悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

14 / 18
第十四話「消された保管庫」

 朝から空は曇っていた。

 

 雨はまだ落ちていない。

 だが、雲は低く、街並みの屋根を押し潰すように重たく垂れ込めている。

 

 ペンドルトンは署の玄関脇で煙草を取り出しかけ、結局、火を点けずに箱へ戻した。

 

 あの地下を出てから喉の奥に残っている塩気が、煙まで不味くしそうだった。

 

「警部」

 

 背後から呼ばれ、ペンドルトンは振り返る。

 

 若い刑事が、資料の束を抱えて立っていた。

 顔色は昨日よりましになっているが、首元にはまだ細い銀鎖が巻かれている。

 

「展示会側への保全要請、今朝も再送しました。対象品の移動、開梱、展示準備の停止を要請済みです」

「返答は」

「事務局からは受領確認のみです。現場担当者への伝達状況は確認中とのことで」

「確認中、か」

 

 ペンドルトンは眉間を押さえた。

 

「嫌な言葉だな。何かが起きた後で、皆が揃って使う」

「すみません」

「お前が謝ることじゃない。旧収蔵施設の方は」

「管理担当とのアポイントは取れています。現地責任者はハリスという男性です。廃止区画を含めた書庫整理の管理を任されているそうです」

「C区画については?」

「電話では、現行図面上に該当する区画はないと言っていました。ただ、過去の移管資料には欠番があるそうです」

「欠番ね」

 

 昨夜、アラン・ウェストンの残した写真に写っていた棚札。

 

 C-7。

 

 青黒い蝋の付着した小箱。

 削られた管理印を持つ金属片。

 海へ還る祈りと題された紙束。

 黒布を掛けられた大型の鏡。

 

 その棚そのものが、現行の記録から消えている。

 

「お前はここに残れ」

 

 ペンドルトンが言った。

 

 若い刑事は、わずかに表情を曇らせる。

 

「同行しなくてよろしいのですか」

「水音は」

「……まだ、静かな場所では少し」

「なら駄目だ。旧収蔵施設に何が残っているか分からん。首輪を借りたままの奴を、わざわざ危ない場所へ連れていく気はない」

「首輪ではありません」

「似たようなものだろう」

「メアリーさんに聞かれたら、怒られませんか」

「怒るなら、あの女じゃなくて持ち主の方だろうな」

 

 若い刑事は、銀鎖へ伸ばしかけた指を止めた。

 

「……分かりました。こちらで展示会側と搬出一覧の確認を続けます」

「何か出たらすぐ連絡しろ。鏡だけじゃない。C区画から出されたものは全部だ」

「全部、ですか」

「ああ」

 

 ペンドルトンは、昨日の黒布の写真を思い出す。

 

「一つであれなら、他が安全だと考える理由はない」

 

     *

 

 公用車が屋敷の門前へ着くと、ゾーイはすでに玄関前で待っていた。

 

 黒い外套。

 黒い手袋。

 足元に置かれた、小ぶりな道具鞄。

 

 その隣には、右肩を外套で深く覆ったメアリーが控えている。

 

「ごきげんよう、警部。朝から随分と不景気なお顔ですこと」

「お前の顔を見れば、もっと不景気になる」

「まあ。わたくしほど目に優しい令嬢を捕まえて」

「中身が問題なんだ」

「外見を褒めていただけるとは、恐縮ですわね」

「褒めていない」

 

 ゾーイは満足そうに微笑み、後部座席へ乗り込んだ。

 

 メアリーが続こうとすると、ペンドルトンは彼女の右肩を一度見た。

 

「本当に来るのか」

「現場確認に必要でございますので」

「怪我人を働かせる趣味はない」

「わたくしも、怪我を理由にお嬢様を危険な収蔵庫へお一人で送り出す趣味はございません」

「警部。諦めなさい。こういう時のメアリーは、わたくしより頑固ですの」

「お前が言うな」

 

 メアリーが乗り込もうとしたところで、ゾーイが先に道具鞄を引き寄せた。

 

「お嬢様」

「本日はわたくしが持ちます」

「ですが」

「本日は、わたくしが持ちます」

 

 同じ言葉を、今度は少しだけ低く繰り返す。

 

 メアリーは一瞬だけ黙り、それから穏やかに頭を下げた。

 

「では、お預けいたします」

「最初からそうなさい」

 

 ペンドルトンは運転席で息を吐いた。

 

「出発するぞ。先に言っておくが、現場で勝手に動くな」

「あら。わたくしへ忠告とは、ずいぶん勇敢になられましたのね」

「お前相手には、何度でも言う必要がある」

「聞くかどうかは、状況次第ですわ」

「そこを直せと言っている」

 

 車が門前を離れる。

 

 曇天の下、古い屋敷の影がゆっくりと後方へ遠ざかっていった。

 

     *

 

 旧収蔵施設は、市街地の外れにあった。

 

 元は教会に付属した保管建屋だったのだろう。

 灰色の石壁と細い窓を持つ、二階建ての古い建物である。

 

 ただし、入口脇には新しい電子錠が取り付けられ、壁際には整理業務用の搬出コンテナがいくつも積まれていた。

 

 古いものを片付けるために、新しい道具だけが付け足された建物。

 

 ゾーイは車から降りると、建物を見上げて目を細めた。

 

「随分と、鈍い匂いがいたしますわね」

「潮の臭いか」

 

 ペンドルトンが小声で問う。

 

「いいえ。それだけなら、まだ話が簡単でしたでしょうね」

 

 ゾーイは、それ以上答えなかった。

 

 入口の扉が開き、眼鏡を掛けた中年の男性が慌ただしく出てくる。

 

「ペンドルトン警部ですね。ハリスです。こちらの整理事業の現地管理を担当しています」

「朝早くからすまない」

「いえ……こちらも、昨日の作業員の件を聞きまして。アランさんが、亡くなったというのは」

「ああ。確認された」

「そうですか……」

 

 ハリスは視線を落とした。

 

「真面目な方でした。臨時の作業員でしたが、古い品を乱雑に扱うこともなくて。多少、神経質なところはありましたが」

「神経質?」

「最後の数日です。棚の数が合わない、記録にない通路がある、搬出してはいけない品が混じっているのではないか、と」

 

 ペンドルトンの目が鋭くなる。

 

「その話を聞いたのか」

「はい。ただ、あの建物は増改築と閉鎖を何度も繰り返しています。図面と現物が一致しないのは珍しくありません。それに、搬出品はすべて登録済みの宗教資料や古物だと聞かされていましたので」

 

 ハリスは苦しそうに唇を噛む。

 

「もっと真面目に聞いておくべきだったのかもしれません」

「それを調べに来た」

 

 ペンドルトンは証明書類を見せた。

 

「正式な立入り確認だ。対象は保管区画、搬出台帳、廃止図面、移送記録一式。こちらの二人は、危険物及び宗教資料の外部協力者として同行する」

「こちらの……お嬢さんも、ですか」

 

 ハリスの視線が、ゾーイへ向く。

 

 ゾーイは優雅に一礼した。

 

「ええ。古い品には、時折、取り扱いの面倒なものがございますでしょう? わたくし、そういうものを見る仕事をしておりますの」

「はあ……」

 

 どうにも腑に落ちない顔ではあったが、ハリスは警察の正式書類を前に反論はしなかった。

 

「では、まず表側の保管区画をご案内します。問題になっているC区画というものについても、こちらで確認したのですが……正直に申し上げて、現行資料には存在しません」

「現行資料には、か」

 

 ペンドルトンが言う。

 

「古い原簿は」

「地下資料室にあります。ただ、廃止された保管区画の資料は欠落が多くて。整理対象の一部には、所在欄そのものが削られたものもあります」

「削られた?」

「黒塗りではありません。本当に、紙面から削り取られています」

 

 ゾーイの笑みが、僅かに薄くなった。

 

「まあ。随分と丁寧なお片付けですこと」

 

     *

 

 表側の保管区画は、拍子抜けするほど普通だった。

 

 宗教画。

 壊れた燭台。

 使われなくなった祭具。

 古い典礼書。

 額縁。

 地域の教会から集められた寄贈品。

 

 どれも埃を被り、価値のある美術品というより、処分の順番を待つ古道具に見える。

 

「搬出作業は、ここから始めたのか」

 

 ペンドルトンが訊く。

 

「はい。上階とこの区画は、既にほぼ終了しています。アランさんが担当したのは、主に奥の保管列と地下資料の運搬補助でした」

「棚七番は」

「こちらです」

 

 ハリスが案内したのは、奥の壁際にある棚列だった。

 

 白い札には、A-1からB-12までが並んでいる。

 

 Cはない。

 

「見ての通りです。作業開始時の一覧にも、C区画はありません」

「だが、アランが撮った写真にはC-7の棚があった」

「私も写真を見せられて驚きました。加工されたものでなければ、この建物のどこかに存在したはずです。ですが、図面では……」

 

 ハリスが古い複写図面を机へ広げる。

 

 建物の表側。

 地下資料室。

 裏口へ通じる搬出路。

 

 それだけだ。

 

 メアリーが図面の一部へ視線を落とした。

 

「こちらの地下壁面、厚みが不自然でございますね」

「厚み?」

 

 ハリスが首を傾げる。

 

「地下資料室の奥です。外壁までの間隔に対して、室内寸法が合っておりません」

「古い建物ですから、補強壁では」

「その可能性もございます」

 

 メアリーは穏やかに微笑んだ。

 

「ですので、確認が必要かと」

 

 ハリスが図面を持ったまま、困ったようにペンドルトンを見る。

 

 ペンドルトンは短く頷いた。

 

「地下を見せてくれ」

 

     *

 

 地下資料室へ降りる階段は、狭く、乾いた埃の臭いがした。

 

 旧修道院跡の地下で嗅いだような潮の匂いはない。

 

 だが、ゾーイは一段降りるごとに、表情を冷たくしていった。

 

「何かありますか」

 

 ハリスが不安げに尋ねる。

 

「古い建物は、空気が重いものですわ」

「そういうものですか」

「ええ。とくに、長い間、誰かが見つからないようにしていた場所は」

 

 ペンドルトンが咳払いをした。

 

「ゾーイ」

「一般論ですわ、警部」

 

 地下資料室の奥には、壁一面に資料棚が置かれていた。

 

 台帳。

 搬出伝票。

 寄贈品記録。

 古い写真台帳。

 閉鎖された教会施設から集められた物品一覧。

 

 棚の一部には近年の整理番号が振られているが、奥へ行くほど管理が乱れている。

 

 ハリスは一冊の厚い原簿を取り出した。

 

「こちらが、搬出の基礎資料です。ただし、一部は書き直された後のものしか残っていません」

「書き直したのは誰だ」

「本部の資料管理担当だと聞いています。現場へ渡された時には、既にこの状態でした」

 

 ペンドルトンが手袋をはめ、頁をめくる。

 

 典礼用燭台。

 破損聖像。

 古鏡。

 民俗資料束。

 装飾小箱。

 金属札片。

 個人寄贈品。

 美術的価値不明の雑品。

 

「ずいぶん曖昧な分類だな」

「処分や寄贈のための再分類だと説明を受けています。宗教的価値の乏しいものは、展示会や資料館、骨董業者への譲渡へ回す方針で」

「宗教的価値の乏しいもの、ですのね」

 

 ゾーイが、一枚の頁を覗き込む。

 

「古い鏡も。封蝋された箱も。刻印を削られた札も」

「……何か問題が?」

「いえ。随分と、見た目だけでお値段を決めたのだと思いまして」

 

 ハリスは返答に詰まった。

 

 その時、メアリーが壁際の棚の前で足を止めた。

 

「警部様」

「何だ」

「この棚、動かされた跡がございます」

 

 床へ薄く積もった埃の中に、棚の脚が擦れた線が残っている。

 

 ハリスが近づこうとすると、ペンドルトンが手で制した。

 

「そこから先は、危険物確認としてこちらで見る。あんたは一度、地上へ戻ってくれ」

「しかし、こちらの管理責任が」

「だからこそだ。何が出るか分からない場所で、管理担当者を巻き込みたくない。必要なら後で立ち会ってもらう」

「ですが」

「ハリスさん」

 

 ペンドルトンの声は荒くなかった。

 

「アラン・ウェストンは、ここで何かに触れた可能性がある。あんたまで同じことになったら、こちらは捜査どころではなくなる」

「……分かりました」

 

 ハリスは、唇を引き結んで頷いた。

 

「地上で待ちます。必要な記録があれば、すぐ持ってきます」

「頼む」

 

 階段を上る足音が遠ざかる。

 

 扉の閉まる音がした。

 

 ペンドルトンは数秒待ってから、ゾーイへ目を向けた。

 

「さて。これで好きに見られるぞ。ただし、建物を壊すな」

「先に仰ることがそれですの?」

「お前ならやりかねん」

「心外ですわ。わたくしは、必要がない限り建物には礼儀正しくしておりますのに」

「必要があれば壊すんだな」

「当然でしょう?」

 

 メアリーは棚の側面へ手袋越しに指を沿わせた。

 

「お嬢様。目隠しの処置が残っております」

「ずいぶん古いものですわね」

「はい。ですが、完全には失われておりません。知らない者が見れば、ただの壁として処理する程度には」

「アラン・ウェストンは、気づいてしまった」

「おそらくは。あるいは、誰かが先に開けた後の歪みを見つけたのかと」

 

 ゾーイは棚の前へ進んだ。

 

 黒い手袋の指先が、床へ落ちる影に触れる。

 

 影が細く伸びた。

 

 棚の脚の下を潜り、壁際の隙間へ滑り込む。

 

 かちり。

 

 古い金具の外れる音がした。

 

 棚の奥で、壁の一部がゆっくりと沈む。

 

 乾いた空気が、細い隙間から漏れ出した。

 

「……隠し扉か」

 

 ペンドルトンが呟く。

 

「隠したというより、忘れさせようとしたのでしょうね」

 

 ゾーイは、開いた暗がりを見つめた。

 

「ですが、忘れられたからといって、無くなるわけではございませんわ」

 

     *

 

 隠し扉の先には、さらに下へ降りる短い階段があった。

 

 照明はない。

 メアリーが小型のランタンを灯し、先頭のゾーイの肩越しへ光を送る。

 

 階段を降りきった先には、細長い保管室が広がっていた。

 

 壁も床も、表側の地下室より古い。

 

 棚は鉄製で、ひとつひとつに細い金属札が取り付けられている。

 

 だが、そのほとんどが空だった。

 

 棚には品物の代わりに、切り裂かれた布片と、乾いた蝋の欠片と、削り取られた札だけが残っている。

 

 メアリーが、一枚の布片を拾い上げた。

 

「封印布でございます」

「鏡に掛けられていたものと同じか」

「用途は近いでしょう。ですが、対象は鏡だけではありません」

 

 別の棚には、細長い箱を包んでいたらしい布。

 別の棚には、小瓶を固定していた窪み。

 別の棚には、何か円形の品を吊っていた金具。

 別の棚には、書物が積まれていた痕跡。

 

 いずれも、品物は消えている。

 

 ゾーイは一番近い棚の札へ顔を寄せた。

 

「C-7」

「アランの写真にあった棚だな」

 

 ペンドルトンが言う。

 

 棚の中央には、木箱三点分の四角い埃跡が残っている。

 その隣には、薄い金属片を束ねていた金具。

 下段には、紙束が置かれていたらしい細い粉塵。

 最下段には、大型の物を支えていた木枠の圧痕。

 

「鏡もここから出た」

「ええ。海の祈りも、錨に使われた札片も」

 

 メアリーが棚奥へランタンを向ける。

 

 そこには、剥がし残された小さな管理札が貼りついていた。

 

 表面は削られている。

 だが、削りが浅かった端の一部に、波のような意匠が残っていた。

 

「旧修道院で回収した金属片と同分類でしょうね」

「なら、アランが触れたものは、ここから運び出された海関係の品だった」

 

 ペンドルトンは低く言った。

 

「それだけではございませんわ」

 

 ゾーイの声が、保管室の奥から返ってきた。

 

 彼女は別の棚の前に立っていた。

 

 その棚札は、Cではない。

 

 D。

 E。

 F。

 

 さらに奥には、区画記号すら削られた棚が続いている。

 

「海の匂いはC区画に強く残っております。けれど、他の棚には別のものがいた痕跡がございますわ」

「別のもの?」

「ええ。呼びかけを待つもの。身に着ける者を選ぶもの。声を閉じ込めたもの。蓋をされたまま、誰かに開けられるのを待っていたもの」

 

 ペンドルトンの顔が険しくなる。

 

「つまり、危険な品は鏡と海の札だけじゃないのか」

「むしろ、それらは、今回たまたま尻尾を出した品ですわね」

 

 ゾーイは、空の棚へ手を伸ばさず、ただ見つめた。

 

「ここは、随分と立派な巣箱でしたのね。中身を空へ放った後の」

 

 メアリーが奥の書類棚を調べる。

 

 施錠された小さな引き出しがあり、その鍵穴には封蝋の欠片が詰まっていた。

 

「警部様。こちらに原簿らしきものがございます」

「開けられるか」

「物理的には可能でございますが、証拠保全の手順としては警部様へお願いするべきかと」

「助かる。お前たちまで私の胃を削らないでくれ」

 

 ペンドルトンは証拠用の工具を取り出し、鍵穴周辺を撮影してから慎重に封蝋を除いた。

 

 鍵は既に壊されていた。

 見た目だけ閉じてあるように戻されていたのだ。

 

 引き出しの中には、薄い帳簿が三冊と、紙片の束が残っていた。

 

 一冊目の表紙には、擦れた文字で、

 

 特別管理収蔵品 移管記録

 

 と記されている。

 

「特別管理、か」

 

 ペンドルトンの指が止まる。

 

「表の原簿では、“宗教資料”“古物”“雑品”だったな」

「名称を変えたのでしょうね」

 

 メアリーが言う。

 

「恐れられていた品も、ラベルを剥がして美術品と呼べば、人の手で運び出せます」

「ふざけた話だ」

「人間は、名前を変えれば危険まで変わると思いたがりますもの」

 

 ゾーイの声には、冷たい嫌悪が混じっていた。

 

 ペンドルトンは帳簿を開く。

 

 そこには、表側の搬出台帳とはまるで違う記載が並んでいた。

 

 C-7。

 反射媒体一式。

 海潮系祭具片。

 封蝋小箱。

 帰還祈祷断片。

 沈降標識片。

 

 行先欄には、いくつかの追記がある。

 

 大型反射媒体一点:慈善骨董展示会へ仮移送。

 

 封蝋小箱三点:移管先不明。伝票番号欠落。

 

 沈降標識片複数:一部回収不能。旧修道院関連資料へ転記あり。

 

 ペンドルトンは奥歯を噛む。

 

「これで繋がった。旧修道院の金属片は、ここから出たものだ」

「そして鏡は、展示会へ」

 

 メアリーが答える。

 

 だが、ゾーイは帳簿の次の頁へ視線を落としたまま、動かなかった。

 

「警部」

「何だ」

「喜ぶのはまだ早いですわ」

「喜んでいるように見えるか」

「では、頭痛はこれから酷くなると申し上げます」

 

 ゾーイが指先で、頁の下部を示す。

 

 そこには、C-7以外の移管記録が続いていた。

 

 ただし、品名はほとんどない。

 

 箱。

 棚。

 指定区分。

 移送先。

 

 それだけが、妙に整った字で並んでいる。

 

 指定A箱:宗教美術古物として民間古物商へ売却。内容細目欠落。購入者情報非開示。

 

 指定B箱:地方民俗資料一括品として競売代行業者へ再委託。内容細目の一部削除。ネットオークション出品予定。

 

 指定C棚下段収蔵品:保管価値なしとして雑品処理。搬出先不明。小型装身具、護符、指輪類を含む可能性あり。

 

 指定D箱:私設収集家へ譲渡。受領記録あり。内容照合未了。

 

 指定E箱:音声・記録媒体類として個人収集品へ払い下げ。再生機材所在不明。

 

 指定F棚:移送記録なし。棚札のみ残存。収蔵品所在不明。

 

 ペンドルトンの表情から、血の気が引いていく。

 

「……何だ、これは」

「処分記録でございますね」

 

 メアリーの声が静かに落ちる。

 

「封じていた品を、価値のない古物として、市中へ戻した記録です」

「戻した、だと」

「ええ」

 

 ゾーイは、帳簿の頁を見下ろしたまま、しばらく黙っていた。

 

「……箱ごと、ですのね」

「中身が分からないのか」

 

 ペンドルトンが問う。

 

「分からないのではなく、分からないようにしたのでしょう」

 

 ゾーイの声が、静かに冷えた。

 

「封じた品の名を削り、危険区分を外し、箱ごと市中へ流す。なるほど、これが現代の保管というものですのね」

「教会側の管理ミスか」

「鍵を掛け忘れたならミスですわ。帳簿の欄を削り、札を剥がし、古物として売り払ったなら、それはもう作業です」

 

 ゾーイは、薄く微笑んだ。

 

「責任だけを片付けて、中身を片付けない。地獄の事務方でも、もう少し良心的な棚卸しをしますわ」

 

 ペンドルトンは、帳簿の頁をめくった。

 

 だが、記録は途中から荒れていた。

 

 管理番号の削除。

 移送先の欠落。

 処分済みの印だけ押された頁。

 品名の書き換え。

 元の危険区分を覆うように貼られた新しいラベル。

 

「これをやった奴は、品の意味を知っていたのか」

「知らなければ、ここまで元の記録だけを選んで消す理由はございません」

 

 メアリーが答える。

 

「ですが、必要な品だけを選んだ者がいた可能性はございます。残りまで同じ人物が意図して流したとは、まだ断定できません」

「どういうことだ」

「管理が崩れたところへ、誰かが手を加えた。その結果として、拾ってはならない品まで市中へ流れた……現時点では、その程度に留めておくべきかと」

 

 ペンドルトンは、帳簿の端を強く押さえた。

 

「つまり、鏡と海の札は誰かが選んで使った可能性がある。だが、残りはただ漏れ出しただけかもしれない」

「あるいは、その両方でございましょうね」

 

 ゾーイが、ひどく冷たい声で言った。

 

「どなたが選び、どなたが捨て、どなたが拾ったのか。それを今ここで一つの悪意へ纏めてしまえば、見落とすものが増えるだけですわ」

「……厄介だな」

「ええ。とびきりに」

 

 ゾーイは、流出先の並ぶ頁へ視線を落とした。

 

「悪意を持って運び出された品もある。無知によって売られた品もある。価値がないと判断され、箱ごと放り出された品もある。けれど、手にした人間にとっては、その違いなど慰めにもなりませんもの」

 

 ペンドルトンは、指定C棚の記載をもう一度見た。

 

「小物まで混じっているのか」

「指輪や護符なら、誰かの家の机の引き出しに入っていてもおかしくありませんわね」

「冗談じゃない。そんなもの、どうやって追う」

「追えないから、危険なのです」

 

 メアリーが静かに付け加えた。

 

「大きな祭具だけが災いを呼ぶわけではございません。人の身につくほど小さなものほど、近く、長く、静かに食い込みます」

「ありがたい話だな」

「ありがたくないから申し上げております」

 

 ペンドルトンは忌々しそうに息を吐いた。

 

「全部、押収対象にしたいところだ」

「所在が分かれば、でございますね」

「分からないようにされている」

「ええ」

 

 ゾーイは、削られた欄へ目を向けた。

 

「人は、危険なものへ名前を付けることで管理したつもりになります。そして都合が悪くなると、その名前を削る。削れば危険も消えると信じて」

 

 彼女は小さく息を吐いた。

 

「愚かですわね。名前を失ったものほど、後から人を喰うというのに」

 

 保管室の空気が、ひどく冷たく感じられた。

 

 ペンドルトンは帳簿を閉じず、そのまま証拠封印用の袋を広げる。

 

「まず、全頁を複製する。原本は押収。表の管理記録も、搬出伝票も、移送先一覧も全部だ」

「警部様」

 

 メアリーが奥の棚を見た。

 

「こちらにも、記録がございます」

 

 彼女が示したのは、棚の内側へ貼りつけられた薄い紙片だった。

 

 ほとんど剥がされている。

 だが、一部だけ、文字が残っている。

 

 沿岸儀礼資料・再現確認。

 

 地下区画反応あり。

 

 像の維持、継続せず。

 

 接続地点外での反応なし。

 

 媒体追加を要す。

 

 反復不足。

 

 呼称定着せず。

 

 ペンドルトンは、ゆっくりと顔を上げた。

 

「これは……」

「旧修道院の件に関わる記録でしょうね」

 

 ゾーイが言った。

 

「海へ還るという古い信仰を、もう一度人へ信じさせようとした。けれど、今の人間は、その程度では本気で沈んでくださらなかった」

「だから、失敗した」

「旧修道院跡と、死者と、錨が揃った場所でしか形を保てなかった。局所的で、不安定で、みっともなく這い回るだけの神様もどきに留まったのでしょう」

 

 ペンドルトンは紙片を見つめる。

 

「では、次はどうするつもりだ」

「それが分かれば、苦労はいたしませんわ」

 

 ゾーイは、わずかに首を傾けた。

 

「ただ――鏡まで同じように流されたのなら、単なる処分ではない可能性はございますわね」

「何をする気だ」

「分かりませんわ。ですが、海の祈りで失敗した者が、別の品を人前へ出して何が起きるか確かめようとしているのなら……十分に愚かで、十分に危険です」

「つまり、鏡は実験台か」

「あるいは、ただの撒き餌かもしれませんわね。どちらであれ、人のいる場所へ置いてよい品ではございません」

 

「いずれにせよ、ここで考え込んでいる時間はないな」

 

 ペンドルトンは帳簿を証拠封印用の袋へ収めた。

 

「原簿は押収する。表の台帳も、搬出伝票も、移送先一覧も全部だ。まず地上へ戻る」

「賛成ですわ。地下で長居して気分がよくなる場所ではございませんもの」

 

 メアリーがランタンを持ち直す。

 

 隠し保管庫を出る時、ゾーイは一度だけ空になった棚を振り返った。

 

 C-7。

 

 アラン・ウェストンが触れたもの。

 彼が危険だと気づき、戻さなければならないと訴え、それでも止められなかった品々。

 

 そして、彼の知らないところで、同じように街へ流された数え切れない箱と棚。

 

 短い階段を上り、隠し扉の内側へ戻る。

 壁の奥に閉じ込められていたような空気が、地下資料室の乾いた埃の匂いへ混じった。

 

 その時、ペンドルトンの携帯端末が震えた。

 

 画面には、若い刑事からの着信が表示されている。

 

 ペンドルトンは短く息を吐き、通話を受けた。

 

「私だ」

 

『警部、やっと繋がりました。何度かお掛けしたのですが、通信が通りませんでした』

「地下の奥にいた。何があった」

『展示会側から返答が来ました』

「鏡は止めたか」

『それが……対象の大型鏡は、すでに会場へ搬入されています』

「いつだ」

『昨日の午後です。前夜の保全要請が届いた時点で、倉庫ではなく会場側にありました。事務局は展示停止の連絡を出したそうですが、現場設営側と事前取材担当への伝達確認が取れていません』

「事前取材?」

『午後から、支援者向けの内覧と、広報用の事前取材枠が入っています。複数の取材申請があり、その中に動画配信を主体にしている取材者もいるそうです』

 

 ペンドルトンの目が、ゾーイへ向く。

 

 ゾーイの表情から、最後の柔らかさが消えた。

 

「黒布は」

 

 彼女が訊く。

 

 ペンドルトンは、そのまま通話口へ声を飛ばす。

 

「鏡の黒布はどうなっている」

『確認中です。ただ、展示担当者が今朝、“覆い布を外して照明映えを確認する”という内容の連絡を残していて――』

「止めろ!」

 

 ペンドルトンの怒声が、地下資料室へ響いた。

 

「誰も触らせるな! 設営も取材も内覧も全部止めろ! 理由は設備不良でも安全確認でも何でもいい!」

『はい!』

 

 通話が切れる。

 

 ペンドルトンは端末を握り締めたまま、短く息を吐いた。

 

「記録洗いは後だな」

「ええ」

 

 ゾーイは、地下資料室の奥に隠された暗がりを一度だけ振り返った。

 

 アラン・ウェストンが触れたもの。

 彼が危険だと気づき、戻さなければならないと訴え、それでも止められなかった品々。

 

 そして、彼の知らないところで、同じように市中へ流された数え切れない箱と棚。

 

「帳簿は」

「持っている」

「では、急ぎましょう」

 

 メアリーは、痛むはずの右肩をほとんど見せず、ランタンを閉じた。

 

 ゾーイは、地下資料室から地上へ続く階段へ歩き出す。

 

 その足元で、影が静かに揺れた。

 

「まったく、人間というものは」

 

 彼女は、冷たい声で呟いた。

 

「一つの箱を開けるだけでも十分に愚かですのに、箱ごと世間へ流してしまうとは」

 

「説教は車の中で聞く」

 

 ペンドルトンが帳簿を抱えて後を追う。

 

「今は鏡だ」

「ええ。分かっておりますわ」

 

 ゾーイは階段へ足を掛ける。

 

「まずは、人の目に晒される前に、あの鏡へ礼儀を教えて差し上げましょう」

 

 地上へ続く扉の向こうで、重たい雲がとうとう雨を落とし始めていた。




第一編 第三章:「削られた印」 終
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。