悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第十一話「後始末」

 石段を上る足音は、下りてきた時よりもずっと重かった。

 

 潮の匂いは、もうない。

 

 納骨堂の口から水を吐いていた頭蓋骨も、石床を這っていた黒い筋も、今はただ沈黙している。

 

 静かになった。

 

 それは確かなはずだった。

 

 けれど、ペンドルトンは地下を離れるまで、一度も背後へ気を抜かなかった。

 

 拳銃は弾切れ。

 唇は切れ、喉の奥にはまだ塩気のような不快感が残っている。

 肺の中に水など入っていないことは分かっているのに、息を吸うたび、どこかで波の音が混じる気がした。

 

「警部」

 

 前を歩いていたゾーイが、石段の途中で足を止めた。

 

「そこで転ばれますと、運ぶ手間が増えましてよ」

「転んでいない」

「足取りがずいぶん老人めいておりますわ」

「誰のせいで、こんな階段を上る羽目になったと思っている」

「井戸の蓋を開けた人間ですわね」

「そういう正論で逃げるな」

 

 ゾーイは小さく肩を竦め、再び階段を上り始めた。

 

 いつもの小柄な姿へ戻っている。

 

 黒髪。

 白い肌。

 空色の瞳。

 

 地下で見た、光を映さない漆黒の瞳を持つ淑女の姿は、まるで最初から存在しなかったかのようだ。

 

 だが、ペンドルトンは見ている。

 

 あれが、この少女のような姿の内側にいるものだ。

 

 知りたくなかった。

 認めたくもない。

 

 それでも、認めないまま背を向けるほど、自分は器用ではなかった。

 

「メアリー」

 

 ゾーイが不意に言った。

 

「肩を見せなさい」

「階段を上りきってからでよろしいかと」

「いま」

「お嬢様。後方の封鎖を確認しながら移動しておりますので」

「だからこそですわ。途中で腕が落ちたりしたら困りますもの」

「腕が落ちる程度でしたら、業務への支障は限定的かと」

「限定しないでくださる?」

 

 ペンドルトンは思わず口を挟んだ。

 

「お前たちの怪我の基準は、どうなっているんだ」

「肩を少々掠められただけでございます」

「人間なら少々で済ません傷だぞ」

「わたくしは人間ではございませんので」

「それを平然と言われると、こちらの常識の置き場がなくなるな」

 

 メアリーは振り返り、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。

 

「警部様の常識は、大切にお持ちくださいませ。わたくしたちに合わせますと、報告書だけでなく日常生活にも支障が出ます」

「もう十分出ている」

 

 ゾーイが小さく鼻を鳴らす。

 

「それは、警部がこちらへ首を突っ込み続けるからでしょう?」

「市民が巻き込まれている現場で、見なかったことにできるほど器用じゃないだけだ」

「ええ。存じておりますわ」

 

 その声が、ほんの少しだけ柔らかかった。

 

 ペンドルトンは返事をしなかった。

 

 階段の上から、外気が流れてくる。

 

 湿った森の匂い。

 土と苔と、夕暮れの冷えた風。

 

 海の匂いではない。

 

 それだけで、異様なほど胸が軽くなった。

 

     *

 

 旧修道院跡の外へ出た時には、森の中はすでに薄暗くなっていた。

 

 入口前の草地には、応援の警官が二人と、若い刑事が待っていた。

 

 遺体は、指示通り密閉袋へ収められ、簡易担架の上へ固定されている。

 周囲の地面には近づかないよう、広めに規制線が張られていた。

 

 若い刑事は、三人の姿を認めるなり駆け寄ろうとした。

 

 だが、首元に巻かれた銀鎖が熱を帯びたのか、途中で慌てて立ち止まる。

 

「警部!」

「来るな。そこにいろ」

 

 ペンドルトンの声に、若い刑事は即座に足を止めた。

 

「ご無事で……」

「どうにかな」

 

 若い刑事は、ペンドルトンの切れた唇と泥だらけのコートを見る。

 続いて、袖の裂けたメアリーへ視線を向け、さらにゾーイを見る。

 

 ゾーイだけは、外見上ほとんど変わっていない。

 ただ、機嫌はひどく悪そうだった。

 

「中は、どうなっていたんですか」

 

 若い刑事が問う。

 

 ペンドルトンは答える前に、ゾーイを見た。

 

「どこまで喋れる」

「地下に古い儀式場が存在し、人為的に開かれた痕跡があった。危険性が極めて高いため、再立入は禁止。警察側での調査は、わたくしどもの確認を経てからにしてくださいませ」

 

 ゾーイは淀みなく言った。

 

「随分と都合のいい説明だな」

「では、地下で起きていたことを、見た通りに署内会議でご説明なさる?」

「勘弁しろ」

「なら、都合のよい説明は大事になさい」

 

 若い刑事は二人のやり取りを見ながら、どう反応すればよいか分からない顔をしている。

 

「警部。遺体の件ですが」

「ああ」

 

 ペンドルトンは担架へ目を向けた。

 

「動いたか」

「いいえ。ご指示の後は、一切。水気も出ていません」

 

 遺体袋の表面は乾いている。

 

 先ほどまで黒い水を吐き、何かの通り道として使われていた男は、今はただ静かに横たわっていた。

 

 ペンドルトンは数秒、黙ってそれを見た。

 

「検視は継続だ。ただし、通常案件として触るな。遺体から採取したもの、現場周辺の泥、水分、排水設備、すべて別管理にしろ。勝手に洗浄するな。処分もするな」

「はい」

「それから、今夜ここへ残る者はいない。規制線だけ張って、車両で外から監視する。中へ入るな。音がしても、声がしてもだ」

「声がしても……ですか」

「命令だ」

 

 若い刑事の表情が強張る。

 

 だが、すぐに頷いた。

 

「了解しました」

「それと、お前は病院へ行け」

「ですが、俺はまだ報告を――」

「病院だ」

「けれど、警部だって怪我をしています」

「私はこの程度で倒れん」

「警部様」

 

 メアリーが穏やかに口を挟んだ。

 

「先ほど、精神干渉をまともに受けられておりますので、警部様も検査対象でございます」

「余計なことを言うな」

「肺の中に実際の水がないかだけでも、ご確認なさるべきかと」

「入っていない」

「ご自身で胸を開いて確かめられまして?」

「物騒な例えをするな!」

 

 ゾーイが、いかにも当然のように頷いた。

 

「メアリーの言う通りですわね。警部も診察をお受けなさい」

「お前まで乗るな」

「玩具が勝手に錆びて壊れるのは不愉快ですもの」

「私は玩具じゃない!」

 

 若い刑事が、思わず目を丸くした。

 

「……警部、こちらのお嬢さんとは、どういう関係で」

「聞くな」

 

 ペンドルトンは疲れきった声で言った。

 

「聞けば、余計に頭痛が増える」

 

 ゾーイはふん、と鼻を鳴らした。

 

「失礼ですわね。わたくしほど親切な祈祷師も、そうそうおりませんのに」

「親切な祈祷師は、人を玩具扱いしない」

「大切にしているという意味ですわ」

「なお悪い」

 

 若い刑事は、どうやら理解を諦めたらしい。

 黙って手帳へ指示を書き留め始めた。

 

 ペンドルトンは、担架の脇へ進む。

 

 遺体袋の上へ、帽子を取った手を一度だけ添えた。

 

「……遅くなったな」

 

 誰にも聞かせるつもりのない声だった。

 

 死者は答えない。

 

 けれど、その沈黙は、少なくとも先ほどまでの濡れた声よりはずっと穏やかだった。

 

「警部」

 

 ゾーイが呼んだ。

 

 ペンドルトンは帽子をかぶり直し、彼女へ向き直る。

 

「何だ」

「地下から回収したものですけれど」

 

 メアリーが、小さな封印袋を取り出した。

 

 中には、青黒い蝋の中から弾け飛んだ細い金属片が入っている。

 波の文様。

 沈む人影。

 そして、削り消された管理印。

 

「正式には証拠品だ」

 

 ペンドルトンは言った。

 

「はい。ですから、わたくしどもが勝手に飲み込んだり焼いたりはいたしませんわ」

「候補に入るのか、それが」

「内容次第では」

「入れるな」

 

 ペンドルトンは額を押さえた。

 

「ただし、これを署の証拠保管庫へ持ち込むのも危険なのは分かる。こちらで一時預託扱いにする。お前の屋敷で保管と解析をしろ」

「話が早くて助かりますわ」

「条件がある」

「あら。面倒ですこと」

「受領記録を出せ。解析結果も書面で寄越せ。原本を勝手に処分するな。あと、触った人間が呪われる類なら最初に言え」

「最後の条件だけ、随分と切実ですわね」

「こちらの保管係に恨まれたくないんだ」

 

 メアリーが封印袋を丁寧に持ち直す。

 

「承知いたしました。受領記録は屋敷の管理担当に作成させます」

「屋敷の管理担当?」

 

 若い刑事が怪訝そうに聞き返す。

 

 ゾーイはにこやかに答えた。

 

「家政を預かる、とても几帳面な者ですわ」

「普通の家政担当が、こういうものの受領記録を?」

「普通という言葉は、あの屋敷ではあまり役に立たない」

 

 ペンドルトンが疲れた声で言った。

 

「覚えておけ。訪ねる時は、余計な扉を開けるな。影に話しかけるな。出された茶だけ飲め」

「警部。それ、伺ってよい屋敷なのでしょうか」

「私に聞くな」

 

 ゾーイがくすりと笑った。

 

「警部が若手へまともな助言をしていると、なぜだか嬉しくなりますわね」

「誰のせいで、助言の内容がこうなったと思っている」

 

 森の外から、車両のエンジン音が近づいてくる。

 

 追加の回収班だろう。

 

 ペンドルトンは、もう一度現場を見回した。

 

 旧修道院跡。

 封じられた地下。

 回収された遺体。

 処理しきれないほどの疑問。

 

 終わったとは、到底言えない。

 

 けれど、今夜ここから新たな死者を出さないために、やるべきことは決まっている。

 

「お前は回収班へ指示を引き継いだら、そのまま検査を受けろ。異常がなくても帰宅後は一人でいるな」

「はい」

「水音が聞こえたら、すぐ報告しろ。気のせいだと思うな」

「……はい」

 

 若い刑事は喉元の銀鎖へ、無意識に触れようとした。

 

「触らないでくださいませ」

 

 メアリーの声が飛ぶ。

 

 若い刑事の手がぴたりと止まる。

 

「す、すみません」

「いえ。外そうとしなければ問題ございません。今夜限りの護りですので、明朝になれば効力は落ちます」

「返却は、どうすれば」

「後日、警部様へお預けくださいませ」

「俺が届けるのか」

「お嫌でしたら、ご本人がお屋敷へ」

「それはやめろ」

 

 ペンドルトンが即答した。

 

「なぜです?」

「入口から無事に帰れる保証を、私がしたくない」

「あら、デイモンはお客様には礼儀正しいですわ」

「礼儀正しく脅かすから問題なんだ」

 

 若い刑事は、ますます不安そうな顔になる。

 

 ゾーイは楽しげに笑ったが、その笑みはすぐに薄れた。

 

 視線の先には、遺体袋がある。

 

「警部」

「何だ」

「その方の身元が分かりましたら、知らせてくださいまし」

 

 ペンドルトンは、わずかに目を細めた。

 

「何のためにだ」

「死者を道具として扱った者がいるなら、何を奪われたのかくらい知っておくべきでしょう?」

 

 ゾーイは淡々と言った。

 

「それに、名前のないまま眠らせるのは、少々気分が悪いですわ」

 

 ペンドルトンは、しばらく彼女を見た。

 

 人ではない。

 人の情など、本来は持ち合わせていなかったはずのもの。

 

 それが、死体に名前を返せと言う。

 

「……分かった」

「お願いいたしますわ」

 

 ゾーイは、古風に小さく一礼した。

 

 ペンドルトンは帽子のつばへ触れ、息を吐く。

 

「それから」

「まだ何かありまして?」

「助かった」

 

 ゾーイが、わずかに瞬きをした。

 

 ペンドルトンは視線を逸らさない。

 

「地下で、お前があれを止めなければ、私も、部下も、この先の街もどうなっていたか分からん。感謝する」

 

 数秒、風の音だけが流れた。

 

 ゾーイは不思議そうに首を傾げる。

 

「あら。わたくしのことが嫌いではなくて?」

「何度も言わせるな。それとこれとは別だと言ったはずだ」

 

 ペンドルトンは不機嫌そうに答える。

 

「助力を受けたからには礼を返す。それが紳士というものだ」

「まあ」

 

 ゾーイの瞳が、ほんの少しだけ楽しそうに細まった。

 

「ずいぶんと立派なことを仰るのね」

「茶化すな。礼を言ったことを後悔させる気か」

「いいえ」

 

 ゾーイは微笑んだ。

 

 いつもの、人をからかうための笑みとは少し違った。

 

「受け取っておきますわ、警部。あなたの誇りごと」

「大げさに受け取るな」

「せっかくいただいたのですもの。大切にいたしますわ」

 

 ペンドルトンは、嫌そうに顔を顰めた。

 

「……やはり言うんじゃなかった」

「もう遅いですわね」

 

 メアリーは二人のやり取りを黙って見ていたが、やがて小さく咳払いをした。

 

「お嬢様。そろそろお戻りになりませんと、口直しの紅茶がさらに遅くなります」

「それは大問題ですわ」

「事件現場で一番真剣な顔をする理由がそれか」

「当然でしょう。今のわたくしの口内は、海水に漬けた腐った祈祷書の葬列ですのよ」

「一切想像したくない表現だな」

 

 ゾーイは外套を翻し、側車付き自動二輪車の方へ歩き出す。

 

 メアリーが続こうとしたところで、ゾーイが足を止めた。

 

「メアリー」

「はい、お嬢様」

「運転はわたくしがいたします」

「お嬢様が、ですか」

「肩を傷めたメイドを働かせるほど、主人として薄情ではございませんわ」

 

 メアリーの金色の瞳が、わずかに見開かれる。

 

「お嬢様……」

「その顔をおやめなさい。見物ではありませんのよ」

「失礼いたしました。あまりに尊く――」

「言わせませんわ」

 

 ペンドルトンが思わず眉を顰める。

 

「お前、運転できるのか」

「失礼ですわね。馬車も自動車も二輪車も、一通り嗜みますわ」

「免許は」

「細かいことを気にすると、髪がさらに白くなりましてよ」

「おい」

 

 メアリーは速やかに運転席へ回り込んだ。

 

「お嬢様。傷は業務へ影響するほどではございません。運転はわたくしが」

「ですが」

「お嬢様に運転をお任せしますと、わたくしの精神に影響がございます」

「なぜですの」

「お嬢様を側車へお乗せしてお守りできない移動など、メイドとして耐え難く」

「面倒なメイドですわね!」

 

 ペンドルトンは、心底どうでもよさそうに片手を振った。

 

「好きにしてくれ。事故だけは起こすな。こちらの書類を増やすな」

「ご安心くださいませ、警部様」

 

 メアリーは完璧な笑顔で答えた。

 

「事故の記録は残しませんので」

「起こさないと言え!」

 

 側車付き自動二輪車のエンジンが低く鳴る。

 

 ゾーイは不満そうに側車へ収まり、黒い封印布に包まれた狐型怪異の残骸と、金属片の封印袋を膝の上へ置いた。

 

「まったく」

 

 彼女は包みを見下ろし、盛大に顔を顰める。

 

「また濡れたものを持ち込む羽目になりましたわ」

「屋敷の保管室には、防湿処理もございますので」

「そういう問題ではありませんの。あの屋敷の品位が磯臭くなりますでしょう」

「デイモンが喜んで記録するかと」

「それが一番嫌ですわ」

 

 メアリーがエンジンを吹かす。

 

「では、お嬢様。お帰りになりましたら、まずは湯浴みとお召し替え、それから濃い紅茶を」

「ええ。とびきり濃くなさい。甘味も必要ですわ」

「スコーンとタルトをご用意いたします」

「結構」

 

 側車付き自動二輪車は、湿った森の道を走り出した。

 

 その後ろ姿を、ペンドルトンは無言で見送る。

 

 若い刑事が、おそるおそる隣へ立った。

 

「警部」

「何だ」

「あの方たちは、本当に何者なんですか」

 

 ペンドルトンはしばらく黙っていた。

 

 やがて、帽子を深く被り直す。

 

「知らん」

「ですが」

「知っているのは、あの女がひどく性格が悪くて、こちらの常識を片端から踏み荒らして、それでも人を見捨てる気はないということだけだ」

 

 若い刑事は、遠ざかっていく車両の音を聞いた。

 

「それは……信用している、ということですか」

「余計なことを言うな」

 

 ペンドルトンは、規制線の向こうにある旧修道院跡へ目を戻した。

 

「仕事だ。今夜は長くなるぞ」

 

     *

 

 屋敷へ戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。

 

 古い洋館の窓には、暖かな灯りが浮かんでいる。

 森の湿気も、地下の石壁も、井戸の底に広がっていた黒い海も、ここから見れば遠い出来事のようだった。

 

 だが、側車の上に置かれた黒い包みが、その錯覚を許してくれない。

 

 玄関前に車体が停まる。

 

 メアリーがエンジンを切るより早く、屋敷の扉が音もなく開いた。

 

 室内から、影がゆっくりと伸びてくる。

 

 その影の上へ、黒い靴が一歩置かれた。

 

「お帰りなさいませ、お嬢様。メアリー」

 

 仕立ての良い黒服。

 整った顔立ち。

 涼しい笑み。

 

 屋敷の家政を預かる影のハウスキーパー、デイモンだった。

 

 彼は一礼し、すぐにゾーイの膝の上にある包みへ視線を向ける。

 

「本日は、随分と湿度の高いお土産でございますね」

「言わないでくださいまし。気分が悪くなりますわ」

「おや。お召し上がりになった後で?」

「言わないでくださいまし!」

 

 ゾーイは側車から降り、黒い包みをデイモンへ差し出した。

 

「狐じみた番犬の残骸。こちらは処理済みですが、残留しているものの照合が必要です」

「承知いたしました」

 

 デイモンは包みを受け取った。

 

 軽く持ち上げた瞬間、包みの中で微かに、ぬちゃりと何かが動く音がした。

 

 デイモンの眉が、ほんの少し上がる。

 

「処理済み、でございますか」

「文句があるなら、あなたがお食べなさい」

「いえ。わたくしは屋敷の品位を守る立場でございますので、拾い食いは控えております」

「たいへん結構ですわね」

 

 続いてメアリーが、金属片の入った封印袋を差し出す。

 

「こちらは警察側より一時預託された証拠品です。受領記録と解析記録が必要になります」

「警察側、ということは」

 

 デイモンは楽しげに目を細めた。

 

「ペンドルトン警部様が、また随分と見てはならないものをご覧になったようで」

「ええ。今回は、わたくしの少し大きな姿まで」

「まあ」

 

 デイモンの笑みが深くなる。

 

「それはそれは。警部様の認識保全状態が気になりますね」

「怯えながらも拳銃を向けずにおられました。意外と丈夫ですわ」

「お気に入りの耐久試験としては、良好な結果でございますか」

「デイモン」

 

 ゾーイの声が低くなる。

 

「わたくしは、玩具の品評会をしに帰ってきたのではございませんの」

「これは失礼いたしました」

 

 デイモンは優雅に一礼する。

 

「では、回収物の受け入れを優先いたしましょう。なお、お嬢様の御帰宅時の表情につきましては、後ほど別記録へ」

「記録しなくて結構!」

「すでに記憶しておりますので」

「なお悪いですわ!」

 

 メアリーが静かに歩み出た。

 

「デイモン。お嬢様は口直しを最優先になさいます。保管区画の準備はあなたへ任せますので、余計な刺激は控えなさい」

「承知しました。ところで、メアリー」

 

 デイモンの視線が、彼女の裂けた肩口へ移る。

 

「そちらは?」

「軽微な損傷です」

「なるほど。お嬢様の目の前で傷を負った、と」

「デイモン」

「これは失礼。屋敷内の感情的気圧が下がりそうでしたので、事前に把握を」

「その通りですわ」

 

 ゾーイは不機嫌そうに言った。

 

「メアリーを手当てする道具も用意なさい」

「すでに応接室へ」

「……先回りだけは優秀ですわね」

「屋敷を預かる者の嗜みでございます」

 

 デイモンは影へ手を差し入れた。

 

 玄関床に落ちた暗がりが、静かに広がる。

 その中から、黒い金属製の箱が二つ浮かび上がった。

 

 一つは、狐型怪異の残骸用。

 内側に幾重もの封印文字が刻まれ、底には乾いた黒砂のようなものが敷かれている。

 

 もう一つは、金属片用。

 小さく、厚く、書庫の保管箱に似た形だった。

 

「回収物一。仮称、湿性獣形端末――」

「番犬でよろしいでしょう」

「では、湿性番犬残骸」

「妙な分類名を足さないでくださる?」

「後ほど修正可能でございます」

 

 デイモンは包みを箱へ収める。

 

 箱の蓋が閉じられた瞬間、中から細い水音がした。

 

 ぽたり。

 

 ゾーイの顔が露骨に歪む。

 

「屋敷の中で、その音をさせないでくださいまし」

「ご安心ください。保管区画では音響ごと隔離いたします」

「そんな機能があるなら、最初から玄関でも使いなさい」

「お嬢様のご反応を把握してからの方が、適切な管理基準を設定できますので」

「あなた、いつか保管箱に詰めますわよ」

「お嬢様のお手ずからであれば、栄誉として記録いたします」

「面倒ですわね、本当に!」

 

 メアリーは、やや疲れた様子で息を吐いた。

 

「お嬢様。まずはお召し替えを」

「ええ……このままでは、紅茶にまで磯臭さを感じそうですもの」

 

 ゾーイは屋敷の中へ入る。

 

 暖かな空気が、冷えた頬を撫でた。

 

 その途端、足元の影が小さく揺れる。

 

 地下から持ち帰った不快な気配が、屋敷の影へ触れようとしたのだ。

 

 だが、触れるより早く、屋敷側の影が静かに押し返した。

 

 デイモンの笑みが、わずかに薄くなる。

 

「お嬢様」

「何かしら」

「金属片の方を、先に確認してもよろしいでしょうか」

「随分と急ぎますのね」

「こちらから、屋敷の保管記録へ触れようとする気配がございます」

「……面倒なものを持ち込みましたわね」

「また濡れたものを持ち込む羽目になりましたわ、と仰った時点で予想はしておりました」

 

 ゾーイは、心底嫌そうに天井を見上げた。

 

「わたくし、今日は紅茶だけを楽しみに生きてもよろしいかしら」

「紅茶をお召し上がりになりながらでも、ご確認は可能かと」

 

 メアリーが答える。

 

「鬼ですの?」

「悪魔でございます」

「そうでしたわね!」

 

     *

 

 応接室には、すでに紅茶が用意されていた。

 

 火の入った暖炉。

 深い色の絨毯。

 古い時計の規則正しい音。

 

 ゾーイは椅子へ座るなり、カップを手に取った。

 

 まず香りを確かめる。

 

 次に、一口。

 

 ほんの少しだけ、強張っていた肩が下がった。

 

「……ようやく、世の中に許せる味が戻りましたわ」

「本日は濃いめにしております」

 

 メアリーは着替えを済ませていた。

 

 裂けたハンター衣装は外され、肩口には黒い布が薄く巻かれている。

 屋敷内用のクラシカルなメイド服へ戻っているが、右腕の動きは僅かに控えめだった。

 

 ゾーイはそれを見逃さなかった。

 

「痛むのでしょう」

「問題ございません」

「問題がない時のあなたは、動きを隠そうとしませんわ」

「お嬢様にご心配をおかけするほどでは」

「わたくしが心配するかどうかを、あなたが決めるのではありません」

 

 メアリーは一瞬だけ黙った。

 

 それから、柔らかく一礼する。

 

「失礼いたしました。多少の損傷はございますが、処置済みです。明日には通常通り動けます」

「よろしい」

 

 ゾーイはスコーンへ手を伸ばした。

 

「明日は紅茶を淹れる以外の重労働は禁止ですわ」

「紅茶は労働に含まれないのでございますね」

「当然でしょう。生命維持ですもの」

「承知いたしました」

 

 メアリーの目が、少しだけ嬉しそうに細くなった。

 

 その時、応接室の片隅の影が揺れた。

 

 デイモンが、黒い小箱と厚い帳面を手に現れる。

 

「お寛ぎのところ失礼いたします、お嬢様」

「もう少し寛がせるという発想はありませんの?」

「危険物は、紅茶が冷めるのを待ってはくれませんので」

「危険物の方に礼儀を教えておきなさい」

「次回より注意書きを添えて保管いたします」

 

 デイモンはテーブルの端へ小箱を置いた。

 

 メアリーが即座に、ゾーイの紅茶と菓子皿を少しだけ遠ざける。

 

「食卓へ置かないでくださいませ」

「失礼。お嬢様の味覚保全を失念しておりました」

「絶対にわざとですわね」

 

 デイモンは返事をせず、帳面を開いた。

 

「警察側より一時預託された金属片ですが、表面の波文様は、この土地に残っていた海神信仰側のものです。問題は、その下へ刻まれていた削り跡でございます」

「管理印でしたわね」

 

 ゾーイはカップを置いた。

 

「はい。完全な形は失われておりますが、屋敷の保管記録に一致する意匠がございました」

 

 ペンドルトンの前では軽口を交えていたゾーイの表情が、静かに冷える。

 

「どの記録ですの」

「王政復古前、禁忌遺物の移送台帳でございます」

 

 デイモンは帳面を回し、ゾーイへ見せた。

 

 古い紙面に、細い線で描かれた印がある。

 

 円環。

 その中央を横切る黒い線。

 下方へ落ちる三つの刻み。

 

 金属片に削り残されていたものと、確かによく似ている。

 

「用途は」

 

 メアリーが問う。

 

「保管ではなく、転用対象の分類です」

 

 デイモンの声から、いつもの軽さが消えていた。

 

「既存の信仰地、儀式場、封印跡、召喚痕などを発見した場合、破棄せずに利用可能性を調査する。外なるもの、悪魔、呪い、土地に染みついた信仰――使えるものは何であれ、兵器または接続器として加工する」

「井戸は、海を崇める古い祈りの場だった。そこへ黒魔術師たちが手を入れ、道具として管理していた」

「その可能性が極めて高いかと」

 

「では、最近になって継ぎ足された儀式も、その台帳を知った者の仕業ですの?」

「そこまでは断定できません」

 

 デイモンは帳面のページをめくる。

 

「記録は途中から欠落しております。台帳の写しが流出したのか、印だけが現地に残り、後世の者が意味も分からず模倣したのか。あるいは、別の資料が存在するのか」

「いずれにせよ、素人が偶然、古井戸へ火を焚いて終わる話ではなさそうですわね」

「はい」

 

 デイモンは、別の頁で指を止めた。

 

「そして、問題はもう一つございます」

 

 ゾーイは嫌そうに目を細める。

 

「問題は一度に一つずつ持ってきなさい。紅茶が冷めますわ」

「では、温かいうちに申し上げます」

 

 デイモンは、帳面の一角を示した。

 

 そこには、同じ管理印の下に、複数の地名らしき記録が並んでいた。

 

 多くは判読不能。

 滲み、欠落し、削られている。

 

 だが、残っている項目だけでも、一つではないことが分かる。

 

「今回の井戸は、単独の管理対象ではございません」

 

 メアリーの表情が僅かに険しくなる。

 

「同系統の場所が、他にもあるのですか」

「少なくとも、台帳上は」

 

 デイモンは静かに答えた。

 

「沿岸部に二件。旧貴族領内に一件。所在不明の移送先が一件。さらに、国外搬出と見られる記載が一件」

 

 応接室が静まり返った。

 

 暖炉で薪が弾ける。

 

 ぱちり、と小さな音が、やけに大きく聞こえた。

 

 ゾーイはしばらく帳面を見ていた。

 

 それから、冷めかけた紅茶を一口飲む。

 

「……まったく」

 

 カップをソーサーへ戻す音が、静かに響いた。

 

「人間というものは、どうして危険なものを見つけると、捨てずに整理番号を振りたがるのでしょうね」

「記録を管理する立場としては、耳が痛いことでございます」

 

 デイモンが言う。

 

「あなたは封じるための記録でしょう。彼らは使うための記録ですわ」

「ええ。そこは明確に違います」

 

 ゾーイは帳面から視線を上げた。

 

「ペンドルトン警部へ渡す解析結果は、どこまで書けますの」

「現地で発見された金属片が、過去の秘匿儀式施設に付された管理標識の一部と一致する可能性があること。類似意匠が複数地点の古記録に存在すること。現場再調査および関連資料の確認が必要であること。この程度なら、人間側の文書としても破綻しないでしょう」

「随分と丸くなりましたわね」

「報告書というものは、真実を飲み込みやすく刻んで差し出す料理でございますので」

「変なところで上手いことを言わないでくださる?」

「警部様にも喜ばれるかと」

「あの方は、喜ぶ前に胃を痛めるでしょうね」

 

 メアリーが、ゾーイのカップへ新しい紅茶を注ぐ。

 

「お嬢様。どうなさいますか」

 

 ゾーイは立ち昇る湯気を見た。

 

 静かに揺れる白い湯気の向こうに、遠い昔の影が滲む。

 

 王冠の国が、まだ血と火の匂いを濃く残していた頃。

 黒魔術師たちが、人の祈りすら道具として分類し、封じるのではなく使おうとしていた頃。

 そして、その過程で、彼女自身が呼び出された。

 

 忘れたつもりになっても、過去は消えない。

 

 古井戸の底で、まだ口を開けている。

 

「決まっておりますわ」

 

 ゾーイはスコーンを一つ取り、クリームを載せる。

 

「警部へは、書ける範囲で結果をお渡しなさい。人間が開けた蓋なら、人間の側でも追わせるべきですもの」

「承知いたしました」

「こちらはこちらで、残りの記録を洗います。所在が残っているものも、消されているものも、すべて」

「では、保管庫の深層記録を開放いたします」

 

 デイモンは恭しく一礼した。

 

 ゾーイは菓子を口へ運び、目を細める。

 

 甘い。

 

 ようやく、まともな味だ。

 

 だが、穏やかな余韻に浸っていられるほど、彼女は楽天的ではない。

 

「メアリー」

「はい、お嬢様」

「明日の紅茶は、今日より濃くなさい」

「承知いたしました」

「それから、外出用の衣装も整えておいて」

「次の現場でございますか」

「ええ」

 

 ゾーイは、デイモンの開いた台帳へ視線を落とした。

 

 滲んだ文字の中で、国外搬出を示す記載が一つだけ、黒く残っている。

 

「どうやら、海水の後味は、まだしばらく続きそうですもの」

 

 暖炉の火が静かに揺れた。

 

 屋敷の地下で、封じられた保管箱が一度だけ、小さく鳴る。

 

 ぽたり。

 

 水滴のような音。

 

 すぐに、屋敷の影がそれを呑み込んだ。

 

 ゾーイはカップを持ち上げたまま、わずかに眉を寄せる。

 

「デイモン」

「はい、お嬢様」

「その音、二度と聞かせないでくださいまし」

「承知いたしました。次回からは無音保管へ移行いたします」

「次回がある前提なのが、本当に腹立たしいですわね」

 

 メアリーが、穏やかに微笑んだ。

 

「お嬢様。お代わりはいかがですか」

「いただきますわ」

 

 紅茶が、静かに注がれる。

 

 古い屋敷の夜は、ひとまず穏やかだった。

 

 けれど、その地下では。

 

 忘れられた禁忌の記録が、次に開かれる頁を待っていた。




第一編 第二章:「仄暗い底から這いよるモノ」  終
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