第三話「〇〇〇憑き」
砂利道を、古い側車付き自動二輪車が走っていた。
低く唸るエンジン音。
跳ねる小石。
車輪が濡れた轍を踏むたび、泥が後ろへ細く散っていく。
運転席にいるのはメアリーだった。
屋敷でのクラシカルなメイド服ではない。
栗毛のショートボブは最低限の髪留めでまとめられ、ツイード地のジャケットに革手袋、実用的なブーツ。
山道や荒れ地へ向かう時の、しっかりしたハンター衣装だった。
その横、側車の中にはゾーイが収まっている。
小柄な体に黒い外套。
頭にはヘルメット。
スカイブルーの瞳はゴーグル越しでも妙に澄んで見えた。
「……お嬢様」
「なにかしら」
「わたくし、“車を回してまいります”と申し上げたはずなのですが」
「ええ。ですから車輪のあるものが来たではありませんか」
「それは言葉遊びでございます」
「ユーモアですわ」
「ユーモアで雨風は防げません」
「なら、防げばいいだけでしょう?」
ゾーイは片手を上へ向け、指先をくるりと回した。
その途端、側車の上に黒い影が広がった。
傘のように。
幌のように。
だが布ではなく、光そのものを拒む闇が、側車の上へふわりと覆いかぶさる。
メアリーは一瞬だけ沈黙した。
「……便利ではございますね」
「でしょう?」
「ただし、お嬢様がいなければ成立しません」
「わたくしが乗っていますもの。問題ありませんわ」
「来賓をお迎えする場合には?」
「その時は馬車にでも乗せればよろしいのです」
「現代でございます、お嬢様」
「現代は少しばかり情緒を失いすぎですわ」
メアリーは小さく息を吐いた。
ゾーイは、こういう時だけ頑固だった。
古いものを愛する。
時代遅れのものを捨てない。
壊れかけた機械であっても、そこに職人の意地や時代の匂いが残っていれば、妙に大切にする。
この側車付き自動二輪車もそうだ。
長年使い続けている骨董品のような車体。
今では部品調達も面倒で、懇意の個人経営の修理屋がなければ、とっくに走れなくなっていただろう。
それでも、ゾーイは気に入っていた。
「作った連中のユーモア感覚には疑問がありますけれど」
風を受けながら、ゾーイは言った。
「こういう機械を作る腕だけは、認めざるを得ませんわね」
「長く動くものは、お好きでございますからね」
「ええ。すぐ壊れるものも、嫌いではありませんけれど」
「それは、ペンドルトン警部様のことで?」
「あら。そこへ繋げますの?」
「お嬢様のお気に入りでございますから」
「困った玩具ですわ」
「警部様が聞けば怒られます」
「聞こえていないでしょう?」
「たぶん」
「なら問題ありません」
メアリーは黙ってスロットルを回した。
側車付き自動二輪車は、対向車もまばらな田舎道を進んでいく。
空は曇っていた。
陽射しは薄く、畑の向こうに古い石塀と教会の尖塔が見える。
雨の気配が、遠くにある。
そのさらに奥から、湿った匂いが漂っていた。
土の匂いではない。
川の匂いでもない。
もっと塩気を含んだ、重たい匂い。
ゾーイはゴーグルの奥で目を細めた。
「……もう匂いますわね」
「海ですか」
「海に似ていますわ。ですが、ここは海辺ではありません」
「昨夜の聖堂でも、似た気配がございました」
「ええ。あれと同じ水音か、あるいは同じところから漏れた別の雫か」
ゾーイはゴーグルの奥で目を細めた。
「どちらにせよ、紅茶の後味を台無しにしてくれそうですわね」
*
目的地は、古い教会の敷地内にある離れの建物だった。
本堂から少し離れた石造りの建屋。
窓は小さく、扉は重い。
かつては物置か、あるいは療養者を隔離するための場所だったのかもしれない。
駐車場の端に側車付き自動二輪車を停めると、ゾーイは勢いよく側車から飛び降りた。
ヘルメットを外し、ゴーグルを引き上げる。
黒髪が外套の背へ流れ落ちた。
「お嬢様。飛び降りる必要はございません」
「ありますわ」
「どのあたりに?」
「気分です」
「左様でございますか」
メアリーは慣れた様子で車体の後部から道具鞄を取り出した。
封蝋付きの小瓶。
黒い封印布。
銀の短剣。
小型の祈祷具。
そして、ゾーイが“建前としての商売道具”と呼ぶ品々。
悪魔祓いの祈祷師。
そう名乗る以上、それらしい道具は必要だった。
たとえ実際には、彼女が道具よりもずっと古く、ずっと危険なものだとしても。
「“悪魔憑き”ですか」
メアリーが依頼書を畳みながら言った。
「あなたの同郷が憑いていたら笑えますわね」
「悪魔であれば、まだ話は分かりやすいのですが」
「ええ。わたくしに依頼が来る時点で、だいたい分かりやすくありませんもの」
ゾーイは離れの建屋を見上げた。
入口には、司祭と修道女が待っていた。
二人とも疲れた顔をしている。
寝不足だけではない。
祈り、失敗し、責任を押しつけられ、なお逃げられない者の顔だった。
「お、お待ちしておりました」
司祭が一礼する。
ゾーイは軽く頷いた。
「状況を」
「はい。患者は三週間前からこちらに隔離されています。こちらの祓魔手順を何度も試しましたが……効果はほとんど見られません」
「三週間」
ゾーイの声がわずかに低くなった。
司祭の顔が強張る。
「申し訳ありません。ただ、上の判断が……」
「責めているのではありませんわ」
ゾーイは司祭を見た。
そのスカイブルーの瞳には、いつもの皮肉とは違う、静かな色があった。
「血の繋がりもない他人のために、三週間も恐怖の前に立ち続けたのでしょう」
ゾーイは小さく息を吐く。
「がんばりましたわね」
司祭は、言葉を失った。
それから、ゾーイはいつものように口元を上げる。
「ただし、やり方は褒められたものではありません。ワインではないのですから、寝かせれば良くなるものでもありませんわ」
司祭は苦い顔で頷いた。
「……申し訳ありません」
「責任の所在、面子、報告書、管轄。人間社会の祈祷具は、いつも紙と印鑑でできておりますのね」
「お嬢様」
メアリーが静かにたしなめる。
「ええ、分かっていますわ。責めるべき相手を間違えてはいけませんもの」
ゾーイは司祭へ視線を戻した。
「それで、三週間も保ったのですね?」
「はい。ですが、限界です。患者も、こちらの者たちも」
修道女が震える声で続けた。
「祈祷にあたった者の中には、精神を病んだ者もおります。悪夢、幻聴、錯乱……中には、自分の肺に水が入っていると言い続ける者も」
「肺に水」
ゾーイは目を細めた。
メアリーもわずかに表情を変える。
「患者本人は?」
「まだ生きています。ただ……人の形を保っている、と言ってよいのか」
「診せてもらいますわ」
司祭は頷き、建屋の扉を開けた。
*
離れの中は、外よりも冷えていた。
石の床。
白い壁。
古い祈祷用具。
廊下にはランプが灯されているが、光はどこか頼りない。
奥へ進むほど、空気が湿っていく。
地下へ続く階段の前で、ゾーイは足を止めた。
石段の下から、水音が聞こえる。
ぽたり。
ぽたり。
だが、階段に水は流れていない。
壁も濡れていない。
それなのに、耳の奥だけが濡れるような音がする。
「メアリー」
「はい」
「足元に注意なさい。濡れていない場所ほど、こういう時は滑ります」
「承知いたしました」
司祭が不安げに振り返る。
「何か、分かるのですか」
「分からないことが分かりましたわ」
「は……?」
「悪魔憑きと呼ぶには、少々、匂いが違います」
「しかし、あれは確かに祓魔の対象で――」
「祓魔の対象ではありますわ」
ゾーイは階段を降りながら言った。
「ただし、“悪魔”とは限りません」
地下はさらに冷たかった。
空気が肌にまとわりつく。
塩気を含んだ湿気が喉に絡み、奥歯のあたりに不快な重さを残す。
廊下の先に、扉があった。
その前には、二人の修道士が座り込んでいる。
一人は祈祷書を抱えたまま震え、もう一人は壁を見つめて何かを小声で繰り返していた。
メアリーが静かに視線を向ける。
「汚染が出ています」
「ええ。表層だけですけれど、長く浴びすぎていますわね」
ゾーイは修道士たちを見た。
「この二人を上へ。温かいものを飲ませて、眠らせなさい。祈らせてはいけません」
「祈らせてはいけない、ですか?」
修道女が驚いたように聞き返す。
「今の彼らが祈れば、祈りの形をした別のものが混ざります。危険ですわ」
司祭は青ざめた。
それでも頷き、修道士たちを運ばせるよう指示する。
扉の向こうから、湿った呼吸音が聞こえた。
ごぼり。
ひゅう。
ごぼり。
肺に水がある音。
だが、死にかけた人間の音ではなかった。
水そのものが、人間の肺を真似ているような音だった。
「開けます」
司祭が言う。
扉が軋みながら開いた。
部屋の中では、数人の聖職者たちが祈祷を続けていた。
聖水。
十字架。
祈祷文。
香。
古い手順に従った祓魔の儀式。
それらを浴びせられている中央の寝台に、一人の人間が縛りつけられていた。
人間。
まだ、そう呼ぶことはできる。
だが、その輪郭は崩れかけていた。
肌は青白く、ところどころが硬い鱗のように変質している。
首筋には薄い裂け目があり、呼吸のたびにそこが震える。
指の間には膜のようなものが張り、爪は黒く濡れていた。
顔はまだ人のものだ。
だが、瞳は濁り、焦点が合っていない。
口が開く。
「――ぁ」
声ではない。
水の底から漏れる泡のような音だった。
カレンが言っていた“黒い水がざわってした感じ”。
ゾーイは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「お嬢様」
メアリーが小さく呼ぶ。
「ええ」
ゾーイは頷いた。
これは悪魔ではない。
少なくとも、メアリーの同郷ではない。
悪魔ならば、もう少し形がある。
欲も、契約も、名も、癖もある。
だが、これは違う。
名を持つ前のものに近い。
あるいは、名を失ったものの残り香。
人間ならば、正気というものを数えたくなる光景だろう。
もっとも、ゾーイにそれを測る物差しはない。
正気を失うほど、人間らしい精神構造をしていないからだ。
「……どうですか」
司祭が問う。
「悪魔でしょうか」
ゾーイは答えず、寝台のそばへ進んだ。
祈祷を続けていた聖職者の一人が、慌てて止めようとする。
「危険です、近づいては――」
「危険なのは、あなた方が三週間もこれに言葉を浴びせ続けたことですわ」
「なっ……」
「祈りは薬にも毒にもなります。相手を間違えれば、餌です」
ゾーイは患者の顔を覗き込んだ。
濁った瞳が、ゆっくりと彼女を見る。
その瞬間、部屋の空気が沈んだ。
水の底へ引き込まれるような圧。
耳鳴り。
遠い波音。
誰かが水中で笑うような気配。
司祭が呻き、修道女が口元を押さえる。
だが、ゾーイだけは動かなかった。
彼女の足元の影が、静かに広がる。
患者の口元から、水が溢れた。
黒い水だった。
それは寝台の布へ染み込まず、床へ落ちることもなく、空中で細い糸のように揺れている。
メアリーが短剣へ手をかけた。
「お嬢様」
「まだです」
ゾーイは患者を見つめたまま言った。
「これは本体ではありません。入口でもない。ただの、こぼれた先です」
「では、患者は」
「器にされていますわ」
ゾーイは目を細める。
「器というより、沈められかけている、と言うべきかしら」
患者の喉が膨らんだ。
口が裂けるように開き、泡混じりの声が漏れる。
「……み、ず……」
人間の声だった。
その後ろに、別の音が重なっていた。
波。
深い海。
冷たい闇。
ゾーイはゆっくりと手袋を外した。
「司祭様」
「は、はい」
「これは悪魔憑きではありませんわ」
部屋の中が静まり返る。
「では……何が憑いているのですか」
司祭の声が震えた。
ゾーイは患者の口元から垂れる黒い水を見た。
それから、ひどく嫌そうに顔をしかめる。
「そうですわね」
彼女は微笑んだ。
優雅に。
いつものように。
だが、その瞳の奥には、空色とは違う黒が一瞬だけ滲んでいた。
「少なくとも、紅茶に合うものではありません」
「お嬢様」
「分かっていますわ」
ゾーイは患者の額に指を伸ばした。
黒い水が、その指先を避けるように震える。
「名を付けるなら――」
部屋の奥で、水音が強くなる。
ぽたり。
ぽたり。
ぽたり。
存在しない水が、どこかで滴り続けている。
「これは、海に憑かれていますわ」
その言葉と同時に、患者が絶叫した。
いや、絶叫したのは患者ではない。
人間の喉を借りて、何かが水底から吠えたのだ。
祈祷室のランプが一斉に揺れる。
壁に貼られた聖句が濡れたように黒ずむ。
床に、ありもしない波紋が広がる。
ゾーイは小さくため息をついた。
「まったく」
彼女の影が、足元から広がる。
「また後味の悪そうなものを」
メアリーが一歩前へ出る。
「紅茶は、戻られてから濃く淹れましょう」
「焼き菓子も」
「もちろんでございます」
ゾーイは微笑んだ。
そして、黒い水へ手を伸ばす。
「では、後始末を始めましょうか」