悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第四話「喰らう」

 黒い水が、空中で震えていた。

 

 寝台に縛られた患者の口元から漏れたそれは、床に落ちることも、布に染み込むこともない。

 ただ、細い糸のように揺れながら、部屋の空気を濡らしている。

 

 祈祷室のランプが揺れた。

 壁に貼られた聖句が、じわりと黒ずむ。

 床には、存在しないはずの波紋が広がっていた。

 

「では、後始末を始めましょうか」

 

 ゾーイが微笑む。

 

 その足元から、影が広がった。

 

 司祭は息を呑み、修道女は十字を切ろうとして、途中で手を止めた。

 祈ってよいのか。

 祈ってはいけないのか。

 その判断すら、もう彼らにはできなくなっていた。

 

「メアリー」

「はい、お嬢様」

「まずは固定を。肉体の形が残っているうちに、逃げ道を塞ぎます」

「承知いたしました」

 

 メアリーは道具鞄を開いた。

 

 黒い拘束具。

 封蝋付きの小瓶。

 銀の細い釘。

 そして、光を吸うような布。

 

 どれも祈祷具に見える。

 だが、教会で使われるものとは明らかに作りが違っていた。

 

 メアリーが寝台へ近づくと、患者の喉が大きく膨らんだ。

 

「――ぁ、あ」

 

 声になりきらない声。

 その奥で、水底から何かが笑った。

 

 黒い水が、鞭のように跳ねる。

 

 だが、その瞬間、メアリーの指先が動いた。

 

 銀の釘が寝台の四隅へ打ち込まれる。

 音はしなかった。

 ただ、空気だけが凍ったように止まる。

 

 黒い拘束具が患者の両腕、両脚、胸元を押さえた。

 革にも金属にも見えるが、よく見ると表面に細かな文字が走っている。

 

「お嬢様。固定完了まで、少しだけお時間を」

「かまいませんわ」

 

 ゾーイは周囲を見回した。

 

「司祭様。聖水を」

「は、はい」

「ただし患者には直接かけないように。床へ。円を描くように」

「円、ですか?」

「ええ。そうですわ。いかにも祓魔らしく」

 

 司祭は一瞬だけ戸惑った。

 ゾーイは微笑む。

 

「人間は、見た目の整った手順があると少し落ち着くでしょう? 必要なのは、効果だけではありません。耐えるための形も、時には役に立ちますわ」

 

 司祭は頷いた。

 

 それから修道女たちへ指示を出し、床へ聖水を撒かせる。

 祈祷文を唱えようとした者には、ゾーイが軽く手を上げて止めた。

 

「言葉はいりません。今の相手は、言葉に寄ってきます」

 

 祈祷室に沈黙が落ちた。

 ただ、患者の呼吸音だけが響く。

 

 ごぼり。

 ひゅう。

 ごぼり。

 

 メアリーが最後の封印布を患者の胸元へ当てる。

 黒い水が激しく震えた。

 

「固定、完了いたしました」

「結構」

 

 ゾーイは頷く。

 そして、司祭たちへ視線を向けた。

 

「では、ここからは全員、外へ」

「えっ」

 

 司祭が顔を上げる。

 

「しかし、私は見届けるよう命じられております。依頼した側として、何が行われたのかを――」

「必要ありませんわ」

 

 ゾーイの声は穏やかだった。

 だが、拒絶の響きははっきりしていた。

 

「ここから先は、あなた方の祈りでも、記録でも、監督でもありません。わたくしの仕事です」

「ですが……!」

「見たいのですか?」

 

 ゾーイは首を傾げた。

 

「祓いではなく、捕食を」

 

 司祭の喉が鳴った。

 ゾーイは続ける。

 

「あなたが見届けたいと思うこと自体は、悪くありません。逃げずに、責任を持とうとしている。そこは立派ですわ」

 

 少しだけ、声が柔らかくなる。

 

「ですが、それと耐えられるかどうかは別です」

 

 司祭は言葉を失った。

 

「ここに残れば、あなたは見ることになります。人間の祈りではなく、人間の理屈でもなく、境界の外のものが、境界の外のものを喰らうところを」

 

 ランプの火が揺れた。

 

「そして、見たものを忘れられなくなる。報告書に書けないだけではありません。祈りの中に混ざります。夢にも、声にも、静かな水音にも」

 

 司祭の顔色が変わる。

 ゾーイは、ほんの少しだけ肩を竦めた。

 

「昔、それでずいぶん面倒な火炙りごっこになりましたの。再演は趣味ではありませんわ」

「お嬢様」

 

 メアリーが静かに口を挟む。

 

「ここからは、わたくしがご説明いたします」

「……任せますわ」

 

 ゾーイは少し不満そうに言うと、近くにあったパイプ椅子へ腰を下ろした。

 脚を組み、頬杖をつく。

 メアリーは司祭へ向き直った。

 

「大変申し訳ございません。ここから行われる処置では、対象が強く抵抗する可能性がございます。その際、視覚、聴覚、精神、信仰の経路を通じて、周囲へ影響が広がる恐れがあります」

「それは……」

「すでに精神を病まれた方がいらっしゃいますね」

 

 司祭は黙った。

 

「同じことが、ここにいる全員へ起きる可能性がございます。そうなれば、お嬢様は原因の処理だけでなく、あなた方の保護まで行わなければなりません」

 

 メアリーは丁寧に一礼する。

 

「はっきり申し上げます。残られますと、邪魔になります」

 

 修道女が息を呑んだ。

 司祭もまた、反射的に反論しようとした。

 だが、メアリーの金色の細い目が、うっすらと開く。

 空気の温度が下がった。

 

「救済のために立ち続けたことは、尊いことでございます」

 

 メアリーは穏やかに言った。

 

「ですが、救うための場で、救済者の手を塞がれるのであれば、それは勇気ではなく妨害でございます」

 

 司祭は唇を噛んだ。

 

「……後ほど、報告は」

「こちらで正式なものを作成いたします。教会筋で通る形に整えてお渡しいたします」

「だが、私の立場が」

「患者の命と、どちらが大切でございますか」

 

 沈黙。

 それから司祭は深く息を吐いた。

 

「……分かりました。一切、お任せします。どうか、彼をお救いください」

「はい。必ず」

 

 メアリーの声音に、迷いはなかった。

 司祭たちは一人ずつ部屋を出ていく。

 最後に司祭が扉の前で振り返った。

 ゾーイは彼を見て、少しだけ目を細める。

 

「司祭様」

「……はい」

「あなたが間違えたことと、あなたが逃げなかったことは、別ですわ」

 

 司祭は小さく目を見開いた。

 

「前者は後で反省なさい。後者は、誇ってよろしい」

「……ありがとうございます」

 

 扉が閉じた。

 足音が遠ざかる。

 やがて地下の気配から、人間の匂いが消えた。

 

 祈祷室に残ったのは、ゾーイとメアリー。

 そして、寝台に縛りつけられた患者だけ。

 

 黒い水が、にたりと笑ったように震えた。

 

「さて」

 

 ゾーイは椅子から立ち上がる。

 

「ようやく静かになりましたわね」

「お嬢様。周辺の人払い、確認いたしました」

「結構」

 

 ゾーイは指を鳴らした。

 床の影が一か所だけ濃くなる。

 

 そこから、すっと若い男の影が現れた。

 仕立ての良い黒服。

 涼しい笑み。

 片手には、いつもの小さな帳面。

 

「お呼びでしょうか、お嬢様」

「デイモン」

 

 ゾーイは寝台の患者を指す。

 

「屋敷の記録と照合なさい。これに近いものは?」

 

 デイモンは患者を見た。

 

 黒い水。

 鱗状に変質した皮膚。

 水底から漏れるような呼吸。

 

 それから、ほんの少しだけ眉を上げる。

 

「海神系、あるいは深海信仰系の残滓でございますね。ダゴンの名を借りたものが混じっているように見えます」

「本物?」

「まさか」

 

 デイモンは笑った。

 

「名を借りただけの泥でございます。古い神格の切れ端にも届かない。濡れた崇拝、腐った儀式、沈んだ怨念。そのあたりが混ざって、ずいぶん磯臭い形になったのでしょう。祈られれば祈られるほど、神のふりが上手くなる類です」

「知り合いではないのね」

「知り合いと呼ぶには、少々、相手が砂利に近すぎます」

「つまり知らないと」

「はい。記録する価値も低めでございます」

「記録係が言うと辛辣ですわね」

「屋敷の棚にも限りがございますので」

 

 メアリーがデイモンを見る。

 

「デイモン。余計な挑発は控えなさい」

「これは失礼。ですが、味についてはあまり期待なさらない方が」

 

 ゾーイが目を細める。

 

「あなた、何か知っていますわね」

「いいえ。屋敷の記録に、そのような情報はございません」

「記録には、でしょう?」

「お嬢様。細かな言葉尻を気になさると、紅茶が冷めます」

「ここに紅茶はありません」

「だからこそ、早めの処理をおすすめいたします」

 

 ゾーイはデイモンをじとりと見た。

 デイモンは涼しい顔で帳面を閉じる。

 

 黒い水が、患者の口からさらに伸びた。

 細い糸が数本、空中で絡み合い、何かの指のような形を取りかける。

 メアリーが短剣を構えた。

 

「お嬢様」

「ええ。もう十分です」

 

 ゾーイは寝台のそばへ進んだ。

 患者の濁った瞳が、彼女を見る。

 

 そこには助けを求める人間の意識はほとんど残っていない。

 だが、完全に消えたわけでもなかった。

 

 黒い水の奥で、誰かが沈んでいる。

 

「運が良いですわね」

 

 ゾーイは静かに言った。

 

「まだ、こちら側に引っかかっています」

 

 影が広がる。

 

 寝台の下。

 壁際。

 聖水で描かれた円の外。

 部屋の隅に残った古い染みの中。

 

 あらゆる暗がりから、黒い影が立ち上がった。

 

 それは手ではなかった。

 牙でもなかった。

 

 もっと深いもの。

 

 光が名付ける前の、ただの黒。

 

 黒い水が激しく暴れる。

 

 患者の体が跳ねた。

 拘束具が軋む。

 口から泡が溢れ、喉が裂けるように膨らむ。

 

 だが、メアリーの拘束は緩まない。

 

「維持します」

「頼みますわ」

 

 ゾーイは手袋を外した右手を、黒い水へ伸ばした。

 水は逃げた。

 だが、逃げ場はもう影に塞がれている。

 

「海を名乗るには浅すぎますわ」

 

 ゾーイの声が冷える。

 

「悪魔を追い払うつもりで、神様もどきに食事を差し上げていたわけですわ。親切なこと」

 

 その瞳が、深く黒く沈んでいく。

 

「ですが、神を名乗るには、祈りが腐りすぎている」

 

 影が口を開いた。

 

 咢。

 

 以前の夜に聖堂で現れたものと同じ。

 だが、今度はさらに深く、さらに静かだった。

 

 咢が、黒い水へ噛みつく。

 

 音がした。

 

 骨ではない。

 肉でもない。

 祈りでもない。

 

 濡れた記憶を噛み砕く音だった。

 

 黒い水が叫ぶ。

 

 患者の喉を使って。

 壁を濡らすように。

 水底の圧でランプの火を潰すように。

 

 だが、ゾーイは表情を変えなかった。

 

 影は、患者ごと呑み込む。

 

 寝台の上から、人の形が沈んでいく。

 

 メアリーの指先が動く。

 封印具が光る。

 患者の肉体が崩れないよう、残るべき形だけを留める。

 

 デイモンは少し離れた場所で帳面を開いていた。

 

「記録しますか?」

「するな」

「味覚記録だけでも」

「するな」

「後世の屋敷管理に役立つかと」

「デイモン」

 

 ゾーイの声が低くなった。

 

「はい。控えます」

 

 控えるだけで消すとは言わなかった。

 ゾーイはその点を追及する余裕もなく、影の奥へ意識を沈める。

 

 喰らう。

 

 邪魔なものだけを。

 人の形を歪めたものだけを。

 魂に食い込んだ湿った残滓だけを。

 祈りに混ざった腐った名だけを。

 

 それ以外は、戻す。

 

 骨。

 皮膚。

 血管。

 神経。

 壊れかけた臓器。

 沈みかけていた意識。

 

 形を拾い上げる。

 余計な水を抜く。

 入り込んだ名を剥がす。

 人間であったものを、人間の側へ押し戻す。

 

 やがて、祈祷室に咀嚼音だけが残った。

 

 ひどく湿った、硬いものを砕く音。

 

 ゾーイの瞳に、空色が戻った。

 

 だが、表情は晴れない。

 むしろ先ほどより深く、眉間に皺が刻まれていた。

 

「……っ」

「お嬢様」

「まずい」

 

 ゾーイははっきりと言った。

 

「これは本当に、最低の部類ですわ……腐った魚と古い偶像を泥水に沈めて、三週間ほど祈祷文で煮込んだような味がします」

「的確な表現でございますね」

「褒めていませんわよね?」

「もちろんでございます」

 

 メアリーは冷静に答えた。

 デイモンが横で小さく頷く。

 

「やはり味覚記録を」

「黙りなさい」

「はい」

 

 影が沈む。

 

 黒い水の叫びは弱まり、やがて泡のように消えていく。

 最後に、どこか遠くで大きな波が砕ける音がした。

 

 それきり、部屋は静かになった。

 

 寝台の上に、ひとりの男が横たわっていた。

 

 中年の男だった。

 鱗は消え、首筋の裂け目もない。

 指の間にあった膜も消え、爪も人間のものへ戻っている。

 

 ただし、衣服は影に巻き込まれたらしく、ほとんど残っていなかった。

 

 ゾーイは数秒黙った。

 

「……メアリー」

「はい」

「布を」

「すでに」

 

 メアリーは毛布を広げ、淡々と男の体を覆う。

 慣れた手つきだった。

 

「状態は?」

 

 ゾーイが問う。

 メアリーは患者の脈、瞳孔、呼吸、皮膚の状態を確認していく。

 

「外傷なし。汚染反応なし。肉体の変質も消えています。内側も……問題ありません」

「結構」

「それと」

「言わなくていいですわ」

「古い病変がいくつか消えています」

「言わなくていいと言いましたわ」

「関節、肝臓、血管の状態もかなり改善されています」

「偶然です」

「はい。偶然でございます」

 

 メアリーは微笑んだ。

 ゾーイは視線を逸らす。

 

「人間の体というのは、戻す時に余計な汚れが混ざっていると邪魔なのですわ。掃除の一環です。一環」

「左様でございますね」

 

 デイモンが男の顔を覗き込む。

 

「ああ、この方は――」

「言わなくていい」

「上院筋の――」

「言わなくていいと言いましたわ!」

「とある男爵様でございますね。慈善団体と教会関係への寄付で有名な」

「聞きたくなかった!」

 

 ゾーイは頭を抱えた。

 

「やはり政争絡みではありませんの! 面倒ごとの匂いしかしませんわ!」

「なお、保守派の中でも発言力が」

「デイモン。帰りなさい」

「承知いたしました」

 

 デイモンは満足そうに一礼する。

 

「では、屋敷の記録には“お嬢様、また面倒な人物を偶然お救いになる”と」

「書くな」

「写しは」

「取るな」

「検討いたします」

「消えなさい!」

「はい。またのお呼びをお待ちしております」

 

 デイモンは涼しい笑みを残し、影の中へ沈んだ。

 ゾーイは深く息を吐く。

 

「あの男、ことあるごとに嫌らしいところを突いてきますわね」

「屋敷管理者として、情報共有を重んじているのでしょう」

「嫌がらせの間違いではなくて?」

「ユーモアかと」

「あなたたちの言うユーモアは、たまに悪魔より悪魔的ですわ」

「恐れ入ります」

「褒めていません」

 

 ゾーイは寝台の男を見る。

 

 眠っている。

 呼吸は安定していた。

 

 顔色も、先ほどまでの青白さはない。

 

「よし」

 

 ゾーイはきっぱりと言った。

 

「いいですか、メアリー。この方の名前も、立場も、所属も、政治的背景も、わたくしは何も知りません」

「はい」

「彼はただの患者です」

「はい、お嬢様」

「偶然助けた、ただの患者です」

「そのように」

 

 メアリーは頷いた。

 

 ゾーイは床を見た。

 

 聖水の円。

 黒い拘束具。

 銀の釘。

 意味ありげに書かれた模様。

 寝台に横たわる、毛布に包まれた中年男性。

 

 知らない者が見れば、十分に怪しい儀式の跡だった。

 

「片付けますわよ。これを見られたら、また面倒な誤解が増えます」

「悪魔祓いの現場としては、それらしく見えるかと」

「それらしすぎるのが問題ですわ」

 

 ゾーイとメアリーは手早く後片付けを始めた。

 

 銀の釘を抜き、拘束具を外し、床の模様を薄める。

 残った黒い水の痕跡は、ゾーイが影で舐め取るように消した。

 

 そのたびに、彼女の顔が微妙に歪む。

 

「……まずい」

「戻りましたら、紅茶を」

「濃く」

「もちろんでございます」

「焼き菓子も」

「はい」

 

 すべてが片付いた頃、扉の向こうで足音がした。

 

 メアリーが扉を開ける。

 

 司祭が恐る恐る入ってきた。

 彼の視線が寝台へ向かう。

 そこには、毛布に包まれた男が静かに眠っていた。

 司祭は数秒、言葉を失った。

 

「……成功、したのですか」

「悪魔憑きではありませんでしたが」

 

 ゾーイは手袋をはめ直しながら言った。

 

「ええ。終わりましたわ」

「彼は」

「しばらく眠ります。目が覚めたら水を。食事は軽いものから。祈祷はしばらく禁止です」

「祈祷を?」

「ええ。祈りも薬と同じです。使いどころを間違えれば毒になります」

 

 司祭は深く頷いた。

 

「……ありがとうございました」

「礼なら、彼が目を覚ましてからにしなさい」

 

 ゾーイは扉へ向かう。

 

「それと報告書ですが」

 

 司祭の肩が跳ねた。

 

「重度の悪魔憑きとして処理しておきなさい。細部はこちらで合わせます。人間社会には、人間社会で飲み込みやすい嘘が必要ですわ」

「嘘、ですか」

 

「ええ」

 

 ゾーイは微笑む。

 

「真実をそのまま飲ませれば、人間はよく喉を詰まらせますもの」

 

 司祭は何も言えなかった。

 ただ、深々と頭を下げた。

 

     *

 

 後日。

 

 屋敷の応接室には、穏やかな紅茶の香りが満ちていた。

 

 ゾーイはいつもの椅子に座り、新聞を広げている。

 紙面の片隅には、とある男爵が療養から復帰したという短い記事が載っていた。

 

 病名は伏せられている。

 関係者への感謝。

 慈善活動への復帰。

 王冠の国らしい、品の良い言葉が並んでいた。

 

 ゾーイはそれを一瞥し、新聞を畳む。

 

「お嬢様。何か良いことでもございましたか?」

 

 メアリーが紅茶を注ぎながら尋ねる。

 

「いいえ?」

 

 ゾーイはカップを持ち上げた。

 

「世はこれ無事平穏、というだけですわ」

「左様でございますか」

「ええ。何も知りませんし、何も聞いていません。男爵も、政争も、寄付団体も、何も」

「では、そのように」

 

 メアリーは微笑む。

 ゾーイは紅茶を一口飲んだ。

 

 濃い。

 香りが深い。

 あの黒い水の後味を、ようやく少しだけ流してくれる。

 

「メアリー」

「はい、お嬢様」

「おかわり」

「もちろんでございます」

 

 カップに紅茶が注がれる。

 窓の外では、薄い雨が降り始めていた。

 その雨音の奥で、一瞬だけ、遠い波のような音がした気がした。

 ゾーイは窓へ視線を向ける。

 けれど、すぐに目を細め、紅茶へ戻した。

 

 終わったものは終わった。

 少なくとも、今回は。

 

 彼女は小さく笑う。

 

「まったく。人間は、本当に厄介なものを拾ってきますわね」

「だからこそ、お嬢様のお仕事がなくならないのでしょう」

「それは喜ぶべきことかしら」

「紅茶の時間が続く限りは」

「なら、よしとしましょう」

 

 ゾーイはカップを傾ける。

 屋敷のどこかで、帳面をめくる音がした。

 

 おそらくデイモンだ。

 ゾーイは聞こえなかったことにした。

 

 今日のところは、平穏である。




第一編 第一章:「海に憑かれた男」 終
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