悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第十七話「覚えている名前」

 配信は途切れた。

 

 割れたスマートフォンの画面は、もう何も映していない。コメントも流れない。数字も増えない。

 画面の向こうから注がれていた無数の視線も、ひとまず断たれた。

 

 それでも、会場は静かにならなかった。

 

 黒布の向こうで、鏡が笑っていた。

 音がしたわけではない。布の奥から声がしたわけでもない。

 

 ただ、そこにいる全員が分かっていた。

 

 あれは、まだ終わっていない。

 黒布の下で、何かがこちらを覚えている。

 見たものを。

 呼ばれたものを。

 そして、名を。

 

「全員、そのまま目を伏せていろ。動くな」

 

 ペンドルトンが低く命じた。

 床に押さえ込まれた男は、もうカメラを握っていない。ただ、砕けたスマートフォンの方へ、まだ目を向けようとしていた。

 ペンドルトンはその肩を押さえ直す。

 

「見るな」

「……切れた、んですよね」

 

 スタッフの一人が、震える声で言った。

 

「配信はな」

 

 ペンドルトンは答えた。

 

「だが、あれが終わったとは言っていない」

 

 黒布の向こうで、鏡面がかすかに軋んだ。

 カレンは、ゾーイの背中を見た。

 

「ゾーちゃん……」

「ええ」

 

 ゾーイは振り返らない。

 

「まだ、問題は残っておりますわ」

「問題って……鏡?」

「あの鏡そのものだけではありません。映像や記録に残ったものも、まだ厄介です」

 

 ゾーイの声は静かだった。

 

「見たものと、呼ばれた言葉に反応する。まったく、展示品としては迷惑極まりない性質ですわ」

 

 カレンの顔から、血の気が引いた。

 

「じゃあ……わたしが呼んだから?」

 

 ゾーイが、そこで初めて少しだけ振り返った。

 

「カレン?」

「わたしが、ゾーちゃんって言ったから。あれが、その名前を覚えたの?」

 

 口にした瞬間、胸が詰まった。

 守ろうとしたつもりだった。

 勝手に呼ばないで、と怒ったつもりだった。

 けれど、もしそのせいで。

 自分が呼んだせいで、鏡がゾーイを捕まえやすくなったのなら。

 

「違いますわ」

 

 ゾーイの声は、すぐに返った。

 はっきりと。迷いなく。

 

「あなたが呼んだから、わたくしはこちらを向けました」

「……ほんとに?」

「ええ」

 

 ゾーイは、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「名前というものは、不思議ですの」

 

 黒布の奥で、鏡がまた小さく鳴った。

 

「誰かが勝手に貼ることもできる。呼び続ければ、それらしく形を持つこともある。今回のように、面白がるだけで、何かを縛ることもある」

 

 カレンは黙って聞いていた。

 

「けれど、本当に名になるには、受け取る者が要ります」

「受け取る……?」

「ええ」

 

 ゾーイは、ほんの少しだけ目を伏せた。

 

「かつて、わたくしに名をくださった方がいました」

 

 黒布の奥で、鏡が震えた。

 まるで、その言葉に反応したように。

 

「その名を、わたくしは受け取りました。だから、わたくしは今もゾーイです」

 

 カレンの喉が鳴る。

 

「じゃあ、ゾーちゃんは……?」

「それも、わたくしが受け取った名ですわ」

 

 ゾーイは、ようやくカレンを見た。

 

「少々、軽くて、馴れ馴れしくて、慎みには欠けますけれど」

「今それ言う!?」

「ですが」

 

 ゾーイは小さく笑った。

 

「嫌いではありません」

 

 カレンは、泣きそうな顔のまま、少しだけ口元を歪めた。

 

「……ほんと、そういうところだよ、ゾーちゃん」

「褒め言葉として受け取っておきますわ」

「褒めてない」

「よく言われます」

 

 その時。

 黒布の奥から、声がした。

 

『ゾーちゃん』

 

 カレンの肩が跳ねた。

 自分は呼んでいない。

 それなのに、布の向こうで、自分の声がした。

 

『ゾーちゃん。こっち見て』

 

 ゾーイの表情が消えた。

 メアリーが、黒布を握る手に力を込める。

 

「真似を覚えましたか」

 

 ゾーイは静かに言った。

 

「なんとも、品のないこと」

『ゾーちゃん』

 

 また、カレンの声。

 けれど、違う。

 

 同じ声なのに、まるで違う。

 あれは呼んでいない。引っ張っているだけだ。

 

 名前を餌にして、鏡の中へ釣ろうとしているだけだ。

 カレンは息を吸った。

 

 怖かった。

 

 まだ膝は震えていた。

 自分の声を真似られることが、こんなに気持ち悪いとは思わなかった。

 

 それでも、今度は分かった。

 あれは、自分ではない。

 

「ゾーちゃん」

 

 カレンは、目を伏せたまま呼んだ。

 鏡を見ない。

 布の奥を見ない。

 ただ、目の前にいる友人へ向けて呼ぶ。

 

「こっち見て」

 

 ゾーイが振り返った。

 黒布の向こうで、何かが乱れる気配がした。

 布の表面が、内側から押されたように膨らむ。銀糸のほつれた縁が、細かく震えた。

 ペンドルトンが低く言う。

 

「今のが効いたな」

「偽物の呼び声は、本物の前では少々分が悪いようですわ」

 

 ゾーイは黒布の鏡へ向き直った。

 

「見ませんわ」

 

 その声は、静かで、よく通った。

 

「わたくしを呼ぶには、まず礼儀を学んでからになさい」

 

 黒布の奥から、複数の声が重なった。

 

『ゾーちゃん』

『こっち見て』

『映して』

『出てこい』

 

 男の声。

 女の声。

 カレンの声。

 

 配信画面の向こうで流れていた、見知らぬ誰かの声。

 それらが薄く重なり、布の内側でざわめく。

 メアリーの手元で、黒布の銀糸が小さく鳴った。

 

「お嬢様。布の縁が持ちません」

「持たせなさい」

「承知いたしました」

 

 メアリーは短く答え、黒布の縁を引いた。

 右肩がわずかに沈む。

 カレンは、それに気づいて声を上げかけた。

 

「メアリーさん……!」

「来てはなりません」

 

 メアリーは振り返らずに言った。

 

「けど、その肩――」

「メイドとして鍛えておりますので」

「それ、もうさっき聞いた!」

「でしたら、二度目でございますね」

「そういうことじゃない!」

 

 それでも、カレンは足を止めた。

 今、自分が動けば邪魔になる。

 それだけは分かった。

 ペンドルトンが会場へ怒鳴る。

 

「全員、目を伏せろ! 床を見ろ。顔を上げるな。あれを見るな!」

 

 スタッフも、内覧客も、床へ視線を落とす。

 警官の一人が、入口側から駆け込もうとして足を止めた。

 

「警部!」

「入るな! そこから先へ来るな。人を外へ出せ」

「しかし――」

「命令だ!」

 

 警官は一瞬だけ顔を強張らせ、それでも頷いた。

 

「了解しました」

 

 ゾーイの足元で、影が濃くなる。

 だが、それは床一面へ広がるほどではなかった。

 

 照明の揺らぎ。

 黒布の裏側。

 鏡面と布のわずかな隙間。

 光の届かない薄い境目。

 

 そのすべてへ、黒いものが細く滑り込んでいく。

 見る者がいれば、ただ影が揺れたようにしか見えなかっただろう。

 けれど、黒布の向こうで声が一斉に歪んだ。

 

『ゾーちゃん』

『ゾーちゃん』

『ゾーちゃん』

「人の名を盗み聞きして、勝手に玩具箱へ入れるなど」

 

 ゾーイの声が、わずかに低くなる。

 

「躾のなっていない鏡ですこと」

 

 黒布の奥で、カレンの声が笑った。

 

『ゾーちゃん。こっち』

「違いますわ」

 

 ゾーイは一歩も動かない。

 

「その名は、あなたのものではありません」

 

 布の内側で、鏡面が軋む。

 

「それは、わたくしが受け取った名です」

 

 影が、銀糸のほつれへ絡んだ。

 

「返していただきますわ」

 

 黒布が大きく膨らんだ。

 その瞬間、カレンは目を閉じたまま叫んだ。

 

「違う!」

 

 声が震えた。

 でも、途切れなかった。

 

「そっちじゃない!」

 

 喉が痛い。

 胸が苦しい。

 それでも、呼ぶ。

 

「ゾーちゃん、こっち!」

 

 ゾーイの瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「ええ」

 

 彼女は答えた。

 

「聞こえておりますわ」

 

 黒布の縁で、銀糸がぱちんと鳴った。

 

 一つ。

 また一つ。

 

 切れていたはずの糸が、逆に何かを縫い留めるように細く光る。

 メアリーが布を引き下ろした。

 ゾーイの影が、布の裏側からすっと退く。

 黒布は鏡面を覆い、その縁が額縁へ吸い付くように落ち着いた。

 

 会場の空気が、ふっと軽くなる。

 誰かが息を吐いた。

 誰かが小さく嗚咽した。

 ペンドルトンは、まだ床に押さえていた配信者から手を離さない。

 

「鏡は閉じたか」

「この場では」

 

 ゾーイは答えた。

 

「少なくとも、今ここで新しく誰かを映すことはありません」

「曖昧な言い方だな」

「正確な言い方ですわ」

「嫌な正確さだ」

 

 ペンドルトンは男の手首を警官へ預け、立ち上がった。

 

「機材を押さえる。会場側の監視映像もだ。配信元も追う」

 

 彼は入口近くにいた警官へ視線を向けた。

 

「署へ連絡しろ。広報と通信担当を動かせ」

「広報と通信担当、ですか」

「ああ。元の配信を止めるだけで終わりじゃない。保存や転載が出ていないか確認させろ」

「はい」

「削除要請の準備もだ。正式な文面は後で通す。今は先に動け」

「了解しました」

「それと、現場にいた者の氏名と連絡先を取れ。一般公開は中止。会場側には、機材確認が終わるまで展示室を閉鎖させろ」

 

 警官はすぐに走っていった。

 

 ペンドルトンは黒布の鏡を見た。

 見た、と言っても、鏡面そのものではない。

 黒布の表面。

 銀糸の縁。

 そこに残る、わずかな震え。

 

「終わったのか」

「この場は」

 

 ゾーイは答えた。

 

「この場は、だと?」

「ええ」

 

 ゾーイは黒布の鏡を見た。

 

「鏡は閉じました。少なくとも、今ここで新しく誰かを映すことはありません」

「なら、何が残っている」

「見たものですわ」

 

 ペンドルトンの眉間に皺が寄る。

 ゾーイは、砕けたスマートフォンへ視線を落とした。

 

「配信。録画。切り抜き。保存。共有。好奇心。悪ふざけ。怖いもの見たさ」

 

 カレンの顔が青ざめる。

 

「……さっきの、まだどこかに残ってるってこと?」

「おそらくは」

 

 ゾーイは静かに言った。

 

「見たものがすべて、この場に残っているとは限りません」

 

 ペンドルトンが短く舌打ちした。

 

「だから先に動かせた。……間に合えばいいがな」

「それがよろしいでしょうね」

「他人事みたいに言うな」

「他人事ではございませんわ」

 

 ゾーイの瞳が、黒布の鏡から離れない。

 

「この鏡は、名を覚えました」

 

 カレンの肩が揺れる。

 ゾーイは続けた。

 

「けれど、それだけではありません。これを見た者たちの中にも、像が残っているかもしれない」

 

 会場には、誰もすぐに返事をしなかった。

 外では、まだ雨は降っていない。

 それなのに、窓の向こうから聞こえる風の音が、少しだけ水音に似ていた。

 カレンは、ゾーイの横顔を見た。

 

「ゾーちゃん」

「なんですの」

「さっきの、ちゃんと届いた?」

 

 ゾーイは、少しだけ目を丸くした。

 それから、ふっと微笑む。

 

「ええ」

 

 その声は、さきほどよりもずっと穏やかだった。

 

「覚えておりますわ」

 

 黒布の鏡は、もう動かない。

 だが、その沈黙は静けさではなかった。

 見られたものが、どこかでまだ見返している。

 

 そんな気配だけが、会場の奥に残っていた。

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