第五話「溺れたモノ」
「警部。こちらです」
若い刑事の声に導かれ、A・J・ペンドルトンは地下へ続く廊下を歩いていた。
白い壁。
白い照明。
磨かれているはずなのに、どこか冷たく湿った印象の残る床。
遺体安置所という場所は、何度来ても好きになれない。
死者が怖いわけではない。
むしろ、生きている人間の方がよほど厄介だというのは、長年の現場勤めで十分に理解している。
ただ、ここに運び込まれた時点で、彼らはもう何も証言してくれない。
誰に追われたのか。
何を見たのか。
なぜ死ななければならなかったのか。
残された肉体と、現場と、僅かな痕跡を拾い集め、こちらが代わりに語らせるしかない。
それが普通の死体であれば、まだよい。
普通でない死体ほど、面倒なものはない。
「先週発見された身元不明遺体か」
「はい。山中で発見された件です。担当課から回されてきました」
「回されてきた、ね」
ペンドルトンは苦々しく呟いた。
怪異案件に関わって以来、彼のところには時折、妙な事件が流れ着くようになった。
水のない場所で溺れた者。
鍵の掛かった部屋で、鏡の内側から死んだ者。
燃えていないのに、灰だけを残して消えた者。
正式には、そんな部署は存在しない。
だが通常の捜査官が扱いきれず、上層部が報告書の書き方に困る事件は、最終的に彼の机へ積まれる。
ご丁寧に「経験豊富な警部へ」といった文言まで添えて。
要するに、誰も触りたくないだけだ。
「こちらが検分報告書です」
若い刑事がファイルを差し出した。
ペンドルトンは受け取らず、手だけを軽く上げる。
「先に遺体を見る」
「報告書を確認されないのですか?」
「あとで読む。先に読めば、その通りにしか見えなくなることがある」
「……分かりました」
若い刑事は、少し緊張した様子でファイルを抱え直した。
安置室の扉が開く。
冷気が、コートの襟元から入り込んだ。
金属製の台の上に、一人の男が横たわっている。
年齢は三十代後半から四十代前半ほど。
痩せすぎてもいない。
太ってもいない。
目立った外傷もなく、酷く争った痕跡もない。
肌は死人らしく白い。
だが、その白さには妙な均一さがあった。
溺死体にしては、綺麗すぎる。
「衣類は?」
「隣の証拠棚に。発見時は上半身裸で、ズボンと靴のみ着用していました」
「靴は履いていたのか」
「はい。泥の付着がありました。詳しい土壌確認は現場班が進めています」
ペンドルトンは手袋をはめ、遺体の顔を確認した。
口元。
鼻孔。
耳。
首筋。
喉元へ指を滑らせたところで、手袋越しに僅かな引っかかりを覚えた。
「……ん?」
「何か?」
「ピンセットと証拠袋を」
若い刑事が慌てて準備する。
ペンドルトンは喉元に付着していたものを慎重につまみ上げた。
薄い膜だった。
皮膚片にも見える。
魚の鱗の裏側に貼りついている膜のようにも見える。
だが、乾いている。
遺体の表面にも、周囲の台にも、水気は一滴もないというのに、それだけが妙に湿った光を帯びていた。
「付着物一点。検査へ回せ。優先でだ」
「はい」
証拠袋へ収められた薄膜を見送り、ペンドルトンは遺体の手足を確かめる。
手首に拘束痕はない。
爪の間に皮膚片もない。
拳を握り込んだ痕も、何かにしがみついた跡もない。
抵抗していない。
あるいは、抵抗できなかった。
「綺麗な死体だな」
「はい。外傷はほぼありません」
「綺麗だからこそ、嫌になる」
ペンドルトンは手袋を外した。
「報告書を寄越せ」
「はい」
ようやく差し出されたファイルを受け取り、ページをめくる。
発見日時。
発見場所。
身元不明。
外傷所見なし。
薬物反応なし。
死因欄。
そこでペンドルトンの指が止まった。
「……不自然死。死因、溺死の疑い」
「はい」
「疑い?」
「検分担当も判断に迷ったようです」
「肺に水が入っていたのではないのか」
「入っています。気道と肺、それから胃内容物からも、水分は確認されています」
「なら溺死だろう」
「それが……」
若い刑事が言葉を濁した。
ペンドルトンは、ファイルから目を上げる。
「何だ」
「海水なんです」
しばらく、空調の低い音だけが聞こえた。
「……何が」
「肺の中にあった水です。成分分析の結果、淡水ではなく海水に近い塩分組成が確認されています」
「発見場所は山中だと言ったな」
「はい。海岸から車でも相当距離があります。近隣に海水を扱う施設もありません」
ペンドルトンはもう一度、報告書へ視線を落とした。
発見現場。
森林地帯。
古い石塀沿いの未舗装路から外れた斜面。
近くに川はあるが、当然ながら淡水。
貯水設備なし。
運搬痕なし。
「海で殺して、山へ運んだ可能性は」
「死亡推定時刻と発見状況から見ると、かなり難しいかと。運搬に使った車両痕も見つかっていません」
「海水を持ち込んで、その場で溺れさせた」
「その設備も、容器も、痕跡もありません」
「服は濡れていなかったのか」
「はい」
若い刑事は、困惑を隠せない声で続けた。
「正確には、雨や地面の湿気による汚れはありました。ですが、海水に浸かった痕跡がないんです。塩分の付着も、衣類からは確認されていません」
「体の外側は濡れていない。肺と胃の中だけが海水で満たされている」
「そういうことになります」
ペンドルトンは無意識に眉間を押さえた。
胃のあたりが、早くも重い。
「現場に入った人間の数は」
「被害者一人分の足跡だけです。発見者は通報後、こちらで別に確認しています」
「一人で山に入り、容器もなく、服を濡らさず、肺の中だけ海水で満たして死んだ、と」
「……普通に考えれば、あり得ません」
「普通に考えれば、な」
ペンドルトンは吐き捨てるように言った。
普通でない事件の担当に、普通でない遺体が来る。
本当に、上の連中は人を見る目だけはあるらしい。
ありがたくはないが。
「それで、私のところへ回したというわけか」
「警部は、この手の不可解な案件に詳しいと伺っています」
「誰がそんな不名誉な評価を流しているんだ」
「署内では、かなり有名です」
「嬉しくないな」
「ですが、実際に解決された案件も多いと」
「解決しているのは、たいてい私ではない」
若い刑事が首を傾げる。
「では、誰が?」
「知る必要はない」
ペンドルトンは即座に切った。
小柄な黒髪の令嬢。
古い時代から抜け出してきたようなドレス。
相手が何であれ、まるで淑女のお茶会に招かれた不作法な客を見るように笑う女。
そして、人ならざるものを、影の奥へ喰らってしまう存在。
説明したところで信じる者はいない。
信じたところで、得をする者もいない。
せいぜい報告書に書けない情報が増えるだけだ。
「警部。こちらも確認を」
若い刑事が、別の薄いファイルを差し出した。
「現場周辺の過去記録です。念のため洗ってみたところ、少し気になるものがありました」
ペンドルトンは嫌な予感を覚えながら、そのファイルを受け取った。
紙の束は薄い。
だが、薄い書類ほど危険なことがある。
情報が少ないのではない。
書けないことが多すぎるのだ。
現場周辺の地図。
山林。
使われなくなった道。
崩れかけた石塀。
その奥に、小さく記された建築物跡。
「旧修道院跡……」
「正確には、修道院に付属していた礼拝施設の跡地のようです。現在は管理者なし。立入禁止措置も形骸化しています」
「嫌な言葉ばかり並べるな」
「それと、数日前に教会筋から秘匿扱いで処理された案件の発生地が、この地域の外縁にあります」
ペンドルトンの指が止まった。
「教会筋の案件?」
「詳細は伏せられています。ですが、患者一名が隔離され、外部協力者による処置で生還。記録上は重度の悪魔憑きとして処理されています」
若い刑事は、報告書の一部を指で示した。
「ただ、追記が妙なんです」
「どんな追記だ」
「祈祷の継続禁止。水音の幻聴を訴える関係者の経過観察。現場に残った塩分を含む液体痕については、確認不能のため記録保留」
ペンドルトンは、無言で書類を閉じた。
しばらく何も言わない。
「……警部?」
「その案件の外部協力者名は」
「伏せられています」
「そうだろうな」
書いてあるわけがない。
書かずとも分かる。
教会筋。
悪魔憑き。
説明不能の水。
祈祷の中止。
生還した患者。
そんな後始末ができる者など、ペンドルトンの知る限り一人しかいない。
いや、一人と一体、と言った方が正しいのかもしれない。
あの悪魔メイドまで数えるなら。
「また、あいつか……」
「何かご存じで?」
「知りたくもない相手を、嫌というほど知っているだけだ」
ペンドルトンは遺体へ視線を戻した。
綺麗な死体。
乾いた肌。
濡れていない衣服。
それなのに、肺の中だけを満たしていた海。
そして、喉元に残っていた薄い膜。
数日前の案件が、終わっていなかったのか。
それとも、あれは最初から、もっと大きな何かのこぼれた雫に過ぎなかったのか。
死体は答えない。
ただ、金属台の上で静かに横たわっている。
その時だった。
ぽたり。
どこかで、水の落ちる音がした。
ペンドルトンは顔を上げた。
「……今の音は何だ」
「音、ですか?」
若い刑事が周囲を見回す。
「何も聞こえませんでしたが」
空調。
冷却設備。
蛍光灯の微かな唸り。
それ以外には、何もない。
床も乾いている。
天井にも染みはない。
遺体から水が垂れた様子もない。
だが、ペンドルトンの耳には、確かに聞こえた。
もう一度。
ぽたり。
冷たい水滴が、深い場所へ落ちていくような音。
彼は遺体を見た。
閉じられていたはずの男の口元が、ほんの僅かに開いているように見えた。
気のせいだ。
そう思いたかった。
「警部?」
「現場へ行くぞ」
「今からですか?」
「遺体はここで管理しろ。誰も一人で近づけるな。検査担当にも伝えろ。膜の付着物を扱う時は、必ず二人以上で確認しろ」
「そこまで必要でしょうか」
「必要でなければ、あとで笑い話にすればいい」
ペンドルトンはコートの襟を正した。
「必要だった場合、笑えなくなる」
若い刑事が息を呑む。
「分かりました。現場班へ連絡します」
「それと」
ペンドルトンは、嫌そうに額を押さえた。
「教会筋の秘匿案件。外部協力者へ繋がる連絡先があるなら、回せ」
「協力を要請されるので?」
「まだだ」
即答した。
呼びたくない。
あの黒髪のお嬢様を呼べば、事件は確実に面倒な形へ進む。
だが、呼ばずに済むとも思えなかった。
「念のためだ。念のため」
それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。
ペンドルトンは安置室を出ようとして、もう一度だけ振り返る。
金属台の上の死体は、先ほどと変わらず静かに眠っていた。
だが、その頬の下。
耳のすぐ脇に、薄い筋が光っている。
濡れた痕のように。
次の瞬間には、もう見えなかった。
ペンドルトンは深く息を吐いた。
「これは確実に、面倒なことになるな……」
「根拠は?」
若い刑事が恐る恐る尋ねる。
「長年、この仕事をやってきて培った勘だよ」
「当たるんですか、その勘」
「こういう時だけは、嫌になるほどな」
遺体安置所の扉が閉じた。
その向こう側で。
誰もいなくなった安置室の静寂に、またひとつ、水音が落ちた。
ぽたり。
今度は、男の口元から。