悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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第一編 第二章:「仄暗い底から這いよるモノ」
第五話「溺れたモノ」


 

「警部。こちらです」

 

 若い刑事の声に導かれ、A・J・ペンドルトンは地下へ続く廊下を歩いていた。

 

 白い壁。

 白い照明。

 磨かれているはずなのに、どこか冷たく湿った印象の残る床。

 

 遺体安置所という場所は、何度来ても好きになれない。

 

 死者が怖いわけではない。

 むしろ、生きている人間の方がよほど厄介だというのは、長年の現場勤めで十分に理解している。

 

 ただ、ここに運び込まれた時点で、彼らはもう何も証言してくれない。

 

 誰に追われたのか。

 何を見たのか。

 なぜ死ななければならなかったのか。

 

 残された肉体と、現場と、僅かな痕跡を拾い集め、こちらが代わりに語らせるしかない。

 

 それが普通の死体であれば、まだよい。

 

 普通でない死体ほど、面倒なものはない。

 

「先週発見された身元不明遺体か」

「はい。山中で発見された件です。担当課から回されてきました」

「回されてきた、ね」

 

 ペンドルトンは苦々しく呟いた。

 

 怪異案件に関わって以来、彼のところには時折、妙な事件が流れ着くようになった。

 

 水のない場所で溺れた者。

 鍵の掛かった部屋で、鏡の内側から死んだ者。

 燃えていないのに、灰だけを残して消えた者。

 

 正式には、そんな部署は存在しない。

 

 だが通常の捜査官が扱いきれず、上層部が報告書の書き方に困る事件は、最終的に彼の机へ積まれる。

 

 ご丁寧に「経験豊富な警部へ」といった文言まで添えて。

 

 要するに、誰も触りたくないだけだ。

 

「こちらが検分報告書です」

 

 若い刑事がファイルを差し出した。

 

 ペンドルトンは受け取らず、手だけを軽く上げる。

 

「先に遺体を見る」

「報告書を確認されないのですか?」

「あとで読む。先に読めば、その通りにしか見えなくなることがある」

「……分かりました」

 

 若い刑事は、少し緊張した様子でファイルを抱え直した。

 

 安置室の扉が開く。

 

 冷気が、コートの襟元から入り込んだ。

 

 金属製の台の上に、一人の男が横たわっている。

 

 年齢は三十代後半から四十代前半ほど。

 痩せすぎてもいない。

 太ってもいない。

 目立った外傷もなく、酷く争った痕跡もない。

 

 肌は死人らしく白い。

 

 だが、その白さには妙な均一さがあった。

 

 溺死体にしては、綺麗すぎる。

 

「衣類は?」

「隣の証拠棚に。発見時は上半身裸で、ズボンと靴のみ着用していました」

「靴は履いていたのか」

「はい。泥の付着がありました。詳しい土壌確認は現場班が進めています」

 

 ペンドルトンは手袋をはめ、遺体の顔を確認した。

 

 口元。

 鼻孔。

 耳。

 首筋。

 

 喉元へ指を滑らせたところで、手袋越しに僅かな引っかかりを覚えた。

 

「……ん?」

「何か?」

「ピンセットと証拠袋を」

 

 若い刑事が慌てて準備する。

 

 ペンドルトンは喉元に付着していたものを慎重につまみ上げた。

 

 薄い膜だった。

 

 皮膚片にも見える。

 魚の鱗の裏側に貼りついている膜のようにも見える。

 だが、乾いている。

 

 遺体の表面にも、周囲の台にも、水気は一滴もないというのに、それだけが妙に湿った光を帯びていた。

 

「付着物一点。検査へ回せ。優先でだ」

「はい」

 

 証拠袋へ収められた薄膜を見送り、ペンドルトンは遺体の手足を確かめる。

 

 手首に拘束痕はない。

 爪の間に皮膚片もない。

 拳を握り込んだ痕も、何かにしがみついた跡もない。

 

 抵抗していない。

 

 あるいは、抵抗できなかった。

 

「綺麗な死体だな」

「はい。外傷はほぼありません」

「綺麗だからこそ、嫌になる」

 

 ペンドルトンは手袋を外した。

 

「報告書を寄越せ」

「はい」

 

 ようやく差し出されたファイルを受け取り、ページをめくる。

 

 発見日時。

 発見場所。

 身元不明。

 外傷所見なし。

 薬物反応なし。

 死因欄。

 

 そこでペンドルトンの指が止まった。

 

「……不自然死。死因、溺死の疑い」

「はい」

「疑い?」

「検分担当も判断に迷ったようです」

「肺に水が入っていたのではないのか」

「入っています。気道と肺、それから胃内容物からも、水分は確認されています」

「なら溺死だろう」

「それが……」

 

 若い刑事が言葉を濁した。

 

 ペンドルトンは、ファイルから目を上げる。

 

「何だ」

「海水なんです」

 

 しばらく、空調の低い音だけが聞こえた。

 

「……何が」

「肺の中にあった水です。成分分析の結果、淡水ではなく海水に近い塩分組成が確認されています」

「発見場所は山中だと言ったな」

「はい。海岸から車でも相当距離があります。近隣に海水を扱う施設もありません」

 

 ペンドルトンはもう一度、報告書へ視線を落とした。

 

 発見現場。

 森林地帯。

 古い石塀沿いの未舗装路から外れた斜面。

 近くに川はあるが、当然ながら淡水。

 貯水設備なし。

 運搬痕なし。

 

「海で殺して、山へ運んだ可能性は」

「死亡推定時刻と発見状況から見ると、かなり難しいかと。運搬に使った車両痕も見つかっていません」

「海水を持ち込んで、その場で溺れさせた」

「その設備も、容器も、痕跡もありません」

「服は濡れていなかったのか」

「はい」

 

 若い刑事は、困惑を隠せない声で続けた。

 

「正確には、雨や地面の湿気による汚れはありました。ですが、海水に浸かった痕跡がないんです。塩分の付着も、衣類からは確認されていません」

「体の外側は濡れていない。肺と胃の中だけが海水で満たされている」

「そういうことになります」

 

 ペンドルトンは無意識に眉間を押さえた。

 

 胃のあたりが、早くも重い。

 

「現場に入った人間の数は」

「被害者一人分の足跡だけです。発見者は通報後、こちらで別に確認しています」

「一人で山に入り、容器もなく、服を濡らさず、肺の中だけ海水で満たして死んだ、と」

「……普通に考えれば、あり得ません」

「普通に考えれば、な」

 

 ペンドルトンは吐き捨てるように言った。

 

 普通でない事件の担当に、普通でない遺体が来る。

 

 本当に、上の連中は人を見る目だけはあるらしい。

 ありがたくはないが。

 

「それで、私のところへ回したというわけか」

「警部は、この手の不可解な案件に詳しいと伺っています」

「誰がそんな不名誉な評価を流しているんだ」

「署内では、かなり有名です」

「嬉しくないな」

「ですが、実際に解決された案件も多いと」

「解決しているのは、たいてい私ではない」

 

 若い刑事が首を傾げる。

 

「では、誰が?」

「知る必要はない」

 

 ペンドルトンは即座に切った。

 

 小柄な黒髪の令嬢。

 古い時代から抜け出してきたようなドレス。

 相手が何であれ、まるで淑女のお茶会に招かれた不作法な客を見るように笑う女。

 

 そして、人ならざるものを、影の奥へ喰らってしまう存在。

 

 説明したところで信じる者はいない。

 信じたところで、得をする者もいない。

 

 せいぜい報告書に書けない情報が増えるだけだ。

 

「警部。こちらも確認を」

 

 若い刑事が、別の薄いファイルを差し出した。

 

「現場周辺の過去記録です。念のため洗ってみたところ、少し気になるものがありました」

 

 ペンドルトンは嫌な予感を覚えながら、そのファイルを受け取った。

 

 紙の束は薄い。

 だが、薄い書類ほど危険なことがある。

 

 情報が少ないのではない。

 書けないことが多すぎるのだ。

 

 現場周辺の地図。

 山林。

 使われなくなった道。

 崩れかけた石塀。

 その奥に、小さく記された建築物跡。

 

「旧修道院跡……」

「正確には、修道院に付属していた礼拝施設の跡地のようです。現在は管理者なし。立入禁止措置も形骸化しています」

「嫌な言葉ばかり並べるな」

「それと、数日前に教会筋から秘匿扱いで処理された案件の発生地が、この地域の外縁にあります」

 

 ペンドルトンの指が止まった。

 

「教会筋の案件?」

「詳細は伏せられています。ですが、患者一名が隔離され、外部協力者による処置で生還。記録上は重度の悪魔憑きとして処理されています」

 

 若い刑事は、報告書の一部を指で示した。

 

「ただ、追記が妙なんです」

「どんな追記だ」

「祈祷の継続禁止。水音の幻聴を訴える関係者の経過観察。現場に残った塩分を含む液体痕については、確認不能のため記録保留」

 

 ペンドルトンは、無言で書類を閉じた。

 

 しばらく何も言わない。

 

「……警部?」

「その案件の外部協力者名は」

「伏せられています」

「そうだろうな」

 

 書いてあるわけがない。

 

 書かずとも分かる。

 

 教会筋。

 悪魔憑き。

 説明不能の水。

 祈祷の中止。

 生還した患者。

 

 そんな後始末ができる者など、ペンドルトンの知る限り一人しかいない。

 

 いや、一人と一体、と言った方が正しいのかもしれない。

 あの悪魔メイドまで数えるなら。

 

「また、あいつか……」

「何かご存じで?」

「知りたくもない相手を、嫌というほど知っているだけだ」

 

 ペンドルトンは遺体へ視線を戻した。

 

 綺麗な死体。

 乾いた肌。

 濡れていない衣服。

 それなのに、肺の中だけを満たしていた海。

 

 そして、喉元に残っていた薄い膜。

 

 数日前の案件が、終わっていなかったのか。

 それとも、あれは最初から、もっと大きな何かのこぼれた雫に過ぎなかったのか。

 

 死体は答えない。

 

 ただ、金属台の上で静かに横たわっている。

 

 その時だった。

 

 ぽたり。

 

 どこかで、水の落ちる音がした。

 

 ペンドルトンは顔を上げた。

 

「……今の音は何だ」

「音、ですか?」

 

 若い刑事が周囲を見回す。

 

「何も聞こえませんでしたが」

 

 空調。

 冷却設備。

 蛍光灯の微かな唸り。

 

 それ以外には、何もない。

 

 床も乾いている。

 天井にも染みはない。

 遺体から水が垂れた様子もない。

 

 だが、ペンドルトンの耳には、確かに聞こえた。

 

 もう一度。

 

 ぽたり。

 

 冷たい水滴が、深い場所へ落ちていくような音。

 

 彼は遺体を見た。

 

 閉じられていたはずの男の口元が、ほんの僅かに開いているように見えた。

 

 気のせいだ。

 

 そう思いたかった。

 

「警部?」

「現場へ行くぞ」

「今からですか?」

「遺体はここで管理しろ。誰も一人で近づけるな。検査担当にも伝えろ。膜の付着物を扱う時は、必ず二人以上で確認しろ」

「そこまで必要でしょうか」

「必要でなければ、あとで笑い話にすればいい」

 

 ペンドルトンはコートの襟を正した。

 

「必要だった場合、笑えなくなる」

 

 若い刑事が息を呑む。

 

「分かりました。現場班へ連絡します」

「それと」

 

 ペンドルトンは、嫌そうに額を押さえた。

 

「教会筋の秘匿案件。外部協力者へ繋がる連絡先があるなら、回せ」

「協力を要請されるので?」

「まだだ」

 

 即答した。

 

 呼びたくない。

 あの黒髪のお嬢様を呼べば、事件は確実に面倒な形へ進む。

 

 だが、呼ばずに済むとも思えなかった。

 

「念のためだ。念のため」

 

 それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。

 

 ペンドルトンは安置室を出ようとして、もう一度だけ振り返る。

 

 金属台の上の死体は、先ほどと変わらず静かに眠っていた。

 

 だが、その頬の下。

 耳のすぐ脇に、薄い筋が光っている。

 

 濡れた痕のように。

 

 次の瞬間には、もう見えなかった。

 

 ペンドルトンは深く息を吐いた。

 

「これは確実に、面倒なことになるな……」

「根拠は?」

 

 若い刑事が恐る恐る尋ねる。

 

「長年、この仕事をやってきて培った勘だよ」

「当たるんですか、その勘」

「こういう時だけは、嫌になるほどな」

 

 遺体安置所の扉が閉じた。

 

 その向こう側で。

 

 誰もいなくなった安置室の静寂に、またひとつ、水音が落ちた。

 

 ぽたり。

 

 今度は、男の口元から。

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