笑っていた。
鏡の中の男が。
現実の男は、笑っていない。
青ざめた顔で、唇を震わせ、スマートフォンへ手を伸ばそうとしている。
だが、鏡の中の男だけが、カメラを構えたまま笑っていた。
楽しげな笑みではなかった。
誰かに見られていることを知っている顔だった。
「やめ……」
男の喉から、掠れた声が漏れる。
だが、その声とは逆に、彼の口元はゆっくりと吊り上がっていく。
鏡の中の笑みを、少し遅れてなぞるように。
「やめろ……なんだよ、これ……」
男はスマートフォンを見た。
画面の端で、数字が跳ねていた。
コメントが流れている。
赤い表示も、そのまま残っている。
「……嘘だろ」
震えた声が漏れた。
「こんな数字……見たことない……」
ペンドルトンの目が細くなる。
「数字?」
男は答えない。
ただ、スマートフォンの画面だけが赤く光っていた。
流れ続けるコメント。
増えていく数字。
配信中を示す表示。
ペンドルトンの顔色が変わった。
「……生配信というやつか」
男の喉が鳴る。
「ち、違……会場紹介の一部で……」
「今すぐ切れ。これ以上、誰にも見せるな」
ペンドルトンが踏み出そうとした。
だが、足が止まった。
鏡の中のペンドルトンが、まだ動いていない。
現実の彼は歯を食いしばる。
靴底が床を擦る。
ほんの一歩。
それだけの動きに、ひどく重い抵抗がかかっていた。
「……くそ」
ペンドルトンは低く吐き捨てた。
「ただの姿見に、足止めされてたまるか」
足が、床を踏む。
一歩。
現実のペンドルトンが、鏡の中よりわずかに先へ出た。
その瞬間、会場の空気が軋んだ。
展示台の白布が震える。
照明が細かく明滅する。
鏡の中のペンドルトンが、遅れて同じ一歩を踏み出した。
「警部様」
メアリーが静かに言った。
「無理に動けば、反動がございます」
「止まっていれば、あいつが撮り続ける」
ペンドルトンは、鏡ではなく男を見た。
「全員、鏡を見るな! 床を見るか、目を閉じろ! スタッフは内覧客を壁際へ下げろ。撮影機材は停止だ!」
警察官としての声だった。
この場にいる者が従うための、強い命令。
数人のスタッフが、はっとしたように動きかける。
だが、その動きも途中で歪んだ。
鏡の中のスタッフが、先に顔を上げている。
現実のスタッフは、下を向こうとしている。
けれど、首が遅れて鏡の中と同じ角度へ持ち上がろうとする。
「見るな!」
ペンドルトンが怒鳴る。
その声で、ひとりの女性客が悲鳴を噛み殺すように目を閉じた。
別の男が膝をつき、床へ視線を落とす。
だが、全員ではない。
鏡の中の自分が動く。
現実の身体が、それを追わされる。
気づいてしまった者ほど、逆に鏡から目を離せなくなっていた。
「ゾーちゃん……」
カレンの声が震えた。
彼女は鏡を見ないようにしながらも、顔を上げかけてしまう。
鏡の中のカレンが、こちらを見ていたからだ。
現実のカレンは、まだ動いていない。
だが、鏡の中のカレンは、もう小さく笑っている。
笑顔に見える形で、口元だけを歪めている。
「見ないでくださいまし、カレン」
ゾーイの声が落ちた。
静かだった。
だが、いつもの軽い皮肉はない。
「鏡の中のあなたへ、先を譲ってはいけませんわ」
「そんなこと言われても……!」
カレンは両手で口元を押さえた。
「わたし、動いてないのに……向こうが、勝手に……」
「ええ。だからこそ、見てはいけません」
ゾーイの足元で、影が濃くなりかけた。
しかし、すぐに止まる。
広がらない。
床の陰影が一瞬だけ深くなった程度で、誰かが見ても照明の揺らぎにしか見えなかった。
ペンドルトンが、横目でゾーイを見る。
ゾーイは鏡から目を逸らさないまま、かすかに唇を引き結んでいた。
ここには一般人がいる。
撮影機材がある。
その釘は、まだ生きている。
「随分と不便な現場ですこと」
ゾーイが小さく言った。
「文句は後で聞く」
ペンドルトンは短く返す。
「今は人間の手で止める」
「でしたら、お早く」
「分かっている」
ペンドルトンは男へ向き直った。
「機材を下ろせ。今すぐだ」
男は震える手でジンバルを下げようとした。
現実の腕は、確かに下がろうとしている。
だが、鏡の中の男は下げない。
鏡の中の男は、むしろカメラを高く持ち上げた。
現実の男の腕が止まる。
筋が浮く。
肩が震える。
それでも、腕は下がらない。
「違う……俺じゃない……」
男の声は泣きそうだった。
「俺、下ろそうとしてるんだよ……!」
スマートフォンのコメント欄が流れる。
――なにこれ。
――演技うま。
――警察ガチ?
――CGだろ。
――いや手の震えリアルすぎ。
――切るな。
――ここで切るな。
――もっと近づけ。
――鏡の中のやつ笑ってる。
――黒い子映せ。
――ゾーちゃん映せ。
――こっち見ろ。
――こっち見ろ。
同じ言葉が、いくつも重なる。
こっち見ろ。
こっち見ろ。
こっち見ろ。
その文字が、画面の上を流れるたび、鏡面の奥がわずかに曇った。
曇りの中へ、文字の影が沈んでいく。
ゾーイが目を細める。
「見られるだけでは飽き足らず、呼ばれることまで覚えましたのね」
メアリーが床の黒布へ視線を落とす。
銀糸の縫い目は、ところどころ切れている。
だが、完全に死んではいない。
「お嬢様。黒布は、まだ使えるかもしれません」
「メアリー」
ゾーイの声が少し低くなった。
「その肩で動くおつもり?」
「この肩で済むなら、安いものでございます」
「まったく、主人に似て頑固なメイドだな」
ペンドルトンが言う。
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
「褒めていない」
「よく言われます」
メアリーは穏やかに返し、黒布へ向かって一歩進んだ。
その動きに、鏡の中のメアリーが反応する。
鏡の中の彼女は、現実より早く右肩を押さえた。
次の瞬間、現実のメアリーの包帯が黒く滲む。
「っ……」
ごく小さな吐息。
それだけだった。
メアリーは表情を変えず、床の黒布を掴んだ。
「メアリーさん!」
カレンが声を上げる。
「動かないでください、カレン様」
メアリーは黒布の端を握ったまま言う。
「今は、動かない方が安全でございます」
「でも……!」
「ご心配には及びません。肩が少々騒がしいだけでございます」
「それ、普通の人なら絶対アウトなやつだよね!?」
「メイドとして鍛えておりますので」
カレンは泣きそうな顔になった。
「そういう問題じゃないって……」
その声を、スマートフォンが拾った。
コメント欄が跳ねる。
――メイドとして鍛えるって何。
――メイドさん強すぎ。
――設定凝ってるな。
――カレン泣きそう。
――カレンかわいい。
――カレン映せ。
――カレン映せ。
――鏡のカレン映せ。
――鏡の方が笑ってる。
――笑って。
――笑って。
――笑って。
カレンの肩が震えた。
鏡の中のカレンが、少しだけ顔を上げる。
現実のカレンは上げていない。
だが、顎の下に、見えない糸でも掛けられたような感覚があった。
「……嫌」
カレンは呟いた。
声は小さい。
それでも、画面は拾う。
――嫌だって。
――リアル。
――演技なら上手い。
――本物っぽくて草。
――もっと怖がらせろ。
――鏡の中のカレン笑ってるじゃん。
――そっちが本物?
――本物はどっち?
――映ってる方が本物だろ。
鏡面の奥で、カレンの像が濃くなった。
現実のカレンの輪郭が、少しだけ薄く見える。
ゾーイの瞳から温度が消えた。
「実に下品ですこと」
静かな声だった。
「他人の恐怖を、感想欄の玩具になさるなんて」
照明が、また一瞬だけ暗くなる。
ペンドルトンが鋭く言った。
「お前、分かってるな」
「分かっておりますわ」
ゾーイは動かない。
影も広げない。
ただ、鏡の中の自分を見据えている。
鏡の中のゾーイは、現実のゾーイより先に、配信画面の向こうを見ていた。
何百、何千という視線の先を。
コメントが一瞬止まる。
そして、また流れ出した。
――今見た。
――こっち見た。
――ゾーちゃんこっち見た。
――ゾーちゃんって名前でいいの?
――黒い鏡のゾーちゃん。
――呪いの鏡の中の子。
――本物より鏡の方が怖い。
――出てこい。
――出てこい。
――出てこい。
ゾーイの指先が、わずかに強張った。
現実のゾーイは、何も答えない。
だが、鏡の中のゾーイの唇が、少しだけ動きかけた。
カレンは、それを見てしまった。
鏡の中のゾーイが、現実のゾーイより少しだけ遠くにいる。
画面の向こうから呼ばれる名前に、少しずつ引っ張られている。
そんなふうに見えた。
「ゾーちゃん……?」
カレンの胸が冷たくなる。
嫌だ。
それだけは、嫌だ。
黒い子でもない。
演者でもない。
呪いの鏡の中の何かでもない。
ゾーちゃんは、ゾーちゃんだ。
そう言おうとした。
だが、鏡の中のカレンが先に口を開いた。
現実のカレンよりも早く。
鏡の中のカレンは、笑みの形をした何かを浮かべ、配信画面の方へ顔を向けた。
その口が、ゆっくりと動く。
『わたしも、映して』
現実のカレンの唇が、遅れて同じ形へ動こうとする。
「い、や……!」
カレンは両手で口を押さえた。
その足元で、影が一瞬だけ濃くなる。
誰かが見れば、照明の揺らぎにしか見えなかったかもしれない。
だが、その影は確かにカレンの靴先を押さえ、鏡の中の動きへ引かれかけた足を止めていた。
ゾーイは、何もしていない顔をしている。
ペンドルトンも、見なかったことにした。
「全員、下がれ!」
ペンドルトンが声を張る。
「そこの記者、そこから動くな! そっちは黒布を頼む!」
「承知しております」
メアリーが黒布を引き上げた。
だが、布は重い。
ただの布ではない。
床に落ちた瞬間から、鏡の中へ縫い付けられているかのようだった。
銀糸がきしむ。
メアリーの右肩から、さらに黒い滲みが広がる。
それでも、彼女は手を離さない。
「警部様。照明を落とせますか」
「完全にか?」
「鏡面への直接光を減らせば、少しは布を掛けやすくなるかと」
ペンドルトンはスタッフへ怒鳴った。
「照明を落とせ! 奥の展示灯だけでいい、今すぐだ!」
スタッフの一人が、震えながら壁際の操作盤へ手を伸ばす。
だが、鏡の中のスタッフが先に別のスイッチへ触れようとしていた。
現実の指が、それを追いかける。
「見るな! 手元だけで探せ!」
ペンドルトンが叫ぶ。
スタッフは歯を食いしばり、目を閉じた。
震える指が、操作盤の上を迷う。
「展示灯です。会場全体ではなく、奥の展示灯だけを」
メアリーが静かに補足した。
スタッフは頷く代わりに、息を呑んだ。
そして、目を閉じたまま、震える指で操作盤の一つを押し込む。
ぱん、と小さな音が鳴る。
会場奥の仮設照明が、いくつか落ちた。
鏡面の光がわずかに弱まる。
その瞬間、メアリーが黒布を引き上げた。
半分。
鏡の下側だけが覆われる。
会場内の足元が、鏡から消えた。
数人の内覧客が、その場へ崩れるように座り込む。
身体の主導権が、少しだけ戻ったのだ。
「いけるか!」
ペンドルトンが叫ぶ。
「半分までなら」
メアリーの声は落ち着いていた。
だが、肩口の黒い滲みはもう隠せない。
「それ以上は、鏡側が布を噛んでおります」
鏡の中の男が、笑った。
現実の男は泣きそうな顔で首を振る。
「違う……俺じゃない……俺じゃないんだ……」
だが、その目は、またスマートフォンの数字を見た。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
恐怖よりも、数字を見た。
ペンドルトンはそれを見逃さなかった。
「お前」
声が低くなる。
「まだ数字を見ているな」
男の顔が歪む。
「違う……! 違います、俺は止めようとして……」
「なら切れ」
「分かってる!」
「分かっているなら切れ!」
怒鳴り声が会場に響く。
男の指が、スマートフォンの画面へ向かう。
配信停止のボタンへ。
だが、鏡の中の男は、別の動きをした。
スマートフォンではない。
ジンバルの角度を変えた。
カメラのレンズが、ゆっくりとカレンの方へ向く。
現実の男の手首が、遅れて同じ方向へ曲がり始める。
「やめろ!」
ペンドルトンが拳銃を抜いた。
撃てない。
相手は人間だ。
しかも、本人の意思で動いているのか、鏡に動かされているのかも分からない。
それでも、銃口を向けるしかなかった。
「その手を止めろ!」
「止めてる! 止めてるんだよ!」
男は泣きそうな声で叫んだ。
しかし、カメラは止まらない。
コメントが流れる。
――カレン映せ。
――映せ。
――映せ。
――映る価値あるよ。
――映せば伸びる。
――切るな。
――今切るな。
――神回だぞ。
――カレン笑って。
――鏡のカレン笑って。
カレンの顔が青ざめる。
鏡の中のカレンが、先に微笑んだ。
現実のカレンの口元が、遅れて引かれ始める。
「いや……!」
カレンは口を押さえたまま、膝を折りそうになる。
その瞬間、ゾーイが一歩だけ動いた。
派手な影は広がらない。
黒い咢も開かない。
ただ、彼女はカレンの前へ立った。
小柄な体で、カメラとカレンの間へ入る。
その姿は、ただの黒衣の令嬢に見えた。
少なくとも、画面越しには。
だが、鏡の中では違った。
鏡の中のゾーイは、現実のゾーイより先にカレンの前へ立ち、配信画面の向こうを睨んでいた。
視聴者のコメントが跳ねる。
――ゾーちゃん前出た。
――守ってる?
――ヒロインかよ。
――黒い子映った。
――ゾーちゃん映せ。
――ゾーちゃん笑って。
――呪いの鏡の子。
――出てこい。
――出てこい。
――出てこい。
鏡の中のゾーイの輪郭が、わずかに揺らいだ。
現実のゾーイの足元の影が、濃くなる。
だが、彼女はまだ耐えた。
人前で。
カメラの前で。
自分の名を好き勝手に呼ぶ、無数の視線の前で。
ゾーイは、ただ微笑んだ。
冷たい、淑女の微笑だった。
「ずいぶんと、見る目のないお客様方ですこと」
その声は、配信にも乗った。
「わたくしをお呼びになるには、少々お行儀が足りませんわ」
コメントが一瞬、止まる。
その隙に、カレンが息を吸った。
だが、声はまだ出ない。
鏡の中のカレンが黙っている。
だから、現実のカレンも黙らされる。
それでも、カレンは口元を押さえた手に力を込めた。
違う。
わたしは、あれじゃない。
あれは、わたしじゃない。
その言葉を、まだ声にはできない。
メアリーが黒布をさらに引く。
銀糸が一本、切れた。
ぱちん、と乾いた音。
鏡の下半分を覆っていた布が、少しずつずり落ちようとする。
「お嬢様」
メアリーが言った。
「これ以上は、外からでは困難でございます」
「でしょうね」
ゾーイは、鏡の中の自分を見た。
鏡の中のゾーイは、まだ先に動こうとしている。
視聴者の呼び声を受けて、現実のゾーイより先に、何か別の形へなろうとしている。
黒い子。
演者。
呪いの鏡の中の子。
ゾーちゃん。
出てこい。
勝手な言葉が、鏡の奥で輪郭を作っていく。
カレンは、それを見た。
見てしまった。
ゾーイが、少しだけ遠くなる。
自分たちの知っているゾーちゃんではなく、画面の向こうの誰かが勝手に呼ぶ何かへ、引き寄せられていく。
その感覚が、怖かった。
鏡の中のカレンが、また口を開く。
『わたしも、そっちへ――』
「違う」
ようやく、声が出た。
小さな声だった。
けれど、カレン自身の声だった。
「違う……」
カレンは両手で口を押さえたまま、震える息を吐いた。
「わたしは、そっちに行かない」
鏡の中のカレンの笑みが、わずかに歪む。
コメントが流れる。
――カレン喋った。
――がんばれ。
――いや演出だろ。
――ゾーちゃん守れ。
――ゾーちゃん何者?
――鏡のゾーちゃん出てこい。
――名前呼べ。
――ゾーちゃん。
――ゾーちゃん。
――ゾーちゃん。
その呼び方が、何度も流れる。
カレンの中で、何かが切れた。
その名前を、そんなふうに呼ばないで。
面白半分に。
知らないくせに。
勝手な意味を貼り付けて。
鏡の中の何かへ渡すみたいに。
カレンは、顔を上げた。
鏡を見ない。
カメラも見ない。
ゾーイの背中だけを見る。
「ゾーちゃん」
声はまだ震えていた。
だが、今度ははっきり届いた。
「わたしの知ってるゾーちゃんは、そっちじゃない」
ゾーイの肩が、ほんのわずかに動いた。
鏡の中のゾーイが、初めて遅れた。
現実のゾーイより、ほんの少しだけ。
その一瞬を、ペンドルトンは逃さなかった。
「今だ、そっち!」
「はい」
メアリーが黒布を引き上げる。
ペンドルトンが男へ飛びかかった。
拳銃ではない。
肩からぶつかるようにして、男の腕を押さえ込む。
ジンバルが大きく揺れた。
カメラのレンズが、鏡から外れる。
スマートフォンの画面に、天井と床が乱れて映った。
「切れ!」
ペンドルトンが怒鳴る。
男の指が画面へ伸びる。
今度は、鏡の中の男の動きよりも早かった。
ほんの一瞬だけ、現実が先に動いた。
配信停止の確認表示が出る。
男の指が震える。
その指先が、画面へ触れようとした。
だが、直前で止まる。
視聴者数が、また増えた。
男の目が、それを見てしまった。
一瞬。
本当に一瞬。
だが、その一瞬で十分だった。
鏡の中の男が、笑った。
現実の男の指が、配信停止ではなく、カメラ切替の方へ滑る。
「お前――!」
ペンドルトンが腕を捻る。
スマートフォンが男の手から離れた。
床へ落ちる。
画面が割れる。
それでも、配信は切れない。
ひび割れた画面の向こうで、コメントが流れ続けている。
――落ちた。
――まだ映ってる。
――音聞こえる。
――切るな。
――切るな。
――切るな。
――見せろ。
――鏡を見せろ。
――カレン映せ。
――ゾーちゃん映せ。
スマートフォンは床を向いている。
映っているのは、足元と白い布だけ。
それなのに、コメントは止まらない。
見えなくても、見ようとしている。
映っていなくても、映せと求めている。
その欲が、鏡の奥へ沈んでいく。
黒布が、また少しずり落ちた。
鏡面の上半分が、露出する。
そこに映っていたのは、現実の会場ではなかった。
画面の向こう側だった。
無数の端末。
暗い部屋。
笑いながら画面を見る顔。
コメントを打つ指。
切り抜き用に録画を始める別の画面。
それらが、鏡の中で一瞬だけ重なった。
ゾーイの声が低くなる。
「……なるほど」
冷え切った声だった。
「ただの鏡ではなく、礼拝堂を作り始めましたのね」
カレンは、その意味が分からなかった。
だが、分からなくても危ないことだけは分かった。
鏡は、もう会場だけを映していない。
配信を見ている側――画面の向こうにいるはずの者たちまで、こちら側へ映し返そうとしている。
鏡の中のカレンが、先に微笑んだ。
現実のカレンの口元が、また引かれる。
今度は止められない。
喉の奥から、知らない笑い声が上がりそうになる。
「カレン!」
ゾーイが振り返る。
その顔に、はっきりと焦りがあった。
カレンは思った。
珍しいな。
ゾーちゃんが、そんな顔をするなんて。
その呼び方は、いつもなら軽い冗談だった。
少し古風で、少し偉そうで、けれど紅茶の前では妙に楽しそうになる友人へ、勝手につけた呼び名。
けれど、画面の向こうで流れている同じ文字は違う。
あれは呼びかけではない。
名前を貼って、見世物にして、鏡の中へ押し込もうとしているだけだ。
そう気づいた瞬間、怖さより先に腹が立った。
勝手に呼ばないで。
勝手に決めないで。
ゾーちゃんは、あんたたちの玩具じゃない。
だから、カレンは口を開いた。
自分の意思で。
鏡の中の自分よりも、先に。
「ゾーちゃんは――」
声が震える。
けれど、出た。
「ゾーちゃんは、ゾーちゃんなんだよ!」
その瞬間。
鏡の中のゾーイが、初めて完全に止まった。
現実のゾーイだけが、カレンを見た。
ひび割れたスマートフォンの画面で、コメントが一斉に流れる。
――なに今の。
――名前?
――ゾーちゃん?
――ゾーちゃんはゾーちゃん。
――ゾーちゃんはゾーちゃん。
――ゾーちゃんはゾーちゃん。
――ゾーちゃんは――
そこで、ゾーイが静かに微笑んだ。
それは、鏡へ向けた笑みではなかった。
画面の向こうへ向けた笑みでもなかった。
カレンへだけ向けられた、ほんの小さな笑みだった。
「ええ」
ゾーイは答えた。
「その通りですわ」
黒布が、メアリーの手の中で大きく揺れた。
鏡の中の笑みが、わずかに歪む。
ペンドルトンが、床のスマートフォンを踏みつけた。
画面が砕ける。
配信が、途切れる。
会場に、遅れて沈黙が落ちた。
だが、鏡の中の笑みは、まだ消えていなかった。
黒布の向こうで。
名を呼ばれたもののように。
あるいは、名を覚えたもののように。