第十二話「受領記録」
ペンドルトンが署へ戻ったのは、翌朝のことだった。
夜のうちに、旧修道院跡の周囲には広い規制線が張られた。
地下へ通じる入口には誰も近づけず、車両を外へ残して監視に当たらせている。
中へ入るな。
音がしても、声がしてもだ。
昨夜、自分が出した命令は、夜明けを迎えた今も変えていない。
同時に、遺体が消えた安置施設側の封鎖も続いていた。
排水設備を含め、内部へ人を戻す許可はまだ出していない。
死体が消え、濡れた足跡だけが残り、排水の奥へ何かが逃げ込んだ現場である。
形式通りの再検証で済むと思うほど、ペンドルトンはもう楽観的ではなかった。
そして、自分自身もまた、旧修道院跡を出たその足で検査へ回されていた。
肺に水はない。
血液にも、医学的に説明のつく異常はない。
喉の奥に残っている塩気も、検査結果の上では存在しない。
机の上へ放り出した診療記録には、簡潔な文字が並んでいた。
異常所見なし。
「……随分と便利な言葉だな」
ペンドルトンは吐き捨て、椅子へ深く腰を下ろした。
異常がないのであれば、昨夜、自分の脚へ絡みついた黒い水は何だったのか。
呼吸を奪い、目の前の現実を水底へ変えようとしたものは何だったのか。
あの黒髪の令嬢は、いとも不愉快そうな顔で、それを喰らった。
その光景だけは、診療記録のどこにも書けない。
「警部」
扉の方から、掠れた声がした。
振り返ると、若い刑事が記録室の入口に立っていた。
顔色はまだ悪い。
首元には、昨夜メアリーから巻かれた細い銀鎖が、そのまま残っている。
「病院から帰れと言われなかったのか」
「言われました」
「なら帰れ」
「帰ろうとはしました。ですが……眠ろうとすると、水の音がするんです」
若い刑事は、言い終えた後で、自分でも馬鹿げたことを言ったと思ったのか、苦い顔をした。
「部屋は乾いています。水道も止めました。それでも、目を閉じると、すぐ耳元で……」
「もういい」
ペンドルトンは、椅子の背へ体を預けたまま言った。
「無理に説明しようとするな。こちらも似たようなものだ」
「警部も?」
「喉の奥が、まだ塩辛い気がする」
若い刑事は黙った。
安心したのか、余計に恐ろしくなったのかは分からない。
彼の指が、無意識に銀鎖へ伸びかける。
「触るなよ」
「はい」
手が止まる。
「外すのは、あのメイドがいいと言ってからにしろ」
「……メアリーさん、ですか」
「他に誰がいる」
「いえ。ただ……直接、お礼を言えていませんので」
ペンドルトンは、若い刑事の顔を見た。
妙に真面目な表情である。
怪異から助けてもらった礼を言いたいだけ、と言われれば、その通りにも見える。
「全部片付いてからにしろ」
「はい」
「今の状態で銀鎖を返しに行って、向こうで倒れでもしたら、礼どころか迷惑になる」
「それは……困ります」
「だろうな」
ペンドルトンは立ち上がり、窓際の棚から一冊のファイルを引き抜いた。
「来たなら働け。昨夜の記録を整理する」
「はい」
若い刑事が、少しだけ表情を引き締める。
「ただし、気分が悪くなったら即座に言え。お前は地下へ入っていない。だから平気だと思うな。外にいただけで、あれだけ食らったんだ」
「分かりました」
返事は素直だった。
少なくとも、もう一人で無理に強がろうとはしない程度には、昨夜の出来事が身に染みているのだろう。
*
記録室の机には、昨夜の現場に関する資料が少しずつ積み上がっていた。
旧修道院跡周辺の地図。
地上側の規制線設置記録。
山中で発見された遺体の写真。
遺体が消失した安置施設に関する封鎖報告。
地下へ降りたペンドルトン自身の走り書き。
そして、身元不明遺体へ割り当てられた仮の管理番号。
地下儀式場の正式な現場検証は、まだ行わせていない。
ペンドルトンが昨夜その目で見た内容を、簡単な略図と報告文へ落とし込んだだけである。
地下の納骨堂。
奥へ続く狭い通路。
古い儀式場。
中央の古井戸。
石床に新しく刻まれていた溝。
そこへ流し込まれた青黒い蝋。
そして、蝋を撃ち砕いた後、古井戸の脇に転がっていた金属片。
若い刑事は、机の向かいから略図を覗き込んだ。
「この中央の円が……井戸ですか」
「ああ」
「周囲の線は?」
「元からある儀式の跡と、後から掘られたものが混じっていた。新しい方には青黒い蝋が流し込まれていた」
「昨夜回収した金属片は、その中から出たものなんですね」
「蝋を撃ち砕いた後、古井戸の脇へ落ちていた。あの令嬢の見立てでは、管理印の一部らしい」
若い刑事は、唇を引き結んだ。
「管理するためのものが、怪異を呼ぶために使われていた、と」
「その可能性がある。正式なところは、向こうの解析待ちだ」
ペンドルトンは、身元不明遺体の資料へ視線を移した。
その男は、山中で発見された時点では、奇妙な死に方をした被害者に過ぎなかった。
だが、その後、安置された場所から消え、旧修道院跡へ現れ、死んだ身体のまま言葉を発した。
水を。
寒い。
帰る。
海へ。
死体へ責任を問うつもりはない。
だが、何者だったのかを知らなければ、どこで何に触れ、なぜあの場所へ引き寄せられたのかも分からない。
「遺体の照会は?」
「指紋と歯科記録の確認を進めています。所持品がほとんどなかったので、行方不明者届との照合は時間が掛かるかと」
「衣服は」
「量販品です。靴も同様で、購入経路の特定は難しいそうです」
「死ぬ前にどこへいたかが取れれば違うんだがな」
ペンドルトンは、指先で机を二度叩いた。
「現時点では、遺体が自分の意思で旧修道院跡へ行った可能性も、誰かに運ばれた可能性も、怪異に引き寄せられた可能性も残っている」
「……死んだ後に歩かされた可能性も」
「それを公文書へどう書くかは、今から頭を抱えるところだ」
若い刑事は、少し俯いた。
「警部。あの遺体は……最初から、あの儀式に関わっていた人間なんでしょうか」
「分からん」
「自分で禁忌に手を出して、ああなった可能性もある?」
「ある。だが、逆もある」
ペンドルトンは仮管理番号の書類を引き寄せた。
「何も知らずに巻き込まれ、死んだ後まで使われただけかもしれん」
「……はい」
「だから調べる。どちらにせよ、番号のまま片付ける話じゃない」
若い刑事は、静かに頷いた。
その時、記録室の扉が軽く叩かれた。
「警部。受付からです」
制服警官が、封筒を一通持って立っている。
「どうした」
「先ほど、署の玄関へ届けられたそうです。差出人は名乗らず、宛先だけ確認して帰ったと」
「誰が受け取った」
「受付の巡査です。黒い手袋をした男性だったそうですが……妙に記憶が曖昧だと」
「曖昧?」
「顔を見たはずなのに、どんな顔だったか思い出せない、と」
若い刑事の肩が僅かに強張った。
ペンドルトンは無言で手を差し出し、封筒を受け取る。
厚手の紙。
深い赤の封蝋。
表面には、整った文字で自分の名が記されている。
A・J・ペンドルトン警部殿
一時預託物受領記録及び解析結果
ペンドルトンは、盛大に顔を顰めた。
「届くなら普通に届かせろ」
「ご存じの方からですか」
若い刑事が尋ねる。
「昨夜、名前だけ聞いただろう。あの方たちの側で、証拠品の管理を担当する男だ」
「デイモンという方ですか」
「ああ。まだ会ったことがないなら、そのままの方が平穏かもしれんぞ」
「それほどですか」
「少なくとも、私の頭痛の種が一つ増える程度にはな」
封蝋を割る。
中には、数枚の記録紙と、古い台帳の一部を写したらしい複製資料が入っていた。
最初の紙には、きっちりとした書式で項目が並んでいる。
一時預託物受領記録
受領対象:金属片 一点
引渡元:A・J・ペンドルトン警部
回収地点:旧修道院跡地下儀式場・古井戸周辺
外形特徴:波形意匠、沈降する人型に類似する刻線、削除痕あり
付着物:青黒蝋及び海性残響反応を伴う汚染
保管区分:隔離収蔵/接触制限対象
現状:封鎖継続中、破壊・廃棄処理なし
「原物を勝手に処分するな、という命令は守ったらしいな」
ペンドルトンが呟く。
若い刑事は、少し意外そうに書面を見る。
「警部が、あの方たちへ証拠品を預けたんですか」
「署の保管庫へ持ち込んで、今度は庁舎の排水口から何かが這い出てくるよりはましだ」
「……否定できませんね」
「否定できない現場ばかり増えるのが腹立たしい」
次の紙へ移る。
こちらは、解析結果だった。
解析結果・提出可能範囲
一、対象金属片は、過去の秘匿儀式施設に付された管理標識の一部と一致する可能性が高い。
二、対象表面には、海または水没に関係する意匠及び、意図的に削除された刻印痕を認める。
三、類似する意匠は、複数地点に関する古記録上にも存在する。
四、対象が旧修道院跡地下儀式場において使用されていた状況から、現場の異常が偶発的に残存したものではなく、後世に何者かが再度手を加えた可能性を認める。
五、詳細な用途及び関係記録については、関係保管記録・旧収蔵資料の追加照会を要する。
六、旧修道院跡で回収された身元不明遺体について、対象または類似物品との接触履歴、搬出作業歴、旧保管区画との関連照会を推奨する。
若い刑事が、声を落とした。
「これだけで、随分と捜査の方向が変わりますね」
「ああ」
ペンドルトンは、六番目の項目を指で押さえた。
「地下に残っていた古い信仰が、たまたま死人を引きずり込んだという話ではなくなる」
「誰かが、使えるものを持ち込んだ」
「あるいは、保管されていたものを持ち出して、使い方を捻じ曲げた」
若い刑事は、続く複製資料を手に取ろうとして、途中で指を止めた。
「触れても?」
「紙まで呪われているなら、先に一言書いておいてもらいたいところだな」
ペンドルトンは、資料を自分の側へ引き寄せた。
複製された古い頁には、金属片にあったものと似た印が、欄外へいくつか残っている。
ただし、詳細はかなり削られていた。
地点名と思われる欄。
施設分類らしい数字。
一部欠落した管理記号。
そして、意匠だけが不気味なほどはっきり残っている。
波。
沈む人影。
外側を囲う線。
「この印が付いた場所が、他にもある……」
「向こうの記録では、そう読めるらしい」
ペンドルトンは、自分が地下で描いた略図へ目を落とす。
古井戸の周囲へ新しく刻まれた溝。
そこへ流し込まれた青黒い蝋。
砕けた蝋から落ちた、削られた印の金属片。
あの時には、誰かが最近あの場所へ手を入れたという事実だけで十分に厄介だと思っていた。
だが違う。
誰かは、ただ古い場所を掘り返したのではない。
古い記録の中から、使えそうなものを選び、持ち出し、繋ぎ直した可能性がある。
「警部」
若い刑事が、身元不明遺体の資料へ視線を向ける。
「この人も、その品に関わった人間だった可能性がある、と」
「調べれば分かる」
「もし、知らずに触れただけだったら」
「なら、なおさら急ぐ」
ペンドルトンは椅子から立ち上がった。
「人間一人を勝手に怪異の道具にしておいて、身元不明の一行で片付ける気はない」
制服警官が、まだ扉の側で立っていることに気づき、ペンドルトンはそちらへ顔を向けた。
「おい。鑑識と身元照会へ追加指示だ」
「はい」
「遺体の指紋、歯科記録、行方不明者届に加えて、閉鎖された宗教施設、古物保管庫、収蔵資料の整理業務、搬出作業へ関わった人間を当たれ。時期は遺体の死亡推定から遡って三月」
「かなり範囲が広いですが」
「だから急げ。それから、危険物の不正搬出と業務中事故の可能性で照会を通せ。怪異だの呪物だのと書けば、まともな回答が返ってこなくなる」
「了解しました」
制服警官が駆けていく。
若い刑事も、すぐに手元の紙を集めた。
「自分も手伝います」
「病院から帰宅を勧められていた人間がか」
「座って電話を掛けるくらいならできます」
「水音が強くなったら即座に止めろ」
「はい」
「それから、その銀鎖は外すな」
「はい」
若い刑事は、今度こそ迷わず頷いた。
*
時間は、書類と電話の間で削られていった。
午前中のうちに返ってきた照会は、大半が空振りだった。
古い教会。
廃止された保管庫。
名義だけが残る慈善団体。
管理責任者がすでに亡くなっている施設。
移送記録が途中で切れている倉庫。
どれも薄気味が悪いほど曖昧で、だが決定的な証拠にはならない。
ペンドルトンは机へ積み上がった紙束を眺め、三杯目の冷えたコーヒーへ口をつけた。
「まずいですね、それ」
若い刑事が、電話帳と資料を抱えながら言った。
「味の感想を聞いた覚えはない」
「いえ、見た目からして」
「昨日の地下よりはましだ」
「比較対象が酷すぎませんか」
若い刑事の声には、朝より少しだけ生気が戻っていた。
とはいえ、銀鎖の下の首筋には汗が滲み、時折、耳を気にするような仕草をする。
「水音か」
「少しだけです。さっきよりは遠い気がします」
「なら、まだ帰れとは言わん。ただし、遠くなったからといって、追うなよ」
「追いません」
「人は怖いものが聞こえなくなった時ほど、確かめたくなる」
「……経験談ですか」
「刑事をやっているとな」
ペンドルトンは、回答の戻った照会票を一枚ずつめくった。
一枚。
二枚。
三枚。
収蔵施設の閉鎖作業記録。
搬出委託先。
短期雇用の作業員名簿。
その中で、彼の指が止まった。
「おい」
「はい」
「この施設名、受領記録の添付資料と照合しろ」
若い刑事が駆け寄る。
ペンドルトンが指しているのは、市郊外にあった旧収蔵施設の記録だった。
表向きは、教会関係の古書と祭具を保管していた倉庫。
閉鎖に伴い、所蔵品の一部が複数の保管先や展示団体へ移送されている。
しかし、古い管理資料の備考欄には、ペンドルトンが今朝受け取った複製資料と同じ意匠が、かすかに転写されていた。
波。
沈む人影。
削れた円環。
「同じ印……でしょうか」
「少なくとも、無関係とは言いにくいな」
若い刑事は、作業員名簿をめくる。
「閉鎖作業は民間委託です。資料整理と梱包、搬出補助……短期作業員も入っています」
「遺体の身元照会へ、この名簿を回せ」
「分かりました」
若い刑事は名簿の写しを取り、照会票へ添付する。
ペンドルトンは、旧収蔵施設の記録を睨み続けた。
「警部。ここへ入っていた品が、旧修道院跡へ持ち込まれたということですか」
「まだ言えん。だが、あの遺体がここの搬出作業に関わっていたなら、話は変わる」
「遺体は、儀式を始めた側ではなく……」
「触れた側だった可能性が出る」
若い刑事は、黙って電話へ向かった。
その背中を見ながら、ペンドルトンは目を細める。
身元不明の遺体。
誰かに使われた身体。
遺体安置施設から消え、地下の祈りの場へ戻った男。
もし、その男が何も知らずに保管物へ触れただけだったのなら。
死んだ後まで、自分ではない何かのために歩かされたことになる。
「……反吐が出るな」
机の上で、受領記録が静かに光を返した。
*
昼を過ぎても、空は重い灰色のままだった。
窓の向こうでは、今にも雨が降り出しそうな雲が街の上へ垂れ込めている。
若い刑事は、午前中よりさらに増えた書類の間へ座り込み、回答の届いた照会票を分類していた。
電話が鳴る。
彼が受話器を取った。
「はい、捜査記録室です。……はい、照会をお願いした旧収蔵施設の作業員名簿についてです。ええ、身元不明遺体との照合を――」
声が止まった。
ペンドルトンは、机の向こうから顔を上げる。
「どうした」
「……該当しそうな人物がいます」
「何人だ」
「一人です」
記録室の空気が変わった。
ペンドルトンは立ち上がり、若い刑事の手元へ歩み寄る。
「確認事項を取れ」
「はい」
若い刑事の筆が、紙の上を走る。
氏名。
年齢。
勤務先。
雇用形態。
直近の作業担当。
失踪時期。
家族照会先。
ペンドルトンは、その紙面へ落ちた名前を見た。
声には出さない。
まだ、ここで呼ぶべきではない。
身元確認が済み、遺族へ伝わる前に、他人の口から軽々しく出す名前ではない。
「遺族は」
「姉が一人。市内在住です」
「担当へ回せ。まず正式な身元確認だ。説明は必要最小限にしろ」
「遺体の状況は?」
「隠せとは言わん。だが、こちらで整理できていないことを、遺族へそのまま投げるな」
「分かりました」
若い刑事は、すぐに別の電話へ繋ぐ。
ペンドルトンは、窓の外へ目を向けた。
鉛色の空。
濡れてもいないのに、街全体が薄い水の底へ沈んでいるように見える。
あの男は、何を見たのか。
何に触れたのか。
何を戻さなければならないと思い、あの旧修道院跡へ辿り着いたのか。
そして、誰がそれを仕組んだのか。
机上の受領記録を、指で軽く叩く。
「警部」
若い刑事が、受話器を置いた。
「身元確認の手配が取れました。ご遺族には、こちらから改めて結果をお伝えすることになります」
「ああ」
「それと、勤務先から作業記録の提出を受けられそうです。旧収蔵施設での担当区画までは残っている可能性があると」
「身元確認が済み次第、すぐ押さえろ」
「はい」
若い刑事は、少し迷ってから口を開いた。
「あの……もし、あの人が本当に、何も知らずに触れただけだったら」
「何だ」
「自分たちは、間に合わなかったんですね」
ペンドルトンは、すぐには答えなかった。
刑事として、そんなことを簡単に認めるべきではないのかもしれない。
まだ捜査は始まったばかりで、何が起きたのかも確定していない。
だが、山中で冷たく横たわっていた遺体は、もう生きて帰らない。
それだけは、どんな捜査でも覆せない。
「ああ」
ペンドルトンは、低く答えた。
「生きているうちにはな」
「……」
「だから、死んだ後まで好きに使わせるな。誰だったのかを突き止める。何をされたのかを残す。そこから先は、生きている人間の仕事だ」
若い刑事は、首元の銀鎖を見下ろした。
今度は触れず、ただ小さく頷く。
「はい」
*
身元確認が済んだとの連絡が入ったのは、夕刻が近づいた頃だった。
記録室の窓には、雲間から届く薄い光が差している。
その色は冷たく、街路を濡れてもいない灰色へ染めていた。
ペンドルトンは、届いたばかりの報告書を開く。
仮の管理番号の横に、ようやく一人の名前が記されている。
その下には、勤務先。
閉鎖された教会系収蔵施設からの搬出作業。
最後に担当していた区画。
そして、作業後に失踪した日時。
預けた金属片の解析記録と、初めて一本の線で繋がった。
「……出たか」
若い刑事が立ち上がる。
「身元が?」
「ああ」
「あの方たちへ知らせますか」
「知らせろと言われている」
ペンドルトンは、報告書を閉じた。
名前を知ったからといって、その男が救われるわけではない。
怪異に使われた身体が、何事もなかったように戻るわけでもない。
それでも、番号ではなくなる。
どこの誰とも知れない死体ではなく、
誰かに巻き込まれ、殺され、死後まで利用された一人の人間として、捜査記録へ残る。
「電話を借りるぞ」
「はい」
若い刑事が、机の端に置かれた電話機をペンドルトンの方へ寄せた。
ペンドルトンは番号表を開き、そこに記された連絡先を確認する。
「警部」
「何だ」
「名前を伝えるんですか」
「ああ」
「……あの方は、聞きたがるでしょうか」
「聞きたがったのは向こうだ」
ペンドルトンは、受話器を持ち上げた。
「死体を名無しのまま放っておくのが、気に入らんらしい」
若い刑事は、少しだけ目を伏せる。
「そうですか」
「ああ。面倒な女だ」
番号を回す。
一つ。
二つ。
三つ。
乾いた機械音が、静かな記録室に響く。
その音の向こうで、呼び出し音が鳴り始めた。
ペンドルトンは、報告書の上へ手を置く。
受領したのは、金属片の記録だけではない。
昨夜まで、名もなく横たわっていた死者の、その名を伝える責任もまた、今この手に渡っていた。