第十五話「遅れて笑う鏡」
慈善骨董展示会の会場は、古い市民ホールを改装した建物だった。
高い天井。
磨かれた床。
壁際に並ぶ仮設照明。
白い布を掛けられた展示台。
一般公開は、まだ始まっていない。
今日の午後に行われているのは、支援者向けの内覧と、広報用の事前取材だった。
地域の名士。
教会関係者。
展示会の実行委員。
新聞社の記者。
地域催事を紹介する取材者。
それから、許可証を首から下げた数名の撮影スタッフ。
会場内には、控えめなざわめきがあった。
だが、そのざわめきは、どこか薄い。
人がいる。
声もある。
カメラのシャッター音も、靴音も、展示品について説明するスタッフの声もある。
それなのに、会場の奥だけが妙に静かだった。
カレンは、取材用の小型端末を手に、その奥を見た。
「……あれかあ」
会場奥の壁際。
ひときわ大きな展示台の上に、黒い布を掛けられた大型の楕円鏡が置かれていた。
高さは、人の背丈を優に超えている。
古い時代の鏡としては珍しい大きさで、展示会側は今回の目玉展示の一つとして扱っているらしい。
だからこそ、鏡は展示室の一番奥に置かれていた。
入口から入った者の視線が、自然とそこへ集まるように。
ただ、真正面を向いているわけではない。
展示室の入口から奥へ伸びる導線を、ゆるく斜めに受ける角度で据えられている。
布が外れれば、鏡面は会場の中央だけでなく、入口付近まで映し込むだろう。
目玉展示としては、よく考えられた配置だった。
けれどカレンには、その配置がひどく嫌だった。
鏡面そのものは、黒布で覆われて見えない。
ただ、その布が妙だった。
単なる保護布にしては重く、縁には細い銀糸のようなものが走っている。
けれど、その銀糸はところどころ切れ、ほつれ、照明を受けても光らなかった。
カレンは端末を下げた。
朝、友人から届いたメッセージを思い出す。
ブライオニー・メリック。
カレンにとっては、気心の知れたハイスクール時代からの親友であり、少し変わった占いと古い土地の作法にやけに詳しい、魔女修行中の友人だった。
もっとも、本人はその肩書きを大げさに使いたがらない。
だいたいは、畑と薬草とジャムの話をしている。
それでいて、妙なところで勘が鋭い。
今朝のメッセージも、そうだった。
『ねえカレン、今日の取材先って古物展示会だったよね?』
『うん。慈善骨董展示会。地元紹介の記事にするやつ』
『ちょっと気になって、フェアリーフォート・タロット見たんだけど』
『また? ブーちゃん、それ絶対わたしのこと心配しすぎでしょ』
『うん、心配してる。だから聞いて』
そこから先の文面だけ、妙に真面目だった。
姿を映すもの。
本来そこにいない客。
見る者が増えるほど薄くなる境界。
黒布の掛かった鏡へ不用意に近づかないこと。
異常を感じたら、オカルトに強いと言っていた“ゾーちゃん”へ連絡すること。
カレンは、その時は笑って返した。
『ゾーちゃん、普通にお茶してると小さいお嬢様なんだけどなあ』
すると、すぐに返事が来た。
『そういう人ほど頼りになることもあるの。というか、あなたの話に出てくるゾーちゃん、毎回ちょっと情報量が変なんだよ』
カレンはそれを見て、少しだけ笑った。
たしかに、ゾーちゃんは情報量が変だ。
古い屋敷。
悪魔メイド。
影から出入りするハウスキーパー。
紅茶への謎のこだわり。
そして、時々ぞっとするほど遠くを見る、澄んだ空色の瞳。
それでも、カレンにとってはゾーちゃんだった。
小柄で、毒舌で、妙に面倒見がよくて、友達に遠慮するなと言えば、呆れながらもお茶を出してくれる人。
だから今も、黒布の鏡を見ながら、カレンは眉をひそめるだけで済んでいる。
本当に危ないなら、ゾーちゃんに連絡すればいい。
そう思える相手がいることは、心強い。
ただし、少しばかり問題もあった。
カレンは端末を見た。
画面上部には、圏外ではないものの、不安定な通信表示が出ている。
「こういう時に限って、電波が弱いんだよねえ」
思わず呟く。
その時、背後から明るすぎる声がした。
「おっ、これが噂のやつ?」
振り返ると、首から許可証を下げた若い男が、撮影用の小型カメラを手に近づいてきていた。
年齢は二十代半ばほど。
派手すぎないジャケットに、少し崩した髪型。
見た目だけなら、地域イベントを紹介する動画取材者にも見える。
男の手には、手のひらほどの小型カメラがあった。
ジンバルに載せられたレンズが、黒布の鏡へ向けられている。
もう片方の手には、スマートフォン。
画面には、配信アプリの待機画面が開かれていた。
「すみません、そちらの取材の方ですか?」
カレンが声をかける。
「ええ。地域紹介系です。今回は慈善骨董展示会の事前取材ってことで」
男は慣れた笑顔で答えた。
「お互い大変ですね。こういうイベント、真面目に撮ると地味になりがちで」
「地味でも、ちゃんと紹介するのが仕事じゃないですか」
「もちろん。でも、見てもらえなきゃ意味ないでしょ?」
男は肩をすくめる。
「こういうの、ちょっとしたフックが必要なんですよ。古い鏡、黒い布、展示前から謎めいた扱い。視聴者、そういうの好きなんで」
「視聴者?」
カレンの声が硬くなる。
「生配信するつもりですか?」
「一部だけですよ。会場紹介の延長。ちゃんと取材許可は取ってます」
「でも、申請内容は広報用の記録撮影ですよね。展示品の解説とか、雰囲気紹介とか」
「細かいなあ」
「細かくないです。まだ内覧と事前取材の時間ですし、展示品によっては撮影制限も――」
「大丈夫ですって」
男は笑った。
「別に壊すわけじゃない。布をちょっとめくって、古い鏡を見せるだけです」
カレンは一歩前に出た。
「やめた方がいいと思います」
「え?」
「あの鏡、黒布を外さない方がいいです」
「お姉さんも、そっち系の人?」
「そっち系って何ですか」
「オカルト信じる系」
男の笑みに、少しだけ軽い侮りが混じる。
「いや、いいと思いますよ。そういう反応、むしろ助かるんで。『地元取材者も怯える呪いの鏡』って感じで」
「冗談にしていいものと、よくないものがあると思います」
「本気で言ってます?」
「かなり」
カレンは鏡を見た。
黒布は、何もしていないのに、わずかに揺れているように見えた。
空調の風ではない。
会場内の展示札も、白布も、壁際の案内紙も動いていない。
揺れているのは、あの黒布だけだった。
カレンの背筋に、細い冷たさが走る。
「スタッフを呼んできます。あなたも、近づかないでください」
「はいはい」
男は笑って手を振った。
その態度が、かえって嫌だった。
カレンは近くのスタッフへ向かおうとした。
その時、会場入口の方がざわついた。
「失礼。展示責任者はどちらだ」
低い男の声が響いた。
振り返る。
入口に、コート姿の中年男が立っていた。
鋭い目つき。
疲れた顔。
けれど、声には場を押さえるだけの力がある。
カレンは彼の名前を知らなかったが、その背後にゾーイとメアリーがいるのを見た瞬間、これはもう、笑って済ませられる用件ではないのだと理解した。
「ゾーちゃん!」
カレンの声が、思わず弾んだ。
ゾーイはすぐにカレンを見つけた。
だが、いつものように「ごきげんよう」と返すことはなかった。
彼女の視線は、カレンの顔を一瞬だけ確かめ、それから会場奥の黒布の鏡へ滑った。
その瞳から、温度が消える。
「警部」
「分かっている。だが、その前にだ」
ペンドルトンは周囲に聞こえないほど声を落とした。
「ここには一般人がいる。撮影機材もある。お前の“いつものやり方”は使うな」
ゾーイは、会場奥の黒布の鏡を見たまま、わずかに目を細めた。
「随分と難しい注文ですこと」
「難しくてもだ。ここで得体の知れんものを見せれば、鏡とは別の騒ぎになる」
「では、警部のご采配に期待いたしますわ」
「嫌な言い方をするな」
「事実ですもの」
「……いいな」
「仕方ありませんわね」
ペンドルトンは展示スタッフへ証明書を見せた。
「警察だ。危険物の誤搬入と証拠保全の可能性がある。対象展示品への接近を停止しろ。内覧と取材も一旦中断する」
スタッフの一人が、青ざめた顔で近づいてきた。
「け、警部さん。事務局から連絡は受けています。ただ、こちらでも確認中でして……」
「確認中はもう聞き飽きた。対象の鏡はどこだ」
「あ、あちらです。ですが、まだ展示準備の途中で……」
「黒布は」
「まだ外していません。照明確認のために外す予定でしたが、事務局から一旦待つようにと」
「なら、そのままにしろ。誰も触らせるな」
ゾーイはカレンの前で足を止めた。
「カレン」
「ゾーちゃん、あの鏡、やばいやつ?」
「人前に出してよいものではございませんわね」
「だと思った。ブーちゃんの占い、当たりすぎ」
「ブーちゃん?」
「あ、親友。魔女の修行中なんだ。今度紹介するね」
「……あなたのお友達は、どうしてこう濃い方向へ増えていきますの?」
「ゾーちゃんに言われたくないなあ」
いつもの調子なら、ゾーイは何か皮肉を返したはずだった。
だが、その余裕はなかった。
メアリーが低く言う。
「お嬢様。布の外縁が、写真で見た時よりさらに解けております」
「ええ。見えています」
黒布の縁から、細い銀糸が垂れていた。
それは、ただ切れているのではない。
何かに内側から噛み切られたように、一本一本がほつれ、力を失っている。
ペンドルトンが展示台の周囲を見回す。
「撮影者は全員下がれ。許可証を持っていても今は中止だ。記録機材は停止しろ」
スタッフたちが慌てて動き出す。
内覧客の一部が不満げに顔を上げた。
「何か問題でも?」
「展示品に危険がある可能性があります」
「危険? 古い鏡が?」
「説明は後ほど」
ペンドルトンは短く切った。
その時、カレンは気づいた。
さっきの動画取材者がいない。
「……あれ?」
会場奥。
黒布の鏡の横に、男が立っていた。
手には、ジンバルに載せられた小型カメラ。
レンズが、黒布の鏡へ向けられている。
もう片方の手には、スマートフォン。
画面の端には、赤い配信中の表示と、流れ続けるコメントが見えていた。
「皆さん、聞こえてますか? いま、ちょっと会場側でトラブルがありまして。どうやらこの鏡、本当にいわくつきっぽいです」
小声だった。
だが、会場の奥が静かだったせいで、その声はよく響いた。
カレンの顔色が変わる。
「ちょっと! やめて!」
男は振り返った。
その顔には、焦りと興奮が混じっている。
「大丈夫ですって。これ、今かなり伸びてるんで。すぐ切ります。ほんの少しだけ」
「撮影を止めろ!」
ペンドルトンが怒鳴る。
男は反射的に一歩下がった。
その背中が、黒布の鏡へ触れる。
布が、ずるりと落ちた。
誰も、しばらく動けなかった。
黒布は床へ広がった。
銀糸の縫い目がほどけ、音もなく沈む。
その奥に、鏡面が現れた。
古い鏡だった。
曇っている。
ところどころ黒ずみ、銀の裏打ちが腐食している。
普通なら、人の姿をはっきり映すことも難しいはずだった。
だが、その鏡は、会場全体を異様なほど鮮明に映していた。
白い展示台。
固まったスタッフたち。
内覧客。
カレン。
ペンドルトン。
メアリー。
黒い外套のゾーイ。
そして、入口へ続く通路まで。
誰かが逃げようとして入口を見ても、その姿はすでに鏡の中にあった。
さらに、カメラを構えた男。
鏡の中の全員が、同じ一点を見ていた。
それは、現実の会場ではない。
男の手元にある、小型カメラのレンズだった。
現実の会場では、誰もカメラを見ていない。
スタッフも、内覧客も、カレンも、ペンドルトンも、メアリーも、ゾーイも。
全員の視線は、ただ鏡へ向いている。
だが、鏡の中だけが違った。
鏡の中の全員が、男の手元にある小型カメラのレンズを見ていた。
まるで、鏡の中のものたちだけが、これから何に見られるのかを知っているように。
カレンは息を吸おうとした。
けれど、声が出ない。
喉が塞がれたわけではない。
身体が凍ったわけでもない。
ただ、鏡の中の自分が黙っている。
だから、自分も声を出してはいけない。
そんな考えが、頭の奥へ滑り込んできた。
会場全体が、同じ沈黙に押さえ込まれていた。
先に動くのは、鏡の中。
現実は、それを遅れてなぞるだけ。
「……撮るな」
その沈黙を、低い声がこじ開けた。
ペンドルトンだった。
声は掠れていた。
喉の奥を押さえつける何かを、無理やり引き剥がしたような声だった。
「撮るな。そいつを、これ以上映すな」
男は震える手でカメラを下げようとした。
現実の男は、確かにそうしようとしていた。
だが、鏡の中の男は下げなかった。
むしろ、レンズをさらに高く持ち上げた。
その動きに引かれるように、現実の男の腕が止まる。
スマートフォン画面の数字が、跳ね上がった。
コメントが流れている。
――なにこれ。
――演出?
――鏡やば。
――警察いるじゃん。
――黒いドレスの子、誰?
――メイドまでいるの草。
――台本くさい。
――いや、鏡の中、なんか変じゃね?
男の喉が鳴った。
「……皆さん、今、見えてますか? これ、加工じゃないです。会場で本当に――」
「止めなさい!」
カレンが駆け寄ろうとする。
男のスマートフォン画面に、鏡が映っていた。
その中で、カレンが動いた。
現実のカレンは、まだ足を踏み出していない。
けれど、配信画面の中――鏡に映ったカレンだけが、先に男へ手を伸ばしていた。
カレンは凍りつく。
「……え?」
次に動いたのは、男だった。
現実の男がカメラを握り直すより先に、鏡の中の男がカメラを持ち上げた。
鏡の中のカメラレンズが、こちらを向く。
現実の男が、遅れて同じ動きをした。
「なん、だよ……これ」
声が震えていた。
それでも、配信は切れていない。
コメントがさらに流れる。
――遅れてる?
――逆じゃね?
――鏡の方が先に動いてる。
――やらせでも上手い。
――中のやつ笑ってない?
ゾーイが一歩踏み出した。
「メアリー」
「はい」
メアリーが動く。
だが、その足が止まった。
鏡の中のメアリーが、現実より先に右肩を押さえたのだ。
現実のメアリーの右肩に巻かれた包帯が、じわりと黒く滲む。
「メアリー!」
「問題ございません」
メアリーは即座に答えた。
だが、声はいつもより僅かに硬い。
ゾーイの影が足元で濃くなる。
その瞬間、鏡面がわずかに曇った。
鏡の中のゾーイだけが、こちらを向く。
現実のゾーイはまだ鏡を見ている。
だが、鏡の中のゾーイは、鏡の内側から、現実のゾーイではなくカメラの向こうを見た。
画面のコメントが止まる。
ほんの一秒。
次の瞬間、爆発するように新しい文字列が流れ始めた。
――今こっち見た。
――やば。
――黒い子こっち見た。
――名前なに?
――ゾーちゃんって呼ばれてなかった?
――ゾーちゃん?
――ゾーちゃんかわいい。
――演者?
――呪いの鏡の中の子?
――こっち見ろ。
――もっと映せ。
「……撮影を止めなさい」
ゾーイの声は静かだった。
だが、会場の照明が一瞬だけ暗くなった。
男はスマートフォンへ手を伸ばそうとした。
けれど、指が動かない。
画面の中で、鏡の男が笑っていた。
現実の男は、笑っていない。
むしろ青ざめ、唇を震わせている。
それなのに、鏡の中の男だけが、カメラを構えたまま、口の端を吊り上げていた。
ゆっくりと。
遅れてではなく。
先に。
鏡の中の男が、カメラの向こうへ笑った。
そして、現実の男の口元が、何かに引っ張られるように、遅れて同じ形へ歪み始めた。