悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第一編 第一章:「海に憑かれた男」
第三話「〇〇〇憑き」


 砂利道を、古い側車付き自動二輪車が走っていた。

 

 低く唸るエンジン音。

 跳ねる小石。

 車輪が濡れた轍を踏むたび、泥が後ろへ細く散っていく。

 

 運転席にいるのはメアリーだった。

 

 屋敷でのクラシカルなメイド服ではない。

 栗毛のショートボブは最低限の髪留めでまとめられ、ツイード地のジャケットに革手袋、実用的なブーツ。

 山道や荒れ地へ向かう時の、しっかりしたハンター衣装だった。

 

 その横、側車の中にはゾーイが収まっている。

 

 小柄な体に黒い外套。

 頭にはヘルメット。

 スカイブルーの瞳はゴーグル越しでも妙に澄んで見えた。

 

「……お嬢様」

「なにかしら」

「わたくし、“車を回してまいります”と申し上げたはずなのですが」

「ええ。ですから車輪のあるものが来たではありませんか」

「それは言葉遊びでございます」

「ユーモアですわ」

「ユーモアで雨風は防げません」

「なら、防げばいいだけでしょう?」

 

 ゾーイは片手を上へ向け、指先をくるりと回した。

 

 その途端、側車の上に黒い影が広がった。

 傘のように。

 幌のように。

 だが布ではなく、光そのものを拒む闇が、側車の上へふわりと覆いかぶさる。

 

 メアリーは一瞬だけ沈黙した。

 

「……便利ではございますね」

「でしょう?」

「ただし、お嬢様がいなければ成立しません」

「わたくしが乗っていますもの。問題ありませんわ」

「来賓をお迎えする場合には?」

「その時は馬車にでも乗せればよろしいのです」

「現代でございます、お嬢様」

「現代は少しばかり情緒を失いすぎですわ」

 

 メアリーは小さく息を吐いた。

 

 ゾーイは、こういう時だけ頑固だった。

 

 古いものを愛する。

 時代遅れのものを捨てない。

 壊れかけた機械であっても、そこに職人の意地や時代の匂いが残っていれば、妙に大切にする。

 

 この側車付き自動二輪車もそうだ。

 

 長年使い続けている骨董品のような車体。

 今では部品調達も面倒で、懇意の個人経営の修理屋がなければ、とっくに走れなくなっていただろう。

 

 それでも、ゾーイは気に入っていた。

 

「作った連中のユーモア感覚には疑問がありますけれど」

 

 風を受けながら、ゾーイは言った。

 

「こういう機械を作る腕だけは、認めざるを得ませんわね」

「長く動くものは、お好きでございますからね」

「ええ。すぐ壊れるものも、嫌いではありませんけれど」

「それは、ペンドルトン警部様のことで?」

「あら。そこへ繋げますの?」

「お嬢様のお気に入りでございますから」

「困った玩具ですわ」

「警部様が聞けば怒られます」

「聞こえていないでしょう?」

「たぶん」

「なら問題ありません」

 

 メアリーは黙ってスロットルを回した。

 

 側車付き自動二輪車は、対向車もまばらな田舎道を進んでいく。

 

 空は曇っていた。

 陽射しは薄く、畑の向こうに古い石塀と教会の尖塔が見える。

 雨の気配が、遠くにある。

 

 そのさらに奥から、湿った匂いが漂っていた。

 

 土の匂いではない。

 川の匂いでもない。

 もっと塩気を含んだ、重たい匂い。

 

 ゾーイはゴーグルの奥で目を細めた。

 

「……もう匂いますわね」

「海ですか」

「海に似ていますわ。ですが、ここは海辺ではありません」

「昨夜の聖堂でも、似た気配がございました」

「ええ。あれと同じ水音か、あるいは同じところから漏れた別の雫か」

 

 ゾーイはゴーグルの奥で目を細めた。

 

「どちらにせよ、紅茶の後味を台無しにしてくれそうですわね」

 

     *

 

 目的地は、古い教会の敷地内にある離れの建物だった。

 

 本堂から少し離れた石造りの建屋。

 窓は小さく、扉は重い。

 かつては物置か、あるいは療養者を隔離するための場所だったのかもしれない。

 

 駐車場の端に側車付き自動二輪車を停めると、ゾーイは勢いよく側車から飛び降りた。

 

 ヘルメットを外し、ゴーグルを引き上げる。

 黒髪が外套の背へ流れ落ちた。

 

「お嬢様。飛び降りる必要はございません」

「ありますわ」

「どのあたりに?」

「気分です」

「左様でございますか」

 

 メアリーは慣れた様子で車体の後部から道具鞄を取り出した。

 

 封蝋付きの小瓶。

 黒い封印布。

 銀の短剣。

 小型の祈祷具。

 そして、ゾーイが“建前としての商売道具”と呼ぶ品々。

 

 悪魔祓いの祈祷師。

 

 そう名乗る以上、それらしい道具は必要だった。

 たとえ実際には、彼女が道具よりもずっと古く、ずっと危険なものだとしても。

 

「“悪魔憑き”ですか」

 

 メアリーが依頼書を畳みながら言った。

 

「あなたの同郷が憑いていたら笑えますわね」

「悪魔であれば、まだ話は分かりやすいのですが」

「ええ。わたくしに依頼が来る時点で、だいたい分かりやすくありませんもの」

 

 ゾーイは離れの建屋を見上げた。

 

 入口には、司祭と修道女が待っていた。

 

 二人とも疲れた顔をしている。

 寝不足だけではない。

 祈り、失敗し、責任を押しつけられ、なお逃げられない者の顔だった。

 

「お、お待ちしておりました」

 

 司祭が一礼する。

 ゾーイは軽く頷いた。

 

「状況を」

「はい。患者は三週間前からこちらに隔離されています。こちらの祓魔手順を何度も試しましたが……効果はほとんど見られません」

「三週間」

 

 ゾーイの声がわずかに低くなった。

 司祭の顔が強張る。

 

「申し訳ありません。ただ、上の判断が……」

「責めているのではありませんわ」

 

 ゾーイは司祭を見た。

 そのスカイブルーの瞳には、いつもの皮肉とは違う、静かな色があった。

 

「血の繋がりもない他人のために、三週間も恐怖の前に立ち続けたのでしょう」

 

 ゾーイは小さく息を吐く。

 

「がんばりましたわね」

 

 司祭は、言葉を失った。

 それから、ゾーイはいつものように口元を上げる。

 

「ただし、やり方は褒められたものではありません。ワインではないのですから、寝かせれば良くなるものでもありませんわ」

 

 司祭は苦い顔で頷いた。

 

「……申し訳ありません」

「責任の所在、面子、報告書、管轄。人間社会の祈祷具は、いつも紙と印鑑でできておりますのね」

「お嬢様」

 

 メアリーが静かにたしなめる。

 

「ええ、分かっていますわ。責めるべき相手を間違えてはいけませんもの」

 

 ゾーイは司祭へ視線を戻した。

 

「それで、三週間も保ったのですね?」

「はい。ですが、限界です。患者も、こちらの者たちも」

 

 修道女が震える声で続けた。

 

「祈祷にあたった者の中には、精神を病んだ者もおります。悪夢、幻聴、錯乱……中には、自分の肺に水が入っていると言い続ける者も」

「肺に水」

 

 ゾーイは目を細めた。

 

 メアリーもわずかに表情を変える。

 

「患者本人は?」

「まだ生きています。ただ……人の形を保っている、と言ってよいのか」

「診せてもらいますわ」

 

 司祭は頷き、建屋の扉を開けた。

 

     *

 

 離れの中は、外よりも冷えていた。

 

 石の床。

 白い壁。

 古い祈祷用具。

 廊下にはランプが灯されているが、光はどこか頼りない。

 

 奥へ進むほど、空気が湿っていく。

 

 地下へ続く階段の前で、ゾーイは足を止めた。

 

 石段の下から、水音が聞こえる。

 

 ぽたり。

 ぽたり。

 

 だが、階段に水は流れていない。

 壁も濡れていない。

 それなのに、耳の奥だけが濡れるような音がする。

 

「メアリー」

「はい」

 

「足元に注意なさい。濡れていない場所ほど、こういう時は滑ります」

「承知いたしました」

 

 司祭が不安げに振り返る。

 

「何か、分かるのですか」

「分からないことが分かりましたわ」

「は……?」

「悪魔憑きと呼ぶには、少々、匂いが違います」

「しかし、あれは確かに祓魔の対象で――」

「祓魔の対象ではありますわ」

 

 ゾーイは階段を降りながら言った。

 

「ただし、“悪魔”とは限りません」

 

 地下はさらに冷たかった。

 

 空気が肌にまとわりつく。

 塩気を含んだ湿気が喉に絡み、奥歯のあたりに不快な重さを残す。

 

 廊下の先に、扉があった。

 

 その前には、二人の修道士が座り込んでいる。

 一人は祈祷書を抱えたまま震え、もう一人は壁を見つめて何かを小声で繰り返していた。

 

 メアリーが静かに視線を向ける。

 

「汚染が出ています」

「ええ。表層だけですけれど、長く浴びすぎていますわね」

 

 ゾーイは修道士たちを見た。

 

「この二人を上へ。温かいものを飲ませて、眠らせなさい。祈らせてはいけません」

「祈らせてはいけない、ですか?」

 

 修道女が驚いたように聞き返す。

 

「今の彼らが祈れば、祈りの形をした別のものが混ざります。危険ですわ」

 

 司祭は青ざめた。

 

 それでも頷き、修道士たちを運ばせるよう指示する。

 扉の向こうから、湿った呼吸音が聞こえた。

 

 ごぼり。

 ひゅう。

 ごぼり。

 

 肺に水がある音。

 

 だが、死にかけた人間の音ではなかった。

 水そのものが、人間の肺を真似ているような音だった。

 

「開けます」

 

 司祭が言う。

 扉が軋みながら開いた。

 

 部屋の中では、数人の聖職者たちが祈祷を続けていた。

 

 聖水。

 十字架。

 祈祷文。

 香。

 古い手順に従った祓魔の儀式。

 

 それらを浴びせられている中央の寝台に、一人の人間が縛りつけられていた。

 

 人間。

 

 まだ、そう呼ぶことはできる。

 だが、その輪郭は崩れかけていた。

 

 肌は青白く、ところどころが硬い鱗のように変質している。

 首筋には薄い裂け目があり、呼吸のたびにそこが震える。

 指の間には膜のようなものが張り、爪は黒く濡れていた。

 

 顔はまだ人のものだ。

 だが、瞳は濁り、焦点が合っていない。

 

 口が開く。

 

「――ぁ」

 

 声ではない。

 水の底から漏れる泡のような音だった。

 

 カレンが言っていた“黒い水がざわってした感じ”。

 

 ゾーイは、ほんの少しだけ眉を寄せた。

 

「お嬢様」

 

 メアリーが小さく呼ぶ。

 

「ええ」

 

 ゾーイは頷いた。

 

 これは悪魔ではない。

 少なくとも、メアリーの同郷ではない。

 

 悪魔ならば、もう少し形がある。

 欲も、契約も、名も、癖もある。

 

 だが、これは違う。

 

 名を持つ前のものに近い。

 あるいは、名を失ったものの残り香。

 

 人間ならば、正気というものを数えたくなる光景だろう。

 もっとも、ゾーイにそれを測る物差しはない。

 

 正気を失うほど、人間らしい精神構造をしていないからだ。

 

「……どうですか」

 

 司祭が問う。

 

「悪魔でしょうか」

 

 ゾーイは答えず、寝台のそばへ進んだ。

 

 祈祷を続けていた聖職者の一人が、慌てて止めようとする。

 

「危険です、近づいては――」

「危険なのは、あなた方が三週間もこれに言葉を浴びせ続けたことですわ」

「なっ……」

「祈りは薬にも毒にもなります。相手を間違えれば、餌です」

 

 ゾーイは患者の顔を覗き込んだ。

 

 濁った瞳が、ゆっくりと彼女を見る。

 その瞬間、部屋の空気が沈んだ。

 

 水の底へ引き込まれるような圧。

 耳鳴り。

 遠い波音。

 誰かが水中で笑うような気配。

 

 司祭が呻き、修道女が口元を押さえる。

 

 だが、ゾーイだけは動かなかった。

 

 彼女の足元の影が、静かに広がる。

 

 患者の口元から、水が溢れた。

 

 黒い水だった。

 

 それは寝台の布へ染み込まず、床へ落ちることもなく、空中で細い糸のように揺れている。

 

 メアリーが短剣へ手をかけた。

 

「お嬢様」

「まだです」

 

 ゾーイは患者を見つめたまま言った。

 

「これは本体ではありません。入口でもない。ただの、こぼれた先です」

「では、患者は」

「器にされていますわ」

 

 ゾーイは目を細める。

 

「器というより、沈められかけている、と言うべきかしら」

 

 患者の喉が膨らんだ。

 

 口が裂けるように開き、泡混じりの声が漏れる。

 

「……み、ず……」

 

 人間の声だった。

 

 その後ろに、別の音が重なっていた。

 

 波。

 深い海。

 冷たい闇。

 

 ゾーイはゆっくりと手袋を外した。

 

「司祭様」

「は、はい」

「これは悪魔憑きではありませんわ」

 

 部屋の中が静まり返る。

 

「では……何が憑いているのですか」

 

 司祭の声が震えた。

 

 ゾーイは患者の口元から垂れる黒い水を見た。

 それから、ひどく嫌そうに顔をしかめる。

 

「そうですわね」

 

 彼女は微笑んだ。

 

 優雅に。

 いつものように。

 だが、その瞳の奥には、空色とは違う黒が一瞬だけ滲んでいた。

 

「少なくとも、紅茶に合うものではありません」

「お嬢様」

「分かっていますわ」

 

 ゾーイは患者の額に指を伸ばした。

 

 黒い水が、その指先を避けるように震える。

 

「名を付けるなら――」

 

 部屋の奥で、水音が強くなる。

 

 ぽたり。

 ぽたり。

 ぽたり。

 

 存在しない水が、どこかで滴り続けている。

 

「これは、海に憑かれていますわ」

 

 その言葉と同時に、患者が絶叫した。

 

 いや、絶叫したのは患者ではない。

 人間の喉を借りて、何かが水底から吠えたのだ。

 

 祈祷室のランプが一斉に揺れる。

 壁に貼られた聖句が濡れたように黒ずむ。

 床に、ありもしない波紋が広がる。

 

 ゾーイは小さくため息をついた。

 

「まったく」

 

 彼女の影が、足元から広がる。

 

「また後味の悪そうなものを」

 

 メアリーが一歩前へ出る。

 

「紅茶は、戻られてから濃く淹れましょう」

「焼き菓子も」

「もちろんでございます」

 

 ゾーイは微笑んだ。

 

 そして、黒い水へ手を伸ばす。

 

「では、後始末を始めましょうか」





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