「ここか……」
ペンドルトンは、未舗装の林道脇で足を止めた。
夕刻にはまだ早い。
だが、鬱蒼と茂った木々のせいで、森の中はすでに薄暗い。
湿った土の匂い。
苔に覆われた古い石垣。
車一台が通るのもやっとの道の端には、規制線が申し訳程度に張られている。
その向こう側。
道から少し斜面を下った場所に、白い目印が立てられていた。
「はい。遺体が発見されたのは、あの目印の辺りです」
若い刑事が手元の資料を確認しながら答える。
「第一発見者は、この森林区画の管理人です。朝の巡回中、斜面の下に人の脚らしきものが見えたため、確認して通報したとのことです」
「発見時刻は」
「午前八時十二分。巡回時間から考えて、ほとんど発見直後の通報かと」
「発見者に不審な点は?」
「今のところありません。毎週同じ曜日、同じ時間帯にこの辺りを巡回しています。遺体を見つけてからは近づかず、すぐ通報しています」
「賢明だな」
ペンドルトンは規制線をくぐった。
足元の斜面は、急ではない。
人間が降りられないほどではなかったが、雨上がりの土は柔らかく、踏み方を間違えれば簡単に足を取られる。
若い刑事が少し遅れて続いた。
「警部、足元を」
「見えている」
斜面を数メートル下る。
遺体が置かれていた場所には、すでに何も残っていない。
検分用の番号札と、地面に残る浅い窪みだけだ。
ペンドルトンは、その場に立って周囲を見回した。
木々に囲まれた、目立たない場所。
林道から覗けば、確かに斜面の下に横たわる遺体の脚だけが見える配置だ。
「滑落死の線は消えたんだったな」
「はい。遺体に転落による打撲、骨折、擦過傷はありませんでした。斜面にも滑り落ちた跡はありません」
「運び込まれた痕跡もなし」
「少なくとも、複数人で担いだ痕跡や、車両を寄せた形跡は見つかっていません」
ペンドルトンはしゃがみ込み、柔らかな地面を見た。
雨でかなり崩れてはいる。
それでも、鑑識が保存した写真と照らし合わせれば分かることがある。
「被害者の靴底に付いていた土は、この場所のものと一致したんだったな」
「はい。少なくとも、遺体はこの場所に自分の靴で立っていた可能性が高いそうです」
「生きて歩いてきたのか、死んでから歩いてきたのかは分からんがな」
「……警部」
若い刑事の顔がわずかに引きつった。
「冗談、ですよね」
「冗談で済めば助かる」
ペンドルトンは立ち上がった。
衣服は下半身にのみ残り、上半身は裸。
争った跡もない。
運ばれた痕跡もない。
海から遠く離れた山の中で、肺の内側だけを海水で満たされて死んでいた男。
そこへ、喉元に付着していた魚の膜のようなもの。
普通の殺人事件として片付けるには、足りないものと余計なものが多すぎる。
「この男は、どこから来た」
「街道か、林道からでは?」
「この斜面を降りて、ここで都合よく死んだと?」
「それは……」
若い刑事が口ごもる。
ペンドルトンは、斜面の横手へ視線を向けた。
倒木の向こうに、獣道とも呼べない細い踏み分け跡がある。
人の通った道というより、木々の間に偶然残った隙間に近い。
「道から来たとは限らん」
「この森の中を歩いてきたと?」
「少なくとも、あの男はここに辿り着いた。なら、どこかから来たはずだ」
若い刑事も視線を追う。
「ですが、この先に何かあるのですか」
「地図ではな」
ペンドルトンはコートのポケットから、折り畳んだ地図を取り出した。
検分資料に添付されていた、現場周辺の古い図面。
そこには現在の林道とは別に、木々の奥へ続く細い道と、その先に残る建物跡が記されていた。
「旧修道院跡……」
「正確には、礼拝堂を併設した小規模な修道施設跡だ。何度か用途を変えながら使われて、最後は放棄されたらしい」
「現場記録にあった場所ですね」
「ああ。管理者なし。立入禁止は形だけ。人目はない。それでいて、遺体発見場所から歩ける距離だ」
「殺害現場として使われた可能性がある、と」
「可能性の一つだ。少なくとも、何も見ずに帰るには近すぎる」
ペンドルトンは地図を畳んだ。
「行くぞ」
「応援を待たなくてよろしいのですか?」
「待っている間に日が落ちる。確認だけだ。危険があるようなら引き返す」
「警部の言う“確認だけ”は、あまり信用できませんね」
「何だ。もう署内でそんな評判まで立っているのか」
「先輩方から、警部と現場に出る時は帰りが遅くなる覚悟をしておけと」
「余計な知恵ばかり継承されているな」
ペンドルトンは林道へ戻り、車の方へ歩き出した。
その途中で、胸ポケットの携帯端末が短く震えた。
画面には、署からの転送連絡が一件。
教会筋を経由し、外部協力者へ現場周辺情報を共有済み。
返答はまだない。
ペンドルトンは露骨に顔をしかめた。
「……やはり流したのか」
「警部が連絡先を回せと仰ったのでは?」
「連絡先を確認しろと言った。呼べとは言っていない」
「ですが、今回の件が先日の案件と関係するなら、早めに知っていただいた方が」
「知ってもらえば、確実に来る女なんだ、あれは」
若い刑事が困ったように首を傾げる。
「その方は、そんなに問題のある人物なのですか」
「問題そのものみたいな女だ」
「ですが、先日の患者は生還したと」
「そこがまた面倒なんだよ」
ペンドルトンは端末をしまい込んだ。
呼びたくない。
だが、来ないでくれとも思えない。
それが一番腹立たしい。
*
旧修道院跡へ続く道は、道と呼ぶにはあまりに荒れていた。
細い車道は途中で途切れ、そこから先は歩くしかない。
枝を払い、湿った草を踏み分け、苔の浮いた石を避けながら奥へ進む。
若い刑事は息を整えながら、前を歩くペンドルトンに尋ねた。
「警部は、この場所をご存じだったんですか」
「名前だけはな。ずいぶん前に、別の事件記録で見た」
「未分類扱いの案件ですか?」
「いや。当時はただの失踪事件だ。子供が何人か、肝試しのつもりで近づいたらしい」
「それで?」
「全員戻った。怪我をした者はいたが、命に別状はなし。事件性も薄いとして処理された」
「なら、よかったじゃないですか」
「よかったことにされただけかもしれん」
若い刑事は、返す言葉を失った。
ペンドルトン自身、その記録にどこまで意味があるかは分からなかった。
ただ、こういう場所に残る違和感は、年月が経てば消えるとは限らない。
むしろ、人に忘れられた頃の方が厄介になる。
しばらく歩くと、木々の向こうに石造りの壁が見え始めた。
低い外壁。
蔦に覆われた柱。
崩れかけた尖塔の名残。
屋根の大半は落ち、建物というより、森に呑まれかけた骨組みに近い。
「ここが……」
「旧修道院跡だ」
ペンドルトンは足を止めた。
正面には、かつて扉があったらしい石の入口がある。
木製の扉はとうに朽ち、半分ほどは地面へ崩れ落ちていた。
中は薄暗い。
昼間のはずなのに、外から差し込む光が妙に奥まで届かない。
「確かに、薄気味悪い場所ですね」
「廃墟を見て気持ちのいい奴の方が珍しい」
「それでも、何というか……空気が」
「感じるか」
「はい。湿っているというか……」
若い刑事は首筋を擦った。
「寒いわけではないのに、服の中へ水が入ったような感じがします」
ペンドルトンは返事をしなかった。
それは、遺体安置所で水音を聞いた時と同じ類の不快感だった。
「足元を見ろ。中へ入りすぎるな」
「はい」
二人は入口周辺から確認を始めた。
崩れた石片。
雨で黒ずんだ木材。
朽ちた長椅子らしき残骸。
壁面にわずかに残る、擦れて読めない文字。
修道院というより、小さな礼拝堂の跡だろう。
その奥へ、別棟か地下へ続いていたらしい通路が伸びている。
「警部、こちらを」
若い刑事が、壁際の地面を指差した。
濡れた落ち葉の間に、黒い跡がある。
ペンドルトンはしゃがみ込んだ。
「火を焚いた跡か」
「そう見えます。ですが、雨が何度も降った割には、灰が残りすぎています」
「新しいな」
「数週間以内。下手をすれば、もっと最近かもしれません」
円形に焦げた地面。
その中央には、燃え残った木片が何本か折り重なっている。
野宿に使った焚き火としては妙だった。
周囲に食料の包装や煙草、酒瓶といった、人が滞在した痕跡がない。
火だけがある。
誰かがここまで来て、火を起こし、それ以外を残さず去った。
「野営というには、妙ですね」
若い刑事が小さく呟いた。
「食べた跡も、休んだ跡もない。こういう場にあると……何かの集まりか、儀式じみたことでもしていたように見えます」
「見え方に引っ張られるな」
ペンドルトンは短く言った。
「現場は、こちらが欲しい顔をしてくれるほど親切じゃない。だが、妙だと思ったものは拾え。決めつけずにな」
「……はい」
ペンドルトンは焦げ跡の脇にある地面へ目を凝らした。
灰の下に、何か白い粒が混ざっている。
「採取しろ。素手で触るな」
「塩、でしょうか」
「だったら、なおさら嫌だな」
若い刑事が証拠袋を取り出し、慎重に採取を始める。
ペンドルトンは立ち上がり、周囲を見渡した。
もし、あの男がここにいたとするなら。
上半身裸のまま。
外傷もない体で。
肺の中に海水を抱えながら。
ここで何が起きた。
誰かに殺されたのか。
何かから逃げたのか。
それとも――ここを出た時には、すでに死んでいたのか。
ペンドルトンは、遺体発見場所へ続く森の方角へ目を向けた。
普通なら、そんなことはあり得ない。
だが、あの男は山中で見つかった。
自分の靴で、あの場所に立っていた痕跡を残して。
ならば。
男はここから、遺体発見場所まで歩いていったのか。
生きたままか。
あるいは、死んだ後に。
「警部?」
若い刑事の声で、ペンドルトンは思考を止めた。
「何だ」
「いえ。何か、聞こえませんか」
ペンドルトンは眉を寄せる。
風が吹いている。
枝葉が擦れる音。
遠くで木が軋む音。
だが、それだけだった。
「何を聞いた」
「……いえ、聞こえないんです」
「何が」
「鳥の声です」
その言葉で、ペンドルトンも気づいた。
森に入ってから、鳥のさえずりを一度も聞いていない。
虫の羽音もない。
小動物が落ち葉を踏む音もない。
風だけが、空っぽの森を通り過ぎている。
沈黙は、単に静かなのではない。
何も近づこうとしない静けさだった。
「車へ戻るぞ」
ペンドルトンは即座に言った。
「ですが、内部の確認は」
「しない。ここから先は装備も人手も足りない」
「警部、まさか――」
「いいから採取袋を閉じろ。急げ」
若い刑事は慌てて袋を密封した。
その時、風向きが変わった。
湿った匂いが、入口の奥から流れてくる。
潮の匂い。
腐った魚。
水の底で長く腐敗した布のような臭気。
海など、どこにもない山の中で。
若い刑事の顔が青ざめる。
「……警部」
「声を落とせ」
「あそこ……」
視線を向けるな。
そう命じるより先に、若い刑事は入口の奥を見てしまっていた。
崩れた扉の向こう。
暗い建物の奥。
その床すれすれの位置に、何かがいた。
人間ほどの高さはない。
獣にしては、輪郭が不自然に長い。
黒く濡れた毛の塊のようなもの。
細長い顔。
伏せられた耳。
そして、背後でゆるく揺れている、一本では済まない尾の影。
それは暗がりから出てこない。
ただ、こちらを見ていた。
見ている。
その視線だけで、胃の底に冷たい水を流し込まれたような感覚が走った。
ペンドルトンはすぐに目を逸らした。
「見るな」
「え……」
「聞こえなかったのか。見るな。気づいていないふりをしろ」
「ですが、あれは――」
「分かっている。声を震わせるな。今から普通に戻る。走るな。まだだ」
若い刑事の喉が上下した。
「は、はい」
「さて」
ペンドルトンは、わざと大きめの声を出した。
「火の跡は確認した。あとは鑑識に任せる。こっちは専門外だ、引き上げるぞ」
「えっ……あ、はい。そうですね。報告も、しないといけませんし」
酷い芝居だった。
だが、背後の何かが人間の演技をどれほど理解するのかなど、知りたくもない。
二人は入口に背を向け、来た道へ歩き始める。
一歩。
二歩。
三歩。
背中に刺さる視線が、動いた。
空気が、ずるりと這う。
生臭い匂いが強くなる。
若い刑事が耐えきれず、かすかに息を呑んだ。
「そのまま歩け」
「け、警部……」
「歩け。車まで行けば無線も武器もある」
「警部は?」
「私も行くに決まっているだろう」
嘘だった。
このままでは二人とも逃げ切れない。
若い刑事の足は、もう震えている。
背後の何かは、それを嗅ぎ取っている。
ペンドルトンは、コートの内側にある拳銃の位置を確かめた。
普通の銃弾が効く相手かどうかは分からない。
それでも、人間の警官が持っているものなど、それくらいしかない。
せめて若い方を走らせる時間を作る。
「おい」
「はい……」
「次の曲がり角まで行ったら、私が合図する。合図したら車まで走れ」
「何を言っているんですか。警部も一緒に――」
「命令だ」
「ですが!」
「市民を守る前に、部下を使い潰す警部にする気か」
若い刑事が黙る。
「お前はまだ、こんなものに慣れる必要はない。戻って応援を呼べ。安置所にも警告しろ」
「警部を置いてはいけません」
「置いていけ。仕事だ」
ペンドルトンは、前を見たまま短く言った。
「私は、こういう時のために給料を貰っている」
背後で、音がした。
ぬちゃり。
濡れた足が、土へ置かれたような音。
もう、猶予はなかった。
「走れ!」
ペンドルトンが叫ぶ。
若い刑事が駆け出そうとした。
だが、一歩目で足がもつれた。
湿った土へ膝から崩れ落ちる。
「くそっ!」
ペンドルトンは振り返り、若い刑事の腕を掴んだ。
同時に、見てしまった。
旧修道院跡の入口から、這い出てくるものを。
狐に似ていた。
だが、狐と呼んでよいものではない。
黒く濡れた毛皮。
泥と海藻を絡ませたような体表。
異様に長い四肢。
裂けた口の内側には、獣の歯ではなく、人間の乳歯のような白い粒がびっしりと並んでいる。
そして尾。
一つではない。
二つでもない。
何本もの濡れた尾が、まるで水底で漂う藻のように背後で揺れていた。
その体の下から、ぽたぽたと水が落ちる。
だが、地面には染みができない。
落ちたはずの水は、土へ触れる直前に消えていた。
「……何だ、貴様は」
ペンドルトンは拳銃を抜いた。
若い刑事を背後へ押しやる。
「警部……!」
「後ろへ下がれ! 走れるなら走れ!」
怪異が首を傾けた。
口の端が、ずるりと広がる。
鳴き声が聞こえた。
狐の声ではない。
人の泣き声でもない。
水に沈んだ人間が、最後に吐き出した息を、無理やり笑い声にしたような音。
若い刑事が耳を押さえ、地面に蹲る。
「う、ぁ……っ!」
「聞くな! 耳を塞げ!」
ペンドルトンは引き金を引いた。
一発。
銃声が森の静寂を破る。
弾丸は怪異の肩口を穿った。
黒い毛と泥のようなものが散る。
だが、怪異は倒れない。
撃ち抜かれた場所から、黒い水が溢れた。
その水が傷口を塞ぐように集まり、次の瞬間には、何事もなかったように輪郭が戻っている。
「やはり、そういう類か……!」
ペンドルトンは歯を食いしばった。
怪異が地を蹴る。
その姿が、一瞬で視界から消える。
来る。
若い刑事を庇うように、ペンドルトンは腕を広げた。
間に合うはずがない。
分かっていた。
それでも、体が勝手に動いた。
次の瞬間。
森の外れから、場違いなほど乱暴なエンジン音が響いた。
「なっ――」
木々の隙間を割るように、古い側車付き自動二輪車が飛び出してくる。
泥を跳ね上げ、倒木の脇を掠め、常識的な運転速度を完全に無視した軌道で、二人と怪異の間へ滑り込んだ。
運転席には、ツイード地のハンター衣装をまとったメアリー。
その金色の細い目は、いつもの眠たげな穏やかさを保ったまま、進路上の怪異だけを正確に捉えている。
「ペンドルトン警部様。伏せてくださいませ」
「お前ら、どうしてここに――」
答えは、側車の中から返ってきた。
「質問は後になさい、警部!」
黒い外套が翻る。
側車から身を乗り出した小柄な令嬢が、年代物のエンフィールド小銃を肩へ当てていた。
黒髪。
白い肌。
ゴーグルの奥で鋭く細められた、スカイブルーの瞳。
ゾーイだった。
「相変わらず、人間相手ではない面倒ごとに首を突っ込みますのね!」
「好きで突っ込んでいるわけじゃない!」
「でしたら頭を下げなさい! その犬もどき、風通しを良くして差し上げますわ!」
ペンドルトンは若い刑事を抱えるようにして地面へ伏せた。
直後。
乾いた銃声が、森の沈黙を叩き割った。
怪異の頭部が大きく弾ける。
黒い水と濡れた毛の塊が、宙へ散った。
だが、ゾーイは笑わなかった。
銃口を向けたまま、眉を寄せる。
「……まあ」
怪異の崩れた頭部から、また黒い水が集まり始めている。
その水は、傷を修復するのではなく、まるで別の顔を作ろうとするように蠢いていた。
狐の顔。
溺れた男の顔。
何かを祈る人間の顔。
それらが一瞬ずつ浮かび、崩れていく。
ゾーイは目を細めた。
「ずいぶんと、質の悪いお出迎えですこと」
メアリーが車体を止め、片足を地面へ下ろした。
「お嬢様。警部様方の退避を優先いたしますか」
「ええ。人間が二人も転がっていては、掃除の邪魔ですわ」
「誰が邪魔だ!」
ペンドルトンが怒鳴る。
ゾーイは銃口を怪異から外さず、口元だけで微笑んだ。
「声が出るなら結構。まだ壊れてはいませんわね、警部」
怪異が、再び濡れた声で鳴いた。
その背後で、何本もの尾が一斉に持ち上がる。
森の奥から、生臭い風が吹き抜けた。
遠く離れた山の中であるはずなのに、波が砕けるような音がした。
ゾーイの微笑みが消える。
「……メアリー」
「はい、お嬢様」
「これ、先日の食べ残しではなさそうですわ」
「では」
「ええ」
ゾーイはエンフィールドのボルトを引いた。
金属音が、妙に澄んで響く。
「底の方から、わざわざ這い上がってきたようですわね」
銃口の先で、怪異が口を開いた。
そこから、男の声が漏れた。
「……み、ず……」
ペンドルトンの背筋を、冷たいものが走る。
その声は、遺体安置所で見た死体のものではない。
彼はその男の声を聞いたことなどない。
それでも、分かった。
あの死体と、これは繋がっている。
ゾーイもまた、同じ結論へ至ったらしい。
彼女の瞳が、静かに冷えた。
「警部。あなたのところの死体、厳重に見張らせておりますの?」
「一人で近づけるなとは命じてきた」
「でしたら、間に合うことを祈るばかりですわね」
「祈るなと言っていたのはお前だろうが!」
「あら。こういう時だけ聞き分けがよろしいのね」
怪異が飛びかかる。
ゾーイは、小さく舌打ちした。
「続きを話す暇もありませんわ。メアリー、二人を!」
「承知いたしました」
メアリーが若い刑事の腕を取る。
ペンドルトンは立ち上がりながら拳銃を構え直した。
「俺も残る」
「何を仰っておりますの。足手まといですわよ」
「部下を襲った相手を前にして、警官が背を向けられるか」
「本当に、壊れやすいくせに頑固ですわね」
ゾーイは呆れたように笑った。
だが、その声には、ほんの僅かに愉快そうな響きが混ざっていた。
「では、死なない程度にお手伝いなさい。わたくしの邪魔をしたら、あとで紅茶代まで請求いたしますわよ」
「命を張ったうえに茶代まで取る気か!」
「淑女の時間を奪うのですもの。当然でしょう?」
怪異の爪が、空気を裂く。
ゾーイの小銃が火を噴いた。
その銃声に重なるように、森の奥から、ありもしない海鳴りが響いた。