悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第十話「底から這いよるモノ」

 

 

 井戸から這い上がったものに、顔は一つではなかった。

 

 溺れた男。

 見知らぬ女。

 幼い子供。

 皺だらけの老人。

 

 薄い膜の下で、いくつもの顔が浮かんでは沈み、ひとつの頭部を形作っている。

 

 その表面を、黒い水が絶えず流れていた。

 

 だが、水滴は床へ落ちない。

 落ちる前に細い糸となり、儀式場の水路へ吸い込まれていく。

 

『……いの……れ……』

 

 声が響いた。

 

 耳で聞く声ではない。

 胸の奥へ冷たい水を注ぎ込まれるような、濡れた命令だった。

 

 ペンドルトンの喉が引き攣る。

 

 一瞬、呼吸の仕方を忘れた。

 

「聞くなと言うのは簡単ですけれど」

 

 ゾーイが小銃を構えたまま言った。

 

「命令に従わない程度の意地はお持ちでして?」

「誰に言っている」

 

 ペンドルトンは奥歯を噛みしめ、拳銃を握り直す。

 

「祈る趣味はない」

「結構。人間の意地も、こういう時だけは役に立ちますわね」

 

 井戸から現れたものが、ゆっくりと腕を上げた。

 

 指の間に張られた膜が震える。

 

 次の瞬間、床の水路から黒い水が噴き上がった。

 

「警部様、右へ!」

 

 メアリーの声に、ペンドルトンは反射的に身体を投げた。

 

 黒い水が、彼のいた場所を貫く。

 石床へ触れたはずなのに、響いたのは飛沫の音ではなかった。

 

 ごぼり。

 

 溺れた者の肺が、最後に空気を吐き出すような音。

 

 水路の上に、一瞬だけ人間の顔が浮かび上がり、すぐに崩れた。

 

「くそっ……!」

 

 ペンドルトンが発砲する。

 

 一発。

 

 弾丸は怪異の肩を撃ち抜いた。

 

 だが、肩の肉が裂ける代わりに、そこに重なっていた顔が一枚、薄い膜のように弾け飛ぶ。

 

 その下から、別の顔が浮かんだ。

 

「効いているのか、これは!」

「表面は剥がれておりますわ」

「それを効いていると言うのか!」

「何も起きないよりは上等でしょう?」

 

 ゾーイが引き金を引いた。

 

 銃声が地下の儀式場を打つ。

 

 怪異の頭部が大きく仰け反る。

 膜のように重なっていた顔が、三つまとめて吹き散った。

 

 だが、その奥にあったのは頭蓋ではない。

 

 黒い水。

 

 井戸の底と同じ、深さの測れない暗い水だけだった。

 

「……まあ」

 

 ゾーイの声音が、僅かに低くなる。

 

「中身までお留守とは。随分と立派なお顔をお借りになったものですわね」

 

 怪異が大きく口を開く。

 

 開いたのは、口だけではなかった。

 

 胸が裂ける。

 腹部が割れる。

 腕の内側まで、濡れた裂け目となって広がる。

 

 そのすべてから、声が漏れた。

 

『いのれ』

『しずめ』

『かえれ』

『うみへ』

『うみへ』

『うみへ――』

 

 声が重なる。

 

 ペンドルトンの頭の奥で、波の音が膨らんだ。

 

 冷たい水が、鼻腔の奥へ入り込む。

 肺の中へ流れ込んでくる。

 

 実際には呼吸している。

 空気もある。

 

 だが、身体だけが溺れていると信じ込まされそうになる。

 

「っ……!」

 

 ペンドルトンは咄嗟に口元を押さえた。

 

「警部様!」

 

 メアリーが銀の短剣を投げる。

 

 短剣はペンドルトンの足元へ突き刺さった。

 柄に巻かれた銀鎖が、かすかに赤く熱を持つ。

 

 途端に、肺へ満ちかけていた冷たさが薄れた。

 

「それより離れないでくださいませ。今の警部様は、十分に良い器でございます」

「嬉しくない評価だな……!」

「生きている人間は、向こうにとって使い勝手がよろしいのでしょう」

 

 メアリーは答えながら、背後の鉄格子へ視線を向けた。

 

 彼女が張った黒い封印布が、大きく膨らんでいる。

 

 向こう側から、黒い水が押し寄せているのだ。

 

 一度。

 

 二度。

 

 濡れた塊がぶつかるたび、銀の釘が石床の上で細く軋む。

 

「お嬢様。後方封鎖への圧が増しております」

「持ちまして?」

「持たせます」

 

 メアリーは淡々と答えた。

 

 その金色の細い目が、いつもより僅かに開いている。

 

「ですが、こちらを押さえたまま、井戸側の封鎖まで同時に完了させるのは難しいかと」

「でしょうね」

 

 ゾーイは怪異の腕をかわし、影を走らせた。

 

 黒い影が、怪異の脚へ絡みつく。

 

 影はそのまま喰らいつくように締め上げた。

 だが、怪異の脚は肉ではなく水へ崩れ、影の隙間から井戸へ流れ戻っていく。

 

 次の瞬間、井戸の縁から新たな脚が生えた。

 

 何事もなかったように。

 

「おい」

 

 ペンドルトンが息を整えながら言った。

 

「さっきから撃っても縛っても戻っているぞ」

「見れば分かりますわ」

「なら、どうする」

「いま考えておりますの。淑女の思考へ、銃声以外の騒音を足さないでいただける?」

「撃てと言ったのはお前だろうが!」

 

 怪異の腕が伸びる。

 

 今度は、ゾーイではない。

 

 鉄格子の前で封印を維持しているメアリーへ向かって、黒い水の刃が走った。

 

「メアリー!」

 

 ゾーイの声より早く、ペンドルトンの拳銃が火を噴いた。

 

 弾丸が水の刃へ突き刺さる。

 

 一瞬だけ軌道がずれ、黒い刃はメアリーの肩を浅く掠めて壁へ叩きつけられた。

 

 ツイード地の袖が裂ける。

 

 その下の肌に、細い黒い筋が走った。

 

「メアリー!」

「問題ございません、お嬢様」

 

 メアリーは封印布から片手を離さなかった。

 

 ただ、肩口の裂け目から滲んだものは、人間の血よりもずっと暗い。

 

「ペンドルトン警部様。助力、感謝いたします」

「礼はあとだ。動けるのか」

「動けます。ご心配なく」

「そういう意味じゃない!」

 

 メアリーの口元が、ほんの僅かに上がった。

 

「では、なおさら問題ございません」

 

 ゾーイは、怪異を睨んだ。

 

 その瞳の奥から、少しずつ温度が消えていく。

 

「……わたくしのメイドへ、随分と無礼な真似をなさいましたわね」

 

 怪異の顔々が、歪んだ笑みを作った。

 

『いのれ』

『ささげよ』

『しずめ』

『ひらけ――』

 

 水路の黒い水が、一斉に光った。

 

 その時、ペンドルトンは気づいた。

 

 儀式場の床に刻まれた水路。

 古い、摩耗した線の中に、明らかに新しい溝が混じっている。

 

 先ほど、メアリーが指摘していた箇所だ。

 古い儀式の形へ、何者かが後から継ぎ足した線。

 

 その先端に、青黒い蝋の塊が埋め込まれていた。

 

 一つではない。

 

 井戸を取り囲むように、三箇所。

 

 蝋の中には、小さな金属片のようなものが刺さっている。

 

「ゾーイ!」

 

 ペンドルトンが叫ぶ。

 

「あの新しい溝だ! 水が、そこを通るたびに膨れている!」

 

 ゾーイの視線が、床へ走る。

 

 一瞬だけ目を細め、それから口元を吊り上げた。

 

「まあ。上出来ですわ、警部」

「褒めている暇があれば説明しろ!」

「古い祈りだけでは、ここまで開きません。どなたかが後から道を広げ、錨を打ったのですわ」

「錨?」

「向こう側へ引っ張られても、穴が閉じないようにするための重し。人間が足した、実に余計な親切ですこと」

 

 黒い水がまた跳ねる。

 

 ゾーイは小銃でそれを弾きながら、声を上げた。

 

「警部。その青黒い蝋を壊しなさい」

「証拠品だぞ!」

「では、それを丁寧に袋へ入れている間に、山一つ海に沈められてもよろしくて?」

「最悪の二択を出すな!」

「人命より証拠を優先なさる警察官ではないでしょう?」

 

 ペンドルトンは歯を食いしばった。

 

 確かに、証拠だ。

 犯人へ繋がるかもしれない。

 この儀式を再び開いた者の痕跡である可能性が高い。

 

 だが、それを守って人が死ぬなら、何のための証拠か。

 

「……壊した後で文句を言うなよ!」

「文句は言いますわ。礼も申し上げますけれど」

「どっちかにしろ!」

 

 ペンドルトンは銃口を床へ向けた。

 

 第一の蝋塊。

 

 引き金を引く。

 

 銃声。

 

 青黒い蝋が砕け、その中に埋め込まれていた細い金属片が弾け飛んだ。

 

 瞬間、怪異の右腕が崩れた。

 

 肉ではなく、勢いを失った水の塊として床へ落ちる。

 

 黒い水路の一本が、色を失った。

 

『――ああああああああ』

 

 怪異が初めて、命令ではなく苦鳴を上げた。

 

「効いたぞ!」

「当然ですわ。人間が継ぎ足したものは、人間の手でも壊せますもの」

 

 第二の蝋塊は、井戸の反対側にあった。

 

 怪異がそれを守るように身体を滑らせる。

 

 顔が重なった頭部が、ペンドルトンへ向いた。

 

 見られた。

 

 その瞬間、彼の眼前から儀式場が消えた。

 

     *

 

 海だった。

 

 黒い海。

 

 空はなく、岸もない。

 ペンドルトンは胸まで水に浸かり、どこまでも続く暗い水面の中に立っている。

 

 遠くから、誰かの声がした。

 

「警部……」

 

 若い刑事の声だった。

 

「助けてください……」

 

 水の中に、彼の顔が浮かぶ。

 

 続いて、別の顔。

 

 かつて彼の部下だった者たち。

 説明不能事件に耐えられず、辞めていった者。

 眠れなくなった者。

 震えながら辞表を差し出した者。

 

『警部が、もっと早く気づいていれば』

『警部が、俺たちを連れてこなければ』

『警部が、怪物を認めていれば』

『警部が――』

 

 水が胸から喉へ上がる。

 

 呼吸ができない。

 

 拳銃を持った手が、重く沈んでいく。

 

「……黙れ」

 

 声が出たのかどうかも分からない。

 

『祈れ』

『沈め』

『休め』

『もう立たなくてよい』

『人間では、どうにもならない』

 

 その言葉だけが、ひどく甘かった。

 

 正しいように聞こえた。

 

 確かに、人間にはどうにもならない。

 目の前の化け物を喰らえるわけでもない。

 水のない場所を渡る死体を止められるわけでもない。

 原初の闇でも、悪魔でもない。

 

 ただの警官だ。

 

 老いて、疲れて、部下を危険に晒し、結局はあの小柄な怪物に助けを求めるしかない。

 

「……それでも」

 

 ペンドルトンは、沈みかけた腕を上げた。

 

「市民を守るのは、私たちの仕事だ」

 

 黒い海がざわめく。

 

「出来るかどうかは、後で考える」

 

 拳銃の照準を、海の底へ向ける。

 

「現場で背を向けないことくらいは、人間にもできる」

 

 引き金を引いた。

 

     *

 

 銃声が響いた。

 

 ペンドルトンの視界へ、地下の儀式場が戻ってくる。

 

 第二の蝋塊が砕け散っていた。

 

 怪異の左半身が崩れ、井戸の中へ落ちる。

 

「……っ、は……!」

 

 ペンドルトンは膝をついた。

 

 口の中に、鉄の味がする。

 いつの間にか唇を噛み切っていた。

 

「警部様!」

 

 メアリーの声が飛ぶ。

 

「意識はありますか」

「ある……! 最悪な夢を見ただけだ……!」

「夢ではございませんが、立てるのであれば結構でございます」

「お前らの基準は本当に厳しいな!」

 

 だが、第三の蝋塊が残っている。

 

 それは井戸の奥側。

 怪異の身体と、這い上がった黒い水の向こうにある。

 

 ペンドルトンの位置からでは、射線が通らない。

 

「最後の一つが撃てん!」

「でしたら、近づいてくださいませ」

 

 ゾーイが平然と言った。

 

「簡単に言うな!」

「難しく言えば到達できまして?」

 

 黒い水の塊が跳ねる。

 

 ゾーイは影で受け止めたが、先ほどまでより勢いが強い。

 

 錨を二つ失ったことで、怪異は安定を失っている。

 その分、残る一箇所へすべての力が集中していた。

 

 井戸の縁が軋む。

 

 石床の亀裂が、儀式場の外周へ向かって走る。

 

「お嬢様。このままでは井戸ごと裂けます」

 

 メアリーが言った。

 

「裂ければ、封じる縁がなくなります」

「分かっておりますわ」

 

 ゾーイは舌打ちするように息を吐いた。

 

 それから、ペンドルトンへ視線を向ける。

 

「警部。走れます?」

「撃てる、歩けるとは言ったが、若者扱いするな」

「では、死ぬ気で早歩きなさい」

「上品さの欠片もない命令だな!」

「生きて帰れば、あとで上品に褒めて差し上げますわ」

 

 メアリーが片手を上げた。

 

 彼女の指先から、銀鎖が伸びる。

 

 鎖はペンドルトンの腰へ巻きつき、きつく締まった。

 

「なっ……何だこれは!」

「命綱でございます」

「犬の散歩紐にしか見えんぞ!」

「迷子防止という意味では、似たようなものでございます」

「今それを言うのか!?」

「警部様。三歩だけ、まっすぐ進んでくださいませ。四歩目から先は、わたくしが戻します」

 

 メアリーの金色の瞳が、黒い水の動きを見据えている。

 

「転ばれた場合は?」

「引きずります」

「扱いが雑だ!」

「生存を優先しておりますので」

 

 ゾーイの影が、黒い水の上に細い道を作った。

 

「行きなさい、警部!」

 

 ペンドルトンは走った。

 

 一歩。

 

 足元で、黒い水が顔を作る。

 

 二歩。

 

 何本もの指が、水面から伸びて靴へ絡もうとする。

 

 三歩。

 

 怪異の残った腕が、彼の胸元へ薙ぎ払われる。

 

「伏せてくださいませ!」

 

 銀鎖が強く引かれた。

 

 ペンドルトンの身体が乱暴に後方へ引き倒される。

 

 黒い腕が、鼻先を掠めた。

 

「本当に引きずる奴があるか!」

「お約束いたしましたので」

 

 倒れたまま、ペンドルトンは拳銃を構えた。

 

 怪異の脇。

 割れた石床の間。

 青黒い蝋の奥に、濡れた金属片が見える。

 

 狙う。

 

 だが、怪異の顔が再び彼を見た。

 

『いのれ』

 

 頭の奥へ、黒い海が戻りかける。

 

「悪いが」

 

 ペンドルトンは息を吐いた。

 

「私は、礼儀の悪い神様に頭を下げる趣味はない」

 

 引き金を引いた。

 

 第三の蝋塊が砕けた。

 

 金属片が跳ね、井戸の縁へぶつかって乾いた音を立てる。

 

 その瞬間。

 

 怪異の身体が、音もなく崩れた。

 

 腕。

 肩。

 重なった顔。

 膜のような頭部。

 

 すべてが黒い水となり、井戸へ落ちていく。

 

「やったのか……?」

 

「いいえ」

 

 ゾーイの声が、低く響く。

 

「ようやく、余計な飾りを剥がしただけですわ」

 

 井戸の中から、水が吹き上がった。

 

 先ほどまでの黒い水ではない。

 

 もっと深い。

 もっと暗い。

 

 水と呼ぶには形がなく、闇と呼ぶには濡れすぎている何か。

 

 それが井戸の縁を越え、天井へ届くほど大きく膨れ上がった。

 

 その表面には、もう人の顔はない。

 

 ただ、一つの穴だけがある。

 

 開いている。

 

 こちら側へ。

 

 世界の内側へ。

 

「……あれが、本体か」

 

 ペンドルトンが呟く。

 

「違いますわ」

 

 ゾーイは小銃を足元へ立てるように下ろした。

 

 次の瞬間、銃身は影へ沈み、音もなく姿を消す。

 

「おい!」

「あれは身体ではございません」

 

 ゾーイの足元の影が、ゆっくりと膨らんでいく。

 

「本体ですらない。向こう側から、この場所へ食いついた口ですわ」

「口……?」

「ええ。喰らうために開いた穴」

 

 ゾーイの白い指が、黒い外套の留め具へ触れる。

 

 外套が影へ溶けるように沈んだ。

 

「ですから、こちらも礼儀として、口でお返ししなくてはなりませんわね」

 

「お嬢様」

 

 メアリーの声に、初めて明確な緊張が混じった。

 

「お召し替えでございますか」

「ええ」

 

 ゾーイは、井戸から溢れる闇を見上げる。

 

「少々、小さな身体では食べにくそうですもの」

 

 影が立ち上がった。

 

 小柄な令嬢の輪郭を包み、黒い幕のように揺れる。

 

 ランタンの火が消えた。

 

 儀式場を満たしたのは、メアリーの封印具が放つ微かな赤い光と、井戸から滲む青黒い明滅だけ。

 

 その中で、ゾーイの輪郭が変わっていく。

 

 伸びる。

 

 幼い肩が、静かな淑女の線へ変わる。

 細い手足が、黒いドレスの中で長く、優雅に整えられていく。

 腰まで届いていた黒髪はさらに深く流れ、床の影と境目を失う。

 

 そして。

 

 再び顔を上げた時、そこにいたのは小柄な令嬢ではなかった。

 

 成熟した、気高い女。

 

 黒い髪。

 白い肌。

 光を映さない、漆黒の瞳。

 

 その姿は美しかった。

 

 美しいからこそ、人間の形をしていてはいけないものだと分かった。

 

 ペンドルトンの背筋が凍る。

 

「……お前……」

 

 ゾーイは黒い瞳だけを彼へ向けた。

 

「淑女をまじまじと見るものではなくてよ、警部」

 

 声も、少し低くなっていた。

 それでも、皮肉の調子だけは変わらない。

 

「今さらお前の外見に礼儀を払っていられる状況か!」

「あら。いつもより素敵でしょう?」

「自分で言うな!」

 

 メアリーの口元が、わずかに緩んだ。

 

「はい。大変お美しゅうございます、お嬢様」

「あなたは後で褒めなさい」

「承知いたしました。記憶には刻んでおきます」

「それは止めませんわ」

「止めろよ!」

 

 ペンドルトンの叫びに、ゾーイは一瞬だけ笑った。

 

 だが、次の瞬間には、その笑みも消える。

 

 井戸から溢れた穴が、大きく開いた。

 

『いのれ』

『ひらけ』

『かえせ』

『こちらへ』

『こちらへ――』

 

 闇が、ゾーイへ伸びる。

 

 彼女は逃げなかった。

 

 黒いドレスの裾をわずかに持ち上げ、まるで舞踏会の一礼のように、静かに膝を折る。

 

「ご招待、痛み入りますわ」

 

 漆黒の瞳が細められる。

 

「ですが、招かれて喜ぶほど、わたくしは育ちが悪くございませんの」

 

 ゾーイの影が、井戸を覆った。

 

 影は牙の形を取らなかった。

 目の前の獲物へ喰らいつき、噛み砕くための咢でもない。

 

 もっと静かで、もっと深いもの。

 

 井戸の向こうへ伸びた道そのものを、暗闇の底へ沈め、消していくための影だった。

 

 井戸の周囲に広がる影が、円形の水路へ入り込み、刻まれた祈りの線を一つずつ黒く塗り潰していく。

 

 海へ還れ。

 海へ沈め。

 海へ満たせ。

 

 その祈りの形が、闇の下で消えていく。

 

『やめろ』

『いのりを』

『みちを』

『うみを――』

 

「嫌ですわ」

 

 ゾーイは、冷たく言った。

 

「人間が差し上げた祈りを、勝手に永代使用なさるなんて。随分と図々しいお客様ですこと」

 

 黒い穴が、彼女へ噛みつくように膨らんだ。

 

 ゾーイは右手を伸ばす。

 

 白い指先が、闇の表面へ触れた。

 

 その瞬間、儀式場全体が揺れた。

 

 ペンドルトンは咄嗟に腕で顔を庇う。

 

 ありもしない波が押し寄せる。

 耳の奥で無数の悲鳴が弾ける。

 納骨堂の向こうから、骨が一斉に転がる音がした。

 

「メアリー!」

 

 ゾーイが叫ぶ。

 

「いまから噛み切ります。わたくしが道を断った瞬間、井戸を縫い閉じなさい!」

「承知いたしました!」

 

 メアリーは鉄格子前の封印布へ片手を残したまま、もう片方の手で道具鞄を探った。

 

 取り出したのは、先ほどより太い銀の釘。

 黒い糸を何重にも巻いた針。

 そして、掌ほどの大きさの封印布。

 

「警部様!」

「今度は何だ!」

「わたくしが井戸へ移る間、こちらの封印布へ触れるものを撃ってくださいませ」

「撃てば止まるのか」

「止まらなくとも、邪魔はできます」

「さっきからそればかりだな!」

「人間の銃器に、世界を閉じるほどの期待はしておりませんので」

「言い方が腹立つ!」

 

 それでも、ペンドルトンは鉄格子へ銃口を向けた。

 

 封印布の向こうで、黒い水が膨れ上がる。

 

 一度。

 

 布が裂けそうに軋む。

 

 二度。

 

 銀釘の一本が、石床から半ば抜ける。

 

 ペンドルトンは撃った。

 

 弾丸が、布越しに膨れた黒い塊を叩く。

 その衝撃で、水の圧が一瞬だけ弱まる。

 

 メアリーは、その隙に井戸へ向かって走った。

 

 ゾーイの影が作る細い道を、迷いなく踏む。

 

 だが、井戸の穴も彼女を見逃さなかった。

 

 闇の表面から、細長い腕が一本だけ伸びる。

 水と骨で作られた指が、メアリーの背へ迫る。

 

「メアリー!」

 

 ペンドルトンは振り向きざまに発砲した。

 

 一発。

 

 指の一本が砕ける。

 

 だが、腕は止まらない。

 

 二発目。

 

 銃弾は水へ呑まれた。

 

 距離が足りない。

 

 ペンドルトンは走った。

 

「警部、戻りなさい!」

 

 ゾーイの声が飛ぶ。

 

「黙れ! 淑女の手助けをするのが仕事だと言っただろうが!」

 

 彼は拳銃の残弾を確認する暇もなく、メアリーの背後へ身体を滑り込ませた。

 

 黒い腕が迫る。

 

 ペンドルトンは銃を両手で握り、至近距離から引き金を引いた。

 

 銃声。

 

 黒い腕が破裂する。

 

 冷たい飛沫が、彼の頬へかかった。

 

 瞬間、左目の奥に海が見えた。

 

 だが、今度は膝をつかなかった。

 

「二度も同じ手に乗るか……!」

 

 メアリーが、ほんの僅かに目を見開く。

 

「警部様」

「礼はあとだ! やることをやれ!」

「……承知いたしました」

 

 メアリーの声が、わずかに柔らかくなった。

 

 彼女は井戸の縁へ膝をつき、銀の釘を打ち込む。

 

 一つ。

 

 井戸の縁に、黒い文字が浮かぶ。

 

 二つ。

 

 水路から流れ込む黒い水が、激しく跳ねる。

 

 三つ。

 

 井戸の穴が、怒り狂ったように広がる。

 

「お嬢様!」

「いまですわ!」

 

 ゾーイの両手が、影の中へ沈んだ。

 

 そして、引いた。

 

 何かを。

 

 井戸の底から、この世界へ伸びていた何かを。

 

 それは綱のようでもあり、腸のようでもあり、濡れた祈りを束ねた長い髪のようでもあった。

 

 人の声が絡みついている。

 

『たすけて』

『しずめて』

『かえして』

『いのって』

『どうして』

『なぜ』

『うみへ』

『うみへ――』

 

 ゾーイの表情が、一瞬だけ歪んだ。

 

 そこに混じっているのは、怪異の声だけではない。

 

 この場所で祈り、沈められ、利用され、道の一部にされた人間たちの残響。

 

 彼女は目を伏せた。

 

「……あなた方の祈りは、こんなものの餌にするためのものではございませんわ」

 

 黒い瞳が、静かに開く。

 

「お返しいたします。どうか、今度こそ静かな場所へ」

 

 ゾーイの影が、その束へ絡みついた。

 

 ここで喰らうべきなのは、人々の祈りではない。

 

 祈りへ食いつき、底の向こうから伸びてきた道だけだ。

 

 人の声が、少しずつほどけていく。

 

 泣き声が消える。

 祈りが消える。

 命令が消える。

 

 最後に残ったのは、底の方から伸びている、冷たい一本の道だけだった。

 

 ゾーイは、それを掴む。

 

「では、ごきげんよう」

 

 口元に、淑女らしい微笑みが戻る。

 

「二度と、こちら側の食卓へ上がらないでくださいまし」

 

 影が閉じた。

 

 ぶつり。

 

 濡れた太い縄を、巨大な歯で噛み切ったような音がした。

 

 地下全体が、絶叫した。

 

 井戸から噴き上がっていた闇が、一気に引き込まれる。

 

 水路の黒い水が逆流し、井戸へ吸い込まれていく。

 

「メアリー!」

「封鎖いたします!」

 

 メアリーが黒い封印布を井戸へ投げかけた。

 

 布は宙で広がり、穴を覆う。

 

 銀の針が走る。

 黒い糸が石と布を縫い合わせる。

 打ち込まれた釘から文字が広がり、井戸の縁を一周する。

 

 だが、閉じかけた布の中央から、一本だけ黒い水の指が突き出した。

 

 最後の抵抗。

 

 それは、最も近くにいたメアリーの喉へ伸びる。

 

「させるか!」

 

 ペンドルトンが拳銃を向けた。

 

 引き金を引く。

 

 乾いた音だけがした。

 

 弾切れ。

 

「くそっ!」

 

 黒い指が迫る。

 

 その時、メアリーの背後から、白い手が伸びた。

 

 成人の淑女姿となったゾーイの手が、黒い指を軽く摘まむ。

 

「往生際が悪いですわね」

 

 その指先が、漆黒へ染まる。

 

「お客様には、お帰りの時間を守っていただきませんと」

 

 黒い水の指が、音もなく崩れた。

 

 メアリーは最後の縫い目を閉じる。

 

 銀糸が結ばれた瞬間、井戸の気配が断たれた。

 

 波の音が消える。

 

 潮の匂いが消える。

 

 肺の奥に残っていた冷たさも、嘘のように薄れていく。

 

 地下の儀式場に残ったのは、ひび割れた石床と、黒い布で塞がれた古井戸。

 

 そして、荒い呼吸をするペンドルトンだけだった。

 

「……終わったのか」

 

 彼は壁へ片手をついた。

 

 ゾーイは井戸の前に立ったまま、しばらく答えなかった。

 

 漆黒だった瞳に、薄く空色が滲む。

 

 伸びていた輪郭が、影の中へゆっくりと沈んでいく。

 

 次にペンドルトンが瞬きをした時、そこに立っていたのは、いつもの小柄な黒髪の令嬢だった。

 

 ただし、普段より僅かに顔色が悪い。

 

「お嬢様」

 

 メアリーがすぐに駆け寄る。

 

「問題ありませんわ」

 

 ゾーイは片手を上げる。

 

 そして、二秒ほど黙った後。

 

「……問題はありませんけれど、味は最悪ですわ」

 

 ペンドルトンは、思わず額を押さえた。

 

「この期に及んで、まだ味の話をするのか」

「大問題でしょう。海水でふやけた古い祈祷書を、腐った貝殻ごと煮込んだような後味ですのよ」

「聞かされるこっちの胃にも配慮しろ」

「でしたら、次は警部が召し上がってみまして?」

「断る」

 

 メアリーは道具鞄から小さな水筒を取り出した。

 

「お嬢様。口直しを」

「紅茶ではありませんわね」

「現場でございますので」

「現代は本当に不便ですわ」

 

 ゾーイは不満そうに受け取り、ほんの少しだけ口をつけた。

 

 ペンドルトンは、ようやく拳銃を下ろす。

 

 その時だった。

 

 何かが、彼の靴先に触れた。

 

 小さな金属音。

 

 見下ろすと、井戸の脇に細い金属片が落ちている。

 

 先ほど撃ち砕いた、青黒い蝋の中に埋め込まれていたものの一つだろう。

 

 ペンドルトンは懐からハンカチを取り出し、直接触れないようにして拾い上げた。

 

「これは……」

 

 薄い金属片には、細かな刻印があった。

 

 波の文様。

 沈む人影。

 その下に、削り消された別の印。

 

 ペンドルトンには読めない。

 

 だが、ゾーイはそれを見た瞬間、表情を変えた。

 

「貸しなさい」

「証拠品だぞ」

「見れば返しますわ。あなたの報告書へ書ける形であれば、ですけれど」

 

 ペンドルトンは渋々、ハンカチごと金属片を差し出した。

 

 ゾーイは直接触れず、目だけで刻印を追う。

 

 メアリーも横から覗き込み、僅かに眉を寄せた。

 

「お嬢様。こちらの印は」

「ええ」

 

 ゾーイの声から、先ほどまでの軽口が消えていた。

 

「この土地の古い海神信仰だけのものではありませんわ」

「何が混じっている」

 

 ペンドルトンが問う。

 

 ゾーイは、金属片に刻まれた削り跡を見る。

 

「王政復古前に、禁忌を扱っていた者たちの管理印です」

 

 ペンドルトンは黙った。

 

「管理印だと?」

「ええ。管理のための印……に見えますわね。信仰のために刻まれたものではなく、何かを扱い、保管する側が残した印ですわ」

「……つまり、ここはただ残っていた古い信仰の場所じゃない。誰かが後から使うために手を入れた、と?」

「元は信仰の場所だったのでしょう。けれど、今あるこれは別ですわね」

 

 ゾーイは、封じられた井戸へ視線を向ける。

 

「道具として使うために」

 

 地下の空気が、別の意味で冷たくなった。

 

 ペンドルトンは金属片を見つめる。

 

「最近ここを開けた奴が、そのことまで知っていたかは?」

「それはまだ分かりませんわ。古いものを意味も知らず掘り返しただけかもしれませんし、知っていて開けたのかもしれません」

「どちらにせよ、探す必要があるな」

「まあ」

 

 ゾーイは、少しだけ笑った。

 

「今度はご自分から、こちら側へ首を突っ込むと仰るのね」

「人間が関わっているなら、私の仕事だ」

「本当に、どうしようもなく真面目ですこと」

「お前に言われたくない」

 

 メアリーが、金属片を包むための小さな封印袋を取り出した。

 

「一度、屋敷へお持ち帰りいたしましょう。デイモンであれば、記録との照合が可能でございます」

「証拠品を勝手に持ち帰るな」

「では、警部様名義で一時預託ということで」

「そんな手続きが通ると思うか」

「通すのが警部様のお仕事では?」

「お前ら、揃って私の報告書を何だと思っている!」

「便利な結界の一種かと」

 

 ゾーイが即答した。

 

「紙と印章で不可解を人間社会の外へ押し留める、大変に地味で有用な術ですわ」

「単なる事務処理だ!」

「地味で有用という点は同じでしょう?」

 

 ペンドルトンは、長く深いため息を吐いた。

 

 その拍子に、封じられた井戸の脇で、最後の一滴が石床へ落ちた。

 

 ぽたり。

 

 三人の視線が、一斉に向く。

 

 だが、その水滴は黒くなかった。

 

 透明な水だった。

 

 石へ落ち、ただの染みとなり、静かに乾いていく。

 

 ゾーイはしばらくそれを見つめた後、わずかに目を伏せた。

 

「……今度こそ、お休みなさいませ」

 

 その言葉が誰へ向けられたものなのか、ペンドルトンには分からなかった。

 

 納骨堂に収められていた死者たちか。

 呼び戻された男か。

 この場所を道にされていた、名もない人々か。

 

 ただ、先ほどまで満ちていた海鳴りは、もう聞こえない。

 

「戻れるのか」

 

 ペンドルトンが問う。

 

 メアリーが、鉄格子側に張った封印布へ視線を向けた。

 

「上へ流出する力は途絶えました。わたくしが設置した封鎖のみを順に解除すれば、帰路は確保できます」

「最初からそう言え」

「聞かれませんでしたので」

「お前は本当に、主人に似て性格が悪いな」

「光栄でございます」

「褒めていない!」

 

 ゾーイは、小さく笑った。

 

「では、帰りましょう。わたくし、早急に紅茶を必要としておりますの」

「その前に現場の封鎖と、上への説明だ」

「それは警部のお仕事でしょう?」

「原因を知っている奴が説明しろ!」

「わたくしが正直に申し上げたら、報告書の分類欄が破裂いたしましてよ」

「もう十分破裂している!」

 

 メアリーが封印布の前へ立ち、銀糸を一本ずつ解き始める。

 

 鉄格子の向こうにあった黒い水は、すでに消えていた。

 

 乾いた石床。

 静かな骨。

 崩れかけた納骨堂。

 

 そこにはもう、海へ向かって流れるものはない。

 

 ペンドルトンは拳銃をしまい、封印袋に収められた金属片を見た。

 

 少なくとも、この古井戸から這い上がろうとしていたものは、もう出てこない。

 

 だが、誰が蓋を開けたのか。

 誰が儀式を継ぎ足したのか。

 なぜ王政復古前の管理印が、ここに残っていたのか。

 

 答えは、一つも片付いていない。

 

「警部」

 

 先に通路へ出たゾーイが、振り返る。

 

「ぼんやりしていると置いていきましてよ」

「誰のせいで考え事が増えたと思っている」

「人間が古い蓋を開けたせいでしょう?」

 

 ゾーイは涼しい顔で言った。

 

「わたくしは、いつも通り後始末をしただけですわ」

 

 ペンドルトンは、また一つ深いため息を吐いた。

 

「……本当に、嫌になるほど頼もしいな、お前は」

 

 ゾーイは一瞬だけ目を丸くした。

 

 すぐに、上品な笑みに戻る。

 

「あら。ようやく素直になりまして?」

「礼は言っていない」

「時間の問題ですわね」

「調子に乗るな」

 

 三人は、乾いた納骨堂の通路を戻り始めた。

 

 後ろに残った古井戸は、黒い封印布の下で沈黙している。

 

 その底には、もう海の音はなかった。

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