵さずとも、私たちにはクラシックバレエがある」
「はい」
「クラシックバレエには歴史と伝統の集積がある。それは今まで、培ってきた先人たちの誇りであり、答えだ。たかが、天才1人の感情にそれが負けるはずがない」
ロビンは知っている。このコーチの強い言葉はいつだって相手を守るための優しい言葉なのだ。
「エゴなどいらない。伝統という間違いのない答えに身を投じろ」
——————
ロビン・チェン、いのりと同じくジュニアに挙がったばかりのニュービーだ。当然、ジュニアGPには初出場となる。
しかし、彼女の表情には緊張や焦りといった類の感情は微塵もなかった。
それは、バレエという根拠ある技術に裏打ちされた自信によるものだ。
「そうだ、それでいい」
ロビンのコーチは眼下のロビンの演技を見て、強くうなずいた。
「素晴らしいバレエだ」
ロビンのスケートは『ジゼル』を踏襲した振り付けを滑りの中で大きく描いている。
『ジゼル』は、愛する者に裏切られた主人公『ジゼル』が、狂乱に陥り命を落とし、
SPでは、村祭りまでの内容を演技に詰め込んだ。
あえて情報を絞って、伝わりやすくするためだ。
アルブレヒトを愛するジゼル。目の前で愛した人が別の女の手に口づけする様を見せつけられるジゼル。
そこから、狂乱に陥るまでを分かりやすく一本の線にしたことで、イメージが湧きやすくなる。
「全て決まっている。感性やイメージに惑わされない、正確な振り付けと明確な理屈。先人たちが受け継いできたバレエが氷の上で華を咲かせる」
ピンと、筋の通ったロビンの姿勢は彼女のステップの安定性を見せつけるようだった。
重心の使い方、姿勢が見せる感情の表出。間違いなくバレエの技術だ。
「天才は存在する……だが、それは我々が勝てないという道理にはならない」
ロビンのコーチは圧倒的な才能の存在を知っている。
類まれなる美学とセンス。それらが生み出す総合芸術は誰にも真似できない唯一無二の輝きを放つ。だから、人は天才に魅せられる。
(ライリー……彼女を見て私は確信した)
ライリーという天才を知った。その上で、ロビンのコーチは天才を伝統が上回ることを確信していた。
「伝統は天才を打ち破る……いや、逆だ。天才が伝統に挑むのだ。バレエという間違いのない伝統を守ることこそが勝利への道しるべとなる」
——————
ロビンには自分が天才ではないという自覚がある。
(ミーアのようなスター性もなく、ホランのような華やかさもない)
エゴを出すことで誰かを魅了する彼女らとじゃ違う。己のエゴはあまりに普通で、どれほど望んでも夢をかなえる力はない。
(そんな私がミーアやホランに並ぶためには自我じゃダメだった)
そんな自分の進む道をコーチは示してくれた。それがバレエという伝統だった。
(エゴの代わりに私は伝統を背負う。それは天才個人の持つ輝きに決して引けを取ることは無い)
スケートにバレエの技術を用いる選手は多い。しかし、ロビンはただバレエを利用するだけの選手と一線を画しているという自負がある。
その違いは、バレエに敬意を払っているかどうかだ。
スケート選手ではあるが、バレエへの敬意を払う、それが重要なのだ。
(誰がいつ踊ってもその演目となるバレエ。自分がそれを受け継いでいるという自負。伝統の輪の中にいるという自覚が、ただの凡人であった私の演技に重みを生む)
彼女は、自身を凡人だと認識している。だからこそ、決してその伝統を汚さぬように、日夜技術を磨く彼女は、自我をそぎ落としながら、演技を磨き上げていく。
(歯車で良い、部品でいい。いずれ埋もれる私でも、今だけはその大きな歴史の積み重ねが私自身になる)
糸につり上げらるようにロビンの腕が持ち上がる。手首がうねると、その揺れが波打つように全身に伝播する。タタン、その揺れを外に逃がすように氷を衝き、くいッと体が持ち上がる。
病弱な体でもなお、踊るその時だけは生命の喜びを感じる。そんなジゼルの肉体と精神の乖離を表現する。
そして、安定した姿勢を保ちながらクラスターを繋げる。
クラスターから間を置かず、高速ターン。そのターンの間も上半身が遊ぶことは決してない。その軽やかな動きと、ドレスを掴むような繊細な手つきがジゼルの踊りを想起させる。
勢いを落とすことなく、村娘がはしゃぐように、体が宙へと放たれる。
誰も気づかぬ間に、2回転アクセルは降りていた。
バレエの表現が、ジャンプすらも演技の中に取り込んだ。
(演技に私の自我はいらない。私の役割は今あるものをさらに磨いていくこと)
やがて、3回転ルッツを降り、スピンを落とすことなくロビンの演技は終わりへと差しかかる。
愛する人に裏切られた絶望の中で、狂乱に陥りながら、踊り狂う。
表情と動きの微細な変化をスピード感のある滑りの中で、再現する。剣を拾い、振り回しながら、わが身に突き立てようとする。
まるで剣を持っているかのように、遠心力に引っ張られながらスピンを刻む。
剣を手放す。傷1つない体がまるで限界を悟ったように揺らいだ。やがて溌剌に踊っていた肉体は思い出したかのように、病弱に苛まれ、次第に衰弱していく。
そして、母の腕の中に崩れ落ちるように、体を氷に預ける。
ジゼルが息絶えたことを、会場の誰もが認識していた。
——————
「何これ……」
ロビンの演技を見ながらいのりが呟く。
「いのりさん?」
「どうして、エゴが出てこないの?」
ロビンの演技を見て、いのりが最初に思い出したのは、全日本ノービスの唯と全日本ジュニアの光だった。
感情を排して、演技のためのマシンになる。合理性という物差しに従って、演技を構築するやり方は確かにロビンに似ていた。
それでも、彼女らの演技には勝ち気が滲み出ていた。
エゴを捨てるというよりは、使い尽くすというイメージだ。
それはきっと、2人が勝つためにその演技を選択したからだろう。だから、感情を排してなお、演技には彼女らのオリジナリティが見えていた。
「でも、ロビンちゃんの演技は違う。勝ち気が見えてこない。演技にロビンちゃんの核が見えてこない」
感情も排して、エゴを排して、個性すらバレエに捧げたとするなら、果たしてそれはロビン・チェンの演技と言えるだろうか。
「普通は見えてくるはず……もっと上手く跳びたい。もっと綺麗に滑りたいっていう欲が」
「それがロビン選手の強さなのかもしれない」
「え?」
「上振れも下振れもしない。彼女の演技には迷いがないってことだ。迷いがないから、磨き上げられた技術の高さが100%反映される。だから、結果を出し続けられる」
ある意味、メンタルで演技の完成度を大きく左右させるいのりとは対極の存在と言えるだろう。
「でも、勝ちたいって思いがあるから、そんな演技を選択するはず……それを演技に持ち込んではいけないという矛盾。これがロビン選手を分析する核になるかもしれない」
「勝つために、自分の演技を捨てる……でも、その勝利の先に果たして意味はあるの?」
いのりは闘気を漲らせて、強く柵を掴んだ。
「負けない」
ポツリと、闘志を溢す。
「勝ちたいって思いがあって、人は初めて強くなれる。自分を勝たせるのはいつだって自分だ!「