悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第一編 第四章:「鏡に残る客」
第十五話「遅れて笑う鏡」


 慈善骨董展示会の会場は、古い市民ホールを改装した建物だった。

 

 高い天井。

 磨かれた床。

 壁際に並ぶ仮設照明。

 白い布を掛けられた展示台。

 

 一般公開は、まだ始まっていない。

 

 今日の午後に行われているのは、支援者向けの内覧と、広報用の事前取材だった。

 

 地域の名士。

 教会関係者。

 展示会の実行委員。

 新聞社の記者。

 地域催事を紹介する取材者。

 それから、許可証を首から下げた数名の撮影スタッフ。

 

 会場内には、控えめなざわめきがあった。

 

 だが、そのざわめきは、どこか薄い。

 

 人がいる。

 声もある。

 カメラのシャッター音も、靴音も、展示品について説明するスタッフの声もある。

 

 それなのに、会場の奥だけが妙に静かだった。

 

 カレンは、取材用の小型端末を手に、その奥を見た。

 

「……あれかあ」

 

 会場奥の壁際。

 

 ひときわ大きな展示台の上に、黒い布を掛けられた大型の楕円鏡が置かれていた。

 

 高さは、人の背丈を優に超えている。

 古い時代の鏡としては珍しい大きさで、展示会側は今回の目玉展示の一つとして扱っているらしい。

 

 だからこそ、鏡は展示室の一番奥に置かれていた。

 入口から入った者の視線が、自然とそこへ集まるように。

 

 ただ、真正面を向いているわけではない。

 展示室の入口から奥へ伸びる導線を、ゆるく斜めに受ける角度で据えられている。

 

 布が外れれば、鏡面は会場の中央だけでなく、入口付近まで映し込むだろう。

 

 目玉展示としては、よく考えられた配置だった。

 けれどカレンには、その配置がひどく嫌だった。

 

 鏡面そのものは、黒布で覆われて見えない。

 

 ただ、その布が妙だった。

 

 単なる保護布にしては重く、縁には細い銀糸のようなものが走っている。

 けれど、その銀糸はところどころ切れ、ほつれ、照明を受けても光らなかった。

 

 カレンは端末を下げた。

 

 朝、友人から届いたメッセージを思い出す。

 

 ブライオニー・メリック。

 

 カレンにとっては、気心の知れたハイスクール時代からの親友であり、少し変わった占いと古い土地の作法にやけに詳しい、魔女修行中の友人だった。

 

 もっとも、本人はその肩書きを大げさに使いたがらない。

 だいたいは、畑と薬草とジャムの話をしている。

 それでいて、妙なところで勘が鋭い。

 

 今朝のメッセージも、そうだった。

 

『ねえカレン、今日の取材先って古物展示会だったよね?』

 

『うん。慈善骨董展示会。地元紹介の記事にするやつ』

 

『ちょっと気になって、フェアリーフォート・タロット見たんだけど』

 

『また? ブーちゃん、それ絶対わたしのこと心配しすぎでしょ』

 

『うん、心配してる。だから聞いて』

 

 そこから先の文面だけ、妙に真面目だった。

 

 姿を映すもの。

 本来そこにいない客。

 見る者が増えるほど薄くなる境界。

 黒布の掛かった鏡へ不用意に近づかないこと。

 異常を感じたら、オカルトに強いと言っていた“ゾーちゃん”へ連絡すること。

 

 カレンは、その時は笑って返した。

 

『ゾーちゃん、普通にお茶してると小さいお嬢様なんだけどなあ』

 

 すると、すぐに返事が来た。

 

『そういう人ほど頼りになることもあるの。というか、あなたの話に出てくるゾーちゃん、毎回ちょっと情報量が変なんだよ』

 

 カレンはそれを見て、少しだけ笑った。

 

 たしかに、ゾーちゃんは情報量が変だ。

 

 古い屋敷。

 悪魔メイド。

 影から出入りするハウスキーパー。

 紅茶への謎のこだわり。

 そして、時々ぞっとするほど遠くを見る、澄んだ空色の瞳。

 

 それでも、カレンにとってはゾーちゃんだった。

 

 小柄で、毒舌で、妙に面倒見がよくて、友達に遠慮するなと言えば、呆れながらもお茶を出してくれる人。

 

 だから今も、黒布の鏡を見ながら、カレンは眉をひそめるだけで済んでいる。

 

 本当に危ないなら、ゾーちゃんに連絡すればいい。

 

 そう思える相手がいることは、心強い。

 

 ただし、少しばかり問題もあった。

 

 カレンは端末を見た。

 

 画面上部には、圏外ではないものの、不安定な通信表示が出ている。

 

「こういう時に限って、電波が弱いんだよねえ」

 

 思わず呟く。

 

 その時、背後から明るすぎる声がした。

 

「おっ、これが噂のやつ?」

 

 振り返ると、首から許可証を下げた若い男が、撮影用の小型カメラを手に近づいてきていた。

 

 年齢は二十代半ばほど。

 派手すぎないジャケットに、少し崩した髪型。

 見た目だけなら、地域イベントを紹介する動画取材者にも見える。

 

 男の手には、手のひらほどの小型カメラがあった。

 ジンバルに載せられたレンズが、黒布の鏡へ向けられている。

 

 もう片方の手には、スマートフォン。

 

 画面には、配信アプリの待機画面が開かれていた。

 

「すみません、そちらの取材の方ですか?」

 

 カレンが声をかける。

 

「ええ。地域紹介系です。今回は慈善骨董展示会の事前取材ってことで」

 

 男は慣れた笑顔で答えた。

 

「お互い大変ですね。こういうイベント、真面目に撮ると地味になりがちで」

「地味でも、ちゃんと紹介するのが仕事じゃないですか」

「もちろん。でも、見てもらえなきゃ意味ないでしょ?」

 

 男は肩をすくめる。

 

「こういうの、ちょっとしたフックが必要なんですよ。古い鏡、黒い布、展示前から謎めいた扱い。視聴者、そういうの好きなんで」

「視聴者?」

 

 カレンの声が硬くなる。

 

「生配信するつもりですか?」

「一部だけですよ。会場紹介の延長。ちゃんと取材許可は取ってます」

「でも、申請内容は広報用の記録撮影ですよね。展示品の解説とか、雰囲気紹介とか」

「細かいなあ」

「細かくないです。まだ内覧と事前取材の時間ですし、展示品によっては撮影制限も――」

「大丈夫ですって」

 

 男は笑った。

 

「別に壊すわけじゃない。布をちょっとめくって、古い鏡を見せるだけです」

 

 カレンは一歩前に出た。

 

「やめた方がいいと思います」

「え?」

「あの鏡、黒布を外さない方がいいです」

「お姉さんも、そっち系の人?」

「そっち系って何ですか」

「オカルト信じる系」

 

 男の笑みに、少しだけ軽い侮りが混じる。

 

「いや、いいと思いますよ。そういう反応、むしろ助かるんで。『地元取材者も怯える呪いの鏡』って感じで」

「冗談にしていいものと、よくないものがあると思います」

「本気で言ってます?」

「かなり」

 

 カレンは鏡を見た。

 

 黒布は、何もしていないのに、わずかに揺れているように見えた。

 

 空調の風ではない。

 

 会場内の展示札も、白布も、壁際の案内紙も動いていない。

 

 揺れているのは、あの黒布だけだった。

 

 カレンの背筋に、細い冷たさが走る。

 

「スタッフを呼んできます。あなたも、近づかないでください」

「はいはい」

 

 男は笑って手を振った。

 

 その態度が、かえって嫌だった。

 

 カレンは近くのスタッフへ向かおうとした。

 

 その時、会場入口の方がざわついた。

 

「失礼。展示責任者はどちらだ」

 

 低い男の声が響いた。

 

 振り返る。

 

 入口に、コート姿の中年男が立っていた。

 鋭い目つき。

 疲れた顔。

 けれど、声には場を押さえるだけの力がある。

 

 カレンは彼の名前を知らなかったが、その背後にゾーイとメアリーがいるのを見た瞬間、これはもう、笑って済ませられる用件ではないのだと理解した。

 

「ゾーちゃん!」

 

 カレンの声が、思わず弾んだ。

 

 ゾーイはすぐにカレンを見つけた。

 

 だが、いつものように「ごきげんよう」と返すことはなかった。

 

 彼女の視線は、カレンの顔を一瞬だけ確かめ、それから会場奥の黒布の鏡へ滑った。

 

 その瞳から、温度が消える。

 

「警部」

「分かっている。だが、その前にだ」

 

 ペンドルトンは周囲に聞こえないほど声を落とした。

 

「ここには一般人がいる。撮影機材もある。お前の“いつものやり方”は使うな」

 

 ゾーイは、会場奥の黒布の鏡を見たまま、わずかに目を細めた。

 

「随分と難しい注文ですこと」

「難しくてもだ。ここで得体の知れんものを見せれば、鏡とは別の騒ぎになる」

「では、警部のご采配に期待いたしますわ」

「嫌な言い方をするな」

「事実ですもの」

「……いいな」

「仕方ありませんわね」

 

 ペンドルトンは展示スタッフへ証明書を見せた。

 

「警察だ。危険物の誤搬入と証拠保全の可能性がある。対象展示品への接近を停止しろ。内覧と取材も一旦中断する」

 

 スタッフの一人が、青ざめた顔で近づいてきた。

 

「け、警部さん。事務局から連絡は受けています。ただ、こちらでも確認中でして……」

「確認中はもう聞き飽きた。対象の鏡はどこだ」

「あ、あちらです。ですが、まだ展示準備の途中で……」

「黒布は」

「まだ外していません。照明確認のために外す予定でしたが、事務局から一旦待つようにと」

「なら、そのままにしろ。誰も触らせるな」

 

 ゾーイはカレンの前で足を止めた。

 

「カレン」

「ゾーちゃん、あの鏡、やばいやつ?」

「人前に出してよいものではございませんわね」

「だと思った。ブーちゃんの占い、当たりすぎ」

「ブーちゃん?」

「あ、親友。魔女の修行中なんだ。今度紹介するね」

「……あなたのお友達は、どうしてこう濃い方向へ増えていきますの?」

「ゾーちゃんに言われたくないなあ」

 

 いつもの調子なら、ゾーイは何か皮肉を返したはずだった。

 

 だが、その余裕はなかった。

 

 メアリーが低く言う。

 

「お嬢様。布の外縁が、写真で見た時よりさらに解けております」

「ええ。見えています」

 

 黒布の縁から、細い銀糸が垂れていた。

 

 それは、ただ切れているのではない。

 

 何かに内側から噛み切られたように、一本一本がほつれ、力を失っている。

 

 ペンドルトンが展示台の周囲を見回す。

 

「撮影者は全員下がれ。許可証を持っていても今は中止だ。記録機材は停止しろ」

 

 スタッフたちが慌てて動き出す。

 

 内覧客の一部が不満げに顔を上げた。

 

「何か問題でも?」

「展示品に危険がある可能性があります」

「危険? 古い鏡が?」

「説明は後ほど」

 

 ペンドルトンは短く切った。

 

 その時、カレンは気づいた。

 

 さっきの動画取材者がいない。

 

「……あれ?」

 

 会場奥。

 

 黒布の鏡の横に、男が立っていた。

 

 手には、ジンバルに載せられた小型カメラ。

 レンズが、黒布の鏡へ向けられている。

 

 もう片方の手には、スマートフォン。

 画面の端には、赤い配信中の表示と、流れ続けるコメントが見えていた。

 

「皆さん、聞こえてますか? いま、ちょっと会場側でトラブルがありまして。どうやらこの鏡、本当にいわくつきっぽいです」

 

 小声だった。

 

 だが、会場の奥が静かだったせいで、その声はよく響いた。

 

 カレンの顔色が変わる。

 

「ちょっと! やめて!」

 

 男は振り返った。

 

 その顔には、焦りと興奮が混じっている。

 

「大丈夫ですって。これ、今かなり伸びてるんで。すぐ切ります。ほんの少しだけ」

「撮影を止めろ!」

 

 ペンドルトンが怒鳴る。

 

 男は反射的に一歩下がった。

 

 その背中が、黒布の鏡へ触れる。

 

 布が、ずるりと落ちた。

 

 誰も、しばらく動けなかった。

 

 黒布は床へ広がった。

 

 銀糸の縫い目がほどけ、音もなく沈む。

 

 その奥に、鏡面が現れた。

 

 古い鏡だった。

 

 曇っている。

 ところどころ黒ずみ、銀の裏打ちが腐食している。

 普通なら、人の姿をはっきり映すことも難しいはずだった。

 

 だが、その鏡は、会場全体を異様なほど鮮明に映していた。

 

 白い展示台。

 固まったスタッフたち。

 内覧客。

 カレン。

 ペンドルトン。

 メアリー。

 黒い外套のゾーイ。

 

 そして、入口へ続く通路まで。

 

 誰かが逃げようとして入口を見ても、その姿はすでに鏡の中にあった。

 

 さらに、カメラを構えた男。

 

 鏡の中の全員が、同じ一点を見ていた。

 

 それは、現実の会場ではない。

 

 男の手元にある、小型カメラのレンズだった。

 

 現実の会場では、誰もカメラを見ていない。

 

 スタッフも、内覧客も、カレンも、ペンドルトンも、メアリーも、ゾーイも。

 全員の視線は、ただ鏡へ向いている。

 

 だが、鏡の中だけが違った。

 

 鏡の中の全員が、男の手元にある小型カメラのレンズを見ていた。

 

 まるで、鏡の中のものたちだけが、これから何に見られるのかを知っているように。

 

 カレンは息を吸おうとした。

 

 けれど、声が出ない。

 

 喉が塞がれたわけではない。

 身体が凍ったわけでもない。

 

 ただ、鏡の中の自分が黙っている。

 だから、自分も声を出してはいけない。

 

 そんな考えが、頭の奥へ滑り込んできた。

 

 会場全体が、同じ沈黙に押さえ込まれていた。

 

 先に動くのは、鏡の中。

 現実は、それを遅れてなぞるだけ。

 

「……撮るな」

 

 その沈黙を、低い声がこじ開けた。

 

 ペンドルトンだった。

 

 声は掠れていた。

 喉の奥を押さえつける何かを、無理やり引き剥がしたような声だった。

 

「撮るな。そいつを、これ以上映すな」

 

 男は震える手でカメラを下げようとした。

 

 現実の男は、確かにそうしようとしていた。

 

 だが、鏡の中の男は下げなかった。

 むしろ、レンズをさらに高く持ち上げた。

 

 その動きに引かれるように、現実の男の腕が止まる。

 

 スマートフォン画面の数字が、跳ね上がった。

 

 コメントが流れている。

 

 ――なにこれ。

 ――演出?

 ――鏡やば。

 ――警察いるじゃん。

 ――黒いドレスの子、誰?

 ――メイドまでいるの草。

 ――台本くさい。

 ――いや、鏡の中、なんか変じゃね?

 

 男の喉が鳴った。

 

「……皆さん、今、見えてますか? これ、加工じゃないです。会場で本当に――」

 

「止めなさい!」

 

 カレンが駆け寄ろうとする。

 

 男のスマートフォン画面に、鏡が映っていた。

 

 その中で、カレンが動いた。

 

 現実のカレンは、まだ足を踏み出していない。

 

 けれど、配信画面の中――鏡に映ったカレンだけが、先に男へ手を伸ばしていた。

 

 カレンは凍りつく。

 

「……え?」

 

 次に動いたのは、男だった。

 

 現実の男がカメラを握り直すより先に、鏡の中の男がカメラを持ち上げた。

 

 鏡の中のカメラレンズが、こちらを向く。

 

 現実の男が、遅れて同じ動きをした。

 

「なん、だよ……これ」

 

 声が震えていた。

 

 それでも、配信は切れていない。

 

 コメントがさらに流れる。

 

 ――遅れてる?

 ――逆じゃね?

 ――鏡の方が先に動いてる。

 ――やらせでも上手い。

 ――中のやつ笑ってない?

 

 ゾーイが一歩踏み出した。

 

「メアリー」

「はい」

 

 メアリーが動く。

 

 だが、その足が止まった。

 

 鏡の中のメアリーが、現実より先に右肩を押さえたのだ。

 

 現実のメアリーの右肩に巻かれた包帯が、じわりと黒く滲む。

 

「メアリー!」

 

「問題ございません」

 

 メアリーは即座に答えた。

 

 だが、声はいつもより僅かに硬い。

 

 ゾーイの影が足元で濃くなる。

 

 その瞬間、鏡面がわずかに曇った。

 

 鏡の中のゾーイだけが、こちらを向く。

 

 現実のゾーイはまだ鏡を見ている。

 

 だが、鏡の中のゾーイは、鏡の内側から、現実のゾーイではなくカメラの向こうを見た。

 

 画面のコメントが止まる。

 

 ほんの一秒。

 

 次の瞬間、爆発するように新しい文字列が流れ始めた。

 

 ――今こっち見た。

 ――やば。

 ――黒い子こっち見た。

 ――名前なに?

 ――ゾーちゃんって呼ばれてなかった?

 ――ゾーちゃん?

 ――ゾーちゃんかわいい。

 ――演者?

 ――呪いの鏡の中の子?

 ――こっち見ろ。

 ――もっと映せ。

 

「……撮影を止めなさい」

 

 ゾーイの声は静かだった。

 

 だが、会場の照明が一瞬だけ暗くなった。

 

 男はスマートフォンへ手を伸ばそうとした。

 

 けれど、指が動かない。

 

 画面の中で、鏡の男が笑っていた。

 

 現実の男は、笑っていない。

 むしろ青ざめ、唇を震わせている。

 

 それなのに、鏡の中の男だけが、カメラを構えたまま、口の端を吊り上げていた。

 

 ゆっくりと。

 

 遅れてではなく。

 

 先に。

 

 鏡の中の男が、カメラの向こうへ笑った。

 

 そして、現実の男の口元が、何かに引っ張られるように、遅れて同じ形へ歪み始めた。

 

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