悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第十八話「観測者」

 黒布の鏡は、動きを止めていた。

 

 会場の奥で、人の背丈を優に超える楕円の影だけが、黙って立っている。

 銀糸の縁は、ところどころ切れていた。

 けれど、黒布はかろうじて鏡面を覆っている。

 

 誰も、もうそれを見ようとはしなかった。

 見てはいけないものだと、全員が理解していた。

 遅すぎる理解だった。

 

「全員、順番に外へ出せ。目を開けるな。スタッフは誘導だけしろ。鏡を見るな」

 

 ペンドルトンの声が、展示室に響いた。

 命令は短く、粗く、けれど迷いがなかった。

 

 スタッフの一人が、壁際で座り込んでいた女性客の肩を支える。

 別のスタッフは、目を閉じたまま、内覧客を出口へ向かわせようとしていた。

 

 足元は覚束ない。

 

 誰もが、鏡の中の自分に身体を引かれた感覚を、まだ忘れられずにいる。

 

「負傷者は」

「数名、腰を抜かしています。ひとりは過呼吸気味です」

 

 メアリーが答える。

 声はいつも通り穏やかだった。

 ただし、その右肩を覆う包帯は、黒く滲んでいる。

 カレンはそれを見て、唇を噛んだ。

 

「メアリーさん、本当に大丈夫なの?」

「ええ。動作には支障ございません」

「それ、大丈夫って意味じゃないからね」

「では、まだ崩れておりませんので」

「言い方!」

 

 半泣きで返すカレンに、メアリーは困ったように微笑む。

 ゾーイの目が細くなった。

 

「メアリー」

「はい、お嬢様」

「あとで必ず見せなさいと言いましたわね」

「承知しております」

「その“承知”は、わたくしの見ていないところで勝手に処置を終わらせる意味ではなくてよ」

「……心得ております」

「今、間がありましたわね」

「気のせいでございます」

「メアリー。あなた、隠しごとをする時だけ少々不器用ですわね」

「精進いたします」

「いま精進するところではありませんわ」

 

 そのやり取りを聞きながら、ペンドルトンは床に座り込んでいる配信者へ視線を落とした。

 

 男はもう抵抗していない。

 

 顔面は蒼白で、両手は震えたまま膝の上に置かれている。

 目だけが、砕けたスマートフォンのあった場所へ向かおうとしていた。

 ペンドルトンは靴先で破片をさらに遠ざける。

 

「見るなと言った」

 

 男の肩が跳ねる。

 

「俺……俺、本当に、切ろうとして……」

「その話は後で聞く」

「違うんです。俺、あんなことになるなんて……」

「後で聞くと言った」

 

 ペンドルトンの声が低くなる。

 男は口を閉じた。

 弁解をする気力も、もう残っていないようだった。

 

「機材を全部押さえる」

 

 ペンドルトンは周囲のスタッフへ向けて言った。

 

「スマートフォン、カメラ、録画機材、会場側の監視映像。あの男が触ったものだけじゃない。この部屋で撮影に使われた機材は全部だ」

 

 スタッフの一人が、顔を引き攣らせる。

 

「全て、ですか」

「全てだ。展示会側の広報記録も含めてな」

「ですが、取材データは各社の――」

「この場で人命に関わる事故が起きた。警察の指示に従え」

 

 ペンドルトンは短く切った。

 

「配信アカウントも追う。削除要請を出す。保存された映像があるなら回収する」

「まあ」

 

 ゾーイが小さく笑った。

 

「警部も、案外現代的な言葉をご存じですのね」

「茶化すな。俺が知らなくても、署には知っている奴がいる」

「頼もしいことですわ」

「嬉しそうに言うな」

 

 ペンドルトンは割れたスマートフォンの残骸を見下ろした。

 

「問題は、どれだけ残っているかだ」

「ええ」

 

 ゾーイの声から、笑みが消えた。

 

「鏡面は、いまは抑えられています。ですが、映像や記録に残ったものまで消えたわけではありませんわ」

「録画。転載。切り抜き」

「そして、好奇心」

 

 ゾーイは黒布の鏡を見る。

 

「人は、見てはいけないと言われたものほど見たがります。とても困った性分ですこと」

「その性分で仕事をしている奴が、今回は山ほどいる」

 

 ペンドルトンは低く言った。

 

「動画を見るだけの連中も含めてな」

 

 カレンが、小さく息を呑む。

 

「……わたしの声も、残ってるのかな」

 

 ゾーイが振り返った。

 

「ええ。おそらくは」

「じゃあ、あれも……」

 

 カレンは唇を噛んだ。

 

「ゾーちゃんは、ゾーちゃんなんだよ、って。あれも、残ってる?」

「残っているでしょうね」

「それ、まずかった?」

 

 ゾーイは少しだけ目を丸くした。

 それから、いつものように、ほんの少しだけ意地悪く微笑んだ。

 

「まずいどころか、なかなかよろしい啖呵でしたわ」

「茶化さないでよ」

「茶化してなどおりません」

 

 ゾーイは静かに言う。

 

「あなたの声は、奪われかけた名をこちらへ戻しました。たとえ録画に残ったとしても、それはあちら側のものではありません」

「……ほんと?」

「ええ」

 

 ゾーイは頷いた。

 

「あなたが本気で呼んだ名ですもの」

 

 カレンは、何かを言いかけて、結局黙った。

 その目元が少しだけ赤い。

 けれど、泣かなかった。

 

 展示室の外から、警官の一人が足早に戻ってきた。

 

「警部。署から連絡です」

「言え」

「元の配信は止まっています。ただ、保存された映像の一部が、すでに別のアカウントへ転載されています。広報と通信担当が削除要請の準備を進めています」

 

 ペンドルトンの眉間の皺が深くなる。

 

「……早いな」

「もう出回っておりますのね」

 

 ゾーイが問う。

 

「切り抜きが出た」

 

 ペンドルトンは言った。

 

「配信が落ちる直前の数十秒だ。誰かが保存して、別の場所へ上げている」

「早いこと」

「感心するな」

「しておりませんわ。呆れております」

 

 メアリーが静かに問う。

 

「閲覧者は?」

「増えている」

 

 ペンドルトンは苦々しく答えた。

 

「元の配信は止めた。だが、止めたことそのものが餌になっている」

 

 カレンの顔が青ざめる。

 

「……消されたから、本物っぽいって?」

「そういうことだ」

 

 ペンドルトンは吐き捨てた。

 

「愚か者どもめ」

 

 ゾーイは黒布の鏡へ歩み寄った。

 メアリーが一歩前へ出ようとする。

 

「お嬢様」

「近づきませんわ。見るだけです」

「見るだけ、で済ませてくださる方でしたら、わたくしもこれほど心配はいたしません」

「まあ。信用がありませんこと」

「日頃の行いかと」

 

 ゾーイは少しだけ肩を竦めた。

 そして、黒布に覆われた鏡を見上げる。

 

「本気で信じているわけではありませんわね」

 

 ペンドルトンが眉を寄せる。

 

「何の話だ」

「見て、騒いで、名を呼ぶ。けれど、彼らは崇めているわけではありません。ただ、面白がって同じ言葉を繰り返しているだけ」

「それで十分なのか」

「今回の鏡にとっては」

 

 ゾーイの声は冷たかった。

 

「十分だったのでしょう」

「……冗談じゃない」

「ええ。冗談ではありませんわ」

 

 ゾーイは、ほんのわずかに目を細めた。

 

「冗談のつもりで呼ぶから、なお悪いのです」

 

 展示室の外から、警官たちの足音が近づいてくる。

 ペンドルトンは顔を上げた。

 

「鏡は俺の許可なく動かすな。黒布を外すな。誰も近づけるな。運び出す場合は、目隠しと覆いを二重にしろ」

「警部様」

 

 メアリーが口を挟む。

 

「運搬時は、鏡面側を人へ向けないように。可能であれば、専用の板で前後を挟んでくださいませ」

「聞いたな。資材を手配しろ」

「はい!」

 

 警官の一人が慌てて頷く。

 ペンドルトンは続けた。

 

「それから、この場にいた全員の氏名と連絡先を確認。帰宅後に体調や精神状態に異常が出た場合、すぐ警察へ連絡するよう伝えろ」

「異常とは、どのように」

「事件後に眠れない、鏡や窓を避ける、画面に何かが残って見える気がする、自分の顔や動きに違和感がある。そういう訴えだ」

「急性ストレス反応、ということでしょうか」

「表向きはな」

 

 ペンドルトンは低く言った。

 

「だが、妙だと思ったら通常の相談扱いにするな。俺に回せ」

「……承知しました」

「承知したなら、顔に出すな。余計に怯えさせる」

「はい」

 

 ペンドルトンは息を吐いた。

 その横で、カレンが小さく呟く。

 

「……さっきまでのわたしも、そういうふうに見えてたんだよね」

 

 ゾーイは答えなかった。

 代わりに、カレンの手元へ視線を落とす。

 彼女の指は、まだ震えていた。

 

「カレン」

「なに?」

「今日は、一人で帰ることは許しませんわ」

「え」

「屋敷へ来なさい。念のため、今日の映像を見た影響が残っていないか確認いたします」

「でも、記事とか、機材とか、会社への連絡とか……」

「全部後でなさい」

 

 ゾーイは即答した。

 

「あなたが鏡の中へ引っ張られてからでは、記事も会社も紅茶もありませんわ」

「紅茶も並べるんだ」

「当然でしょう」

 

 カレンは、少しだけ笑った。

 

「じゃあ、行く」

「素直で結構」

「怖いからね」

「ええ」

 

 ゾーイは静かに頷く。

 

「怖い時に、怖いと言えるのはよいことですわ」

 

 カレンは、その言葉に一瞬黙った。

 それから、ゆっくりと頷いた。

 ペンドルトンは、警官へ指示を続けながら、ゾーイたちを横目で見た。

 

「お前たちは、まだ帰るな」

「まあ。今度はわたくしたちを引き留めますの?」

「お前たちが帰った後で、こいつに未確認の反応が出たら面倒だ」

「それは正論ですわね」

「だから言い方を考えろ」

「考えた結果ですのに」

 

 ゾーイは涼しい顔で返す。

 ペンドルトンは額を押さえた。

 

「少なくとも、封鎖と運搬手順を決めるまでは残れ」

「承知いたしました」

 

 ゾーイは答える。

 

「ただし、メアリーの肩を確認してからですわ」

「今ここでか」

「ここでなければ、逃げますもの」

「逃げません」

「目を逸らしましたわね」

「気のせいでございます」

「メアリー」

「はい、お嬢様」

「二度目は通じませんわ」

 

 カレンは、少しだけ笑った。

 笑えることに、自分で驚いた。

 鏡の中の自分は、もう笑っていない。

 

 それだけで、ひどくありがたかった。

 

     *

 

 暗い部屋で、映像が止まっていた。

 画面の中では、展示室の床が斜めに映っている。

 

 割れたスマートフォン。

 乱れた音声。

 誰かの怒鳴り声。

 黒布の揺れる音。

 

 そして、少女の声。

 

『ゾーちゃんは、ゾーちゃんなんだよ!』

 

 映像は、そこで何度も止められていた。

 再生。

 停止。

 巻き戻し。

 再生。

 画面の前に座る人物は、笑っていなかった。

 興奮もしていない。

 

 ただ、記録を見るように、その断片を観察していた。

 机の上には、古い紙束と、いくつかの記録媒体が置かれている。

 紙の端には、かつて別の場所で使われた古い印が残っていた。

 

 祈り。

 名。

 反復。

 像。

 観測。

 

 その人物は、ひとつずつ書き込んでいく。

 

 信仰ではない。

 信仰ではないが、似ている。

 

 祈っていない。

 崇めていない。

 畏れてすらいない。

 

 それでも、彼らは見た。

 名を呼んだ。

 繰り返した。

 期待した。

 出てこい、と呼んだ。

 

 画面の下で、保存されたコメント欄が流れている。

 

 ――こっち見ろ。

 ――出てこい。

 ――ゾーちゃん映せ。

 ――鏡のカレン笑って。

 ――映る価値あるよ。

 ――切るな。

 ――見せろ。

 

 その人物は、ひとつのコメントで指を止めた。

 

 ――本物じゃなくても怖ければいい。

 

 しばらく、その文字だけを見ていた。

 やがて、小さく息を吐く。

 

「……そうか」

 

 声は低かった。

 

「本物だと、信じさせる必要はない」

 

 画面が、もう一度再生される。

 少女の声が響く。

 

『ゾーちゃんは、ゾーちゃんなんだよ!』

「見せればいい」

 

 映像が止まる。

 

「繰り返させればいい」

 

 別の画面に、切り抜き動画の一覧が開かれる。

 

「呼ばせればいい」

 

 その人物は、保存されたコメント欄を見た。

 

「そうすれば、向こう側に輪郭ができる」

 

 机の端に置かれた古い記録には、いくつもの失敗例が並んでいた。

 

 小さな集会。

 古い祈祷。

 閉じた村。

 家族単位の伝承。

 忘れられた祭壇。

 

 どれも、形になるまでに時間がかかった。

 

 人に信じさせるには、時間がいる。

 怖れさせるにも、手間がいる。

 名を根づかせるには、世代すら必要になる。

 だが、今回は違った。

 

 数分。

 たった数分で、名は反復された。

 

 像は共有された。

 切り抜かれ、保存され、別の画面へ移された。

 

 信仰よりも軽い。

 だからこそ、速い。

 その人物は、別の映像を開いた。

 配信を見ていた者の投稿だった。

 

 短い動画。

 薄暗い部屋。

 机の上のモニター。

 

 画面には、停止した展示室の映像。

 投稿者の声が入っている。

 

『いや、マジでさ。さっきから、モニター消してもなんか映って――』

 

 声が途切れる。

 黒い画面に、投稿者自身の顔が映っていた。

 

 ただし、現実の顔よりも、ほんの少しだけ早く笑っていた。

 観測者は、そこで映像を止めた。

 

 沈黙。

 

 それから、ゆっくりとメモを取る。

 

 遅発性あり。

 直接接触不要。

 反射面・画面残像経由で発現。

 

 その筆先が、一度止まる。

 そして、最後にこう書き足した。

 

 観測者も、対象となり得る。

 

 画面の中で、投稿者の口元がまた動いた。

 現実よりも、少しだけ早く。

 

 観測者は、初めて小さく笑った。

 

「では、次だ」

 

 暗い部屋の画面に、黒布の鏡はもう映っていない。

 それでも、誰かがそれを見ている。

 

 誰かがそれを呼んでいる。

 

 そして、呼ばれたものは、少しずつ水底へ沈むように、現実の奥で輪郭を得ていく。




第一編 第四章:「鏡に残る客」 終
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