悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第十六話「映る価値」

 笑っていた。

 鏡の中の男が。

 

 現実の男は、笑っていない。

 青ざめた顔で、唇を震わせ、スマートフォンへ手を伸ばそうとしている。

 

 だが、鏡の中の男だけが、カメラを構えたまま笑っていた。

 楽しげな笑みではなかった。

 誰かに見られていることを知っている顔だった。

 

「やめ……」

 

 男の喉から、掠れた声が漏れる。

 だが、その声とは逆に、彼の口元はゆっくりと吊り上がっていく。

 鏡の中の笑みを、少し遅れてなぞるように。

 

「やめろ……なんだよ、これ……」

 

 男はスマートフォンを見た。

 画面の端で、数字が跳ねていた。

 コメントが流れている。

 赤い表示も、そのまま残っている。

 

「……嘘だろ」

 

 震えた声が漏れた。

 

「こんな数字……見たことない……」

 

 ペンドルトンの目が細くなる。

 

「数字?」

 

 男は答えない。

 

 ただ、スマートフォンの画面だけが赤く光っていた。

 

 流れ続けるコメント。

 増えていく数字。

 配信中を示す表示。

 

 ペンドルトンの顔色が変わった。

 

「……生配信というやつか」

 

 男の喉が鳴る。

 

「ち、違……会場紹介の一部で……」

「今すぐ切れ。これ以上、誰にも見せるな」

 

 ペンドルトンが踏み出そうとした。

 

 だが、足が止まった。

 

 鏡の中のペンドルトンが、まだ動いていない。

 

 現実の彼は歯を食いしばる。

 靴底が床を擦る。

 ほんの一歩。

 

 それだけの動きに、ひどく重い抵抗がかかっていた。

 

「……くそ」

 

 ペンドルトンは低く吐き捨てた。

 

「ただの姿見に、足止めされてたまるか」

 

 足が、床を踏む。

 

 一歩。

 

 現実のペンドルトンが、鏡の中よりわずかに先へ出た。

 

 その瞬間、会場の空気が軋んだ。

 

 展示台の白布が震える。

 照明が細かく明滅する。

 鏡の中のペンドルトンが、遅れて同じ一歩を踏み出した。

 

「警部様」

 

 メアリーが静かに言った。

 

「無理に動けば、反動がございます」

「止まっていれば、あいつが撮り続ける」

 

 ペンドルトンは、鏡ではなく男を見た。

 

「全員、鏡を見るな! 床を見るか、目を閉じろ! スタッフは内覧客を壁際へ下げろ。撮影機材は停止だ!」

 

 警察官としての声だった。

 

 この場にいる者が従うための、強い命令。

 

 数人のスタッフが、はっとしたように動きかける。

 

 だが、その動きも途中で歪んだ。

 

 鏡の中のスタッフが、先に顔を上げている。

 現実のスタッフは、下を向こうとしている。

 けれど、首が遅れて鏡の中と同じ角度へ持ち上がろうとする。

 

「見るな!」

 

 ペンドルトンが怒鳴る。

 

 その声で、ひとりの女性客が悲鳴を噛み殺すように目を閉じた。

 

 別の男が膝をつき、床へ視線を落とす。

 

 だが、全員ではない。

 

 鏡の中の自分が動く。

 現実の身体が、それを追わされる。

 気づいてしまった者ほど、逆に鏡から目を離せなくなっていた。

 

「ゾーちゃん……」

 

 カレンの声が震えた。

 

 彼女は鏡を見ないようにしながらも、顔を上げかけてしまう。

 

 鏡の中のカレンが、こちらを見ていたからだ。

 

 現実のカレンは、まだ動いていない。

 だが、鏡の中のカレンは、もう小さく笑っている。

 

 笑顔に見える形で、口元だけを歪めている。

 

「見ないでくださいまし、カレン」

 

 ゾーイの声が落ちた。

 

 静かだった。

 

 だが、いつもの軽い皮肉はない。

 

「鏡の中のあなたへ、先を譲ってはいけませんわ」

 

「そんなこと言われても……!」

 

 カレンは両手で口元を押さえた。

 

「わたし、動いてないのに……向こうが、勝手に……」

 

「ええ。だからこそ、見てはいけません」

 

 ゾーイの足元で、影が濃くなりかけた。

 

 しかし、すぐに止まる。

 

 広がらない。

 

 床の陰影が一瞬だけ深くなった程度で、誰かが見ても照明の揺らぎにしか見えなかった。

 

 ペンドルトンが、横目でゾーイを見る。

 

 ゾーイは鏡から目を逸らさないまま、かすかに唇を引き結んでいた。

 

 ここには一般人がいる。

 撮影機材がある。

 

 その釘は、まだ生きている。

 

「随分と不便な現場ですこと」

 

 ゾーイが小さく言った。

 

「文句は後で聞く」

 

 ペンドルトンは短く返す。

 

「今は人間の手で止める」

 

「でしたら、お早く」

 

「分かっている」

 

 ペンドルトンは男へ向き直った。

 

「機材を下ろせ。今すぐだ」

 

 男は震える手でジンバルを下げようとした。

 

 現実の腕は、確かに下がろうとしている。

 

 だが、鏡の中の男は下げない。

 

 鏡の中の男は、むしろカメラを高く持ち上げた。

 

 現実の男の腕が止まる。

 

 筋が浮く。

 肩が震える。

 それでも、腕は下がらない。

 

「違う……俺じゃない……」

 

 男の声は泣きそうだった。

 

「俺、下ろそうとしてるんだよ……!」

 

 スマートフォンのコメント欄が流れる。

 

 ――なにこれ。

 ――演技うま。

 ――警察ガチ?

 ――CGだろ。

 ――いや手の震えリアルすぎ。

 ――切るな。

 ――ここで切るな。

 ――もっと近づけ。

 ――鏡の中のやつ笑ってる。

 ――黒い子映せ。

 ――ゾーちゃん映せ。

 ――こっち見ろ。

 ――こっち見ろ。

 

 同じ言葉が、いくつも重なる。

 

 こっち見ろ。

 

 こっち見ろ。

 

 こっち見ろ。

 

 その文字が、画面の上を流れるたび、鏡面の奥がわずかに曇った。

 

 曇りの中へ、文字の影が沈んでいく。

 

 ゾーイが目を細める。

 

「見られるだけでは飽き足らず、呼ばれることまで覚えましたのね」

 

 メアリーが床の黒布へ視線を落とす。

 

 銀糸の縫い目は、ところどころ切れている。

 だが、完全に死んではいない。

 

「お嬢様。黒布は、まだ使えるかもしれません」

「メアリー」

 

 ゾーイの声が少し低くなった。

 

「その肩で動くおつもり?」

「この肩で済むなら、安いものでございます」

 

「まったく、主人に似て頑固なメイドだな」

 

 ペンドルトンが言う。

 

「お褒めにあずかり、光栄でございます」

 

「褒めていない」

 

「よく言われます」

 

 メアリーは穏やかに返し、黒布へ向かって一歩進んだ。

 

 その動きに、鏡の中のメアリーが反応する。

 

 鏡の中の彼女は、現実より早く右肩を押さえた。

 

 次の瞬間、現実のメアリーの包帯が黒く滲む。

 

「っ……」

 

 ごく小さな吐息。

 

 それだけだった。

 

 メアリーは表情を変えず、床の黒布を掴んだ。

 

「メアリーさん!」

 

 カレンが声を上げる。

 

「動かないでください、カレン様」

 

 メアリーは黒布の端を握ったまま言う。

 

「今は、動かない方が安全でございます」

 

「でも……!」

 

「ご心配には及びません。肩が少々騒がしいだけでございます」

 

「それ、普通の人なら絶対アウトなやつだよね!?」

 

「メイドとして鍛えておりますので」

 

 カレンは泣きそうな顔になった。

 

「そういう問題じゃないって……」

 

 その声を、スマートフォンが拾った。

 

 コメント欄が跳ねる。

 

 ――メイドとして鍛えるって何。

 ――メイドさん強すぎ。

 ――設定凝ってるな。

 ――カレン泣きそう。

 ――カレンかわいい。

 ――カレン映せ。

 ――カレン映せ。

 ――鏡のカレン映せ。

 ――鏡の方が笑ってる。

 ――笑って。

 ――笑って。

 ――笑って。

 

 カレンの肩が震えた。

 

 鏡の中のカレンが、少しだけ顔を上げる。

 

 現実のカレンは上げていない。

 

 だが、顎の下に、見えない糸でも掛けられたような感覚があった。

 

「……嫌」

 

 カレンは呟いた。

 

 声は小さい。

 

 それでも、画面は拾う。

 

 ――嫌だって。

 ――リアル。

 ――演技なら上手い。

 ――本物っぽくて草。

 ――もっと怖がらせろ。

 ――鏡の中のカレン笑ってるじゃん。

 ――そっちが本物?

 ――本物はどっち?

 ――映ってる方が本物だろ。

 

 鏡面の奥で、カレンの像が濃くなった。

 

 現実のカレンの輪郭が、少しだけ薄く見える。

 

 ゾーイの瞳から温度が消えた。

 

「実に下品ですこと」

 

 静かな声だった。

 

「他人の恐怖を、感想欄の玩具になさるなんて」

 

 照明が、また一瞬だけ暗くなる。

 

 ペンドルトンが鋭く言った。

 

「お前、分かってるな」

 

「分かっておりますわ」

 

 ゾーイは動かない。

 

 影も広げない。

 

 ただ、鏡の中の自分を見据えている。

 

 鏡の中のゾーイは、現実のゾーイより先に、配信画面の向こうを見ていた。

 

 何百、何千という視線の先を。

 

 コメントが一瞬止まる。

 

 そして、また流れ出した。

 

 ――今見た。

 ――こっち見た。

 ――ゾーちゃんこっち見た。

 ――ゾーちゃんって名前でいいの?

 ――黒い鏡のゾーちゃん。

 ――呪いの鏡の中の子。

 ――本物より鏡の方が怖い。

 ――出てこい。

 ――出てこい。

 ――出てこい。

 

 ゾーイの指先が、わずかに強張った。

 

 現実のゾーイは、何も答えない。

 

 だが、鏡の中のゾーイの唇が、少しだけ動きかけた。

 

 カレンは、それを見てしまった。

 

 鏡の中のゾーイが、現実のゾーイより少しだけ遠くにいる。

 

 画面の向こうから呼ばれる名前に、少しずつ引っ張られている。

 

 そんなふうに見えた。

 

「ゾーちゃん……?」

 

 カレンの胸が冷たくなる。

 

 嫌だ。

 

 それだけは、嫌だ。

 

 黒い子でもない。

 演者でもない。

 呪いの鏡の中の何かでもない。

 

 ゾーちゃんは、ゾーちゃんだ。

 

 そう言おうとした。

 

 だが、鏡の中のカレンが先に口を開いた。

 

 現実のカレンよりも早く。

 

 鏡の中のカレンは、笑みの形をした何かを浮かべ、配信画面の方へ顔を向けた。

 

 その口が、ゆっくりと動く。

 

『わたしも、映して』

 

 現実のカレンの唇が、遅れて同じ形へ動こうとする。

 

「い、や……!」

 

 カレンは両手で口を押さえた。

 

 その足元で、影が一瞬だけ濃くなる。

 

 誰かが見れば、照明の揺らぎにしか見えなかったかもしれない。

 

 だが、その影は確かにカレンの靴先を押さえ、鏡の中の動きへ引かれかけた足を止めていた。

 

 ゾーイは、何もしていない顔をしている。

 

 ペンドルトンも、見なかったことにした。

 

「全員、下がれ!」

 

 ペンドルトンが声を張る。

 

「そこの記者、そこから動くな! そっちは黒布を頼む!」

 

「承知しております」

 

 メアリーが黒布を引き上げた。

 

 だが、布は重い。

 

 ただの布ではない。

 床に落ちた瞬間から、鏡の中へ縫い付けられているかのようだった。

 

 銀糸がきしむ。

 

 メアリーの右肩から、さらに黒い滲みが広がる。

 

 それでも、彼女は手を離さない。

 

「警部様。照明を落とせますか」

 

「完全にか?」

 

「鏡面への直接光を減らせば、少しは布を掛けやすくなるかと」

 

 ペンドルトンはスタッフへ怒鳴った。

 

「照明を落とせ! 奥の展示灯だけでいい、今すぐだ!」

 

 スタッフの一人が、震えながら壁際の操作盤へ手を伸ばす。

 

 だが、鏡の中のスタッフが先に別のスイッチへ触れようとしていた。

 

 現実の指が、それを追いかける。

 

「見るな! 手元だけで探せ!」

 

 ペンドルトンが叫ぶ。

 

 スタッフは歯を食いしばり、目を閉じた。

 

 震える指が、操作盤の上を迷う。

 

「展示灯です。会場全体ではなく、奥の展示灯だけを」

 

 メアリーが静かに補足した。

 

 スタッフは頷く代わりに、息を呑んだ。

 

 そして、目を閉じたまま、震える指で操作盤の一つを押し込む。

 

 ぱん、と小さな音が鳴る。

 

 会場奥の仮設照明が、いくつか落ちた。

 

 鏡面の光がわずかに弱まる。

 

 その瞬間、メアリーが黒布を引き上げた。

 

 半分。

 

 鏡の下側だけが覆われる。

 

 会場内の足元が、鏡から消えた。

 

 数人の内覧客が、その場へ崩れるように座り込む。

 

 身体の主導権が、少しだけ戻ったのだ。

 

「いけるか!」

 

 ペンドルトンが叫ぶ。

 

「半分までなら」

 

 メアリーの声は落ち着いていた。

 

 だが、肩口の黒い滲みはもう隠せない。

 

「それ以上は、鏡側が布を噛んでおります」

 

 鏡の中の男が、笑った。

 

 現実の男は泣きそうな顔で首を振る。

 

「違う……俺じゃない……俺じゃないんだ……」

 

 だが、その目は、またスマートフォンの数字を見た。

 

 一瞬。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 恐怖よりも、数字を見た。

 

 ペンドルトンはそれを見逃さなかった。

 

「お前」

 

 声が低くなる。

 

「まだ数字を見ているな」

 

 男の顔が歪む。

 

「違う……! 違います、俺は止めようとして……」

「なら切れ」

 

「分かってる!」

 

「分かっているなら切れ!」

 

 怒鳴り声が会場に響く。

 

 男の指が、スマートフォンの画面へ向かう。

 

 配信停止のボタンへ。

 

 だが、鏡の中の男は、別の動きをした。

 

 スマートフォンではない。

 

 ジンバルの角度を変えた。

 

 カメラのレンズが、ゆっくりとカレンの方へ向く。

 

 現実の男の手首が、遅れて同じ方向へ曲がり始める。

 

「やめろ!」

 

 ペンドルトンが拳銃を抜いた。

 

 撃てない。

 

 相手は人間だ。

 

 しかも、本人の意思で動いているのか、鏡に動かされているのかも分からない。

 

 それでも、銃口を向けるしかなかった。

 

「その手を止めろ!」

 

「止めてる! 止めてるんだよ!」

 

 男は泣きそうな声で叫んだ。

 

 しかし、カメラは止まらない。

 

 コメントが流れる。

 

 ――カレン映せ。

 ――映せ。

 ――映せ。

 ――映る価値あるよ。

 ――映せば伸びる。

 ――切るな。

 ――今切るな。

 ――神回だぞ。

 ――カレン笑って。

 ――鏡のカレン笑って。

 

 カレンの顔が青ざめる。

 

 鏡の中のカレンが、先に微笑んだ。

 

 現実のカレンの口元が、遅れて引かれ始める。

 

「いや……!」

 

 カレンは口を押さえたまま、膝を折りそうになる。

 

 その瞬間、ゾーイが一歩だけ動いた。

 

 派手な影は広がらない。

 

 黒い咢も開かない。

 

 ただ、彼女はカレンの前へ立った。

 

 小柄な体で、カメラとカレンの間へ入る。

 

 その姿は、ただの黒衣の令嬢に見えた。

 

 少なくとも、画面越しには。

 

 だが、鏡の中では違った。

 

 鏡の中のゾーイは、現実のゾーイより先にカレンの前へ立ち、配信画面の向こうを睨んでいた。

 

 視聴者のコメントが跳ねる。

 

 ――ゾーちゃん前出た。

 ――守ってる?

 ――ヒロインかよ。

 ――黒い子映った。

 ――ゾーちゃん映せ。

 ――ゾーちゃん笑って。

 ――呪いの鏡の子。

 ――出てこい。

 ――出てこい。

 ――出てこい。

 

 鏡の中のゾーイの輪郭が、わずかに揺らいだ。

 

 現実のゾーイの足元の影が、濃くなる。

 

 だが、彼女はまだ耐えた。

 

 人前で。

 カメラの前で。

 自分の名を好き勝手に呼ぶ、無数の視線の前で。

 

 ゾーイは、ただ微笑んだ。

 

 冷たい、淑女の微笑だった。

 

「ずいぶんと、見る目のないお客様方ですこと」

 

 その声は、配信にも乗った。

 

「わたくしをお呼びになるには、少々お行儀が足りませんわ」

 

 コメントが一瞬、止まる。

 

 その隙に、カレンが息を吸った。

 

 だが、声はまだ出ない。

 

 鏡の中のカレンが黙っている。

 

 だから、現実のカレンも黙らされる。

 

 それでも、カレンは口元を押さえた手に力を込めた。

 

 違う。

 

 わたしは、あれじゃない。

 

 あれは、わたしじゃない。

 

 その言葉を、まだ声にはできない。

 

 メアリーが黒布をさらに引く。

 

 銀糸が一本、切れた。

 

 ぱちん、と乾いた音。

 

 鏡の下半分を覆っていた布が、少しずつずり落ちようとする。

 

「お嬢様」

 

 メアリーが言った。

 

「これ以上は、外からでは困難でございます」

 

「でしょうね」

 

 ゾーイは、鏡の中の自分を見た。

 

 鏡の中のゾーイは、まだ先に動こうとしている。

 

 視聴者の呼び声を受けて、現実のゾーイより先に、何か別の形へなろうとしている。

 

 黒い子。

 演者。

 呪いの鏡の中の子。

 ゾーちゃん。

 出てこい。

 

 勝手な言葉が、鏡の奥で輪郭を作っていく。

 

 カレンは、それを見た。

 

 見てしまった。

 

 ゾーイが、少しだけ遠くなる。

 

 自分たちの知っているゾーちゃんではなく、画面の向こうの誰かが勝手に呼ぶ何かへ、引き寄せられていく。

 

 その感覚が、怖かった。

 

 鏡の中のカレンが、また口を開く。

 

『わたしも、そっちへ――』

 

「違う」

 

 ようやく、声が出た。

 

 小さな声だった。

 

 けれど、カレン自身の声だった。

 

「違う……」

 

 カレンは両手で口を押さえたまま、震える息を吐いた。

 

「わたしは、そっちに行かない」

 

 鏡の中のカレンの笑みが、わずかに歪む。

 

 コメントが流れる。

 

 ――カレン喋った。

 ――がんばれ。

 ――いや演出だろ。

 ――ゾーちゃん守れ。

 ――ゾーちゃん何者?

 ――鏡のゾーちゃん出てこい。

 ――名前呼べ。

 ――ゾーちゃん。

 ――ゾーちゃん。

 ――ゾーちゃん。

 

 その呼び方が、何度も流れる。

 

 カレンの中で、何かが切れた。

 

 その名前を、そんなふうに呼ばないで。

 

 面白半分に。

 知らないくせに。

 勝手な意味を貼り付けて。

 鏡の中の何かへ渡すみたいに。

 

 カレンは、顔を上げた。

 

 鏡を見ない。

 

 カメラも見ない。

 

 ゾーイの背中だけを見る。

 

「ゾーちゃん」

 

 声はまだ震えていた。

 

 だが、今度ははっきり届いた。

 

「わたしの知ってるゾーちゃんは、そっちじゃない」

 

 ゾーイの肩が、ほんのわずかに動いた。

 

 鏡の中のゾーイが、初めて遅れた。

 

 現実のゾーイより、ほんの少しだけ。

 

 その一瞬を、ペンドルトンは逃さなかった。

 

「今だ、そっち!」

 

「はい」

 

 メアリーが黒布を引き上げる。

 

 ペンドルトンが男へ飛びかかった。

 

 拳銃ではない。

 

 肩からぶつかるようにして、男の腕を押さえ込む。

 

 ジンバルが大きく揺れた。

 

 カメラのレンズが、鏡から外れる。

 

 スマートフォンの画面に、天井と床が乱れて映った。

 

「切れ!」

 

 ペンドルトンが怒鳴る。

 

 男の指が画面へ伸びる。

 

 今度は、鏡の中の男の動きよりも早かった。

 

 ほんの一瞬だけ、現実が先に動いた。

 

 配信停止の確認表示が出る。

 

 男の指が震える。

 

 その指先が、画面へ触れようとした。

 

 だが、直前で止まる。

 

 視聴者数が、また増えた。

 

 男の目が、それを見てしまった。

 

 一瞬。

 

 本当に一瞬。

 

 だが、その一瞬で十分だった。

 

 鏡の中の男が、笑った。

 

 現実の男の指が、配信停止ではなく、カメラ切替の方へ滑る。

 

「お前――!」

 

 ペンドルトンが腕を捻る。

 

 スマートフォンが男の手から離れた。

 

 床へ落ちる。

 

 画面が割れる。

 

 それでも、配信は切れない。

 

 ひび割れた画面の向こうで、コメントが流れ続けている。

 

 ――落ちた。

 ――まだ映ってる。

 ――音聞こえる。

 ――切るな。

 ――切るな。

 ――切るな。

 ――見せろ。

 ――鏡を見せろ。

 ――カレン映せ。

 ――ゾーちゃん映せ。

 

 スマートフォンは床を向いている。

 

 映っているのは、足元と白い布だけ。

 

 それなのに、コメントは止まらない。

 

 見えなくても、見ようとしている。

 

 映っていなくても、映せと求めている。

 

 その欲が、鏡の奥へ沈んでいく。

 

 黒布が、また少しずり落ちた。

 

 鏡面の上半分が、露出する。

 

 そこに映っていたのは、現実の会場ではなかった。

 

 画面の向こう側だった。

 

 無数の端末。

 暗い部屋。

 笑いながら画面を見る顔。

 コメントを打つ指。

 切り抜き用に録画を始める別の画面。

 

 それらが、鏡の中で一瞬だけ重なった。

 

 ゾーイの声が低くなる。

 

「……なるほど」

 

 冷え切った声だった。

 

「ただの鏡ではなく、礼拝堂を作り始めましたのね」

 

 カレンは、その意味が分からなかった。

 

 だが、分からなくても危ないことだけは分かった。

 

 鏡は、もう会場だけを映していない。

 

 配信を見ている側――画面の向こうにいるはずの者たちまで、こちら側へ映し返そうとしている。

 

 鏡の中のカレンが、先に微笑んだ。

 

 現実のカレンの口元が、また引かれる。

 

 今度は止められない。

 

 喉の奥から、知らない笑い声が上がりそうになる。

 

「カレン!」

 

 ゾーイが振り返る。

 

 その顔に、はっきりと焦りがあった。

 

 カレンは思った。

 

 珍しいな。

 

 ゾーちゃんが、そんな顔をするなんて。

 

 その呼び方は、いつもなら軽い冗談だった。

 

 少し古風で、少し偉そうで、けれど紅茶の前では妙に楽しそうになる友人へ、勝手につけた呼び名。

 

 けれど、画面の向こうで流れている同じ文字は違う。

 

 あれは呼びかけではない。

 

 名前を貼って、見世物にして、鏡の中へ押し込もうとしているだけだ。

 

 そう気づいた瞬間、怖さより先に腹が立った。

 

 勝手に呼ばないで。

 

 勝手に決めないで。

 

 ゾーちゃんは、あんたたちの玩具じゃない。

 

 だから、カレンは口を開いた。

 

 自分の意思で。

 

 鏡の中の自分よりも、先に。

 

「ゾーちゃんは――」

 

 声が震える。

 

 けれど、出た。

 

「ゾーちゃんは、ゾーちゃんなんだよ!」

 

 その瞬間。

 

 鏡の中のゾーイが、初めて完全に止まった。

 

 現実のゾーイだけが、カレンを見た。

 

 ひび割れたスマートフォンの画面で、コメントが一斉に流れる。

 

 ――なに今の。

 ――名前?

 ――ゾーちゃん?

 ――ゾーちゃんはゾーちゃん。

 ――ゾーちゃんはゾーちゃん。

 ――ゾーちゃんはゾーちゃん。

 ――ゾーちゃんは――

 

 そこで、ゾーイが静かに微笑んだ。

 

 それは、鏡へ向けた笑みではなかった。

 

 画面の向こうへ向けた笑みでもなかった。

 

 カレンへだけ向けられた、ほんの小さな笑みだった。

 

「ええ」

 

 ゾーイは答えた。

 

「その通りですわ」

 

 黒布が、メアリーの手の中で大きく揺れた。

 

 鏡の中の笑みが、わずかに歪む。

 

 ペンドルトンが、床のスマートフォンを踏みつけた。

 

 画面が砕ける。

 

 配信が、途切れる。

 

 会場に、遅れて沈黙が落ちた。

 

 だが、鏡の中の笑みは、まだ消えていなかった。

 

 黒布の向こうで。

 

 名を呼ばれたもののように。

 

 あるいは、名を覚えたもののように。

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