悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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喰らう

 黒い水が、空中で震えていた。

 

 寝台に縛られた患者の口元から漏れたそれは、床に落ちることも、布に染み込むこともない。

 ただ、細い糸のように揺れながら、部屋の空気を濡らしている。

 

 祈祷室のランプが揺れた。

 壁に貼られた聖句が、じわりと黒ずむ。

 床には、存在しないはずの波紋が広がっていた。

 

「では、後始末を始めましょうか」

 

 ゾーイが微笑む。

 

 その足元から、影が広がった。

 

 司祭は息を呑み、修道女は十字を切ろうとして、途中で手を止めた。

 祈ってよいのか。

 祈ってはいけないのか。

 その判断すら、もう彼らにはできなくなっていた。

 

「メアリー」

「はい、お嬢様」

「まずは固定を。肉体の形が残っているうちに、逃げ道を塞ぎます」

「承知いたしました」

 

 メアリーは道具鞄を開いた。

 

 黒い拘束具。

 封蝋付きの小瓶。

 銀の細い釘。

 そして、光を吸うような布。

 

 どれも祈祷具に見える。

 だが、教会で使われるものとは明らかに作りが違っていた。

 

 メアリーが寝台へ近づくと、患者の喉が大きく膨らんだ。

 

「――ぁ、あ」

 

 声になりきらない声。

 その奥で、水底から何かが笑った。

 

 黒い水が、鞭のように跳ねる。

 

 だが、その瞬間、メアリーの指先が動いた。

 

 銀の釘が寝台の四隅へ打ち込まれる。

 音はしなかった。

 ただ、空気だけが凍ったように止まる。

 

 黒い拘束具が患者の両腕、両脚、胸元を押さえた。

 革にも金属にも見えるが、よく見ると表面に細かな文字が走っている。

 

「お嬢様。固定完了まで、少しだけお時間を」

「かまいませんわ」

 

 ゾーイは周囲を見回した。

 

「司祭様。聖水を」

「は、はい」

「ただし患者には直接かけないように。床へ。円を描くように」

「円、ですか?」

「ええ。そうですわ。いかにも祓魔らしく」

 

 司祭は一瞬だけ戸惑った。

 ゾーイは微笑む。

 

「人間は、見た目の整った手順があると少し落ち着くでしょう? 必要なのは、効果だけではありません。耐えるための形も、時には役に立ちますわ」

 

 司祭は頷いた。

 

 それから修道女たちへ指示を出し、床へ聖水を撒かせる。

 祈祷文を唱えようとした者には、ゾーイが軽く手を上げて止めた。

 

「言葉はいりません。今の相手は、言葉に寄ってきます」

 

 祈祷室に沈黙が落ちた。

 ただ、患者の呼吸音だけが響く。

 

 ごぼり。

 ひゅう。

 ごぼり。

 

 メアリーが最後の封印布を患者の胸元へ当てる。

 黒い水が激しく震えた。

 

「固定、完了いたしました」

「結構」

 

 ゾーイは頷く。

 そして、司祭たちへ視線を向けた。

 

「では、ここからは全員、外へ」

「えっ」

 

 司祭が顔を上げる。

 

「しかし、私は見届けるよう命じられております。依頼した側として、何が行われたのかを――」

「必要ありませんわ」

 

 ゾーイの声は穏やかだった。

 だが、拒絶の響きははっきりしていた。

 

「ここから先は、あなた方の祈りでも、記録でも、監督でもありません。わたくしの仕事です」

「ですが……!」

「見たいのですか?」

 

 ゾーイは首を傾げた。

 

「祓いではなく、捕食を」

 

 司祭の喉が鳴った。

 ゾーイは続ける。

 

「あなたが見届けたいと思うこと自体は、悪くありません。逃げずに、責任を持とうとしている。そこは立派ですわ」

 

 少しだけ、声が柔らかくなる。

 

「ですが、それと耐えられるかどうかは別です」

 

 司祭は言葉を失った。

 

「ここに残れば、あなたは見ることになります。人間の祈りではなく、人間の理屈でもなく、境界の外のものが、境界の外のものを喰らうところを」

 

 ランプの火が揺れた。

 

「そして、見たものを忘れられなくなる。報告書に書けないだけではありません。祈りの中に混ざります。夢にも、声にも、静かな水音にも」

 

 司祭の顔色が変わる。

 ゾーイは、ほんの少しだけ肩を竦めた。

 

「昔、それでずいぶん面倒な火炙りごっこになりましたの。再演は趣味ではありませんわ」

「お嬢様」

 

 メアリーが静かに口を挟む。

 

「ここからは、わたくしがご説明いたします」

「……任せますわ」

 

 ゾーイは少し不満そうに言うと、近くにあったパイプ椅子へ腰を下ろした。

 脚を組み、頬杖をつく。

 メアリーは司祭へ向き直った。

 

「大変申し訳ございません。ここから行われる処置では、対象が強く抵抗する可能性がございます。その際、視覚、聴覚、精神、信仰の経路を通じて、周囲へ影響が広がる恐れがあります」

「それは……」

「すでに精神を病まれた方がいらっしゃいますね」

 

 司祭は黙った。

 

「同じことが、ここにいる全員へ起きる可能性がございます。そうなれば、お嬢様は原因の処理だけでなく、あなた方の保護まで行わなければなりません」

 

 メアリーは丁寧に一礼する。

 

「はっきり申し上げます。残られますと、邪魔になります」

 

 修道女が息を呑んだ。

 司祭もまた、反射的に反論しようとした。

 だが、メアリーの金色の細い目が、うっすらと開く。

 空気の温度が下がった。

 

「救済のために立ち続けたことは、尊いことでございます」

 

 メアリーは穏やかに言った。

 

「ですが、救うための場で、救済者の手を塞がれるのであれば、それは勇気ではなく妨害でございます」

 

 司祭は唇を噛んだ。

 

「……後ほど、報告は」

「こちらで正式なものを作成いたします。教会筋で通る形に整えてお渡しいたします」

「だが、私の立場が」

「患者の命と、どちらが大切でございますか」

 

 沈黙。

 それから司祭は深く息を吐いた。

 

「……分かりました。一切、お任せします。どうか、彼をお救いください」

「はい。必ず」

 

 メアリーの声音に、迷いはなかった。

 司祭たちは一人ずつ部屋を出ていく。

 最後に司祭が扉の前で振り返った。

 ゾーイは彼を見て、少しだけ目を細める。

 

「司祭様」

「……はい」

「あなたが間違えたことと、あなたが逃げなかったことは、別ですわ」

 

 司祭は小さく目を見開いた。

 

「前者は後で反省なさい。後者は、誇ってよろしい」

「……ありがとうございます」

 

 扉が閉じた。

 足音が遠ざかる。

 やがて地下の気配から、人間の匂いが消えた。

 

 祈祷室に残ったのは、ゾーイとメアリー。

 そして、寝台に縛りつけられた患者だけ。

 

 黒い水が、にたりと笑ったように震えた。

 

「さて」

 

 ゾーイは椅子から立ち上がる。

 

「ようやく静かになりましたわね」

「お嬢様。周辺の人払い、確認いたしました」

「結構」

 

 ゾーイは指を鳴らした。

 床の影が一か所だけ濃くなる。

 

 そこから、すっと若い男の影が現れた。

 仕立ての良い黒服。

 涼しい笑み。

 片手には、いつもの小さな帳面。

 

「お呼びでしょうか、お嬢様」

「デイモン」

 

 ゾーイは寝台の患者を指す。

 

「屋敷の記録と照合なさい。これに近いものは?」

 

 デイモンは患者を見た。

 

 黒い水。

 鱗状に変質した皮膚。

 水底から漏れるような呼吸。

 

 それから、ほんの少しだけ眉を上げる。

 

「海神系、あるいは深海信仰系の残滓でございますね。ダゴンの名を借りたものが混じっているように見えます」

「本物?」

「まさか」

 

 デイモンは笑った。

 

「名を借りただけの泥でございます。古い神格の切れ端にも届かない。濡れた崇拝、腐った儀式、沈んだ怨念。そのあたりが混ざって、ずいぶん磯臭い形になったのでしょう。祈られれば祈られるほど、神のふりが上手くなる類です」

「知り合いではないのね」

「知り合いと呼ぶには、少々、相手が砂利に近すぎます」

「つまり知らないと」

「はい。記録する価値も低めでございます」

「記録係が言うと辛辣ですわね」

「屋敷の棚にも限りがございますので」

 

 メアリーがデイモンを見る。

 

「デイモン。余計な挑発は控えなさい」

「これは失礼。ですが、味についてはあまり期待なさらない方が」

 

 ゾーイが目を細める。

 

「あなた、何か知っていますわね」

「いいえ。屋敷の記録に、そのような情報はございません」

「記録には、でしょう?」

「お嬢様。細かな言葉尻を気になさると、紅茶が冷めます」

「ここに紅茶はありません」

「だからこそ、早めの処理をおすすめいたします」

 

 ゾーイはデイモンをじとりと見た。

 デイモンは涼しい顔で帳面を閉じる。

 

 黒い水が、患者の口からさらに伸びた。

 細い糸が数本、空中で絡み合い、何かの指のような形を取りかける。

 メアリーが短剣を構えた。

 

「お嬢様」

「ええ。もう十分です」

 

 ゾーイは寝台のそばへ進んだ。

 患者の濁った瞳が、彼女を見る。

 

 そこには助けを求める人間の意識はほとんど残っていない。

 だが、完全に消えたわけでもなかった。

 

 黒い水の奥で、誰かが沈んでいる。

 

「運が良いですわね」

 

 ゾーイは静かに言った。

 

「まだ、こちら側に引っかかっています」

 

 影が広がる。

 

 寝台の下。

 壁際。

 聖水で描かれた円の外。

 部屋の隅に残った古い染みの中。

 

 あらゆる暗がりから、黒い影が立ち上がった。

 

 それは手ではなかった。

 牙でもなかった。

 

 もっと深いもの。

 

 光が名付ける前の、ただの黒。

 

 黒い水が激しく暴れる。

 

 患者の体が跳ねた。

 拘束具が軋む。

 口から泡が溢れ、喉が裂けるように膨らむ。

 

 だが、メアリーの拘束は緩まない。

 

「維持します」

「頼みますわ」

 

 ゾーイは手袋を外した右手を、黒い水へ伸ばした。

 水は逃げた。

 だが、逃げ場はもう影に塞がれている。

 

「海を名乗るには浅すぎますわ」

 

 ゾーイの声が冷える。

 

「悪魔を追い払うつもりで、神様もどきに食事を差し上げていたわけですわ。親切なこと」

 

 その瞳が、深く黒く沈んでいく。

 

「ですが、神を名乗るには、祈りが腐りすぎている」

 

 影が口を開いた。

 

 咢。

 

 以前の夜に聖堂で現れたものと同じ。

 だが、今度はさらに深く、さらに静かだった。

 

 咢が、黒い水へ噛みつく。

 

 音がした。

 

 骨ではない。

 肉でもない。

 祈りでもない。

 

 濡れた記憶を噛み砕く音だった。

 

 黒い水が叫ぶ。

 

 患者の喉を使って。

 壁を濡らすように。

 水底の圧でランプの火を潰すように。

 

 だが、ゾーイは表情を変えなかった。

 

 影は、患者ごと呑み込む。

 

 寝台の上から、人の形が沈んでいく。

 

 メアリーの指先が動く。

 封印具が光る。

 患者の肉体が崩れないよう、残るべき形だけを留める。

 

 デイモンは少し離れた場所で帳面を開いていた。

 

「記録しますか?」

「するな」

「味覚記録だけでも」

「するな」

「後世の屋敷管理に役立つかと」

「デイモン」

 

 ゾーイの声が低くなった。

 

「はい。控えます」

 

 控えるだけで消すとは言わなかった。

 ゾーイはその点を追及する余裕もなく、影の奥へ意識を沈める。

 

 喰らう。

 

 邪魔なものだけを。

 人の形を歪めたものだけを。

 魂に食い込んだ湿った残滓だけを。

 祈りに混ざった腐った名だけを。

 

 それ以外は、戻す。

 

 骨。

 皮膚。

 血管。

 神経。

 壊れかけた臓器。

 沈みかけていた意識。

 

 形を拾い上げる。

 余計な水を抜く。

 入り込んだ名を剥がす。

 人間であったものを、人間の側へ押し戻す。

 

 やがて、祈祷室に咀嚼音だけが残った。

 

 ひどく湿った、硬いものを砕く音。

 

 ゾーイの瞳に、空色が戻った。

 

 だが、表情は晴れない。

 むしろ先ほどより深く、眉間に皺が刻まれていた。

 

「……っ」

「お嬢様」

「まずい」

 

 ゾーイははっきりと言った。

 

「これは本当に、最低の部類ですわ……腐った魚と古い偶像を泥水に沈めて、三週間ほど祈祷文で煮込んだような味がします」

「的確な表現でございますね」

「褒めていませんわよね?」

「もちろんでございます」

 

 メアリーは冷静に答えた。

 デイモンが横で小さく頷く。

 

「やはり味覚記録を」

「黙りなさい」

「はい」

 

 影が沈む。

 

 黒い水の叫びは弱まり、やがて泡のように消えていく。

 最後に、どこか遠くで大きな波が砕ける音がした。

 

 それきり、部屋は静かになった。

 

 寝台の上に、ひとりの男が横たわっていた。

 

 中年の男だった。

 鱗は消え、首筋の裂け目もない。

 指の間にあった膜も消え、爪も人間のものへ戻っている。

 

 ただし、衣服は影に巻き込まれたらしく、ほとんど残っていなかった。

 

 ゾーイは数秒黙った。

 

「……メアリー」

「はい」

「布を」

「すでに」

 

 メアリーは毛布を広げ、淡々と男の体を覆う。

 慣れた手つきだった。

 

「状態は?」

 

 ゾーイが問う。

 メアリーは患者の脈、瞳孔、呼吸、皮膚の状態を確認していく。

 

「外傷なし。汚染反応なし。肉体の変質も消えています。内側も……問題ありません」

「結構」

「それと」

「言わなくていいですわ」

「古い病変がいくつか消えています」

「言わなくていいと言いましたわ」

「関節、肝臓、血管の状態もかなり改善されています」

「偶然です」

「はい。偶然でございます」

 

 メアリーは微笑んだ。

 ゾーイは視線を逸らす。

 

「人間の体というのは、戻す時に余計な汚れが混ざっていると邪魔なのですわ。掃除の一環です。一環」

「左様でございますね」

 

 デイモンが男の顔を覗き込む。

 

「ああ、この方は――」

「言わなくていい」

「上院筋の――」

「言わなくていいと言いましたわ!」

「とある男爵様でございますね。慈善団体と教会関係への寄付で有名な」

「聞きたくなかった!」

 

 ゾーイは頭を抱えた。

 

「やはり政争絡みではありませんの! 面倒ごとの匂いしかしませんわ!」

「なお、保守派の中でも発言力が」

「デイモン。帰りなさい」

「承知いたしました」

 

 デイモンは満足そうに一礼する。

 

「では、屋敷の記録には“お嬢様、また面倒な人物を偶然お救いになる”と」

「書くな」

「写しは」

「取るな」

「検討いたします」

「消えなさい!」

「はい。またのお呼びをお待ちしております」

 

 デイモンは涼しい笑みを残し、影の中へ沈んだ。

 ゾーイは深く息を吐く。

 

「あの男、ことあるごとに嫌らしいところを突いてきますわね」

「屋敷管理者として、情報共有を重んじているのでしょう」

「嫌がらせの間違いではなくて?」

「ユーモアかと」

「あなたたちの言うユーモアは、たまに悪魔より悪魔的ですわ」

「恐れ入ります」

「褒めていません」

 

 ゾーイは寝台の男を見る。

 

 眠っている。

 呼吸は安定していた。

 

 顔色も、先ほどまでの青白さはない。

 

「よし」

 

 ゾーイはきっぱりと言った。

 

「いいですか、メアリー。この方の名前も、立場も、所属も、政治的背景も、わたくしは何も知りません」

「はい」

「彼はただの患者です」

「はい、お嬢様」

「偶然助けた、ただの患者です」

「そのように」

 

 メアリーは頷いた。

 

 ゾーイは床を見た。

 

 聖水の円。

 黒い拘束具。

 銀の釘。

 意味ありげに書かれた模様。

 寝台に横たわる、毛布に包まれた中年男性。

 

 知らない者が見れば、十分に怪しい儀式の跡だった。

 

「片付けますわよ。これを見られたら、また面倒な誤解が増えます」

「悪魔祓いの現場としては、それらしく見えるかと」

「それらしすぎるのが問題ですわ」

 

 ゾーイとメアリーは手早く後片付けを始めた。

 

 銀の釘を抜き、拘束具を外し、床の模様を薄める。

 残った黒い水の痕跡は、ゾーイが影で舐め取るように消した。

 

 そのたびに、彼女の顔が微妙に歪む。

 

「……まずい」

「戻りましたら、紅茶を」

「濃く」

「もちろんでございます」

「焼き菓子も」

「はい」

 

 すべてが片付いた頃、扉の向こうで足音がした。

 

 メアリーが扉を開ける。

 

 司祭が恐る恐る入ってきた。

 彼の視線が寝台へ向かう。

 そこには、毛布に包まれた男が静かに眠っていた。

 司祭は数秒、言葉を失った。

 

「……成功、したのですか」

「悪魔憑きではありませんでしたが」

 

 ゾーイは手袋をはめ直しながら言った。

 

「ええ。終わりましたわ」

「彼は」

「しばらく眠ります。目が覚めたら水を。食事は軽いものから。祈祷はしばらく禁止です」

「祈祷を?」

「ええ。祈りも薬と同じです。使いどころを間違えれば毒になります」

 

 司祭は深く頷いた。

 

「……ありがとうございました」

「礼なら、彼が目を覚ましてからにしなさい」

 

 ゾーイは扉へ向かう。

 

「それと報告書ですが」

 

 司祭の肩が跳ねた。

 

「重度の悪魔憑きとして処理しておきなさい。細部はこちらで合わせます。人間社会には、人間社会で飲み込みやすい嘘が必要ですわ」

「嘘、ですか」

 

「ええ」

 

 ゾーイは微笑む。

 

「真実をそのまま飲ませれば、人間はよく喉を詰まらせますもの」

 

 司祭は何も言えなかった。

 ただ、深々と頭を下げた。

 

     *

 

 後日。

 

 屋敷の応接室には、穏やかな紅茶の香りが満ちていた。

 

 ゾーイはいつもの椅子に座り、新聞を広げている。

 紙面の片隅には、とある男爵が療養から復帰したという短い記事が載っていた。

 

 病名は伏せられている。

 関係者への感謝。

 慈善活動への復帰。

 王冠の国らしい、品の良い言葉が並んでいた。

 

 ゾーイはそれを一瞥し、新聞を畳む。

 

「お嬢様。何か良いことでもございましたか?」

 

 メアリーが紅茶を注ぎながら尋ねる。

 

「いいえ?」

 

 ゾーイはカップを持ち上げた。

 

「世はこれ無事平穏、というだけですわ」

「左様でございますか」

「ええ。何も知りませんし、何も聞いていません。男爵も、政争も、寄付団体も、何も」

「では、そのように」

 

 メアリーは微笑む。

 ゾーイは紅茶を一口飲んだ。

 

 濃い。

 香りが深い。

 あの黒い水の後味を、ようやく少しだけ流してくれる。

 

「メアリー」

「はい、お嬢様」

「おかわり」

「もちろんでございます」

 

 カップに紅茶が注がれる。

 窓の外では、薄い雨が降り始めていた。

 その雨音の奥で、一瞬だけ、遠い波のような音がした気がした。

 ゾーイは窓へ視線を向ける。

 けれど、すぐに目を細め、紅茶へ戻した。

 

 終わったものは終わった。

 少なくとも、今回は。

 

 彼女は小さく笑う。

 

「まったく。人間は、本当に厄介なものを拾ってきますわね」

「だからこそ、お嬢様のお仕事がなくならないのでしょう」

「それは喜ぶべきことかしら」

「紅茶の時間が続く限りは」

「なら、よしとしましょう」

 

 ゾーイはカップを傾ける。

 屋敷のどこかで、帳面をめくる音がした。

 

 おそらくデイモンだ。

 ゾーイは聞こえなかったことにした。

 

 今日のところは、平穏である。




「海に憑かれた男」 終
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