悪魔祓いの祈祷師:Zoe   作:zaq2

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「仄暗い底から這いよるモノ」
溺れたモノ


 

「警部。こちらです」

 

 若い刑事の声に導かれ、A・J・ペンドルトンは地下へ続く廊下を歩いていた。

 

 白い壁。

 白い照明。

 磨かれているはずなのに、どこか冷たく湿った印象の残る床。

 

 遺体安置所という場所は、何度来ても好きになれない。

 

 死者が怖いわけではない。

 むしろ、生きている人間の方がよほど厄介だというのは、長年の現場勤めで十分に理解している。

 

 ただ、ここに運び込まれた時点で、彼らはもう何も証言してくれない。

 

 誰に追われたのか。

 何を見たのか。

 なぜ死ななければならなかったのか。

 

 残された肉体と、現場と、僅かな痕跡を拾い集め、こちらが代わりに語らせるしかない。

 

 それが普通の死体であれば、まだよい。

 

 普通でない死体ほど、面倒なものはない。

 

「先週発見された身元不明遺体か」

「はい。山中で発見された件です。担当課から回されてきました」

「回されてきた、ね」

 

 ペンドルトンは苦々しく呟いた。

 

 怪異案件に関わって以来、彼のところには時折、妙な事件が流れ着くようになった。

 

 水のない場所で溺れた者。

 鍵の掛かった部屋で、鏡の内側から死んだ者。

 燃えていないのに、灰だけを残して消えた者。

 

 正式には、そんな部署は存在しない。

 

 だが通常の捜査官が扱いきれず、上層部が報告書の書き方に困る事件は、最終的に彼の机へ積まれる。

 

 ご丁寧に「経験豊富な警部へ」といった文言まで添えて。

 

 要するに、誰も触りたくないだけだ。

 

「こちらが検分報告書です」

 

 若い刑事がファイルを差し出した。

 

 ペンドルトンは受け取らず、手だけを軽く上げる。

 

「先に遺体を見る」

「報告書を確認されないのですか?」

「あとで読む。先に読めば、その通りにしか見えなくなることがある」

「……分かりました」

 

 若い刑事は、少し緊張した様子でファイルを抱え直した。

 

 安置室の扉が開く。

 

 冷気が、コートの襟元から入り込んだ。

 

 金属製の台の上に、一人の男が横たわっている。

 

 年齢は三十代後半から四十代前半ほど。

 痩せすぎてもいない。

 太ってもいない。

 目立った外傷もなく、酷く争った痕跡もない。

 

 肌は死人らしく白い。

 

 だが、その白さには妙な均一さがあった。

 

 溺死体にしては、綺麗すぎる。

 

「衣類は?」

「隣の証拠棚に。発見時は上半身裸で、ズボンと靴のみ着用していました」

「靴は履いていたのか」

「はい。泥の付着がありました。詳しい土壌確認は現場班が進めています」

 

 ペンドルトンは手袋をはめ、遺体の顔を確認した。

 

 口元。

 鼻孔。

 耳。

 首筋。

 

 喉元へ指を滑らせたところで、手袋越しに僅かな引っかかりを覚えた。

 

「……ん?」

「何か?」

「ピンセットと証拠袋を」

 

 若い刑事が慌てて準備する。

 

 ペンドルトンは喉元に付着していたものを慎重につまみ上げた。

 

 薄い膜だった。

 

 皮膚片にも見える。

 魚の鱗の裏側に貼りついている膜のようにも見える。

 だが、乾いている。

 

 遺体の表面にも、周囲の台にも、水気は一滴もないというのに、それだけが妙に湿った光を帯びていた。

 

「付着物一点。検査へ回せ。優先でだ」

「はい」

 

 証拠袋へ収められた薄膜を見送り、ペンドルトンは遺体の手足を確かめる。

 

 手首に拘束痕はない。

 爪の間に皮膚片もない。

 拳を握り込んだ痕も、何かにしがみついた跡もない。

 

 抵抗していない。

 

 あるいは、抵抗できなかった。

 

「綺麗な死体だな」

「はい。外傷はほぼありません」

「綺麗だからこそ、嫌になる」

 

 ペンドルトンは手袋を外した。

 

「報告書を寄越せ」

「はい」

 

 ようやく差し出されたファイルを受け取り、ページをめくる。

 

 発見日時。

 発見場所。

 身元不明。

 外傷所見なし。

 薬物反応なし。

 死因欄。

 

 そこでペンドルトンの指が止まった。

 

「……不自然死。死因、溺死の疑い」

「はい」

「疑い?」

「検分担当も判断に迷ったようです」

「肺に水が入っていたのではないのか」

「入っています。気道と肺、それから胃内容物からも、水分は確認されています」

「なら溺死だろう」

「それが……」

 

 若い刑事が言葉を濁した。

 

 ペンドルトンは、ファイルから目を上げる。

 

「何だ」

「海水なんです」

 

 しばらく、空調の低い音だけが聞こえた。

 

「……何が」

「肺の中にあった水です。成分分析の結果、淡水ではなく海水に近い塩分組成が確認されています」

「発見場所は山中だと言ったな」

「はい。海岸から車でも相当距離があります。近隣に海水を扱う施設もありません」

 

 ペンドルトンはもう一度、報告書へ視線を落とした。

 

 発見現場。

 森林地帯。

 古い石塀沿いの未舗装路から外れた斜面。

 近くに川はあるが、当然ながら淡水。

 貯水設備なし。

 運搬痕なし。

 

「海で殺して、山へ運んだ可能性は」

「死亡推定時刻と発見状況から見ると、かなり難しいかと。運搬に使った車両痕も見つかっていません」

「海水を持ち込んで、その場で溺れさせた」

「その設備も、容器も、痕跡もありません」

「服は濡れていなかったのか」

「はい」

 

 若い刑事は、困惑を隠せない声で続けた。

 

「正確には、雨や地面の湿気による汚れはありました。ですが、海水に浸かった痕跡がないんです。塩分の付着も、衣類からは確認されていません」

「体の外側は濡れていない。肺と胃の中だけが海水で満たされている」

「そういうことになります」

 

 ペンドルトンは無意識に眉間を押さえた。

 

 胃のあたりが、早くも重い。

 

「現場に入った人間の数は」

「被害者一人分の足跡だけです。発見者は通報後、こちらで別に確認しています」

「一人で山に入り、容器もなく、服を濡らさず、肺の中だけ海水で満たして死んだ、と」

「……普通に考えれば、あり得ません」

「普通に考えれば、な」

 

 ペンドルトンは吐き捨てるように言った。

 

 普通でない事件の担当に、普通でない遺体が来る。

 

 本当に、上の連中は人を見る目だけはあるらしい。

 ありがたくはないが。

 

「それで、私のところへ回したというわけか」

「警部は、この手の不可解な案件に詳しいと伺っています」

「誰がそんな不名誉な評価を流しているんだ」

「署内では、かなり有名です」

「嬉しくないな」

「ですが、実際に解決された案件も多いと」

「解決しているのは、たいてい私ではない」

 

 若い刑事が首を傾げる。

 

「では、誰が?」

「知る必要はない」

 

 ペンドルトンは即座に切った。

 

 小柄な黒髪の令嬢。

 古い時代から抜け出してきたようなドレス。

 相手が何であれ、まるで淑女のお茶会に招かれた不作法な客を見るように笑う女。

 

 そして、人ならざるものを、影の奥へ喰らってしまう存在。

 

 説明したところで信じる者はいない。

 信じたところで、得をする者もいない。

 

 せいぜい報告書に書けない情報が増えるだけだ。

 

「警部。こちらも確認を」

 

 若い刑事が、別の薄いファイルを差し出した。

 

「現場周辺の過去記録です。念のため洗ってみたところ、少し気になるものがありました」

 

 ペンドルトンは嫌な予感を覚えながら、そのファイルを受け取った。

 

 紙の束は薄い。

 だが、薄い書類ほど危険なことがある。

 

 情報が少ないのではない。

 書けないことが多すぎるのだ。

 

 現場周辺の地図。

 山林。

 使われなくなった道。

 崩れかけた石塀。

 その奥に、小さく記された建築物跡。

 

「旧修道院跡……」

「正確には、修道院に付属していた礼拝施設の跡地のようです。現在は管理者なし。立入禁止措置も形骸化しています」

「嫌な言葉ばかり並べるな」

「それと、数日前に教会筋から秘匿扱いで処理された案件の発生地が、この地域の外縁にあります」

 

 ペンドルトンの指が止まった。

 

「教会筋の案件?」

「詳細は伏せられています。ですが、患者一名が隔離され、外部協力者による処置で生還。記録上は重度の悪魔憑きとして処理されています」

 

 若い刑事は、報告書の一部を指で示した。

 

「ただ、追記が妙なんです」

「どんな追記だ」

「祈祷の継続禁止。水音の幻聴を訴える関係者の経過観察。現場に残った塩分を含む液体痕については、確認不能のため記録保留」

 

 ペンドルトンは、無言で書類を閉じた。

 

 しばらく何も言わない。

 

「……警部?」

「その案件の外部協力者名は」

「伏せられています」

「そうだろうな」

 

 書いてあるわけがない。

 

 書かずとも分かる。

 

 教会筋。

 悪魔憑き。

 説明不能の水。

 祈祷の中止。

 生還した患者。

 

 そんな後始末ができる者など、ペンドルトンの知る限り一人しかいない。

 

 いや、一人と一体、と言った方が正しいのかもしれない。

 あの悪魔メイドまで数えるなら。

 

「また、あいつか……」

「何かご存じで?」

「知りたくもない相手を、嫌というほど知っているだけだ」

 

 ペンドルトンは遺体へ視線を戻した。

 

 綺麗な死体。

 乾いた肌。

 濡れていない衣服。

 それなのに、肺の中だけを満たしていた海。

 

 そして、喉元に残っていた薄い膜。

 

 数日前の案件が、終わっていなかったのか。

 それとも、あれは最初から、もっと大きな何かのこぼれた雫に過ぎなかったのか。

 

 死体は答えない。

 

 ただ、金属台の上で静かに横たわっている。

 

 その時だった。

 

 ぽたり。

 

 どこかで、水の落ちる音がした。

 

 ペンドルトンは顔を上げた。

 

「……今の音は何だ」

「音、ですか?」

 

 若い刑事が周囲を見回す。

 

「何も聞こえませんでしたが」

 

 空調。

 冷却設備。

 蛍光灯の微かな唸り。

 

 それ以外には、何もない。

 

 床も乾いている。

 天井にも染みはない。

 遺体から水が垂れた様子もない。

 

 だが、ペンドルトンの耳には、確かに聞こえた。

 

 もう一度。

 

 ぽたり。

 

 冷たい水滴が、深い場所へ落ちていくような音。

 

 彼は遺体を見た。

 

 閉じられていたはずの男の口元が、ほんの僅かに開いているように見えた。

 

 気のせいだ。

 

 そう思いたかった。

 

「警部?」

「現場へ行くぞ」

「今からですか?」

「遺体はここで管理しろ。誰も一人で近づけるな。検査担当にも伝えろ。膜の付着物を扱う時は、必ず二人以上で確認しろ」

「そこまで必要でしょうか」

「必要でなければ、あとで笑い話にすればいい」

 

 ペンドルトンはコートの襟を正した。

 

「必要だった場合、笑えなくなる」

 

 若い刑事が息を呑む。

 

「分かりました。現場班へ連絡します」

「それと」

 

 ペンドルトンは、嫌そうに額を押さえた。

 

「教会筋の秘匿案件。外部協力者へ繋がる連絡先があるなら、回せ」

「協力を要請されるので?」

「まだだ」

 

 即答した。

 

 呼びたくない。

 あの黒髪のお嬢様を呼べば、事件は確実に面倒な形へ進む。

 

 だが、呼ばずに済むとも思えなかった。

 

「念のためだ。念のため」

 

 それは自分に言い聞かせる言葉でもあった。

 

 ペンドルトンは安置室を出ようとして、もう一度だけ振り返る。

 

 金属台の上の死体は、先ほどと変わらず静かに眠っていた。

 

 だが、その頬の下。

 耳のすぐ脇に、薄い筋が光っている。

 

 濡れた痕のように。

 

 次の瞬間には、もう見えなかった。

 

 ペンドルトンは深く息を吐いた。

 

「これは確実に、面倒なことになるな……」

「根拠は?」

 

 若い刑事が恐る恐る尋ねる。

 

「長年、この仕事をやってきて培った勘だよ」

「当たるんですか、その勘」

「こういう時だけは、嫌になるほどな」

 

 遺体安置所の扉が閉じた。

 

 その向こう側で。

 

 誰もいなくなった安置室の静寂に、またひとつ、水音が落ちた。

 

 ぽたり。

 

 今度は、男の口元から。

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