悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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名前を返す

 電話が鳴ったのは、紅茶の湯気がようやく落ち着いた頃だった。

 

 屋敷の応接室。

 

 重いカーテンの隙間から、夕刻前の灰色がかった光が細く差し込んでいる。

 テーブルの上には、飲みかけの紅茶と、ほとんど手をつけられていない焼き菓子。

 

 普段であれば、ゾーイが焼き菓子を放置することなど、ほとんどない。

 

 だが今の彼女は、菓子皿よりも、向かいに座るメアリーの肩へ意識を向けていた。

 

「お嬢様。三度目でございます」

「何がですの」

「こちらを御覧になった回数が」

 

 メアリーは穏やかな声音で言いながら、自らの右肩に当てられた黒い包帯へ目を落とした。

 

「気になりますか?」

「まさか。わたくしはただ、屋敷の備品に不備がないか確認しているだけですわ」

「わたくしは備品でございますか」

「もっと高価な部類の」

「光栄でございます」

 

 メアリーは、いつものように微笑んだ。

 

 その笑顔が、かえって気に入らない。

 

 地下の儀式場で黒い水の刃に掠められた右肩は、本人が言うほど軽い傷ではない。

 それなのに、当のメアリーは平然と紅茶を淹れ、菓子を整え、何事もなかったように主人の世話を続けている。

 

「それより、あなた。紅茶が少々薄くてよ」

「お嬢様が先ほどから一口も飲まれず、冷ましておられたためかと」

「……そういうところだけ、余計に鋭いのですわね」

 

 暖炉の脇に立つデイモンが、帳面から顔を上げた。

 

「記録いたしましょうか。“お嬢様、メアリーの負傷により紅茶の味を失う”」

「失っておりません」

「では、“味覚より心配が先に立つ”」

「あなた、随分と暇ですのね」

「屋敷の情緒管理も家政のうちでございますので」

 

 ゾーイが何か言い返そうとした、その時だった。

 

 廊下の奥で、電話のベルが鳴った。

 

 一度。

 二度。

 

 デイモンの表情から、からかいの色がわずかに引く。

 

「警察筋からでございます」

「分かりますの?」

「この時間に屋敷の番号へ掛けてきて、なおかつ呼び出し方が無粋なのは、今のところ警部様くらいでございますので」

「偏見ですわね」

「経験則でございます」

 

 デイモンは一礼すると、廊下へ伸びる影の中へ足を踏み入れた。

 

 影が揺れる。

 

 次の瞬間には、電話台の前で受話器を取っていた。

 

「はい。こちら、ゾーイお嬢様邸宅でございます」

 

 短い沈黙。

 

「ええ。お嬢様はご在宅でございます。少々お待ちくださいませ」

 

 デイモンは受話器を手に、応接室へ戻ってきた。

 

「ペンドルトン警部様でございます。昨夜の遺体について、判明したことがあると」

 

 ゾーイの手が止まった。

 

 紅茶の表面に、小さな波紋が広がる。

 

「……お繋ぎなさい」

「かしこまりました」

 

 受話器を受け取る。

 

「ごきげんよう、警部。報告書に押し潰されるには、まだ少し早い時間ではなくて?」

『お前は電話に出る時まで、その調子なのか』

「相手によりますわね。あなた相手ですもの」

 

 電話の向こうで、ペンドルトンが疲れた息を吐くのが聞こえた。

 

『旧修道院跡で回収した遺体の身元が出た』

 

 ゾーイの表情から、僅かに笑みが消える。

 

「お名前は」

『アラン・ウェストン。三十八歳。市内の保管資料整理会社で、臨時作業員として働いていた男だ』

 

 ゾーイは、その名前をすぐには繰り返さなかった。

 

 地下の闇。

 濡れた足音。

 寒い水を訴えながら、死んだ身体で歩かされていた男。

 

 あれには、名前があった。

 

 誰かに呼ばれ、誰かを呼び、生活をしていた頃の名前が。

 

「……アラン・ウェストン」

『ああ』

「信徒ではなく?」

『違う。教会関係者でも、怪しい集会に出入りしていた人間でもない。少なくとも、今のところはな』

「では、彼は」

『巻き込まれた可能性が高い。姿を消す前、閉鎖された教会系収蔵施設からの搬出作業に入っている。今朝、そちらから届いた解析記録と、作業員名簿の照会結果が繋がった』

 

 デイモンの目が、僅かに細くなる。

 

「彼が扱った品については?」

『まだ追えていない。勤務先の記録を取り寄せているところだ。だが、その前に、姉から生前の様子を聞く必要がある』

「お姉様がいらっしゃるのですのね」

『ああ。身元確認は済んだ。これから改めて話を聞きに行く』

「わたくしたちにも来い、と?」

『お前のところへ預けた金属片と関係がある以上、後から二度手間になるのは御免だ。来るなら同行を認める』

「まあ。随分と素直にお誘いくださるのね」

『誘っていない。必要な協力者を、監視の届くところへ置いておくだけだ』

「照れていらっしゃるの?」

『切るぞ』

「冗談ですわ」

 

 ゾーイは、淡く微笑んだ。

 

「警部。ご自身の具合は?」

『検査結果は異常なしだ。たいへん信用ならん言葉だがな』

「まあ。随分と慎重になりましたのね」

『水のない地下で化け物に溺れさせられかければ、多少は学習する』

「上出来ですわ」

『褒められると腹が立つな』

「では、今後も積極的に褒めて差し上げます」

『三十分後に署の正面だ。そこから姉の家へ向かう。遺体そのものを見せるつもりはない。もう十分見ただろう』

 

 ゾーイは一瞬だけ黙った。

 

 それから、静かに答える。

 

「ええ。もう、歩かされている姿を見れば十分ですわ」

 

 受話器を置く。

 

 応接室へ、短い沈黙が落ちた。

 

「デイモン」

「はい、お嬢様」

「外出支度を」

「すでに」

 

 デイモンは、いつの間に用意したのか、ゾーイの黒い外套を腕に掛けていた。

 

 メアリーが立ち上がろうとする。

 

「あなたは座って――」

 

 言いかけたゾーイの前で、メアリーは何も言わず、右肩を庇うようにゆっくりと立った。

 

「同行いたします」

「……却下しても、勝手についてくるお顔ですわね」

「お嬢様をお一人で、疲労困憊の警部様のもとへお送りするわけにはまいりませんので」

「警部の扱いが、少々雑ではなくて?」

「慎重を要する方ではございます」

「それは否定できませんわね」

 

 ゾーイは、メアリーの右肩へ一度だけ視線を向けた。

 

「道具鞄は持たせません」

「お嬢様にお持たせするわけには」

「デイモン」

「車両へ積載済みでございます」

 

 メアリーは小さく息を吐く。

 

「味方がございません」

「怪我人には、えてしてそういうものですわ」

 

 ゾーイは外套を受け取り、羽織った。

 

「参りましょう。名前を知った以上、知らないふりをする理由はございませんもの」

 

 *

 

 署の正面へ着いた頃には、空はさらに低く沈んでいた。

 

 今にも雨が落ちてきそうな雲が、街全体を薄暗い灰色へ染めている。

 

 側車付き自動二輪車が敷地脇へ停まる。

 メアリーが運転席から降りるより先に、ゾーイは側車から身軽に降り立った。

 

「お嬢様。足元を」

「この程度で転ぶほど不器用ではございませんわ」

 

 そう言いながら、ゾーイは車体後部へ手を伸ばしかけたメアリーより先に、道具鞄を持ち上げた。

 

 メアリーが目を瞬かせる。

 

「お嬢様」

「何ですの」

「そちらは、わたくしの役目でございます」

「今日は違いますわ」

「左様でございますか」

「左様です」

 

 そのやり取りを、署の入口脇に立っていたペンドルトンが見ていた。

 

「怪我人を連れてくるなとは言わんが、連れてくるなら働かせるな」

「あら。珍しく意見が一致いたしましたわね」

「珍しくは余計だ」

 

 ペンドルトンの後ろには、若い刑事が立っていた。

 

 顔色はまだ悪い。

 けれど、朝よりは立っている姿に力が戻っている。

 

 首元には、メアリーから預けられた銀鎖が、まだそのまま巻かれていた。

 

 若い刑事はメアリーを見ると、僅かに姿勢を正した。

 

「先日は……助けていただき、ありがとうございました。あの時、メアリーさんが来てくださらなければ、自分はどうなっていたか」

「ご無事で何よりでございます。水音はいかがですか」

「朝よりは遠くなりました。ただ、静かな場所にいると、まだ少しだけ」

「でしたら、銀鎖はそのままになさってくださいませ」

「ですが、これはお借りしたもので――」

「返却はまだだ」

 

 ペンドルトンが遮った。

 

「警部」

「事件は終わっていない。礼を伝えられたなら、今日はそれで十分だ。返すのは全部片付いてからにしろ」

「……分かりました」

 

 若い刑事は、銀鎖へ伸ばしかけていた手を下ろした。

 

 メアリーは、穏やかに頷く。

 

「その方がよろしいかと存じます」

「はい」

 

 ゾーイはその様子を一瞥したが、何も言わなかった。

 

 今は、からかうための時間ではない。

 

「行くぞ」

 

 ペンドルトンが車へ向かう。

 

「姉は、まだまともに眠れていない。余計な詮索はするな」

「心得ておりますわ」

「お前の場合、心得ているからこそ心配なんだ」

「失礼ですこと」

 

 ペンドルトンは振り返らずに言った。

 

「本人確認の後、こちらからもう一度話を聞きたいと連絡を入れている。弟の勤務先や、最近の様子について、何か思い出しているかもしれん」

「分かりましたわ」

 

 ゾーイの声から、先ほどまでの軽さが消える。

 

「話してくださるものを、きちんと受け取りましょう」

 

 *

 

 アラン・ウェストンの姉は、市の外れにある小さな集合住宅に住んでいた。

 

 名は、マーガレット・ウェストン。

 

 玄関を開けた彼女は、四十代半ばほどに見えた。

 だが、目の下に落ちた影のために、実際よりずっと疲れて見える。

 

「先ほどお電話した、ペンドルトンです。弟さんの件で、追加のお話を伺いに参りました」

「……はい」

 

 マーガレットの声は乾いていた。

 

 ペンドルトンが、ゾーイたちへ視線を向ける。

 

「こちらは、今回の事件で確認されている特殊な物品について、調査に協力いただいている方々です」

「ゾーイと申します。こちらはメアリー。突然のお訪ねをお許しくださいませ」

 

 ゾーイは、黒いドレスの裾を整えて淑やかに一礼した。

 

 マーガレットの視線が、小柄な令嬢と、その背後に控えるメアリーの右肩へ落ちる。

 

 疑問を抱いたのだろう。

 だが、彼女は何も尋ねなかった。

 

 弟の死について知らされた直後である。

 警察がどんな協力者を連れてきても、確かめるだけの気力が残っていないのかもしれない。

 

「どうぞ……狭いところですが」

 

 居間へ通される。

 

 部屋は簡素に整えられていた。

 棚の上には、写真立てが一つ置かれている。

 

 公園の芝生を背景に、姉弟らしい二人が並んで笑っている写真だった。

 

 そこに写る男は、山中で発見された遺体でも、旧修道院跡で見た濡れた影でもない。

 少し不器用そうな笑顔をした、ごく普通の男だった。

 

 ゾーイは、写真の前で足を止めた。

 

「弟さんですのね」

「はい。アランです」

 

 マーガレットは、写真立ての縁へ指先を触れた。

 

「昔から、あまり器用な子ではありませんでした。愛想が良いわけでもないし、要領も良い方ではなくて……でも、悪い子じゃないんです。本当に、ただ真面目で、不器用なだけで」

「ええ」

 

 ゾーイは静かに答えた。

 

「そのようなお顔をしていらっしゃいますわ」

 

 マーガレットの目元が、僅かに歪んだ。

 

 ペンドルトンは帽子を膝の上へ置き、手帳を開く。

 

「弟さんが姿を消す前、普段と違う様子はありませんでしたか」

「ありました」

 

 マーガレットは、両手を強く握り合わせた。

 

「最初は、仕事が大変なんだと思っていたんです。閉鎖された倉庫の整理で、古い物ばかり運ばされる。埃っぽいし、暗いし、割れ物も多いから気を遣うって」

「教会関係の収蔵施設での搬出作業ですね」

「はい。本人も、古い本や祭具、飾り物を梱包して運ぶだけだと言っていました」

 

 彼女は一度、息を整える。

 

「でも、最後の一週間くらいから、様子がおかしくなりました」

「どのように?」

「耳を気にするようになったんです。台所の水道を止めても、まだ水の音がすると言って。壁の中で波が鳴っているとか、夜になると部屋が潮臭いとか」

 

 若い刑事が、手帳へ書き留めていく。

 

 その指が、ほんの僅かに止まった。

 

「眠れてはいなかったのですね」

「ほとんど。少し眠っても、息が苦しいと言って飛び起きるんです。溺れる夢を見た、と」

 

 マーガレットは、膝の上の手へ視線を落とした。

 

「アランは、海が好きな人ではありませんでした。子どもの頃、家族で一度行ったくらいで。泳ぐのも得意ではなかったし、海の話なんて普段はしなかったのに」

「それが、仕事の後から変わった」

「はい」

 

 マーガレットは、唇を噛んだ。

 

「最後に会った時は、“返さなければ”と言っていました」

「返さなければ? 何を?」

 

 ペンドルトンが問い返す。

 

「分かりません。聞いても、答えてくれなかったんです。何を返すのか、どこへ返すのか。ずっと耳を押さえて、ただ……“ここへ置いてはいけない”って」

 

 ペンドルトンの目が鋭くなる。

 

「勤務先の同僚にも、似たことを言っていたそうです。“あれは海へ戻すべきものだった”“ここへ置いてはいけない”とも」

「……そう、ですか」

 

 マーガレットは俯いた。

 

「私には、何も話してくれなかったんだと思っていました。でも……言えなかったのかもしれません。何かを言おうとすると、急に顔色を変えて、黙ってしまって」

 

 部屋へ沈黙が落ちた。

 

 窓硝子が、吹きつけた風にかすかに鳴る。

 

 その小さな音に、若い刑事の喉がわずかに動いた。

 

 メアリーは何も言わず、彼の首元の銀鎖へ一瞬だけ視線を向けた。

 

「弟さんは、その作業について、何か記録を残してはいませんでしたか」

 

 ペンドルトンが尋ねた。

 

「写真でも、控えでも、会社から持ち帰った書類でも構いません」

「記録……」

 

 マーガレットが、そこで動きを止めた。

 

 何かを思い出したように、目を見開く。

 

「……封筒」

「封筒?」

 

 ペンドルトンが聞き返す。

 

 マーガレットは立ち上がり、棚の下にある小さな引き出しへ向かった。

 

 震える指で中を探り、一通の白い封筒を取り出す。

 

 表面には、少し乱れた字で、マーガレットの名が書かれていた。

 

「いなくなる三日前です」

 

 封筒を両手で握ったまま、彼女は言った。

 

「アランが、これを預けに来たんです。“もし自分に何かあったら、警察へ渡してほしい”って。その時は、仕事で疲れているだけだと思って、引き出しにしまってしまって……」

 

 声が震える。

 

「今日、弟だと確認した後で家へ戻って、この引き出しを見た時、急に思い出したんです。ちょうど警部さんから、改めてお話を伺いたいとお電話をいただいたので、その時にお渡ししようと……」

 

 封筒を握る指へ、涙が落ちた。

 

「もっと早く思い出していれば……もっとちゃんと、あの子の話を聞いていれば……」

 

 ゾーイは、すぐには言葉を返さなかった。

 

 アランは戻らない。

 マーガレットがどれほど悔やんでも、彼が苦しんだ時間を消すことはできない。

 

 だから、綺麗な慰めだけで覆うつもりはなかった。

 

「あなたが悔やまれることを、わたくしが勝手に無かったことにはできませんわ」

 

 マーガレットが、涙の溜まった目で彼女を見る。

 

「けれど、弟君が苦しまれたことまで、ご自身の責任になさる必要はございません」

 

 ゾーイは、写真立てへ視線を向けた。

 

「少なくとも、弟君は悪事に手を染めた方ではございませんわ」

 

 マーガレットの唇が、かすかに震える。

 

「……本当、ですか」

 

 ペンドルトンが、低く、はっきりと答えた。

 

「弟さんを犯罪者として扱うつもりはありません。現時点では、仕事を通じて危険な品に関わり、事件へ巻き込まれた被害者として捜査しています」

「被害者……」

「誰がその品を持ち出したのか。誰が弟さんを巻き込んだのか。こちらで調べます」

 

 マーガレットは、封筒を握ったまま俯いた。

 

「お願いします……あの子が、何を怖がっていたのか。どうしてあんなことになったのか、調べてください」

「お預かりします」

 

 ペンドルトンは手袋をはめ、封筒を受け取った。

 

 ゾーイは、写真の中のアランへ小さく一礼する。

 

「ええ。きちんと、辿りますわ」

 

 *

 

 封筒の確認は、署へ戻ってから行われた。

 

 窓の外には、すでに夕暮れの色が薄く沈み始めている。

 

 証拠として受領した以上、ペンドルトンは手順を省かなかった。

 

 記録室の机には、受領日時を記した書類と、証拠袋、複製用の端末が並んでいる。

 若い刑事が封筒の外観を記録し、ペンドルトンが封を開く。

 

 ゾーイとメアリーは、机の向かい側へ座っていた。

 

 メアリーの右肩には、屋敷を出る前よりも外套が深く掛けられている。

 冷えた室内で傷を痛ませないためなのだろう。

 

 ゾーイは、何も言わずに自分の椅子を少し横へ寄せ、暖房器具に近い側をメアリーへ空けた。

 

 メアリーが、僅かに目を細める。

 

「何ですの」

「いえ。何も申し上げておりません」

「なら、その嬉しそうな顔をおやめなさい」

「畏れ入ります」

 

 ペンドルトンが、封筒の中身を机へ出した。

 

 折り畳まれた便箋が二枚。

 小型の記憶媒体が一つ。

 それから、粗い印刷の写真が数枚。

 

「写真から見るぞ」

 

 ペンドルトンが、一枚目を机へ置く。

 

 暗い保管棚を写したものだった。

 画面の端に、白い札で「C-7」と記された棚番号が見える。

 

 棚の上には、小さな木箱が三つ並んでいた。

 箱の継ぎ目には、乾いた青黒い蝋が付着している。

 

 二枚目には、薄い金属片の束。

 波のような意匠があり、中央付近だけが不自然に削られている。

 

 若い刑事が息を呑んだ。

 

「旧修道院跡で回収したものと……」

「同系統でしょうね」

 

 メアリーが静かに答える。

 

「刻印の削れ方も、蝋の色も近い。現物照合なしに断言はできませんが、無関係とは考えにくいでしょう」

 

 三枚目は、古びた紙束だった。

 

 表紙はほとんど崩れている。

 ただ、拡大すれば、掠れた文字の一部が読み取れた。

 

 海へ還る祈り。

 

 ゾーイの目が、冷たく細められる。

 

「……随分と趣味の悪い題名ですこと」

 

 最後の写真を、ペンドルトンが机へ置いた。

 

 大きな鏡だった。

 

 全体を黒い布で覆われ、木枠の一部だけが写っている。

 布の端には、細い銀糸のようなものが縫い込まれていた。

 

 メアリーが僅かに身を乗り出す。

 

「封じるための布……いえ。この写真の時点で、処置が一部崩れておりますね」

「分かるのか」

「少なくとも、単なる保護布ではございません。ですが、外縁の縫い目が切られております。これでは、本来の役割を十分には果たせないでしょう」

「誰かが外したのか」

「あるいは、外しやすいよう手を加えたのかと」

 

 ゾーイは、写真の黒布を見つめる。

 

「鏡というものは、映すだけで厄介ですのに。わざわざ蓋を緩めて、人前へ出せる形に整えた方がいらっしゃるということですわね」

 

 ペンドルトンは、便箋を開いた。

 

 そこに書かれていた文字は、前半だけは整っていた。

 後半になるにつれ、文字は大きく乱れ、紙へ食い込むほど筆圧が強くなっている。

 

 彼は、必要な部分だけを声に出した。

 

「“棚七番の品を動かしてから、音が止まらない”」

 

 記録室の空気が、僅かに重くなる。

 

「“青黒い蝋の付いた箱。削られた番号の札。海へ還る、と書かれた古い紙。どれも、普通の展示資料ではない”」

 

 若い刑事の指が、手帳の上で止まった。

 

「“黒い布の鏡は見ない方がいい。布を掛けたままでも、こちらを見ている気がする”」

 

 ペンドルトンは、一度だけ息を吐いた。

 

「“鏡だけは、展示へ回してはいけない”」

 

 文字は、その下で大きく崩れていた。

 

 俺が聞いている音は、海へ戻れと言っている。

 でも、戻るべきなのは俺ではない。

 あれを、ここへ置いてはいけない。

 人のいるところへ持っていってはいけない。

 

 マーガレットの居間で見た、写真の中の男。

 あの不器用そうな笑顔と、この乱れた文字が、どうしても一つに重ならない。

 

 ゾーイは、静かに便箋を見つめていた。

 

「最後まで、抗っていらしたのですね」

 

 若い刑事が顔を上げる。

 

「抗っていた?」

「ええ」

 

 ゾーイの声は、落ち着いていた。

 

「完全に呑まれていたのであれば、自分が海へ帰るべきだと信じて、そのまま歩いていたでしょう。けれど、この方は違う」

 

 黒布の鏡が写った写真へ、視線を落とす。

 

「人のいる場所へ運んではいけない。そのことを、最後まで誰かへ伝えようとなさった」

 

 ペンドルトンは、便箋を証拠袋へ戻した。

 

「表の記録には、危険物の不正管理に巻き込まれた被害者として残す」

「表の、ですのね」

「全部をそのまま書いて、誰にも読まれず棚の奥へ押し込まれたら意味がない。だが、何をされたのかまで消す気もない」

 

 ペンドルトンは、仮管理番号だけが記されていた書類を引き寄せる。

 

 その上部へ、ペンで名前を書き込んだ。

 

 アラン・ウェストン。

 

「別の記録には残す。こいつが何に触れ、何に巻き込まれ、誰に利用されたのか。消させるつもりはない」

 

 ゾーイは、その文字を見つめた。

 

 それから、ほんの僅かに目を細める。

 

「ええ。それでよろしいですわ」

 

 名前のない遺体。

 番号だけで管理される肉体。

 事件の異常さへ押し流され、誰だったのかさえ埋もれかけていた死者。

 

 そこに、ようやく名前が戻った。

 

 それだけで救われるわけではない。

 死者が帰ってくるわけでも、苦しみが消えるわけでもない。

 

 けれど、奪われたままにはしない。

 

 それは、生きている者にできる、最低限の礼儀だった。

 

「警部」

 

 若い刑事が、控えめに声を掛けた。

 

「記憶媒体の方は」

「ああ。原本はこのまま保全する。内容確認は複製を取ってからだ」

「はい」

 

 若い刑事は記憶媒体を専用端末へ読み込ませ、複製処理を行う。

 

 短い待機音の後、端末の表示が切り替わった。

 

「複製、完了しました」

「中身は?」

「画像記録、閲覧履歴、それから音声記録が一件あります」

「画像は先ほどの印刷と同じか」

「はい。元データのようです。閲覧履歴には……地方伝承の記事、古い祈祷文の転載、旧修道院跡に関する記録があります」

「見せろ」

 

 画面へ、アランが最後に見ていたページの履歴が並ぶ。

 

 海へ還る祈り。

 沿岸地方に残る溺死者供養の伝承。

 忘れられた礼拝所。

 水のない場所で聞こえる波音。

 旧修道院跡を心霊スポットとして紹介する匿名の記事。

 

「これを、彼が探していたのですの?」

 

 ゾーイが問う。

 

「時系列を見る限り、症状が出た後に調べ始めています。仕事で見た文言や印に心当たりを探していたのか、聞こえていた音に導かれたのかまでは分かりません」

 

 若い刑事が答える。

 

 ペンドルトンは、閲覧履歴の一件へ目を止めた。

 

「匿名の記事から、旧修道院跡へ辿り着ける情報が出ている」

「なら、あの方は自ら危険へ踏み込んだというより、答えを求めて辿った先で、あの場所へ引かれた可能性もございますわね」

 

 ゾーイの声は、いつもより低かった。

 

「記事を書いた者が意図して誘導したのか、残っていた情報が利用されたのかは、まだ分かりません」

「そこを調べるためにも、元の収蔵施設の記録が要る」

 

 ペンドルトンが、画面を閉じる。

 

「品を外へ出した記録と、誰がその情報へ触れられたのか。次に洗うのはそこだ」

 

 メアリーが静かに頷いた。

 

「ええ。今ここで推測だけを積み上げるより、削られた元記録を探す方が確実でございます」

 

「音声を再生します」

 

 若い刑事が言った。

 

 ペンドルトンは頷く。

 

「一度だけだ」

 

 端末から、微かな雑音が流れる。

 

 しばらくして、男の呼吸音が聞こえた。

 

『記録。……何日目だったか、分からない。眠れない。水道を止めても、部屋の中で水の音がする』

 

 声は、酷く疲れていた。

 

『会社には言った。棚七番の品は変だと。でも、古い物にはよくある汚れだ、気にしすぎだと言われた』

 

 短い沈黙。

 

『違う。あれは汚れじゃない。箱に付いた蝋も、札の削れた跡も、紙に書いてあった言葉も……全部、何かを隠すためのものだ』

 

 若い刑事が、唇を固く結ぶ。

 

『黒い布の鏡を、少し見た』

 

 音声の奥へ、ざあ、とノイズが混じった。

 

 波音のようにも聞こえる。

 

『鏡の中には、俺が映っていなかった。水があった。暗い水の中で、誰かがこっちを見ていた』

 

 メアリーの金色の目が、僅かに開く。

 

『海へ戻せ、と聞こえる。ずっと聞こえる。でも、違う。俺じゃない。俺が戻るんじゃない。あれを、戻さなければならない。ここに置いてはいけない。人のいるところに、出してはいけない』

 

 そこで、声が途切れた。

 

 無音の後に、細い水音が一度だけ響く。

 

 再生は終わった。

 

 誰も、すぐには口を開かなかった。

 

 記録室の蛍光灯が、微かに明滅する。

 

 若い刑事の銀鎖が、かすかに熱を持ったのか、彼は反射的に首元へ手を上げかけた。

 

「触らないでくださいませ」

 

 メアリーの声に、手が止まる。

 

「……すみません」

「いいえ。よく止められました」

 

 メアリーは端末へ視線を向けた。

 

「警部様。この音声には、まだ弱い残響が残っています。現時点で新たな接続を成立させるほどではございませんが、繰り返し再生するべきものではありません」

「おい、証拠としては保存する。だが聞く回数は絞る。分かったな」

「はい」

 

 若い刑事は端末を操作し、複製データへ再生制限の記録を付した。

 

 ペンドルトンは、机上へ広げた写真と便箋を見下ろした。

 

「棚七番の搬出一覧を出せるか」

「すでに照会の返答が届いています。少々お待ちください」

 

 若い刑事が別の資料束を開く。

 

「区画C、保管棚七番。搬出対象は、封蝋小箱三点、金属製札片複数、民俗資料束一式、大型反射媒体一点」

「小箱と札片は」

「移送先記録が途中で切れています。旧修道院跡で確認された品と同一かどうかは、元の収蔵記録を確認しなければ断定できません」

「資料束は」

「別保管の記録があります。ただし、内容一覧が欠落しています」

「鏡は?」

 

 若い刑事の指が、紙面の上で止まった。

 

「大型反射媒体……展示用仮移送」

「回収は」

「確認されていません」

 

 記録室へ、静かな緊張が落ちる。

 

「詳しく読みなさいませ」

 

 ゾーイが言った。

 

 若い刑事は頷き、紙面の記載を読み上げる。

 

「反射媒体。大型鏡。黒布保護。展示用仮移送。回収未了」

 

 ペンドルトンの顔が険しくなる。

 

「仮移送先は」

「近日開催予定の、慈善骨董展示会です」

 

 ゾーイの目が、細く冷えた。

 

「人のいる場所へ持っていってはいけない、と。アラン・ウェストンは、そう残していたのではなくて?」

「ああ」

 

 ペンドルトンは、低く答えた。

 

「そして、誰かはそれを人の目に触れる場所へ回した」

 

 メアリーが、黒布の鏡を写した写真へ視線を落とす。

 

「偶然の取り違えであるなら、随分と都合の良い偶然でございますね」

「元の収蔵施設を確認する。誰が、どの記録を見て、どの品を外へ出したのか。原簿と管理区分が要る」

「今夜のうちに参りますの?」

 

 ゾーイの問いに、ペンドルトンはすぐには答えなかった。

 

 壁の時計は、すでに通常の勤務時間を過ぎている。

 

 彼は若い刑事へ視線を向けた。

 

「収蔵施設の管理担当へ連絡を入れろ。今夜、正式に立ち入りできるか確認しろ」

「はい」

 

 若い刑事が端末を取り上げ、記録室の隅へ移る。

 

 ペンドルトンは腕を組んだまま、沈黙していた。

 ゾーイは机の上の写真へ目を落としたまま、指先で黒い手袋の縁を撫でている。

 

 メアリーだけが、鏡の写真に映った布の端を、じっと見つめていた。

 

 やがて、若い刑事が受話器を置いて戻ってきた。

 

「警部。管理会社の緊急連絡先には繋がりました。ただ、施設鍵と残存原簿を扱える担当者が、今から現地へ出ることは難しいと。正式な立ち入り対応は、明朝が最短です」

「夜間の立入り許可は」

「現時点で表に出せる理由は、搬出記録の不備と、危険物の誤移送の可能性です。即時の強制立入りを通すには、まだ根拠が足りません」

「……そうだろうな」

 

 ペンドルトンは、低く息を吐いた。

 

「まあ。扉の一枚や二枚、開けるだけなら簡単ですのに」

 

 ゾーイが、何気ない調子で言った。

 

「却下だ」

「まだ何も申し上げておりませんわ」

「言う前に却下している。私は警察官だ。気に入らない場所へ入るたびに法を投げ捨てていたら、こちらまで化け物の仲間入りだ」

 

 ゾーイは、ほんの一瞬だけ沈黙した。

 

 それから、小さく笑う。

 

「……そういうところですわね」

「褒めるな。気味が悪い」

「褒められ慣れていらっしゃらないのね」

「お前の褒め方に慣れたいとは思わん」

 

 ペンドルトンは、大型鏡の搬出記録を机の上へ戻した。

 

「展示会側へは、今夜のうちに保全要請を入れる。管理番号が欠けている以上、対象を完全には特定できんが、黒布の掛かった大型鏡に該当する品について、移動も開梱も止めさせる」

「黒布を外すことも、でございますね」

 

 メアリーが確認する。

 

「ああ。理由は、搬出記録に不備があり、証拠保全の対象となる可能性があるためだ。それで通す。おい」

「わかりました」

 

 若い刑事が、すぐに電話へ手を伸ばした。

 

 数分の間、記録室には、彼が相手先へ要件を伝える声だけが続いた。

 

「はい。大型の反射媒体です。黒布保護の記載があるもの。……いえ、管理番号については、元記録の照合が必要で……はい。移動、開梱、布の解除、それから公開準備について、明朝の再照会まで停止をお願いします」

 

 やがて若い刑事は、受話口を押さえた。

 

「警部。展示会側の管理担当からです。該当する可能性のある大型鏡は、明日の内覧準備用の品として搬入されている可能性があるそうです。ただ、現時点では梱包扱いのままで、今夜中に開梱や展示作業を行う予定はないと」

「可能性、ですって?」

 

 ゾーイの声音が、僅かに冷えた。

 

「会場側の受領記録と、こちらの搬出記録で管理番号が一致しないため、現時点ではどの品が対象か断定できないとのことです」

「消した番号が、ここで効いてくるというわけですのね」

 

 メアリーは、写真の中の鏡へ目を落とした。

 

「今夜動かす予定がないというだけでは、十分ではございません。明日の準備が始まれば、管理対象外と判断された品は動かされます」

「だから明朝一番で、元の収蔵施設に入る」

 

 ペンドルトンは言った。

 

「本来の管理番号と保管区分を確認し、展示会側へ正式に差止めを掛ける。それまで暫定保全を徹底させろ」

「はい」

 

 若い刑事は、再び受話器へ向き直った。

 

「それから」

 

 ペンドルトンの声が続く。

 

 ゾーイは、嫌な予感を察したように眉を上げた。

 

「お前たちは、今夜勝手に動くな」

「まあ。随分と信用がございませんのね」

「あるから言っている。お前なら、夜のうちに収蔵施設へ入りかねん」

「失礼ですこと。わたくしは、必要もなく扉を壊して回る趣味はございませんわ」

「必要だと思えば壊す、という意味だろうが」

 

 ゾーイは、否定しなかった。

 

 ただ、上品に微笑んだだけだった。

 

「明日の朝、屋敷へ寄る。メアリーも含めて、私の監督下で現場へ来い。一般の管理担当がいる場所で、勝手なことをされては困る」

「迎えにいらしてくださるの?」

「同行させると言っている。送迎ではない」

「同じ車に乗せてくださるのであれば、大差ないように思えますけれど」

「大違いだ」

 

 メアリーが、静かに頭を下げる。

 

「承知いたしました。明朝、お待ちしております」

「メアリーは話が早くて助かる」

「お嬢様は、話を華やかにしてくださいますので」

「あなたまで、何を仰っておりますの」

 

 ゾーイは、僅かに頬を膨らませた後、机の上に置かれた黒布の鏡の写真へ視線を戻した。

 

「……一晩、素直に眠ったふりをしていてくださればよろしいのですけれど」

「縁起でもないことを言うな」

「縁起で済む事件でしたら、どれほど楽だったでしょうね」

 

 若い刑事が受話器を置いた。

 

「暫定保全の要請は受理されました。今夜中に該当品へ手を触れる予定はないとのことです。明朝、管理番号の確認が取れ次第、正式な停止手続きへ切り替えると」

「よし。お前は今夜、展示会側と管理担当への連絡記録をまとめろ。何か動きがあれば、すぐ私へ回せ」

「はい」

 

 ペンドルトンは帽子を手に取りかけ、ふと止めた。

 

「それと、お前も今夜は無理をするな。銀鎖は外すなよ」

「……はい」

 

 若い刑事は、首元に手を伸ばしかけて、今度は触れずに頷いた。

 

 ゾーイは、机の上に残されたアランの写真へ目を落とした。

 

 公園の芝生で、姉と並んで笑っていたアラン・ウェストン。

 

 彼は、怪異を生んだ男ではない。

 誰かを害するために、危険な品へ手を伸ばした男でもない。

 

 ただ、何かに触れさせられ、何かを見てしまい、それでも最後まで止めようとした人間だった。

 

「アラン・ウェストン」

 

 ゾーイは、その名を静かに口にした。

 

「あなたが残した警告は、受け取りましたわ」

 

 返事はない。

 

 だが、その名はもう、身元不明遺体の管理番号の下へ埋もれてはいない。

 

 便箋の文字も。

 掠れた声も。

 黒布の鏡を人前へ出してはならないという警告も。

 

 すべてが、彼の名前と共に記録へ戻った。

 

 窓の外では、細い雨が夜の街路を濡らしていた。

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