井戸から這い上がったものに、顔は一つではなかった。
溺れた男。
見知らぬ女。
幼い子供。
皺だらけの老人。
薄い膜の下で、いくつもの顔が浮かんでは沈み、ひとつの頭部を形作っている。
その表面を、黒い水が絶えず流れていた。
だが、水滴は床へ落ちない。
落ちる前に細い糸となり、儀式場の水路へ吸い込まれていく。
『……いの……れ……』
声が響いた。
耳で聞く声ではない。
胸の奥へ冷たい水を注ぎ込まれるような、濡れた命令だった。
ペンドルトンの喉が引き攣る。
一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
「聞くなと言うのは簡単ですけれど」
ゾーイが小銃を構えたまま言った。
「命令に従わない程度の意地はお持ちでして?」
「誰に言っている」
ペンドルトンは奥歯を噛みしめ、拳銃を握り直す。
「祈る趣味はない」
「結構。人間の意地も、こういう時だけは役に立ちますわね」
井戸から現れたものが、ゆっくりと腕を上げた。
指の間に張られた膜が震える。
次の瞬間、床の水路から黒い水が噴き上がった。
「警部様、右へ!」
メアリーの声に、ペンドルトンは反射的に身体を投げた。
黒い水が、彼のいた場所を貫く。
石床へ触れたはずなのに、響いたのは飛沫の音ではなかった。
ごぼり。
溺れた者の肺が、最後に空気を吐き出すような音。
水路の上に、一瞬だけ人間の顔が浮かび上がり、すぐに崩れた。
「くそっ……!」
ペンドルトンが発砲する。
一発。
弾丸は怪異の肩を撃ち抜いた。
だが、肩の肉が裂ける代わりに、そこに重なっていた顔が一枚、薄い膜のように弾け飛ぶ。
その下から、別の顔が浮かんだ。
「効いているのか、これは!」
「表面は剥がれておりますわ」
「それを効いていると言うのか!」
「何も起きないよりは上等でしょう?」
ゾーイが引き金を引いた。
銃声が地下の儀式場を打つ。
怪異の頭部が大きく仰け反る。
膜のように重なっていた顔が、三つまとめて吹き散った。
だが、その奥にあったのは頭蓋ではない。
黒い水。
井戸の底と同じ、深さの測れない暗い水だけだった。
「……まあ」
ゾーイの声音が、僅かに低くなる。
「中身までお留守とは。随分と立派なお顔をお借りになったものですわね」
怪異が大きく口を開く。
開いたのは、口だけではなかった。
胸が裂ける。
腹部が割れる。
腕の内側まで、濡れた裂け目となって広がる。
そのすべてから、声が漏れた。
『いのれ』
『しずめ』
『かえれ』
『うみへ』
『うみへ』
『うみへ――』
声が重なる。
ペンドルトンの頭の奥で、波の音が膨らんだ。
冷たい水が、鼻腔の奥へ入り込む。
肺の中へ流れ込んでくる。
実際には呼吸している。
空気もある。
だが、身体だけが溺れていると信じ込まされそうになる。
「っ……!」
ペンドルトンは咄嗟に口元を押さえた。
「警部様!」
メアリーが銀の短剣を投げる。
短剣はペンドルトンの足元へ突き刺さった。
柄に巻かれた銀鎖が、かすかに赤く熱を持つ。
途端に、肺へ満ちかけていた冷たさが薄れた。
「それより離れないでくださいませ。今の警部様は、十分に良い器でございます」
「嬉しくない評価だな……!」
「生きている人間は、向こうにとって使い勝手がよろしいのでしょう」
メアリーは答えながら、背後の鉄格子へ視線を向けた。
彼女が張った黒い封印布が、大きく膨らんでいる。
向こう側から、黒い水が押し寄せているのだ。
一度。
二度。
濡れた塊がぶつかるたび、銀の釘が石床の上で細く軋む。
「お嬢様。後方封鎖への圧が増しております」
「持ちまして?」
「持たせます」
メアリーは淡々と答えた。
その金色の細い目が、いつもより僅かに開いている。
「ですが、こちらを押さえたまま、井戸側の封鎖まで同時に完了させるのは難しいかと」
「でしょうね」
ゾーイは怪異の腕をかわし、影を走らせた。
黒い影が、怪異の脚へ絡みつく。
影はそのまま喰らいつくように締め上げた。
だが、怪異の脚は肉ではなく水へ崩れ、影の隙間から井戸へ流れ戻っていく。
次の瞬間、井戸の縁から新たな脚が生えた。
何事もなかったように。
「おい」
ペンドルトンが息を整えながら言った。
「さっきから撃っても縛っても戻っているぞ」
「見れば分かりますわ」
「なら、どうする」
「いま考えておりますの。淑女の思考へ、銃声以外の騒音を足さないでいただける?」
「撃てと言ったのはお前だろうが!」
怪異の腕が伸びる。
今度は、ゾーイではない。
鉄格子の前で封印を維持しているメアリーへ向かって、黒い水の刃が走った。
「メアリー!」
ゾーイの声より早く、ペンドルトンの拳銃が火を噴いた。
弾丸が水の刃へ突き刺さる。
一瞬だけ軌道がずれ、黒い刃はメアリーの肩を浅く掠めて壁へ叩きつけられた。
ツイード地の袖が裂ける。
その下の肌に、細い黒い筋が走った。
「メアリー!」
「問題ございません、お嬢様」
メアリーは封印布から片手を離さなかった。
ただ、肩口の裂け目から滲んだものは、人間の血よりもずっと暗い。
「ペンドルトン警部様。助力、感謝いたします」
「礼はあとだ。動けるのか」
「動けます。ご心配なく」
「そういう意味じゃない!」
メアリーの口元が、ほんの僅かに上がった。
「では、なおさら問題ございません」
ゾーイは、怪異を睨んだ。
その瞳の奥から、少しずつ温度が消えていく。
「……わたくしのメイドへ、随分と無礼な真似をなさいましたわね」
怪異の顔々が、歪んだ笑みを作った。
『いのれ』
『ささげよ』
『しずめ』
『ひらけ――』
水路の黒い水が、一斉に光った。
その時、ペンドルトンは気づいた。
儀式場の床に刻まれた水路。
古い、摩耗した線の中に、明らかに新しい溝が混じっている。
先ほど、メアリーが指摘していた箇所だ。
古い儀式の形へ、何者かが後から継ぎ足した線。
その先端に、青黒い蝋の塊が埋め込まれていた。
一つではない。
井戸を取り囲むように、三箇所。
蝋の中には、小さな金属片のようなものが刺さっている。
「ゾーイ!」
ペンドルトンが叫ぶ。
「あの新しい溝だ! 水が、そこを通るたびに膨れている!」
ゾーイの視線が、床へ走る。
一瞬だけ目を細め、それから口元を吊り上げた。
「まあ。上出来ですわ、警部」
「褒めている暇があれば説明しろ!」
「古い祈りだけでは、ここまで開きません。どなたかが後から道を広げ、錨を打ったのですわ」
「錨?」
「向こう側へ引っ張られても、穴が閉じないようにするための重し。人間が足した、実に余計な親切ですこと」
黒い水がまた跳ねる。
ゾーイは小銃でそれを弾きながら、声を上げた。
「警部。その青黒い蝋を壊しなさい」
「証拠品だぞ!」
「では、それを丁寧に袋へ入れている間に、山一つ海に沈められてもよろしくて?」
「最悪の二択を出すな!」
「人命より証拠を優先なさる警察官ではないでしょう?」
ペンドルトンは歯を食いしばった。
確かに、証拠だ。
犯人へ繋がるかもしれない。
この儀式を再び開いた者の痕跡である可能性が高い。
だが、それを守って人が死ぬなら、何のための証拠か。
「……壊した後で文句を言うなよ!」
「文句は言いますわ。礼も申し上げますけれど」
「どっちかにしろ!」
ペンドルトンは銃口を床へ向けた。
第一の蝋塊。
引き金を引く。
銃声。
青黒い蝋が砕け、その中に埋め込まれていた細い金属片が弾け飛んだ。
瞬間、怪異の右腕が崩れた。
肉ではなく、勢いを失った水の塊として床へ落ちる。
黒い水路の一本が、色を失った。
『――ああああああああ』
怪異が初めて、命令ではなく苦鳴を上げた。
「効いたぞ!」
「当然ですわ。人間が継ぎ足したものは、人間の手でも壊せますもの」
第二の蝋塊は、井戸の反対側にあった。
怪異がそれを守るように身体を滑らせる。
顔が重なった頭部が、ペンドルトンへ向いた。
見られた。
その瞬間、彼の眼前から儀式場が消えた。
*
海だった。
黒い海。
空はなく、岸もない。
ペンドルトンは胸まで水に浸かり、どこまでも続く暗い水面の中に立っている。
遠くから、誰かの声がした。
「警部……」
若い刑事の声だった。
「助けてください……」
水の中に、彼の顔が浮かぶ。
続いて、別の顔。
かつて彼の部下だった者たち。
説明不能事件に耐えられず、辞めていった者。
眠れなくなった者。
震えながら辞表を差し出した者。
『警部が、もっと早く気づいていれば』
『警部が、俺たちを連れてこなければ』
『警部が、怪物を認めていれば』
『警部が――』
水が胸から喉へ上がる。
呼吸ができない。
拳銃を持った手が、重く沈んでいく。
「……黙れ」
声が出たのかどうかも分からない。
『祈れ』
『沈め』
『休め』
『もう立たなくてよい』
『人間では、どうにもならない』
その言葉だけが、ひどく甘かった。
正しいように聞こえた。
確かに、人間にはどうにもならない。
目の前の化け物を喰らえるわけでもない。
水のない場所を渡る死体を止められるわけでもない。
原初の闇でも、悪魔でもない。
ただの警官だ。
老いて、疲れて、部下を危険に晒し、結局はあの小柄な怪物に助けを求めるしかない。
「……それでも」
ペンドルトンは、沈みかけた腕を上げた。
「市民を守るのは、私たちの仕事だ」
黒い海がざわめく。
「出来るかどうかは、後で考える」
拳銃の照準を、海の底へ向ける。
「現場で背を向けないことくらいは、人間にもできる」
引き金を引いた。
*
銃声が響いた。
ペンドルトンの視界へ、地下の儀式場が戻ってくる。
第二の蝋塊が砕け散っていた。
怪異の左半身が崩れ、井戸の中へ落ちる。
「……っ、は……!」
ペンドルトンは膝をついた。
口の中に、鉄の味がする。
いつの間にか唇を噛み切っていた。
「警部様!」
メアリーの声が飛ぶ。
「意識はありますか」
「ある……! 最悪な夢を見ただけだ……!」
「夢ではございませんが、立てるのであれば結構でございます」
「お前らの基準は本当に厳しいな!」
だが、第三の蝋塊が残っている。
それは井戸の奥側。
怪異の身体と、這い上がった黒い水の向こうにある。
ペンドルトンの位置からでは、射線が通らない。
「最後の一つが撃てん!」
「でしたら、近づいてくださいませ」
ゾーイが平然と言った。
「簡単に言うな!」
「難しく言えば到達できまして?」
黒い水の塊が跳ねる。
ゾーイは影で受け止めたが、先ほどまでより勢いが強い。
錨を二つ失ったことで、怪異は安定を失っている。
その分、残る一箇所へすべての力が集中していた。
井戸の縁が軋む。
石床の亀裂が、儀式場の外周へ向かって走る。
「お嬢様。このままでは井戸ごと裂けます」
メアリーが言った。
「裂ければ、封じる縁がなくなります」
「分かっておりますわ」
ゾーイは舌打ちするように息を吐いた。
それから、ペンドルトンへ視線を向ける。
「警部。走れます?」
「撃てる、歩けるとは言ったが、若者扱いするな」
「では、死ぬ気で早歩きなさい」
「上品さの欠片もない命令だな!」
「生きて帰れば、あとで上品に褒めて差し上げますわ」
メアリーが片手を上げた。
彼女の指先から、銀鎖が伸びる。
鎖はペンドルトンの腰へ巻きつき、きつく締まった。
「なっ……何だこれは!」
「命綱でございます」
「犬の散歩紐にしか見えんぞ!」
「迷子防止という意味では、似たようなものでございます」
「今それを言うのか!?」
「警部様。三歩だけ、まっすぐ進んでくださいませ。四歩目から先は、わたくしが戻します」
メアリーの金色の瞳が、黒い水の動きを見据えている。
「転ばれた場合は?」
「引きずります」
「扱いが雑だ!」
「生存を優先しておりますので」
ゾーイの影が、黒い水の上に細い道を作った。
「行きなさい、警部!」
ペンドルトンは走った。
一歩。
足元で、黒い水が顔を作る。
二歩。
何本もの指が、水面から伸びて靴へ絡もうとする。
三歩。
怪異の残った腕が、彼の胸元へ薙ぎ払われる。
「伏せてくださいませ!」
銀鎖が強く引かれた。
ペンドルトンの身体が乱暴に後方へ引き倒される。
黒い腕が、鼻先を掠めた。
「本当に引きずる奴があるか!」
「お約束いたしましたので」
倒れたまま、ペンドルトンは拳銃を構えた。
怪異の脇。
割れた石床の間。
青黒い蝋の奥に、濡れた金属片が見える。
狙う。
だが、怪異の顔が再び彼を見た。
『いのれ』
頭の奥へ、黒い海が戻りかける。
「悪いが」
ペンドルトンは息を吐いた。
「私は、礼儀の悪い神様に頭を下げる趣味はない」
引き金を引いた。
第三の蝋塊が砕けた。
金属片が跳ね、井戸の縁へぶつかって乾いた音を立てる。
その瞬間。
怪異の身体が、音もなく崩れた。
腕。
肩。
重なった顔。
膜のような頭部。
すべてが黒い水となり、井戸へ落ちていく。
「やったのか……?」
「いいえ」
ゾーイの声が、低く響く。
「ようやく、余計な飾りを剥がしただけですわ」
井戸の中から、水が吹き上がった。
先ほどまでの黒い水ではない。
もっと深い。
もっと暗い。
水と呼ぶには形がなく、闇と呼ぶには濡れすぎている何か。
それが井戸の縁を越え、天井へ届くほど大きく膨れ上がった。
その表面には、もう人の顔はない。
ただ、一つの穴だけがある。
開いている。
こちら側へ。
世界の内側へ。
「……あれが、本体か」
ペンドルトンが呟く。
「違いますわ」
ゾーイは小銃を足元へ立てるように下ろした。
次の瞬間、銃身は影へ沈み、音もなく姿を消す。
「おい!」
「あれは身体ではございません」
ゾーイの足元の影が、ゆっくりと膨らんでいく。
「本体ですらない。向こう側から、この場所へ食いついた口ですわ」
「口……?」
「ええ。喰らうために開いた穴」
ゾーイの白い指が、黒い外套の留め具へ触れる。
外套が影へ溶けるように沈んだ。
「ですから、こちらも礼儀として、口でお返ししなくてはなりませんわね」
「お嬢様」
メアリーの声に、初めて明確な緊張が混じった。
「お召し替えでございますか」
「ええ」
ゾーイは、井戸から溢れる闇を見上げる。
「少々、小さな身体では食べにくそうですもの」
影が立ち上がった。
小柄な令嬢の輪郭を包み、黒い幕のように揺れる。
ランタンの火が消えた。
儀式場を満たしたのは、メアリーの封印具が放つ微かな赤い光と、井戸から滲む青黒い明滅だけ。
その中で、ゾーイの輪郭が変わっていく。
伸びる。
幼い肩が、静かな淑女の線へ変わる。
細い手足が、黒いドレスの中で長く、優雅に整えられていく。
腰まで届いていた黒髪はさらに深く流れ、床の影と境目を失う。
そして。
再び顔を上げた時、そこにいたのは小柄な令嬢ではなかった。
成熟した、気高い女。
黒い髪。
白い肌。
光を映さない、漆黒の瞳。
その姿は美しかった。
美しいからこそ、人間の形をしていてはいけないものだと分かった。
ペンドルトンの背筋が凍る。
「……お前……」
ゾーイは黒い瞳だけを彼へ向けた。
「淑女をまじまじと見るものではなくてよ、警部」
声も、少し低くなっていた。
それでも、皮肉の調子だけは変わらない。
「今さらお前の外見に礼儀を払っていられる状況か!」
「あら。いつもより素敵でしょう?」
「自分で言うな!」
メアリーの口元が、わずかに緩んだ。
「はい。大変お美しゅうございます、お嬢様」
「あなたは後で褒めなさい」
「承知いたしました。記憶には刻んでおきます」
「それは止めませんわ」
「止めろよ!」
ペンドルトンの叫びに、ゾーイは一瞬だけ笑った。
だが、次の瞬間には、その笑みも消える。
井戸から溢れた穴が、大きく開いた。
『いのれ』
『ひらけ』
『かえせ』
『こちらへ』
『こちらへ――』
闇が、ゾーイへ伸びる。
彼女は逃げなかった。
黒いドレスの裾をわずかに持ち上げ、まるで舞踏会の一礼のように、静かに膝を折る。
「ご招待、痛み入りますわ」
漆黒の瞳が細められる。
「ですが、招かれて喜ぶほど、わたくしは育ちが悪くございませんの」
ゾーイの影が、井戸を覆った。
影は牙の形を取らなかった。
目の前の獲物へ喰らいつき、噛み砕くための咢でもない。
もっと静かで、もっと深いもの。
井戸の向こうへ伸びた道そのものを、暗闇の底へ沈め、消していくための影だった。
井戸の周囲に広がる影が、円形の水路へ入り込み、刻まれた祈りの線を一つずつ黒く塗り潰していく。
海へ還れ。
海へ沈め。
海へ満たせ。
その祈りの形が、闇の下で消えていく。
『やめろ』
『いのりを』
『みちを』
『うみを――』
「嫌ですわ」
ゾーイは、冷たく言った。
「人間が差し上げた祈りを、勝手に永代使用なさるなんて。随分と図々しいお客様ですこと」
黒い穴が、彼女へ噛みつくように膨らんだ。
ゾーイは右手を伸ばす。
白い指先が、闇の表面へ触れた。
その瞬間、儀式場全体が揺れた。
ペンドルトンは咄嗟に腕で顔を庇う。
ありもしない波が押し寄せる。
耳の奥で無数の悲鳴が弾ける。
納骨堂の向こうから、骨が一斉に転がる音がした。
「メアリー!」
ゾーイが叫ぶ。
「いまから噛み切ります。わたくしが道を断った瞬間、井戸を縫い閉じなさい!」
「承知いたしました!」
メアリーは鉄格子前の封印布へ片手を残したまま、もう片方の手で道具鞄を探った。
取り出したのは、先ほどより太い銀の釘。
黒い糸を何重にも巻いた針。
そして、掌ほどの大きさの封印布。
「警部様!」
「今度は何だ!」
「わたくしが井戸へ移る間、こちらの封印布へ触れるものを撃ってくださいませ」
「撃てば止まるのか」
「止まらなくとも、邪魔はできます」
「さっきからそればかりだな!」
「人間の銃器に、世界を閉じるほどの期待はしておりませんので」
「言い方が腹立つ!」
それでも、ペンドルトンは鉄格子へ銃口を向けた。
封印布の向こうで、黒い水が膨れ上がる。
一度。
布が裂けそうに軋む。
二度。
銀釘の一本が、石床から半ば抜ける。
ペンドルトンは撃った。
弾丸が、布越しに膨れた黒い塊を叩く。
その衝撃で、水の圧が一瞬だけ弱まる。
メアリーは、その隙に井戸へ向かって走った。
ゾーイの影が作る細い道を、迷いなく踏む。
だが、井戸の穴も彼女を見逃さなかった。
闇の表面から、細長い腕が一本だけ伸びる。
水と骨で作られた指が、メアリーの背へ迫る。
「メアリー!」
ペンドルトンは振り向きざまに発砲した。
一発。
指の一本が砕ける。
だが、腕は止まらない。
二発目。
銃弾は水へ呑まれた。
距離が足りない。
ペンドルトンは走った。
「警部、戻りなさい!」
ゾーイの声が飛ぶ。
「黙れ! 淑女の手助けをするのが仕事だと言っただろうが!」
彼は拳銃の残弾を確認する暇もなく、メアリーの背後へ身体を滑り込ませた。
黒い腕が迫る。
ペンドルトンは銃を両手で握り、至近距離から引き金を引いた。
銃声。
黒い腕が破裂する。
冷たい飛沫が、彼の頬へかかった。
瞬間、左目の奥に海が見えた。
だが、今度は膝をつかなかった。
「二度も同じ手に乗るか……!」
メアリーが、ほんの僅かに目を見開く。
「警部様」
「礼はあとだ! やることをやれ!」
「……承知いたしました」
メアリーの声が、わずかに柔らかくなった。
彼女は井戸の縁へ膝をつき、銀の釘を打ち込む。
一つ。
井戸の縁に、黒い文字が浮かぶ。
二つ。
水路から流れ込む黒い水が、激しく跳ねる。
三つ。
井戸の穴が、怒り狂ったように広がる。
「お嬢様!」
「いまですわ!」
ゾーイの両手が、影の中へ沈んだ。
そして、引いた。
何かを。
井戸の底から、この世界へ伸びていた何かを。
それは綱のようでもあり、腸のようでもあり、濡れた祈りを束ねた長い髪のようでもあった。
人の声が絡みついている。
『たすけて』
『しずめて』
『かえして』
『いのって』
『どうして』
『なぜ』
『うみへ』
『うみへ――』
ゾーイの表情が、一瞬だけ歪んだ。
そこに混じっているのは、怪異の声だけではない。
この場所で祈り、沈められ、利用され、道の一部にされた人間たちの残響。
彼女は目を伏せた。
「……あなた方の祈りは、こんなものの餌にするためのものではございませんわ」
黒い瞳が、静かに開く。
「お返しいたします。どうか、今度こそ静かな場所へ」
ゾーイの影が、その束へ絡みついた。
ここで喰らうべきなのは、人々の祈りではない。
祈りへ食いつき、底の向こうから伸びてきた道だけだ。
人の声が、少しずつほどけていく。
泣き声が消える。
祈りが消える。
命令が消える。
最後に残ったのは、底の方から伸びている、冷たい一本の道だけだった。
ゾーイは、それを掴む。
「では、ごきげんよう」
口元に、淑女らしい微笑みが戻る。
「二度と、こちら側の食卓へ上がらないでくださいまし」
影が閉じた。
ぶつり。
濡れた太い縄を、巨大な歯で噛み切ったような音がした。
地下全体が、絶叫した。
井戸から噴き上がっていた闇が、一気に引き込まれる。
水路の黒い水が逆流し、井戸へ吸い込まれていく。
「メアリー!」
「封鎖いたします!」
メアリーが黒い封印布を井戸へ投げかけた。
布は宙で広がり、穴を覆う。
銀の針が走る。
黒い糸が石と布を縫い合わせる。
打ち込まれた釘から文字が広がり、井戸の縁を一周する。
だが、閉じかけた布の中央から、一本だけ黒い水の指が突き出した。
最後の抵抗。
それは、最も近くにいたメアリーの喉へ伸びる。
「させるか!」
ペンドルトンが拳銃を向けた。
引き金を引く。
乾いた音だけがした。
弾切れ。
「くそっ!」
黒い指が迫る。
その時、メアリーの背後から、白い手が伸びた。
成人の淑女姿となったゾーイの手が、黒い指を軽く摘まむ。
「往生際が悪いですわね」
その指先が、漆黒へ染まる。
「お客様には、お帰りの時間を守っていただきませんと」
黒い水の指が、音もなく崩れた。
メアリーは最後の縫い目を閉じる。
銀糸が結ばれた瞬間、井戸の気配が断たれた。
波の音が消える。
潮の匂いが消える。
肺の奥に残っていた冷たさも、嘘のように薄れていく。
地下の儀式場に残ったのは、ひび割れた石床と、黒い布で塞がれた古井戸。
そして、荒い呼吸をするペンドルトンだけだった。
「……終わったのか」
彼は壁へ片手をついた。
ゾーイは井戸の前に立ったまま、しばらく答えなかった。
漆黒だった瞳に、薄く空色が滲む。
伸びていた輪郭が、影の中へゆっくりと沈んでいく。
次にペンドルトンが瞬きをした時、そこに立っていたのは、いつもの小柄な黒髪の令嬢だった。
ただし、普段より僅かに顔色が悪い。
「お嬢様」
メアリーがすぐに駆け寄る。
「問題ありませんわ」
ゾーイは片手を上げる。
そして、二秒ほど黙った後。
「……問題はありませんけれど、味は最悪ですわ」
ペンドルトンは、思わず額を押さえた。
「この期に及んで、まだ味の話をするのか」
「大問題でしょう。海水でふやけた古い祈祷書を、腐った貝殻ごと煮込んだような後味ですのよ」
「聞かされるこっちの胃にも配慮しろ」
「でしたら、次は警部が召し上がってみまして?」
「断る」
メアリーは道具鞄から小さな水筒を取り出した。
「お嬢様。口直しを」
「紅茶ではありませんわね」
「現場でございますので」
「現代は本当に不便ですわ」
ゾーイは不満そうに受け取り、ほんの少しだけ口をつけた。
ペンドルトンは、ようやく拳銃を下ろす。
その時だった。
何かが、彼の靴先に触れた。
小さな金属音。
見下ろすと、井戸の脇に細い金属片が落ちている。
先ほど撃ち砕いた、青黒い蝋の中に埋め込まれていたものの一つだろう。
ペンドルトンは懐からハンカチを取り出し、直接触れないようにして拾い上げた。
「これは……」
薄い金属片には、細かな刻印があった。
波の文様。
沈む人影。
その下に、削り消された別の印。
ペンドルトンには読めない。
だが、ゾーイはそれを見た瞬間、表情を変えた。
「貸しなさい」
「証拠品だぞ」
「見れば返しますわ。あなたの報告書へ書ける形であれば、ですけれど」
ペンドルトンは渋々、ハンカチごと金属片を差し出した。
ゾーイは直接触れず、目だけで刻印を追う。
メアリーも横から覗き込み、僅かに眉を寄せた。
「お嬢様。こちらの印は」
「ええ」
ゾーイの声から、先ほどまでの軽口が消えていた。
「この土地の古い海神信仰だけのものではありませんわ」
「何が混じっている」
ペンドルトンが問う。
ゾーイは、金属片に刻まれた削り跡を見る。
「王政復古前に、禁忌を扱っていた者たちの管理印です」
ペンドルトンは黙った。
「管理印だと?」
「ええ。管理のための印……に見えますわね。信仰のために刻まれたものではなく、何かを扱い、保管する側が残した印ですわ」
「……つまり、ここはただ残っていた古い信仰の場所じゃない。誰かが後から使うために手を入れた、と?」
「元は信仰の場所だったのでしょう。けれど、今あるこれは別ですわね」
ゾーイは、封じられた井戸へ視線を向ける。
「道具として使うために」
地下の空気が、別の意味で冷たくなった。
ペンドルトンは金属片を見つめる。
「最近ここを開けた奴が、そのことまで知っていたかは?」
「それはまだ分かりませんわ。古いものを意味も知らず掘り返しただけかもしれませんし、知っていて開けたのかもしれません」
「どちらにせよ、探す必要があるな」
「まあ」
ゾーイは、少しだけ笑った。
「今度はご自分から、こちら側へ首を突っ込むと仰るのね」
「人間が関わっているなら、私の仕事だ」
「本当に、どうしようもなく真面目ですこと」
「お前に言われたくない」
メアリーが、金属片を包むための小さな封印袋を取り出した。
「一度、屋敷へお持ち帰りいたしましょう。デイモンであれば、記録との照合が可能でございます」
「証拠品を勝手に持ち帰るな」
「では、警部様名義で一時預託ということで」
「そんな手続きが通ると思うか」
「通すのが警部様のお仕事では?」
「お前ら、揃って私の報告書を何だと思っている!」
「便利な結界の一種かと」
ゾーイが即答した。
「紙と印章で不可解を人間社会の外へ押し留める、大変に地味で有用な術ですわ」
「単なる事務処理だ!」
「地味で有用という点は同じでしょう?」
ペンドルトンは、長く深いため息を吐いた。
その拍子に、封じられた井戸の脇で、最後の一滴が石床へ落ちた。
ぽたり。
三人の視線が、一斉に向く。
だが、その水滴は黒くなかった。
透明な水だった。
石へ落ち、ただの染みとなり、静かに乾いていく。
ゾーイはしばらくそれを見つめた後、わずかに目を伏せた。
「……今度こそ、お休みなさいませ」
その言葉が誰へ向けられたものなのか、ペンドルトンには分からなかった。
納骨堂に収められていた死者たちか。
呼び戻された男か。
この場所を道にされていた、名もない人々か。
ただ、先ほどまで満ちていた海鳴りは、もう聞こえない。
「戻れるのか」
ペンドルトンが問う。
メアリーが、鉄格子側に張った封印布へ視線を向けた。
「上へ流出する力は途絶えました。わたくしが設置した封鎖のみを順に解除すれば、帰路は確保できます」
「最初からそう言え」
「聞かれませんでしたので」
「お前は本当に、主人に似て性格が悪いな」
「光栄でございます」
「褒めていない!」
ゾーイは、小さく笑った。
「では、帰りましょう。わたくし、早急に紅茶を必要としておりますの」
「その前に現場の封鎖と、上への説明だ」
「それは警部のお仕事でしょう?」
「原因を知っている奴が説明しろ!」
「わたくしが正直に申し上げたら、報告書の分類欄が破裂いたしましてよ」
「もう十分破裂している!」
メアリーが封印布の前へ立ち、銀糸を一本ずつ解き始める。
鉄格子の向こうにあった黒い水は、すでに消えていた。
乾いた石床。
静かな骨。
崩れかけた納骨堂。
そこにはもう、海へ向かって流れるものはない。
ペンドルトンは拳銃をしまい、封印袋に収められた金属片を見た。
少なくとも、この古井戸から這い上がろうとしていたものは、もう出てこない。
だが、誰が蓋を開けたのか。
誰が儀式を継ぎ足したのか。
なぜ王政復古前の管理印が、ここに残っていたのか。
答えは、一つも片付いていない。
「警部」
先に通路へ出たゾーイが、振り返る。
「ぼんやりしていると置いていきましてよ」
「誰のせいで考え事が増えたと思っている」
「人間が古い蓋を開けたせいでしょう?」
ゾーイは涼しい顔で言った。
「わたくしは、いつも通り後始末をしただけですわ」
ペンドルトンは、また一つ深いため息を吐いた。
「……本当に、嫌になるほど頼もしいな、お前は」
ゾーイは一瞬だけ目を丸くした。
すぐに、上品な笑みに戻る。
「あら。ようやく素直になりまして?」
「礼は言っていない」
「時間の問題ですわね」
「調子に乗るな」
三人は、乾いた納骨堂の通路を戻り始めた。
後ろに残った古井戸は、黒い封印布の下で沈黙している。
その底には、もう海の音はなかった。