「この国の良いところを一つ挙げるなら、やはりティータイムの文化ですわね」
午後の庭園に、陶器の触れ合う小さな音が響いた。
ゾーイは白磁のカップを持ち上げ、香りを確かめるように目を細める。
黒いゴシックドレス。
白い肌。
腰まで届く艶やかな黒髪。
そして、陽の光を受けて硝子のように澄むスカイブルーの瞳。
深夜の聖堂で影を広げていた時とは違い、いまの彼女は古い屋敷の庭先で紅茶を楽しむ小柄な令嬢そのものだった。
ただし、彼女の足元の影だけは、陽光の下でも少しだけ濃い。
「お菓子もお好きでいらっしゃいますよね、お嬢様」
傍らで控えるメアリーが、穏やかに言った。
栗毛のショートボブには、屋敷内用のメイドカチューシャ。
金色の細い垂れ目は、いつものように眠たげで、けれど主人の一挙手一投足だけは逃さない。
テーブルの上には、焼き菓子、スコーン、小さなタルト、ジャム、クロテッドクリーム。
どれも整いすぎていて、食べ物というより、メアリーによって配置された祭壇の供物のようだった。
「好きに決まっておりますわ。毎度毎度、得体の知れないものを喰らっていると、こういうまともな味がどれほど尊いか身に染みますもの」
ゾーイは小さな焼き菓子をつまみ、口へ運んだ。
かすかな咀嚼音。
それから、紅茶を一口。
動作は静かで、優雅で、まるで昔の肖像画に描かれた淑女がそのまま動き出したようだった。
その様子を見ていたメアリーの肩が、ほんのわずかに震えた。
「……メアリー」
「はい、お嬢様」
「いま、妙な気配がいたしましたわよ」
「気のせいでございます」
「悪魔が嘘をつく時は、もう少し上手におやりなさい」
「畏れ入ります」
メアリーは何事もなかったようにティーポットを持ち上げた。
だが、金色の目はどこか満足げだった。
ゾーイはそれを見て、深く追及するのをやめた。
この悪魔メイドが時折、自分の所作を鑑賞対象のように見ていることは知っている。
知っているが、正面から問いただすと面倒な説明が返ってくる。
たぶん、現代語でいうところの“推し”がどうのこうの、という話だ。
ゾーイにはまだ、その概念がよく分からない。
押すのか。
何を。
どこへ。
「お代わりはいかがですか、お嬢様」
「ええ、いただきますわ」
メアリーは一切の無駄なくカップへ紅茶を注いだ。
湯気の高さ、茶の色、香りの立ち方まで、すべてが計算されている。
二人だけの庭園に、静かな時間が流れる。
古い洋館の裏庭。
手入れされた薔薇。
石造りの小さな噴水。
雨の多いこの国にしては珍しく、今日は空が明るい。
昨晩の聖堂の匂いは、まだ影の奥に残っている。
だが、紅茶と焼き菓子はそれを少しだけ遠ざけてくれた。
そういう意味では、人間の文化も捨てたものではない。
ゾーイがそんなことを考えた時だった。
玄関の方から、ドアノッカーの音が響いた。
鈍く、重い音。
メアリーが目を上げる。
「来客でしょうか。予定にはございませんが」
「まったく、無粋な輩もいたものですわね」
ゾーイはカップをソーサーへ戻した。
庭園の端、屋敷へ続く影がすうっと濃くなる。
そこから、若い紳士然とした男が姿を現した。
整った顔。
仕立ての良い黒い服。
ただし、執事というには少し軽く、使用人というには少し芝居がかっている。
屋敷の家政を預かる影のハウスキーパー。
それがデイモンだった。
デイモンは片手を胸に当て、楽しげに一礼する。
「お嬢様。門前にお客様でございます」
「見れば分かりますわ。誰ですの」
「カレン様でございます」
ゾーイは目を閉じた。
覚えのある気配だと思った。
「通しなさい」
「かしこまりました」
デイモンは一礼し、ふたたび影の中へ消えた。
数分もしないうちに、庭園へ続く小道の方から明るい声が飛び込んでくる。
「やっぱりここにいた! ゾーちゃん!」
ゾーイはカップを止める。
庭園の入口に、一人の女性が立っていた。
カレン。
十年来の付き合いになる、現代の友人。
栗色の髪を揺らし、頬にはそばかす。
年齢相応に大人になっているはずなのに、昔と変わらず、遠慮というものを半分ほどどこかへ置いてきたような顔をしている。
その半歩前で、デイモンが涼しい顔をして案内役の礼を取っていた。
「デイモン。ずいぶん早かったですわね」
「はい。カレン様が玄関先で三度ほどお嬢様のお名前をお呼びになりまして」
「それで?」
「四度目で、ご近所の犬が吠えました」
「……通して正解でしたわね」
「屋敷の平穏を守るのも、ハウスキーパーの務めでございます」
メアリーが静かにデイモンを見る。
「デイモン」
「はい、メアリー」
「お嬢様のお茶の時間を乱した減点については、後ほど帳簿に記しておきます」
「おや。屋敷の帳簿は私の管轄では?」
「お嬢様に関わる減点は、わたくしの管轄でございます」
「怖いですね。異議申し立ては?」
「却下いたします」
「早い」
デイモンは肩をすくめた。
その軽さに、ゾーイは小さくため息をつく。
メアリーがゾーイ個人の身支度や紅茶、外出支度を管理するのに対し、デイモンは屋敷そのものを見ている。
来客、書簡、使用人の手配、保管庫の鍵、影の掃除係、地下から時折聞こえる不穏な音の処理。
役には立つ。
ただし、やや口が回る。
そこが少々、問題だった。
「カレン。庭を横切る時はもう少し静かになさい。薔薇が驚きますわ」
「薔薇って驚くの?」
「少なくとも、あなたよりは繊細です」
「ひどい!」
カレンは笑いながら近づいてきた。
「あ、メアリーさん! こんにちは!」
「いらっしゃいませ、カレン様」
メアリーは丁寧に会釈した。
その口調は完璧な給仕のものだったが、目の奥では何かを測っている。
カレンはゾーイの現代の友人。
つまり、メアリーの基準では“お嬢様の価値を理解する可能性のある客人”である。
査定対象、とも言う。
「デイモンさんもこんにちは!」
「ようこそお越しくださいました、カレン様」
デイモンはにこやかに礼をした。
「本日は玄関扉を叩く回数が前回より一回少なく、大変結構でございました」
「え、数えてるの?」
「屋敷の記録でございますので」
「屋敷の記録って、そんなことまで残るの!?」
「もちろんです。カレン様が初めてこちらへいらした際、右足から敷地へ入ったことも記録されております」
「怖い!」
「ご安心ください。左足で入った時の記録もございます」
「どっちでも怖い!」
カレンは笑いながらも、少しだけ身を引いた。
ゾーイは呆れたようにデイモンを見る。
「脅かさないの」
「事実を申し上げただけでございます」
「あなたの事実は、たまにお客様向きではありませんわ」
「では、柔らかく申し上げます」
「結構です」
メアリーが静かに一歩出る。
「デイモン。カレン様のお席を」
「すでに」
影が椅子を引いた。
庭園の床に落ちていた影が、まるで見えない使用人の手のように椅子を整える。
カレンはそれを見て、目を輝かせた。
「相変わらず便利だね、それ」
「人間の皆様にはおすすめいたしません。戻る場所を間違えると、靴だけ帰ってまいります」
「怖いことをさらっと言わないで!」
「デイモン」
メアリーの声が少し低くなる。
「はい。以後、靴の話題は控えます」
「靴以外も控えなさい」
「善処いたします」
「その言葉は信用できませんわね」
ゾーイは小さくため息をついた。
「あ、おいしそうなお菓子! ゾーちゃん、私にもちょうだい」
「あなた、相変わらず遠慮という言葉をどこかへ埋葬していらっしゃるのね」
「遠慮はお友達の前では失礼だって、誰かが言ってた」
「誰ですの、その無責任な賢者は」
「私!」
「でしょうね」
ゾーイは小さくため息をついた。
だが、追い返す気はなかった。
「メアリー。お茶を一人分追加して」
「すでにご用意しております」
メアリーは即座に動いた。
椅子が引かれ、カップが置かれ、皿に菓子が並ぶ。
あまりにも自然な動作だった。
その横で、デイモンが小さな帳面を開く。
「カレン様、本日のご来訪理由は“お嬢様の安否確認”でよろしいでしょうか」
「え、うん。たぶん」
「では、来客記録にはそのように」
「そんなのも書くの?」
「もちろんでございます。屋敷とは、記録によって品位を保つものですので」
「この屋敷、いろいろ細かい……」
「カレン様の場合、特記事項も多くございます」
「え、何書かれてるの?」
「前回、スコーンを三つお召し上がりになりました」
「それ特記事項なの!?」
「お嬢様の分を一つ減らしましたので」
カレンは固まった。
ゆっくりとゾーイを見る。
「……ゾーちゃん」
「わたくしは根に持っておりませんわ」
「絶対持ってる声だよそれ!」
「本当に根に持っているのは、メアリーです」
メアリーは微笑んだ。
「本日は十分な数をご用意しておりますので、ご安心くださいませ」
「メアリーさんの笑顔が一番怖い時あるよね」
「光栄でございます」
カレンは席につき、菓子を一つ取って口に運んだ。
その表情がぱっと明るくなる。
「おいしい!」
「ありがとうございます、カレン様」
「メアリーさんの作るお菓子、本当に好き」
その一言に、メアリーの金色の目がわずかに細くなった。
査定点が上がった音がした気がした。
デイモンが横から帳面に何かを書き込む。
「いま何を書きましたの」
ゾーイが問う。
「カレン様、菓子評価良好。メアリーの機嫌、改善」
「消しなさい」
「屋敷の空気管理に関わる重要事項でございます」
「消しなさい」
「写しを取ってから」
「デイモン」
メアリーの声がまた一段低くなる。
デイモンはにこやかに帳面を閉じた。
「失礼いたしました」
カレンは楽しそうに笑った。
「この屋敷、ほんと変わらないね」
「変わらないのが取り柄ですわ」
ゾーイは紅茶を一口飲む。
「で、あなたは何をしに来ましたの?」
「え? お友達が仕事から帰ってきたんだよ? 無事だったか心配になるじゃない」
「心配されるほど柔ではありません」
「でも、ゾーちゃんって仕事から帰ってきた時、たまにすごい顔してるもん」
「すごい顔?」
「こういう顔」
カレンは眉間にぎゅっと皺を寄せ、口元をへの字に曲げた。
なかなか失礼な再現度だった。
ゾーイは無言でメアリーを見る。
メアリーは穏やかに微笑んだまま、何も言わない。
何も言わないということは、否定もしないということだ。
続いてゾーイはデイモンを見る。
デイモンはすでに帳面を開いていた。
「デイモン」
「記録しておりません」
「まだ何も言っていませんわ」
「記録しておりません」
「なら、その帳面を閉じなさい」
「はい」
デイモンは素直に閉じた。
ただし、口元は笑っている。
「……この屋敷の使用人たちは、主人への敬意をどこへ置いてきましたの」
「常に胸に」
メアリーが言う。
「常に帳面に」
デイモンが言う。
「後者はおかしいですわ」
カレンはとうとう声を出して笑った。
「ほら、やっぱりゾーちゃん、元気そう!」
「わたくしが遊ばれているように見えるのですけれど」
「気のせいだよ」
「気のせいではありませんわ」
カレンはお茶を飲み、ほっと息をついた。
「でも、本当に心配だったんだよ。昨日の夜、なんか嫌な感じがしたから」
庭園の空気が、少しだけ静かになる。
ゾーイはカレンを見た。
「嫌な感じ?」
「うん。遠くで、黒い水がざわってしたみたいな感じ」
カレンは自分でもうまく言えないのか、眉を寄せる。
「変だよね。寝る前だったんだけど、急に寒くなって」
ゾーイは、彼女の首元へ視線を落とした。
そこには、小さなロザリオが下がっている。
銀色のそれは、一見すると古びた普通の護符にしか見えない。
だが、薄く刻まれた黒い線は、ゾーイの影をわずかに宿している。
ちゃんと身につけている。
ゾーイは、それを確認して少しだけ安堵した。
「そのロザリオ、外していませんわね」
「もちろん。ゾーちゃんがくれたものだし」
「入浴時も?」
「さすがに外すよ! でもちゃんと近くに置いてる!」
「寝る時は」
「枕元!」
「知らない人に見せびらかしては」
「ない!」
「古物商に売っては」
「売るわけないでしょ!?」
「よろしい」
ゾーイは満足げに頷いた。
「相変わらず過保護だなぁ」
「あなたが相変わらず危なっかしいのです」
「友達だから心配してくれてる?」
「護符の管理確認ですわ」
「はいはい」
カレンはにやにや笑う。
ゾーイはそっぽを向いた。
カレンは、あちら側をうっすら見てしまう。
昔、この屋敷に肝試しで忍び込んだ時、レイスに触れられかけた後遺症だ。
完全には見えない。
だが、気配を感じる。
異物に気づく。
そして、そういう者は狙われやすい。
だから護符を渡した。
だから、ときどき確認する。
だから、本当なら、あまり近づけたくない。
けれど、追い払うこともできない。
彼女は、ゾーイを怖がらなかった。
真っ黒い何かが、自分の形の奥にいることを、どこかで感じていながら。
それでも、ゾーちゃん、と呼んで庭に入ってくる。
人間は愚かだ。
不用意で、危なっかしくて、すぐに触れてはいけないものに触れる。
だが、時々こういう愚かさをする。
それが、少しだけ困る。
「ゾーちゃん?」
「……なんでもありませんわ」
「ほんと?」
「ええ。あなたがあまりにも騒がしいので、昔の騒がしい友人を思い出しただけです」
「私みたいな人いたんだ」
「いましたわ。あなたより、もう少し権力を持っていて、もう少し厄介で、もう少し強引でした」
「それ、すごい人だね」
「ええ」
ゾーイはカップを置く。
「とても、困った方でした」
その声が少しだけ柔らかくなったことに、カレンは気づいた。
けれど、深くは聞かなかった。
彼女はそういうところだけ、妙に勘がいい。
「じゃあ、今日は私に癒されなさい!」
「はい?」
「疲れてるなら甘えなさい! 私がおねーちゃんだからね!」
「いえ、それは年齢的にも存在的にも、いろいろと無理があると思いますけれど」
「全然違わない!」
カレンは胸を張った。
あまり威厳はなかった。
ゾーイは数秒だけその姿を見つめ、それから堪えきれずに笑った。
「くっ……くくっ……」
「あ、いま笑うところじゃないよ!」
「いえ、ごめんなさい。あまりにも堂々としていたものだから」
「真面目に言ってるのに!」
「ええ。知っていますわ」
ゾーイは微笑んだ。
「だから、可笑しかったのです」
「それ、褒めてる?」
「最大限」
「ほんとかなぁ」
カレンは不満そうに頬を膨らませた。
その時、庭園の隅でカラスが一羽鳴いた。
黒い羽のカラスは、石造りの柵へ降り立った。
その足には、小さな筒が括りつけられている。
普通の鳥ではない。
羽の輪郭が、影のように揺れている。
目は黒く、光を映さない。
デイモンが音もなく近づき、その筒を外した。
カラスは役目を終えたように一度羽ばたき、黒い煙となって消える。
「あ、お仕事?」
カレンの声が少しだけ沈んだ。
デイモンは筒の封蝋を見て、目を細めた。
「教会筋でございますね。香が古い。ついでに、少々焦げております」
「焦げてる?」
カレンが首を傾げる。
「ええ。紙ではなく、依頼主の胃が」
「デイモン」
ゾーイがたしなめる。
「お客様の前で、依頼主の胃を推測するものではありませんわ」
「失礼いたしました。では、精神状態の方に」
「もっと悪いですわ」
メアリーが手を差し出す。
「こちらへ」
デイモンは素直に筒を渡した。
「写しは?」
「取っております」
「いつの間に」
「屋敷管理の基本でございます」
「あなた、本当に便利ですけれど、本当に油断なりませんわね」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めていません」
メアリーは手紙をゾーイへ渡した。
ゾーイは筒の中の紙片を開く。
文字は短い。
だが、そこに記された依頼元と症状だけで十分だった。
教会筋。
地下室。
悪魔憑き。
ただし、通常の祓魔で効果なし。
ゾーイは目を細めた。
「……ええ。残念ながら、お茶会はここまでのようですわ」
「大変そう?」
「いつものことです」
「いつものことって言う時ほど、だいたい大変なんだよ」
「あなたは本当に余計なところで鋭いですわね」
カレンは菓子の皿を見て、それからゾーイを見た。
「じゃあ、今日は帰るね」
「あら。駄々をこねませんの?」
「こねたいけど、こねない。ゾーちゃんが辛そうな顔してないのを確認できたし」
「だから、そんな顔は――」
ゾーイは言いかけて、やめた。
「……そう。では、今日はそれでよしとしましょう」
「うん。今度はちゃんと最後までお茶しようね」
「あなたが静かにできるなら」
「できる!」
「では期待しないで待っていますわ」
「ひどい!」
カレンは笑って立ち上がった。
メアリーが小さな包みを差し出す。
「お土産でございます、カレン様」
「わ、いいの?」
「お嬢様からの詫びでございます」
「わたくし、詫びるようなことをしましたかしら」
「お茶会を中断いたしますので」
「……まあ、そういうことにしておきますわ」
デイモンが横から付け足す。
「中身はスコーン二つ、タルト一つ、焼き菓子三つ。前回の消費傾向を踏まえた適正量でございます」
「私の食べた数、そんなに管理されてるの!?」
「屋敷の平和のためでございます」
「平和って何!?」
カレンは包みを抱えながら笑った。
「ありがとう、メアリーさん。ありがとう、デイモンさん。ありがとう、ゾーちゃん」
「帰り道、寄り道はしないように」
「子供じゃないんだから」
「過去の実績が信用を削っています」
「うっ」
「それと、違和感があれば屋敷へ来なさい。夜でも構いません」
「うん。わかった」
カレンはそう言って、ふとゾーイを見た。
「無事に帰ってきてね」
何気ない言葉だった。
けれど、それはただの挨拶ではなかった。
カレンは知っている。
ゾーイが何をしているのかを、全部ではないにしても知っている。
だから、その言葉には本気の心配があった。
ゾーイは少しだけ目を伏せた。
「ええ。帰りますわ」
「約束?」
カレンが笑って小指を立てる。
ゾーイはそれを見て、ほんの少しだけ困った顔をした。
約束。
その言葉は、いつだって重い。
「……軽々しく約束を求めるものではありませんわ」
「じゃあ、軽くない約束で」
「本当に、あなたは」
ゾーイはため息をついた。
そして、小さな指を伸ばす。
カレンの小指と、ほんの一瞬だけ触れた。
「善処します」
「そこは約束って言ってよ!」
「英国淑女は、守れない約束を軽々しくしませんの」
「でもゾーちゃん、帰ってくるでしょ」
「……ええ」
ゾーイは微笑む。
「帰ってきますわ」
カレンは満足そうに頷いた。
「じゃあ、またね!」
カレンは包みを抱え、庭園を出ていった。
デイモンがすぐにその後ろへ続く。
「門までお送りいたします、カレン様」
「ありがとう。あ、影の近道じゃなくて普通の道でね」
「承知いたしました。靴だけ戻る事故は避けましょう」
「だから怖いこと言わないでってば!」
二人の声が遠ざかっていく。
庭園には、ゾーイとメアリーだけが残った。
しばらく、何も言わなかった。
風が薔薇を揺らし、カップの中の紅茶に小さな波紋を作る。
「お嬢様」
「なにかしら」
「カレン様は、本日の査定を通過なさいました」
「何の査定ですの」
「お嬢様のお茶会を見守る会、会員候補として」
「そんな会を作った覚えはありません」
「会員番号一番は、僭越ながらわたくしが」
「解散なさい」
「では、非公式といたします」
「メアリー」
「はい」
「解散なさい」
「検討いたします」
ゾーイは深く息を吐いた。
この悪魔は、本当に時々手に負えない。
その時、庭園の入口からデイモンが戻ってきた。
「カレン様は無事に門を出られました」
「ご苦労さま」
「なお、帰路にて寄り道をなさらぬよう、屋敷のカラスを一羽つけております」
「過保護が増えましたわね」
「屋敷の安全管理でございます」
「カレンは屋敷の備品ではありません」
「お嬢様の大切な客人は、屋敷の保護対象でございますので」
ゾーイは言い返そうとして、少しだけ止まった。
そして、諦めたように紅茶を飲んだ。
「……あなたたち、揃いも揃って」
「お嬢様に似たのでしょう」
メアリーが言う。
「そうでございますね」
デイモンが頷く。
「不本意ですわ」
だが、そのやり取りのおかげで、少しだけ気が緩んだ。
ゾーイは手紙へ視線を落とす。
教会筋からの依頼。
悪魔憑き。
だが、文面にある症状は、通常の悪魔憑きとは少し違っていた。
皮膚の変質。
鱗状の硬化。
水音。
地下室の異臭。
「……悪魔、ですか」
「違いますか」
メアリーが問う。
「おそらく。少なくとも、普通の悪魔ではありませんわ」
「地下室の異臭と水音」
デイモンが帳面を開きながら言う。
「昨晩の聖堂記録にも、湿った音の記載がございます。関連を疑うべきかと」
「あなた、そこまで記録していましたの」
「屋敷へ戻られたお嬢様が“まずい”と六度仰いましたので」
「そこは消しなさい」
「重要な味覚記録かと」
「消しなさい」
「写しは」
「デイモン」
「はい。検討いたします」
ゾーイは深く息を吐いた。
メアリーは静かに微笑み、デイモンは涼しい顔で帳面を閉じる。
この屋敷は、平穏とは少し違う。
けれど、これがゾーイの日常だった。
紅茶。
菓子。
騒がしい友人。
手に余るメイド。
口の回るハウスキーパー。
古い屋敷。
そういうものが、当たり前に続く世であればいい。
そう思うのは、きっと女王が愛したものを、自分も少しだけ覚えているからだ。
ゾーイは小さく笑った。
「行きましょう、メアリー。せっかくの紅茶の後味を、また台無しにされる前に」
「車を回してまいります」
「デイモン」
「はい、お嬢様」
「屋敷をお願い」
「承知いたしました」
デイモンは深く一礼した。
その姿は、軽口の多い男とは違い、屋敷そのものに仕える者のように静かだった。
「不在中の来客、保管庫、地下の音、カレン様の帰路、すべてこちらで管理いたします」
「最後の一つは余計ではなくて?」
「屋敷の保護対象でございますので」
「……もうよろしいですわ」
ゾーイは立ち上がった。
午後の日差しが、彼女の黒髪を照らす。
その影が、足元で静かに揺れた。
「メアリー」
「はい、お嬢様」
「そういえば、貴方、免許はどうしていたのかしら?」
ふと思い出したように、ゾーイが尋ねる。
メアリーは当然のように答えた。
「許可をいただいた永久ライセンスでございます」
「……相変わらず、聞かなかったことにしたくなる返答ですわね」
「表現の差でございます」
「ええ。きっとそうなのでしょうね」
ゾーイはもう一度だけ、カレンが去っていった庭園の入口を見る。
「まったく。人間は騒がしくて、脆くて、危なっかしい」
そして、呆れたように続けた。
「だからこそ、放っておけませんわ」
庭園の影が、静かに揺れた。
ひとときの憩いは終わる。
悪魔祓いの祈祷師は、再び現場へ向かう。
第零編 序章:悪魔祓いの祈祷師(EXORCIST):Zoe 終