配信は途切れた。
割れたスマートフォンの画面は、もう何も映していない。コメントも流れない。数字も増えない。
画面の向こうから注がれていた無数の視線も、ひとまず断たれた。
それでも、会場は静かにならなかった。
黒布の向こうで、鏡が笑っていた。
音がしたわけではない。布の奥から声がしたわけでもない。
ただ、そこにいる全員が分かっていた。
あれは、まだ終わっていない。
黒布の下で、何かがこちらを覚えている。
見たものを。
呼ばれたものを。
そして、名を。
「全員、そのまま目を伏せていろ。動くな」
ペンドルトンが低く命じた。
床に押さえ込まれた男は、もうカメラを握っていない。ただ、砕けたスマートフォンの方へ、まだ目を向けようとしていた。
ペンドルトンはその肩を押さえ直す。
「見るな」
「……切れた、んですよね」
スタッフの一人が、震える声で言った。
「配信はな」
ペンドルトンは答えた。
「だが、あれが終わったとは言っていない」
黒布の向こうで、鏡面がかすかに軋んだ。
カレンは、ゾーイの背中を見た。
「ゾーちゃん……」
「ええ」
ゾーイは振り返らない。
「まだ、問題は残っておりますわ」
「問題って……鏡?」
「あの鏡そのものだけではありません。映像や記録に残ったものも、まだ厄介です」
ゾーイの声は静かだった。
「見たものと、呼ばれた言葉に反応する。まったく、展示品としては迷惑極まりない性質ですわ」
カレンの顔から、血の気が引いた。
「じゃあ……わたしが呼んだから?」
ゾーイが、そこで初めて少しだけ振り返った。
「カレン?」
「わたしが、ゾーちゃんって言ったから。あれが、その名前を覚えたの?」
口にした瞬間、胸が詰まった。
守ろうとしたつもりだった。
勝手に呼ばないで、と怒ったつもりだった。
けれど、もしそのせいで。
自分が呼んだせいで、鏡がゾーイを捕まえやすくなったのなら。
「違いますわ」
ゾーイの声は、すぐに返った。
はっきりと。迷いなく。
「あなたが呼んだから、わたくしはこちらを向けました」
「……ほんとに?」
「ええ」
ゾーイは、ほんの少しだけ目を細めた。
「名前というものは、不思議ですの」
黒布の奥で、鏡がまた小さく鳴った。
「誰かが勝手に貼ることもできる。呼び続ければ、それらしく形を持つこともある。今回のように、面白がるだけで、何かを縛ることもある」
カレンは黙って聞いていた。
「けれど、本当に名になるには、受け取る者が要ります」
「受け取る……?」
「ええ」
ゾーイは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「かつて、わたくしに名をくださった方がいました」
黒布の奥で、鏡が震えた。
まるで、その言葉に反応したように。
「その名を、わたくしは受け取りました。だから、わたくしは今もゾーイです」
カレンの喉が鳴る。
「じゃあ、ゾーちゃんは……?」
「それも、わたくしが受け取った名ですわ」
ゾーイは、ようやくカレンを見た。
「少々、軽くて、馴れ馴れしくて、慎みには欠けますけれど」
「今それ言う!?」
「ですが」
ゾーイは小さく笑った。
「嫌いではありません」
カレンは、泣きそうな顔のまま、少しだけ口元を歪めた。
「……ほんと、そういうところだよ、ゾーちゃん」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
「褒めてない」
「よく言われます」
その時。
黒布の奥から、声がした。
『ゾーちゃん』
カレンの肩が跳ねた。
自分は呼んでいない。
それなのに、布の向こうで、自分の声がした。
『ゾーちゃん。こっち見て』
ゾーイの表情が消えた。
メアリーが、黒布を握る手に力を込める。
「真似を覚えましたか」
ゾーイは静かに言った。
「なんとも、品のないこと」
『ゾーちゃん』
また、カレンの声。
けれど、違う。
同じ声なのに、まるで違う。
あれは呼んでいない。引っ張っているだけだ。
名前を餌にして、鏡の中へ釣ろうとしているだけだ。
カレンは息を吸った。
怖かった。
まだ膝は震えていた。
自分の声を真似られることが、こんなに気持ち悪いとは思わなかった。
それでも、今度は分かった。
あれは、自分ではない。
「ゾーちゃん」
カレンは、目を伏せたまま呼んだ。
鏡を見ない。
布の奥を見ない。
ただ、目の前にいる友人へ向けて呼ぶ。
「こっち見て」
ゾーイが振り返った。
黒布の向こうで、何かが乱れる気配がした。
布の表面が、内側から押されたように膨らむ。銀糸のほつれた縁が、細かく震えた。
ペンドルトンが低く言う。
「今のが効いたな」
「偽物の呼び声は、本物の前では少々分が悪いようですわ」
ゾーイは黒布の鏡へ向き直った。
「見ませんわ」
その声は、静かで、よく通った。
「わたくしを呼ぶには、まず礼儀を学んでからになさい」
黒布の奥から、複数の声が重なった。
『ゾーちゃん』
『こっち見て』
『映して』
『出てこい』
男の声。
女の声。
カレンの声。
配信画面の向こうで流れていた、見知らぬ誰かの声。
それらが薄く重なり、布の内側でざわめく。
メアリーの手元で、黒布の銀糸が小さく鳴った。
「お嬢様。布の縁が持ちません」
「持たせなさい」
「承知いたしました」
メアリーは短く答え、黒布の縁を引いた。
右肩がわずかに沈む。
カレンは、それに気づいて声を上げかけた。
「メアリーさん……!」
「来てはなりません」
メアリーは振り返らずに言った。
「けど、その肩――」
「メイドとして鍛えておりますので」
「それ、もうさっき聞いた!」
「でしたら、二度目でございますね」
「そういうことじゃない!」
それでも、カレンは足を止めた。
今、自分が動けば邪魔になる。
それだけは分かった。
ペンドルトンが会場へ怒鳴る。
「全員、目を伏せろ! 床を見ろ。顔を上げるな。あれを見るな!」
スタッフも、内覧客も、床へ視線を落とす。
警官の一人が、入口側から駆け込もうとして足を止めた。
「警部!」
「入るな! そこから先へ来るな。人を外へ出せ」
「しかし――」
「命令だ!」
警官は一瞬だけ顔を強張らせ、それでも頷いた。
「了解しました」
ゾーイの足元で、影が濃くなる。
だが、それは床一面へ広がるほどではなかった。
照明の揺らぎ。
黒布の裏側。
鏡面と布のわずかな隙間。
光の届かない薄い境目。
そのすべてへ、黒いものが細く滑り込んでいく。
見る者がいれば、ただ影が揺れたようにしか見えなかっただろう。
けれど、黒布の向こうで声が一斉に歪んだ。
『ゾーちゃん』
『ゾーちゃん』
『ゾーちゃん』
「人の名を盗み聞きして、勝手に玩具箱へ入れるなど」
ゾーイの声が、わずかに低くなる。
「躾のなっていない鏡ですこと」
黒布の奥で、カレンの声が笑った。
『ゾーちゃん。こっち』
「違いますわ」
ゾーイは一歩も動かない。
「その名は、あなたのものではありません」
布の内側で、鏡面が軋む。
「それは、わたくしが受け取った名です」
影が、銀糸のほつれへ絡んだ。
「返していただきますわ」
黒布が大きく膨らんだ。
その瞬間、カレンは目を閉じたまま叫んだ。
「違う!」
声が震えた。
でも、途切れなかった。
「そっちじゃない!」
喉が痛い。
胸が苦しい。
それでも、呼ぶ。
「ゾーちゃん、こっち!」
ゾーイの瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「ええ」
彼女は答えた。
「聞こえておりますわ」
黒布の縁で、銀糸がぱちんと鳴った。
一つ。
また一つ。
切れていたはずの糸が、逆に何かを縫い留めるように細く光る。
メアリーが布を引き下ろした。
ゾーイの影が、布の裏側からすっと退く。
黒布は鏡面を覆い、その縁が額縁へ吸い付くように落ち着いた。
会場の空気が、ふっと軽くなる。
誰かが息を吐いた。
誰かが小さく嗚咽した。
ペンドルトンは、まだ床に押さえていた配信者から手を離さない。
「鏡は閉じたか」
「この場では」
ゾーイは答えた。
「少なくとも、今ここで新しく誰かを映すことはありません」
「曖昧な言い方だな」
「正確な言い方ですわ」
「嫌な正確さだ」
ペンドルトンは男の手首を警官へ預け、立ち上がった。
「機材を押さえる。会場側の監視映像もだ。配信元も追う」
彼は入口近くにいた警官へ視線を向けた。
「署へ連絡しろ。広報と通信担当を動かせ」
「広報と通信担当、ですか」
「ああ。元の配信を止めるだけで終わりじゃない。保存や転載が出ていないか確認させろ」
「はい」
「削除要請の準備もだ。正式な文面は後で通す。今は先に動け」
「了解しました」
「それと、現場にいた者の氏名と連絡先を取れ。一般公開は中止。会場側には、機材確認が終わるまで展示室を閉鎖させろ」
警官はすぐに走っていった。
ペンドルトンは黒布の鏡を見た。
見た、と言っても、鏡面そのものではない。
黒布の表面。
銀糸の縁。
そこに残る、わずかな震え。
「終わったのか」
「この場は」
ゾーイは答えた。
「この場は、だと?」
「ええ」
ゾーイは黒布の鏡を見た。
「鏡は閉じました。少なくとも、今ここで新しく誰かを映すことはありません」
「なら、何が残っている」
「見たものですわ」
ペンドルトンの眉間に皺が寄る。
ゾーイは、砕けたスマートフォンへ視線を落とした。
「配信。録画。切り抜き。保存。共有。好奇心。悪ふざけ。怖いもの見たさ」
カレンの顔が青ざめる。
「……さっきの、まだどこかに残ってるってこと?」
「おそらくは」
ゾーイは静かに言った。
「見たものがすべて、この場に残っているとは限りません」
ペンドルトンが短く舌打ちした。
「だから先に動かせた。……間に合えばいいがな」
「それがよろしいでしょうね」
「他人事みたいに言うな」
「他人事ではございませんわ」
ゾーイの瞳が、黒布の鏡から離れない。
「この鏡は、名を覚えました」
カレンの肩が揺れる。
ゾーイは続けた。
「けれど、それだけではありません。これを見た者たちの中にも、像が残っているかもしれない」
会場には、誰もすぐに返事をしなかった。
外では、まだ雨は降っていない。
それなのに、窓の向こうから聞こえる風の音が、少しだけ水音に似ていた。
カレンは、ゾーイの横顔を見た。
「ゾーちゃん」
「なんですの」
「さっきの、ちゃんと届いた?」
ゾーイは、少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと微笑む。
「ええ」
その声は、さきほどよりもずっと穏やかだった。
「覚えておりますわ」
黒布の鏡は、もう動かない。
だが、その沈黙は静けさではなかった。
見られたものが、どこかでまだ見返している。
そんな気配だけが、会場の奥に残っていた。