悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第零編 序章:悪魔祓いの祈祷師(EXORCIST):Zoe
第一話「形容しがたい」


 

「これはこれは……」

 

 黒い靴先が、割れた硝子を踏んだ。

 

 ぱきり、と乾いた音が鳴る。

 

 深夜の聖堂に、その音だけがやけに澄んで響いた。

 

 月は高い。

 天井近くのステンドグラスから、青白い光が斜めに落ちている。

 

 その光に照らされていたのは、祈りの場と呼ぶにはあまりにも乱れた光景だった。

 

 長椅子は倒れ、祭壇布は裂かれ、燭台は床へ転がっている。

 香炉の甘い匂いに、鉄錆と獣臭が混ざっていた。

 

 床には、人だったものが散らばっている。

 

 いや、正確にはまだ人の形を保っているものもあった。

 腕が妙な方向へ曲がったもの。

 顔だけが獣に寄りかけたもの。

 祈るように膝をついたまま動かないもの。

 

 そのどれもが、もうまともな信徒にも、まともな犯人にも見えなかった。

 

「ずいぶんと、祈りの作法を間違えましたわね」

 

 少女はそう言って、黒いレースの手袋をした指で、軽く口元を押さえた。

 

 小柄な体。

 白い肌。

 腰まで届く艶やかな黒髪。

 

 そして、硝子玉のように澄んだスカイブルーの瞳。

 

 その姿だけを見れば、古い肖像画から抜け出してきた令嬢のようだった。

 黒を基調にしたゴシックドレスは、派手ではない。むしろ古風で、品よく、喪服に近い静けさを纏っている。

 

 彼女の名は、ゾーイ。

 

 悪魔祓いの祈祷師。

 あるいは、そう名乗るもの。

 

 少なくとも、人々はそう呼んでいる。

 

 だが、この惨状の中で眉一つ動かさず立っている時点で、彼女がただの令嬢ではないことは明らかだった。

 

「いかがいたしましょうか、お嬢様」

 

 背後から、落ち着いた声がする。

 

 栗毛のショートボブ。

 金色の細い垂れ目。

 ゾーイよりも一回り以上背が高く、肌の色も少し温かい。

 

 その女――メアリーは、クラシカルなメイド服を基調にしながらも、外套と革手袋、実用的なブーツを合わせていた。

 屋敷の応接室で紅茶を注ぐ姿にも見えるし、山道で獲物を追う狩人にも見える。

 

 どちらにせよ、手ぶらではなかった。

 

 彼女の右手には、細身の短剣。

 左手には、封蝋付きの小瓶が三本。

 

「いかがも何も、手遅れですわ。少なくとも、ここを祈りの場として使うには」

 

 ゾーイは祭壇へ目を向ける。

 

 その中央に、いた。

 

 形容しがたいもの。

 

 大きさは、人間より少し大きい程度。

 けれど、大きさを測る意味がない。

 輪郭はあるようでない。

 触手にも、翼にも、内臓にも、濡れた布にも見えるものが、同じ場所で重なっている。

 

 それを見た者は、きっと言葉を探す。

 そして言葉が見つからないまま、頭の中身だけを先に壊される。

 

 そんなものだった。

 

「……なるほど。これを直視しましたのね」

 

 ゾーイは小さくため息をついた。

 

「神ならぬものを神と呼び、祈りならぬものを祈りと呼ぶ。まったく、人間の命名能力には時々感心いたしますわ。褒めてはいませんけれど」

 

「お嬢様。右側より一体」

 

「ええ、見えています」

 

 聖堂の柱の影から、四つ足の影が飛び出した。

 

 狼に似ていた。

 ただし、狼にしては前肢が長すぎる。

 背中は裂け、肋骨の隙間から黒い毛と人間の指のようなものが覗いている。

 

 それが牙をむいて、ゾーイの喉元へ飛びかかった。

 

 次の瞬間、メアリーの姿が消えた。

 

 風もない。

 足音もない。

 

 ただ、獣だったものが、床に落ちた。

 

 血は出なかった。

 肉片にもならなかった。

 薄く切り分けられた影のように崩れ、黒い灰となって床へ散った。

 

「躾がなっておりませんね」

 

 メアリーは何事もなかったように、ゾーイの後ろへ戻っていた。

 

「元が犬か狼かも怪しいものに、躾を求めるのは酷ではなくて?」

「お嬢様に牙を向けた時点で、畜生にも劣ります」

「まあ。褒め言葉として受け取っておきますわ」

 

 ゾーイは微笑んだ。

 

 それを合図にしたかのように、床に転がっていた死体が動く。

 

 首が曲がり、背が隆起し、皮膚の下を何かが這った。

 祈祷服を着た男の背中から、鹿の角に似たものが生えた。

 女の喉が膨らみ、鳥のような声帯が裂けた口から鳴った。

 子供ほどの大きさの何かが、四肢を逆向きに折り曲げて起き上がる。

 

 ひとつ。

 ふたつ。

 みっつ。

 

 死んでいたはずのものが、次々に起き上がる。

 

 そして祭壇にいる“形容しがたいもの”が、音にならない音を発した。

 

 聖堂全体が、濡れた獣の腹の中に入ったように震える。

 

「再利用ですか。実に貧しい発想ですこと」

 

 ゾーイが言った。

 

「素材を大切にするのは美徳では?」

「料理ならば、ですわ。これは廃材で人形を組んでいるだけです」

 

 獣たちが一斉に襲いかかる。

 

 メアリーが前へ出る。

 短剣が一閃し、二体が消える。

 

 だが、倒したはずのものがすぐに起き上がった。

 切り落とされた腕が別の死体に貼りつき、折れた脚が虫のように床を這う。

 

 聖堂にある肉という肉が、何かの意志に従って動いていた。

 

「お嬢様。数が少々、面倒でございます」

「少々?」

「かなり、でございます」

「あら、正直でよろしい」

 

 ゾーイは片足を半歩だけ前へ出した。

 

 黒いブーツの踵が、床に触れる。

 

 その瞬間、彼女の影が広がった。

 

 月明かりの下であるはずなのに、影は光の向きに従わない。

 水が流れるように床を這い、長椅子の脚を越え、祭壇の石段へ絡みつき、死体たちの足首を掴んだ。

 

 死体たちは声にならない悲鳴を上げる。

 

「では、お掃除を早めましょうか」

 

 ゾーイのスカイブルーの瞳が、ほんの一瞬だけ冷えた。

 

 広がった影から、無数の黒い手が伸びる。

 死体を掴む。

 引き倒す。

 喰らうように包み込む。

 

 獣も、人だったものも、祈祷服も、血も、肉も、すべて影の中へ沈んでいく。

 

 床に残ったのは、裂けた布切れと、祈りの跡だけだった。

 ゾーイは数秒だけ沈黙した。

 そして、顔をしかめる。

 

「…………まずい」

「好き嫌いはよろしくありません、お嬢様」

「好き嫌いの話ではありませんわ、メアリー。あなたも一口いかが?」

「わたくしは、すでに朝食を済ませておりますので」

「悪魔が健康的な返答をするものではありません」

「お嬢様の食生活を管理する立場でございますから」

「いま食べたのは食事ではなく、後始末ですわ」

「でしたら、なおさら文句を仰らずに」

 

 ゾーイはじっとメアリーを見上げた。

 メアリーは微笑んだ。

 

 主人と従者の間に、数秒だけ静かな火花が散る。

 先に目を逸らしたのはゾーイだった。

 

「……あとで紅茶を濃く淹れてくださいまし」

「もちろんでございます」

 

 聖堂の奥で、再び音がした。

 “形容しがたいもの”が、震えている。

 先ほどまで死体を操っていたそれは、ようやく理解したらしかった。

 

 ここにいる小柄な令嬢は、餌ではない。

 贄でもない。

 祈りの対象でもない。

 

 もっと古いものだ。

 

 ゾーイは祭壇へ向かって歩いた。

 ドレスの裾が、血に濡れた床を汚さない。

 彼女の足元の影が、先に汚れを呑んでいくからだ。

 

「はじめまして」

 

 祭壇前で、ゾーイは優雅に膝を折った。

 

 それは見事なカーテシーだった。

 女王の前に出ても恥じないほどに、古く、美しく、形式に忠実な礼。

 

「遠くからお越しの、名も知らぬお客様」

 

 青い瞳が細められる。

 

「そして、ごきげんよう。二度とお越しにならないでくださいまし」

 

 影が、祭壇の下から立ち上がった。

 

 それは咢だった。

 

 黒い。

 あまりにも黒い。

 

 獣の口にも、蛇の口にも、深い穴にも見える。

 だが、そのどれでもない。

 

 咢は“形容しがたいもの”へ噛みついた。

 

 噛み砕く、というには静かだった。

 飲み込む、というには深すぎた。

 

 その存在は抵抗した。

 触手のようなものを伸ばし、声にならない声を放ち、祭壇ごと空間を歪ませようとした。

 

 だが、影は揺らがない。

 

 ゾーイはただ、口元だけで微笑んでいる。

 

 やがて、咢は閉じた。

 

 聖堂に、ひどく湿った音が残る。

 形容しがたいものは、消えていた。

 

 ゾーイは数秒黙った。

 

 次の瞬間、露骨に顔を歪める。

 

「……っ、まず……っ、これは本当に、まずいですわ……!」

「お嬢様」

「なにかしら」

「御姿が崩れております」

「崩れもしますわ! 何ですの、いまの後味は! 古い靴底を薬品漬けにして腐らせたような――」

「お嬢様」

「……はいはい。淑女、淑女ですわね」

 

 ゾーイは深く息を吐いた。

 それから、何事もなかったように背筋を伸ばす。

 

 ほんの一瞬、彼女の瞳の奥に、黒が滲んでいた。

 だがそれはすぐに消え、空色が戻る。

 

「さて。問題は、あちらではありませんわね」

 

 ゾーイは祭壇の下へ視線を落とした。

 

 倒れた聖杯。

 焼け焦げた円陣。

 剥がされた床石。

 

 その中央で、何かが脈打っていた。

 

 心臓に似ていた。

 だが、生き物の心臓ではない。

 黒とも赤とも紫ともつかない色をして、薄い膜の奥でゆっくり収縮している。

 

 この世界のものではない。

 

 少なくとも、この国の骨董市で手に入るような代物ではなかった。

 

「起点はこれですわね」

「壊されますか?」

「壊してよいものなら、とうに誰かが壊していますわ」

 

 ゾーイは膝をつき、脈打つ異物を眺めた。

 

「古い。けれど、こちらにあるべき古さではありません。誰かが掘り返したのか、買ったのか、盗んだのか……本当に人間は、危険と書かれた箱ほど丁寧に開けますわね」

「お持ち帰りで?」

「ええ。倉庫行きです」

「またでございますか」

「またですわ」

「お嬢様。保管庫は無限ではございません」

「なら増やしてください」

「屋敷の地下をこれ以上拡張しますと、近隣の下水道とご挨拶することになります」

「それは困りますわね。下水道にまで礼儀を尽くすほど暇ではありませんもの」

 

 ゾーイは指先で異物をつまみ上げた。

 

 その瞬間、異物の表面が膨らんだ。

 膜の奥から、何かがこちらを見たような気配がする。

 

 メアリーの金色の目が、わずかに細くなった。

 

「お嬢様」

「大丈夫ですわ。まだ起ききっていません」

「それでも、あまり直接お持ちになるのは」

「ええ。あなたが持ちなさい」

「……承知いたしました」

 

 メアリーは胸元から、黒い封印布を取り出した。

 それは布でありながら、光を通さない。

 

 彼女が異物を包むと、脈動は少しずつ鈍くなった。

 

「まったく。紅茶の茶葉なら歓迎いたしますのに」

「異邦物の保管に比べれば、茶葉の管理は非常に平和でございます」

「平和は大事ですわ。女王陛下もそう仰るでしょうし」

 

 ゾーイの声が、ほんの少しだけ静かになる。

 メアリーはそれに気づいたが、何も言わなかった。

 

 その時だった。

 

 聖堂の外が、赤と青に明滅した。

 夜の窓硝子越しに、回転灯の光が揺れる。

 

 続いて、複数の足音。

 短い号令。

 金属が擦れる音。

 

「働き者ですこと」

 

 ゾーイは窓の外を見た。

 

「こんな夜更けにまで、人間社会の後始末とは。警察というのも大変ですわね」

「お嬢様が言えたことでしょうか」

「わたくしは人間社会の後始末ではなく、境界の後始末です」

「どちらも後始末でございます」

「……紅茶はとびきり濃くしてくださいまし」

「かしこまりました」

 

 ゾーイは指を鳴らした。

 

 影が、床に残っていた者たちをそっと押し上げる。

 

 死んでいた者はそのまま。

 戻せる者は、呼吸が続く程度に戻す。

 正気までは保証しない。

 

 彼女は救済者ではない。

 世界の全てを正す者でもない。

 

 ただ、境界を越えたものを片付けるだけだ。

 

 大扉が蹴破るように開いた。

 

「動くな! 警察だ!」

 

 黒い防弾ジャケットに、白い文字。

 懐中電灯の光が一斉に聖堂を切り裂く。

 

 銃口がこちらを向く。

 

 ゾーイは長椅子の傍に立ち、メアリーはその半歩後ろで静かに控えていた。

 

 警官たちは床の惨状に息を呑む。

 その中を、一人の男が進み出た。

 

 くたびれたコート。

 乱れたネクタイ。

 現場帰りのまま寝不足を重ねたような顔。

 

 だが、目だけは鈍っていない。

 

 A・J・ペンドルトン警部は、ゾーイを見た瞬間、眉間に深い皺を刻んだ。

 

「……また貴様か、エクソシスト」

「あら、ペンドルトン警部。ごきげんよう」

 

 ゾーイは優雅に微笑んだ。

 

「随分なご挨拶ですこと。夜更けの再会にしては、もう少し詩情があってもよろしいのではなくて?」

「俺は詩人じゃない。警官だ」

「知っておりますわ。だから、毎度こうして血と泥と書類に追われているのでしょう?」

「お前がいる現場で、書類が増えなかったことなど一度もない」

「それは警部の文才が試されているのですわ」

「試すな」

 

 ペンドルトンは短く言い捨てると、周囲へ声を飛ばした。

 

「生存者の確認を急げ。妙なものには触るな。床の円にも、祭壇にも、何もだ。いいな」

「了解!」

 

 警官たちが動き出す。

 ゾーイは少し感心したように目を細めた。

 

「さすがですわね。学習能力がおありで」

「お前と何度も顔を合わせていれば、嫌でも覚える」

「まあ。わたくし、警部の教育に貢献しておりましたのね」

「黙れ」

 

 ペンドルトンはゾーイへ向き直った。

 

「説明しろ」

「お断りいたします」

「早いな」

「機密でございますもの」

「この惨状を前にして、それで済むと思っているのか」

「済ませるための取り決めでしょう? お役所が作った紙束を、お役所の方が破ってはいけませんわ。英国紳士の名が泣きましてよ」

 

 ペンドルトンのこめかみが引きつる。

 

「そういう時だけ紳士扱いするな」

「まあ。普段から十分、紳士的ですわよ? 少々、顔色が悪くて、口が悪くて、胃に穴が空きそうなだけで」

「褒めているつもりなら、二度と褒めるな」

 

 ゾーイは楽しそうに笑った。

 

 それから、ほんの少しだけ声を落とす。

 

「ご安心なさい、警部。公表できる範囲はお渡ししますわ。被害者の一部は戻してあります。ただし、正気の保証はできません」

「戻した?」

「息を、ですわ。人生までは戻せません。そこから先は、あなた方のお仕事でしょう?」

 

 ペンドルトンはゾーイを睨んだ。

 だが、視線の先で警官の一人が叫ぶ。

 

「警部! こちら、生存者です!」

 

 もう一人。

 

「こっちもです! 意識はありませんが、脈があります!」

 

 ペンドルトンは一瞬だけ目を伏せた。

 それから、短く息を吐く。

 

「……助力に感謝する」

 

 声は低かった。

 絞り出したようでもあった。

 

 けれど、確かに礼だった。

 

 ゾーイの口元が、愉快そうに緩む。

 

「あら。わたくしのこと、お嫌いではありませんでしたの?」

「嫌いだ」

 

 即答だった。

 

「得体が知れん。現場を勝手に荒らす。報告書に書けないことばかり増やす。おまけに、何十年経ってもその顔のままだ」

 

 聖堂の空気が、ほんの少しだけ冷えた。

 メアリーの金色の瞳が細くなる。

 だが、ゾーイは笑っていた。

 

「それで?」

「それとこれとは別だ。助けられたなら礼を言う。誇り高き英国紳士としてな」

 

 ゾーイは一拍置いた。

 そして、ふっと楽しそうに笑う。

 

「ええ。そういうところですわ、警部」

「何がだ」

「なんでもございません」

「その顔をやめろ。嫌な予感しかしない」

「失礼な。わたくしほど善良な祈祷師もそうおりませんのに」

「善良な祈祷師は、影で何かを喰わん」

「お腹が空いていたのですわ」

「嘘をつけ」

 

 ゾーイは小さく肩を竦めた。

 

「では、わたくしは外の足で休ませていただきます。メアリー、警部へ渡せる分だけ渡して差し上げて」

「承知いたしました、お嬢様」

「待て、まだ――」

「警部」

 

 ゾーイは振り返る。

 

 月明かりの下、黒髪が静かに揺れた。

 青い瞳は、硝子のように澄んでいる。

 

「ここから先は、人間の仕事ですわ」

 

 その言葉に、ペンドルトンは押し黙った。

 ゾーイは優雅にカーテシーを一つ残す。

 

「では、ごきげんよう」

 

 黒いドレスの裾が、聖堂の闇へ溶けるように遠ざかっていった。

 ペンドルトンは、その背中を苦々しく見送った。

 

「……人を玩具みたいに見やがって」

 

 小さく呟く。

 遠ざかるゾーイの声が、なぜか届いた。

 

「大切な玩具ほど、丁寧に扱うものですわよ」

「聞こえてるのか!」

「ええ。耳は良い方ですの」

 

 ペンドルトンは深く、深くため息をついた。

 その横へ、メアリーが静かに立つ。

 

「ペンドルトン警部様。公表可能な範囲の情報をお渡しいたします」

「……ああ、頼む」

「なお、祭壇下の痕跡には触れないでくださいませ。触れた場合、悪夢、発熱、鼻血、幻聴、内臓の位置ずれ等が発生する可能性がございます」

「最後のは何だ」

「よくある副作用です」

「よくあってたまるか」

「では、稀な副作用ということで」

「表現の問題じゃない」

 

 メアリーは穏やかに微笑んだ。

 ペンドルトンは、今夜何度目か分からないため息をついた。

 

     *

 

 聖堂から少し離れた道に、古い車が停められていた。

 

 夜明け前の空は、まだ鉛色をしている。

 湿った風が丘の上を流れ、遠くの街灯が弱く滲んでいた。

 

 後部座席で、ゾーイは小さく欠伸をした。

 

「お嬢様。お疲れでございますか」

 

 運転席に座るメアリーが、バックミラー越しに尋ねる。

 

「疲れたというより、不味かったのですわ」

「まだ仰いますか」

「舌に残っておりますの。影の奥に。最悪ですわ」

「戻りましたら、濃い紅茶をご用意いたします」

「焼き菓子も」

「承知いたしました」

 

 ゾーイは窓の外を眺めた。

 

 聖堂の前では、まだ警官たちが慌ただしく動いている。

 その中心で、ペンドルトン警部が指示を飛ばしていた。

 

 疲れている。

 苛立っている。

 それでも、逃げない。

 

 ゾーイは、口元だけで笑った。

 

「本当に、壊れやすいくせに現場へ出たがるのですから」

「警部様のことでございますか」

「ええ。困った玩具ですわ」

「お嬢様の愛情表現は、相変わらず人間向きではございませんね」

「人間ではありませんもの」

「左様でございました」

 

 メアリーは静かに車を発進させた。

 

 夜明け前の道を、黒い車が滑るように進む。

 

 ゾーイは背もたれに身を預け、目を閉じた。

 

 瞼の裏に、古い祭壇の紋様が残っている。

 あれは新しいものではない。

 忘れられていたものだ。

 

 誰かが掘り返したのか。

 誰かが持ち込んだのか。

 それとも、封じられたものが、時間の底から滲み出してきたのか。

 

「……古い匂いがしましたわ」

「はい」

 

 メアリーの声は静かだった。

 

「女王の時代に近いものですか」

「断片だけですわ。けれど、放っておくには少々、懐かしすぎます」

 

 ゾーイは薄く目を開けた。

 スカイブルーの瞳に、夜明けの光が映る。

 

「まったく。人間は忘れるのがお上手ですわね」

「お嬢様は、お忘れになりませんから」

「忘れられませんの」

 

 窓の外で、空が少しだけ白む。

 ゾーイは小さく微笑んだ。

 

「約束ですもの」

 

 車は朝靄の中へ消えていった。

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