悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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「海に憑かれた男」
〇〇〇憑き


 砂利道を、古い側車付き自動二輪車が走っていた。

 

 低く唸るエンジン音。

 跳ねる小石。

 車輪が濡れた轍を踏むたび、泥が後ろへ細く散っていく。

 

 運転席にいるのはメアリーだった。

 

 屋敷でのクラシカルなメイド服ではない。

 栗毛のショートボブは最低限の髪留めでまとめられ、ツイード地のジャケットに革手袋、実用的なブーツ。

 山道や荒れ地へ向かう時の、しっかりしたハンター衣装だった。

 

 その横、側車の中にはゾーイが収まっている。

 

 小柄な体に黒い外套。

 頭にはヘルメット。

 スカイブルーの瞳はゴーグル越しでも妙に澄んで見えた。

 

「……お嬢様」

「なにかしら」

「わたくし、“車を回してまいります”と申し上げたはずなのですが」

「ええ。ですから車輪のあるものが来たではありませんか」

「それは言葉遊びでございます」

「ユーモアですわ」

「ユーモアで雨風は防げません」

「なら、防げばいいだけでしょう?」

 

 ゾーイは片手を上へ向け、指先をくるりと回した。

 

 その途端、側車の上に黒い影が広がった。

 傘のように。

 幌のように。

 だが布ではなく、光そのものを拒む闇が、側車の上へふわりと覆いかぶさる。

 

 メアリーは一瞬だけ沈黙した。

 

「……便利ではございますね」

「でしょう?」

「ただし、お嬢様がいなければ成立しません」

「わたくしが乗っていますもの。問題ありませんわ」

「来賓をお迎えする場合には?」

「その時は馬車にでも乗せればよろしいのです」

「現代でございます、お嬢様」

「現代は少しばかり情緒を失いすぎですわ」

 

 メアリーは小さく息を吐いた。

 

 ゾーイは、こういう時だけ頑固だった。

 

 古いものを愛する。

 時代遅れのものを捨てない。

 壊れかけた機械であっても、そこに職人の意地や時代の匂いが残っていれば、妙に大切にする。

 

 この側車付き自動二輪車もそうだ。

 

 長年使い続けている骨董品のような車体。

 今では部品調達も面倒で、懇意の個人経営の修理屋がなければ、とっくに走れなくなっていただろう。

 

 それでも、ゾーイは気に入っていた。

 

「作った連中のユーモア感覚には疑問がありますけれど」

 

 風を受けながら、ゾーイは言った。

 

「こういう機械を作る腕だけは、認めざるを得ませんわね」

「長く動くものは、お好きでございますからね」

「ええ。すぐ壊れるものも、嫌いではありませんけれど」

「それは、ペンドルトン警部様のことで?」

「あら。そこへ繋げますの?」

「お嬢様のお気に入りでございますから」

「困った玩具ですわ」

「警部様が聞けば怒られます」

「聞こえていないでしょう?」

「たぶん」

「なら問題ありません」

 

 メアリーは黙ってスロットルを回した。

 

 側車付き自動二輪車は、対向車もまばらな田舎道を進んでいく。

 

 空は曇っていた。

 陽射しは薄く、畑の向こうに古い石塀と教会の尖塔が見える。

 雨の気配が、遠くにある。

 

 そのさらに奥から、湿った匂いが漂っていた。

 

 土の匂いではない。

 川の匂いでもない。

 もっと塩気を含んだ、重たい匂い。

 

 ゾーイはゴーグルの奥で目を細めた。

 

「……もう匂いますわね」

「海ですか」

「海に似ていますわ。ですが、ここは海辺ではありません」

「昨夜の聖堂でも、似た気配がございました」

「ええ。あれと同じ水音か、あるいは同じところから漏れた別の雫か」

 

 ゾーイはゴーグルの奥で目を細めた。

 

「どちらにせよ、紅茶の後味を台無しにしてくれそうですわね」

 

     *

 

 目的地は、古い教会の敷地内にある離れの建物だった。

 

 本堂から少し離れた石造りの建屋。

 窓は小さく、扉は重い。

 かつては物置か、あるいは療養者を隔離するための場所だったのかもしれない。

 

 駐車場の端に側車付き自動二輪車を停めると、ゾーイは勢いよく側車から飛び降りた。

 

 ヘルメットを外し、ゴーグルを引き上げる。

 黒髪が外套の背へ流れ落ちた。

 

「お嬢様。飛び降りる必要はございません」

「ありますわ」

「どのあたりに?」

「気分です」

「左様でございますか」

 

 メアリーは慣れた様子で車体の後部から道具鞄を取り出した。

 

 封蝋付きの小瓶。

 黒い封印布。

 銀の短剣。

 小型の祈祷具。

 そして、ゾーイが“建前としての商売道具”と呼ぶ品々。

 

 悪魔祓いの祈祷師。

 

 そう名乗る以上、それらしい道具は必要だった。

 たとえ実際には、彼女が道具よりもずっと古く、ずっと危険なものだとしても。

 

「“悪魔憑き”ですか」

 

 メアリーが依頼書を畳みながら言った。

 

「あなたの同郷が憑いていたら笑えますわね」

「悪魔であれば、まだ話は分かりやすいのですが」

「ええ。わたくしに依頼が来る時点で、だいたい分かりやすくありませんもの」

 

 ゾーイは離れの建屋を見上げた。

 

 入口には、司祭と修道女が待っていた。

 

 二人とも疲れた顔をしている。

 寝不足だけではない。

 祈り、失敗し、責任を押しつけられ、なお逃げられない者の顔だった。

 

「お、お待ちしておりました」

 

 司祭が一礼する。

 ゾーイは軽く頷いた。

 

「状況を」

「はい。患者は三週間前からこちらに隔離されています。こちらの祓魔手順を何度も試しましたが……効果はほとんど見られません」

「三週間」

 

 ゾーイの声がわずかに低くなった。

 司祭の顔が強張る。

 

「申し訳ありません。ただ、上の判断が……」

「責めているのではありませんわ」

 

 ゾーイは司祭を見た。

 そのスカイブルーの瞳には、いつもの皮肉とは違う、静かな色があった。

 

「血の繋がりもない他人のために、三週間も恐怖の前に立ち続けたのでしょう」

 

 ゾーイは小さく息を吐く。

 

「がんばりましたわね」

 

 司祭は、言葉を失った。

 それから、ゾーイはいつものように口元を上げる。

 

「ただし、やり方は褒められたものではありません。ワインではないのですから、寝かせれば良くなるものでもありませんわ」

 

 司祭は苦い顔で頷いた。

 

「……申し訳ありません」

「責任の所在、面子、報告書、管轄。人間社会の祈祷具は、いつも紙と印鑑でできておりますのね」

「お嬢様」

 

 メアリーが静かにたしなめる。

 

「ええ、分かっていますわ。責めるべき相手を間違えてはいけませんもの」

 

 ゾーイは司祭へ視線を戻した。

 

「それで、三週間も保ったのですね?」

「はい。ですが、限界です。患者も、こちらの者たちも」

 

 修道女が震える声で続けた。

 

「祈祷にあたった者の中には、精神を病んだ者もおります。悪夢、幻聴、錯乱……中には、自分の肺に水が入っていると言い続ける者も」

「肺に水」

 

 ゾーイは目を細めた。

 

 メアリーもわずかに表情を変える。

 

「患者本人は?」

「まだ生きています。ただ……人の形を保っている、と言ってよいのか」

「診せてもらいますわ」

 

 司祭は頷き、建屋の扉を開けた。

 

     *

 

 離れの中は、外よりも冷えていた。

 

 石の床。

 白い壁。

 古い祈祷用具。

 廊下にはランプが灯されているが、光はどこか頼りない。

 

 奥へ進むほど、空気が湿っていく。

 

 地下へ続く階段の前で、ゾーイは足を止めた。

 

 石段の下から、水音が聞こえる。

 

 ぽたり。

 ぽたり。

 

 だが、階段に水は流れていない。

 壁も濡れていない。

 それなのに、耳の奥だけが濡れるような音がする。

 

「メアリー」

「はい」

 

「足元に注意なさい。濡れていない場所ほど、こういう時は滑ります」

「承知いたしました」

 

 司祭が不安げに振り返る。

 

「何か、分かるのですか」

「分からないことが分かりましたわ」

「は……?」

「悪魔憑きと呼ぶには、少々、匂いが違います」

「しかし、あれは確かに祓魔の対象で――」

「祓魔の対象ではありますわ」

 

 ゾーイは階段を降りながら言った。

 

「ただし、“悪魔”とは限りません」

 

 地下はさらに冷たかった。

 

 空気が肌にまとわりつく。

 塩気を含んだ湿気が喉に絡み、奥歯のあたりに不快な重さを残す。

 

 廊下の先に、扉があった。

 

 その前には、二人の修道士が座り込んでいる。

 一人は祈祷書を抱えたまま震え、もう一人は壁を見つめて何かを小声で繰り返していた。

 

 メアリーが静かに視線を向ける。

 

「汚染が出ています」

「ええ。表層だけですけれど、長く浴びすぎていますわね」

 

 ゾーイは修道士たちを見た。

 

「この二人を上へ。温かいものを飲ませて、眠らせなさい。祈らせてはいけません」

「祈らせてはいけない、ですか?」

 

 修道女が驚いたように聞き返す。

 

「今の彼らが祈れば、祈りの形をした別のものが混ざります。危険ですわ」

 

 司祭は青ざめた。

 

 それでも頷き、修道士たちを運ばせるよう指示する。

 扉の向こうから、湿った呼吸音が聞こえた。

 

 ごぼり。

 ひゅう。

 ごぼり。

 

 肺に水がある音。

 

 だが、死にかけた人間の音ではなかった。

 水そのものが、人間の肺を真似ているような音だった。

 

「開けます」

 

 司祭が言う。

 扉が軋みながら開いた。

 

 部屋の中では、数人の聖職者たちが祈祷を続けていた。

 

 聖水。

 十字架。

 祈祷文。

 香。

 古い手順に従った祓魔の儀式。

 

 それらを浴びせられている中央の寝台に、一人の人間が縛りつけられていた。

 

 人間。

 

 まだ、そう呼ぶことはできる。

 だが、その輪郭は崩れかけていた。

 

 肌は青白く、ところどころが硬い鱗のように変質している。

 首筋には薄い裂け目があり、呼吸のたびにそこが震える。

 指の間には膜のようなものが張り、爪は黒く濡れていた。

 

 顔はまだ人のものだ。

 だが、瞳は濁り、焦点が合っていない。

 

 口が開く。

 

「――ぁ」

 

 声ではない。

 水の底から漏れる泡のような音だった。

 

 カレンが言っていた“黒い水がざわってした感じ”。

 

 ゾーイは、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

「お嬢様」

 

 メアリーが小さく呼ぶ。

 

「ええ」

 

 ゾーイは頷いた。

 

 これは悪魔ではない。

 少なくとも、メアリーの同郷ではない。

 

 悪魔ならば、もう少し形がある。

 欲も、契約も、名も、癖もある。

 

 だが、これは違う。

 

 名を持つ前のものに近い。

 あるいは、名を失ったものの残り香。

 

 人間ならば、正気というものを数えたくなる光景だろう。

 もっとも、ゾーイにそれを測る物差しはない。

 

 正気を失うほど、人間らしい精神構造をしていないからだ。

 

「……どうですか」

 

 司祭が問う。

 

「悪魔でしょうか」

 

 ゾーイは答えず、寝台のそばへ進んだ。

 

 祈祷を続けていた聖職者の一人が、慌てて止めようとする。

 

「危険です、近づいては――」

「危険なのは、あなた方が三週間もこれに言葉を浴びせ続けたことですわ」

「なっ……」

「祈りは薬にも毒にもなります。相手を間違えれば、餌です」

 

 ゾーイは患者の顔を覗き込んだ。

 

 濁った瞳が、ゆっくりと彼女を見る。

 その瞬間、部屋の空気が沈んだ。

 

 水の底へ引き込まれるような圧。

 耳鳴り。

 遠い波音。

 誰かが水中で笑うような気配。

 

 司祭が呻き、修道女が口元を押さえる。

 

 だが、ゾーイだけは動かなかった。

 

 彼女の足元の影が、静かに広がる。

 

 患者の口元から、水が溢れた。

 

 黒い水だった。

 

 それは寝台の布へ染み込まず、床へ落ちることもなく、空中で細い糸のように揺れている。

 

 メアリーが短剣へ手をかけた。

 

「お嬢様」

「まだです」

 

 ゾーイは患者を見つめたまま言った。

 

「これは本体ではありません。入口でもない。ただの、こぼれた先です」

「では、患者は」

「器にされていますわ」

 

 ゾーイは目を細める。

 

「器というより、沈められかけている、と言うべきかしら」

 

 患者の喉が膨らんだ。

 

 口が裂けるように開き、泡混じりの声が漏れる。

 

「……み、ず……」

 

 人間の声だった。

 

 その後ろに、別の音が重なっていた。

 

 波。

 深い海。

 冷たい闇。

 

 ゾーイはゆっくりと手袋を外した。

 

「司祭様」

「は、はい」

「これは悪魔憑きではありませんわ」

 

 部屋の中が静まり返る。

 

「では……何が憑いているのですか」

 

 司祭の声が震えた。

 

 ゾーイは患者の口元から垂れる黒い水を見た。

 それから、ひどく嫌そうに顔をしかめる。

 

「そうですわね」

 

 彼女は微笑んだ。

 

 優雅に。

 いつものように。

 だが、その瞳の奥には、空色とは違う黒が一瞬だけ滲んでいた。

 

「少なくとも、紅茶に合うものではありません」

「お嬢様」

「分かっていますわ」

 

 ゾーイは患者の額に指を伸ばした。

 

 黒い水が、その指先を避けるように震える。

 

「名を付けるなら――」

 

 部屋の奥で、水音が強くなる。

 

 ぽたり。

 ぽたり。

 ぽたり。

 

 存在しない水が、どこかで滴り続けている。

 

「これは、海に憑かれていますわ」

 

 その言葉と同時に、患者が絶叫した。

 

 いや、絶叫したのは患者ではない。

 人間の喉を借りて、何かが水底から吠えたのだ。

 

 祈祷室のランプが一斉に揺れる。

 壁に貼られた聖句が濡れたように黒ずむ。

 床に、ありもしない波紋が広がる。

 

 ゾーイは小さくため息をついた。

 

「まったく」

 

 彼女の影が、足元から広がる。

 

「また後味の悪そうなものを」

 

 メアリーが一歩前へ出る。

 

「紅茶は、戻られてから濃く淹れましょう」

「焼き菓子も」

「もちろんでございます」

 

 ゾーイは微笑んだ。

 

 そして、黒い水へ手を伸ばす。

 

「では、後始末を始めましょうか」





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